鉄鼠の噺
こういうくだらない話もいいですよね(言い訳)
後の人がいうところの平安時代、その中期のお話。
天台寺門宗の総本山である長等山園城寺に頼豪という一人の僧がいた。心誉という高僧に学び修行し、自らも名僧と呼ばれるほどの徳と法力を得ていた。
その頃になると頼豪の法力の効験は津々浦々に知られ、都に住まう七十二代天皇、つまりは白河天皇の耳に入る程であった。
この時、白河天皇と后の間には子がなかった。何とかして後継たる我が子を欲した白河天皇は頼豪を呼び出して后が懐妊するための祈祷をするように命じる。そして、それが叶ったあかつきには、頼豪の望みを乞うままに叶えるとの約束を交わしたのだった。
頼豪はこの白河天皇のために皇子誕生を祈願すべく、百日もの間に全身全霊をもって祈祷を捧げた。その甲斐あってか、承保元年十二月二十六日、見事に後継たる淳文親王が誕生したのである。
頼豪はこの成果の褒美として、自らが在する園城寺の戒壇院の建立を願い出たのだった。
ところが、敵対関係にあった延暦寺からの妨害があり、頼豪の願いは叶うことはなかった。
園城寺と延暦寺は同じ天台宗の系列でありながら、最澄の死後は二つに分裂し互いに憎しみ合うようになっていた。園城寺も、この時すでに延暦寺の過激な僧団によって寺院を焼き払われた過去を持っていた。
自らの嘆願が聞き入れられなかった頼豪は、怨みのままに呪詛の言葉を吐き出した。すると今度は皇子を呪い殺すための祈祷を始める。断食の上に再びの百日がかりの祈祷を行う頼豪は既に魔道を歩んでいた。
そして百日後。
淳文親王は、わずか四歳の齢にして世を去ったのだった。
けれども、頼豪の怨嗟の念は止むことはなかった。
次は自らの願いを反故にするように画策した延暦寺へと矛先を向けたのだ。頼豪は魔道に落ちた代償に、身体が巨大な鼠そのものに変貌していた。これが『鉄鼠』の生まれた経緯である。
鉄鼠は何千何万もの鼠を従えると、数にものを言わせて延暦寺を襲った。
経典、寺院、本尊の数々は見るも無惨に無数の鼠たちに食い荒らされたのである。
延暦寺の僧たちは、このおぞましい光景を目の当たりにすると皆一様に、こう悲鳴を上げたのだった。
「ひえ~」
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