沢女の噺
東京を江戸と申した時分のお話。
ある山奥に一人の炭焼き職人の男が住んでいた。去年までは親父と二人で暮らし、夏は木こり、冬は炭焼きで生計を立てていたのだが、今年の始めに父を病気で亡くしてからはずっと一人で山にいたのである。
この親子が作る炭は大変に評判が良く、麓の町に出すと毎年飛ぶように売れた。親父が亡くなって手が足りなくなったとはいえ、男も昨日今日炭焼きを始めた様な小僧ではないし、働き盛りな年でもあったので、仕事が滞ることはなかった。
粗方の支度を済ませると、いよいよ最後に三日分の飯の準備に取り掛かる。
炭焼きというのは、窯の火の温度が命綱となる。その為、一度火を入れると三日間眠らずに火の番をしなければならない。
川から水を汲み、すぐ脇にあった台所とも呼べない様な粗末な炊事場の釜の中に三日分の米を入れて炊き始める。その時、男はつい竈の種火に使った枝きれを脇の川へと投げ捨ててしまった。
ハッとして慌ててそれを拾いに行ったが、時すでに遅く、枝きれは遥か下流へと流されて行ってしまった。
男が慌てたのには訳がある。
この川には昔から『沢女』という妖怪が住んでおり、川を汚す者を祟ると親父に躾けられていたからだ。なのでどれだけ忙しくとも、川で直に手や汚れ物を洗ったりすることはなく、必ず一度汲み上げてから水を使っていた。ゴミを投げ捨てるなど言語道断のことであった。
男は死んだ親父に怒鳴られた様な、そんな気になった。
けれども今にして思えば古い迷信であり、いい年になって今更気にすることでもないと思い、忘れてしまうことにした。
やがて全ての支度を終えた男は気合を入れ、炭焼きを始めた。
やがて日が暮れかかった時の事である。
男は川の方から、得も言われぬ薄気味の悪さを感じた。思わず振り返ると、何気ないいつもの風景の中に、見た事もない女が一人で立っていた。
女はどういう訳か、ぴちゃぴちゃという水にぬれている様な足音を立てながら真っすぐに男の方へと歩いてきた。男はいっそ逃げ出してしまいたかったが、どうにも足が動かず、その場に固まってしまっていた。
やがて目と鼻の先にまでやってきた不気味な女は、動けない男に向かってすうっと手を伸ばしてきた。その手が男の額にあたると、それっきり男は意識を手放してしまったのである。
男が気が付くと、件の女は影も形もなく消え失せていた。それでもまだ、男の額には冷たい感触が残っており、冷や汗が止まらない。そんな中で男はハッと気がついて、炭焼きの窯を見た。
が、時すでに遅く、炭は火が強すぎたばかりに灰となっており、男は無念やら今更押し寄せてきた恐怖やらでしばらくの間ぼうっと過ごしていた。
◇
ようやく身動きが取れるようになった男は、すぐに仏壇の前に座り、亡き父親に向かって念仏を唱えた。そして親父が聞かせてくれた沢女の昔話を単なる迷信だと侮っていたことを懸命に詫びたのである。
そうしているうちに落ち着きを取り戻した男は、沢女に触られた額に手を当ててぼそりと呟くように言った。
「沢女…というよりも、障る女だったなぁ」
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