磯撫での噺
東京を江戸と申した時分のお話。
肥前松浦によく『磯撫で』という妖怪が現れた。
一説には鮫に似た姿をしており、尾びれには無数の細かい針が付いているという。その名の通りに海面を撫でるかのように泳ぎ、船に近づく。それが近づく事を悟れる船乗りはいない。そして頃合いを図ると、油断している船乗りをその尾びれの針で引っ掛けて引きずり落とし、食い殺す。
それが近づいた証として海の色が黒っぽくなったり、仰ぐような風が吹いたりするそうだが、それに気が付いた時には手遅れである。舟を漕いでも到底逃げ切れず、やはり尾びれを着物に引っ掛けられて海中に引きずり込まれてしまうのだ。
◇
さて。
ある豪胆な男が怖いもの見たさで、磯撫でのでる海に舟を出してそれが現れるのを待っていた。
いよいよ話の通りに海の色が確かに黒っぽく変わると、勇んで叫んだ。
「ついに出たかっ」
その時、一陣の風が船を目掛けて吹き男は平衡を失くし、磯撫でに撫でられる前に海に落ちてしまった。流石に海の中では勝ち目がないと、男は覚悟を決めた。
ところが。
磯撫での姿は思っていたよりも小さく、人を食い殺そうとするどころか懐っこく男の体にすり寄せて、あまつさえ舟に戻そうと体を押している様でもあった。体を触っても怒る気配はなく、肝心の尾びれとやらも多少ざらざらしているが針だらけとはとても言えなかった。
無事に陸へ戻った男は濡れた体を乾かしながら、噂に聞いていた磯撫でと実際にこの目で見た磯撫でとの違いについて思案していた。
「聞くと見るとは大違いとはよく言うが、まさしくその通りだったな」
磯撫での噂には「尾ひれ」が付いていたということだ。
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