海難法師の噺
東京を江戸と申した時分のお話。
八丈島で生まれた『海難法師』の物語である。
海難法師は「盥」に乗って海を漂う。その姿は大変おぞましく、目視しただけでその者を呪い殺すという。
なぜ盥に乗り、海を揺蕩うのか。
それにはこんな謂れがあるからである。
◇
海難法師の起こりは、寛永五年の事である。当時の八丈島に豊島忠松という代官がいた。これが島民からは悪代官と誹られるほどの男であり、とても恨まれていた。
日頃の横暴さにとうとう痺れを切らせた島民たちは、いよいよ豊島を殺してしまおうと画策した。業と豊島から金を借り、それを催促しに訪れることを利用したのである。
返済の期日を海が大いに荒れる日に定めたのである。海に育つ自分たちにとって、時化を読むことは造作もなかった。
そんな事とは露知らず、豊島はまんまと罠にかかり、大時化の日に借金の取り立てにやってきたのだった。
「あっしは隣の二蔵に貸しがありましてね。豊島様にお借りした金は、隣の一蔵が返すことで話をつけてあります」
そう言って豊島を隣の家に向かわせた。
島の家の事である、隣と言っても舟を使わなければ出向くことができない。豊島は仕方なく大雨が降りしきる中、隣の家に取り立てに行った。
しかし。
「へえ、確かに聞いております。けれども私は三蔵に貸しがありまして、借金は三蔵が返すと話をつけております」
と言って、再び豊島を追い返したのである。
これこそが島民たちの策であった。豊島は今日のうちに返済してもらわねば立ち行かぬ状況であったために、言われるがままに隣の家に出向いた。しかし、そこでも同じように言い包められてしまった。
そうこうしているうちに、とうとう船は時化に耐え切れず転覆し、豊島はそのまま死んでしまったという。
◇
それからというもの。その豊島がなくなった一月二十四日に船を出すと、必ず良くない事が起こるようになると言われ始めた。
海難法師が島々に災いを振りまくのだそうな。
そして盥に乗って沖から現れるのは、島民の策によって島々をたらい回しにされたからだという。
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