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怪談 しゃれこうべ  作者: 小山志乃
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絡新婦の噺

 東京を江戸と申した時分のお話。


 春の陽気が、そろそろ夏の日差しに変わろうかという季節。一人の木こりが斧を携えて山へ登っている。


 この木こりを美伊太郎(びいたろう)と呼ぶとする。


 今登っているこの山は美伊太郎が子供の頃から馴染んだ山だ。物心ついた時分から兄弟や友達たちと駆け回り、十二歳になってからは父に連れ立って仕事を手伝ってきた。この山一帯のことなら、麓の村よりもよく分かっている。


 分かるのは地理ばかりではない。木葉を揺らす風の匂いを嗅げば近くに獣がいるかどうかは嗅ぎ分けられるし、木漏れ日の隙間から空を見れば天気の変わり目さえも手に取る様に察せられる。

 

 いつだったか、木こり仲間の一人が仕事を投げ出して町へ出て行ったことがあった。変わり映えのしない生活に嫌気がさしたとかで、始めのうちは非難する者がほとんどだったが、次第にその男の気持ちもわかると言い出していた。だが、美伊太郎は今となってもその男の気持ちも、賛同した仲間の気持ちも理解できていなかった。自分にとって山が昨日と同じだった日など、ただの一度もない。変わり映えのしない日などただの一日もなかった。


 とはいっても、華やかな暮らしに憧れた事が無い訳でない。かつては美伊太郎も金持ちになることに夢を見ていた時期もある。だがそれも、今となっては若かりし頃の思い出と言った方が手っ取り早いだろう。


 山に欲は一番似合わない。自覚しているかどうかは知らぬが、美伊太郎の態度はそれを体現しているのだ。


 ただ黙々と木を切っては、村まで運ぶ。


 それの繰り返しだ。村から外へは別の人間が運び出すし、村には細やかだが商店もある、街道に面した村なので行商人もしばしば立ち寄っていた。だから、美伊太郎には山以外に村の外へ出る理由がなかったのだ。


 そうしている内に、気が付けば生まれてから五十年が経とうとしている。


 父は既に他界しているし、兄弟たちも病死している。多くいた木こり仲間も、ある者は事故で死に、ある者は死なずとも木こりを止めなければならない程の怪我を負ったりもした。そもそもこの歳で、木こりを続けられる方が珍しいのだ。若い頃は何とも思っていなかったが、怪我も病も知らぬこの体を持って生まれたことに、美伊太郎は日頃から感謝している。嫁は遂に持たなかったが、きっとその分自分は山に慕われているのだと信じていた。

 

 美伊太郎の仕事場は、本来はもう少し麓の近くにある森だ。


 人から頼まれない限り、美伊太郎は自分の仕事場を変えたことはただの一度もなかった。それなのに、なぜいつもより山を登り、新しい場所を探しているのか。それは自分でも分かっていなかった。


 強いて言うのであれば、曳かされている様な気がしたのだ。


 山の精霊なのか、はたまた魔性の者か。


 それはどちらでも良かった。


 既に大それた願いや未練などは持っていないし、いくら丈夫な体を持っていると言ってもこの頃は限界が見えてきている。欲ではなく、我儘を言えば山で死んでしまいたい。近頃頭の中に浮かぶのはそればかりだった。


 やがて少し開けた場所に出た。森の奥には入っていないが、勾配の急な斜面の上にあるところなので、他の木こりも見当たらないし、過去にここまでやって来た痕跡も見受けられない。


 一息つくために斧を下した。すると、かすかに水音が聞こえてきた。藪をかき分けてみると岩肌が剥き出して崖になっている。そこから下を覗くと細い小川が流れ込み、淵になっていた。


 ありがたい。山奥にしては平地になっているところがあるから、小屋も立て易い。水場が近ければ炊事の手間も大分省ける。長年木こりをして、色々な仕事場を見てきたが、ここまで条件のいい立地は初めてだ。今日ここを教えるために、山は自分を招き入れたのだろうか。もうそろそろ、山を去らなければならない事を知っているのかもしれない。


 美伊太郎は早速仕事についた。まずは程よい太さの木に当たりを付けて斧を入れる。新しい仕事場に入った時は、腰掛用の切株を作るのが常であった。


 コーン。コーン。コーン。


 小気味よい音が静かな森にこだまする。狂いのない拍子が美伊太郎の腕の良さの何よりの証だ。春とはいえ、もう夏の気配を連れてきている。少し動いただけでもすぐに汗ばんでしまう。


 やがて初めに手にかけた木はけたたましい音とともに見事に倒れた。自分にとっては大した仕事ではなかったが、自然と笑みがこぼれてしまう。額の汗を手拭いで拭くと、そのまま切株へと腰を掛けた。水筒の水を飲み喉を潤すと、少し早かったが昼食にするとこにした。


 塩をよく利かせたおむすびに、隣の婆からもらった沢庵を齧る。美伊太郎は食にこだわりを持っている訳ではないのだが、塩にだけはうるさい。村では娯楽も少なく、そんなものにしか凝ることがないのだ。


 食後の一服を吸うために煙管に火を付ける。その時、美伊太郎は自分の足に一匹の女郎蜘蛛が糸を巻き付けている事に気が付いた。そして、幾重にも糸を巻き付ける蜘蛛の姿を見ていると、このまま無情に糸を引きちぎることに躊躇いを覚えた。


 美伊太郎は優しく蜘蛛の糸を外すと、今まで座っていた切株にそれを巻き付けてやった。そして再び仕事へと戻っていった。


 その時である。


 今まで腰かけていた切株が突如、地鳴りのような騒然たる音と共に引き抜かれた。それは見るからに蜘蛛の糸に引き抜かれたようだった。切株はずるずると引きずられるままに、崖から落ちるとそのまま淵の底へと沈んでいった。


 美伊太郎はあまりの出来事に息をすることさえ忘れていた。ただ茫然と立ち尽くしていると、淵の中から「かしこい、かしこい」という声が聞こえてきた。そこで初めて、蜘蛛は自分を引きずり込むつもりで糸を巻いていたのだということに気が付き、背筋が凍ったのだった。


 いち早くその場を去りたい美伊太郎であったが、足が竦んで動かない。


 ふと、自分の後ろに目をやる。そこにはいつからいたのであろうか、女が佇んでいた。いまだかつて見たことがない程の美女である。その美貌が返って妖しい気配を醸し出している。


 この女は、あの蜘蛛の化身だ。

 そう直感した。だが同時に敵意や悪意も持っていないように思えた。

 女は不思議な声音で語りかけてきた。


「さても賢き者じゃ。妾はこの淵に住む妖怪、名を絡新婦(じょろうぐも)という。其方の知恵には感服した。褒美を取らせたいが、一度だけ妾の問いかけに答えてみよ。今、蜘蛛の糸を巻き付けたのはこの金の切株か、それとも銀の・・・


読んでいただきありがとうございます。


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