川熊の噺
東京を江戸と申した時分のお話。
秋田のある土地に、大変頭がよく思慮深い殿様が住んでいた。物腰柔らかで人望も厚く、家来は元より城下の町人たちからも慕われていたのである。
この殿様というのが、とても鉄砲好きな人であったのでよく家来を引き連れて狩りに出かけることも多かった。
ある秋の頃に狩りへ出かけた時の事である。
例によって家来を引き連れて山麓を歩いていただが、その日に限って兎一羽も現れなかった。獲物を求めるうちにとうとう雄物川へと行き当たってしまった。一行はそこから川沿いに上流を目指しながら進んでいった。
そこから四半時ばかりたった頃。
家来の一人が川の中からとてつもなく嫌な気配を感じ取った。正体は分からぬが、一刻も早くこの場から立ち去った方がいいというような気になり、憚りなが殿様にそう進言した。
が、獲物が見つからず退屈していた殿様は返ってその話に興味を惹かれ、家来たちが引き留めるのも聞かずに川を覗きに行った。するとその途端、川の中から真っ黒い毛をびっしりと生やした太い手が飛び足してきて、あっという間に殿様の大事にしていた鉄砲を掻っ攫って川の中へと消えていった。
呆気に取られていた家来たちだったが、一先ず殿様に怪我一つないことを確かめてほっとしていた。だが、殿様だけは違っていた。
未だかつて見た事もない程に怒り狂い、家来の者たちに川へ入って鉄砲を取り返して来るように命じたのである。川の中の化け物も恐ろしかったが、それ以上に殿様が恐ろしくなった家来たちはどんどんと川の中へ飛び込んで行った。
するとその内の一人が、川の中に熊に似た妙な獣がいる事に気が付いた。刀に槍に、弓矢まで持ち出して来てようやくその獣から鉄砲を取り返す。その場にいた者たちは、その化け物の事を誰となく『川熊』と呼んで、改めて恐れた。
◇
ところで殿様はというと、鉄砲を取り戻したことで機嫌を直し、家来たち全員に労いの言葉と褒美を与えたという。
だが家来たちの間で、しばらく語り草になったそうな。
「それにしても鉄砲を奪われた時の殿の豹変ぶりには恐れ入った」
「まさかあれ程のお方があそこまで無理を仰せになるとは思わなんだ」
「しかしながら、川熊に鉄砲を奪われたのだから仕方のないことやもしれぬ」
「ああ。鉄砲を奪われた殿は正しく、無鉄砲であったのう」
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