磯女の噺
・・・微妙に逸話とは違うかも
東京を江戸と申した時分のお話。
季節は大晦日の事である。
ある漁村に慈英太という男が住んでいた。先祖代々の漁師の家柄で、慈英太も例に漏れず、子どもの頃から舟に乗り海に親しんで生きていた。それと同時に先祖代々の貧乏な家系でもあった。父、祖父、曽祖父、それ以前からの借金で首も回らない日々を過ごしている。
今日も今日とて慈英太は、朝から借金取りと会っていた。その借金取りが、守銭奴に輪をかけた様な業突く張りな老婆であった。
「で、何時になったら返してもらえるんだい? せめて利息の文でもお出しよ」
「・・・すまねえな。本当に金がないんだよ、それどころか今日明日食うものだって」
「そんなこと聞いちゃいないよ」
挨拶よりも交わしたやり取りだ。金貸しも金貸しで慈英太に金がないことは百も承知だ。だから普段はこの辺りで小言を終え、僅かばかりの米や魚を利子と言って帰るのだが、今日ばかりはやけにくらいついてきていた。
「食うものがないと言ったって、この家の目の前は海でお前は漁師じゃないか。その分、舟を出して魚や貝を採ってくればいいだろう」
「そうしたいのは山々なんですがね、今日だけは駄目なんですよ。盆の十七日と大晦日だけは、漁に出るのはダメだというこの辺りの掟なんですから」
「そんなこと聞いちゃいないよ」
この「そんなこと聞いちゃいないよ」というのはこの老婆の口癖だ。
「ここに来るまでに何軒か取り立てに行ったがね、どいつもこいつも口を揃えて今日はダメだという。漁師の決まりだとね、アンタもそういう腹なのかい?」
「そりゃ決まりは守らねえと・・・」
慈英太のその言葉に、老婆はゲラゲラと笑った。そうして借金の証文をこれ見よがしに突き出してきた。
「そうさ、決まりは守らないとね。お前さんに貸した金を返して貰うのは、今日が期日なんだよ」
「い、いや。それはそうなんだけどよ・・・」
「決まりは守らなきゃならんと言ったのはお前さんだろう。何で漁師の決まりは守れて、金の貸し借りという人間の決まりは守れないんだい?」
慈英太はさっきの自分の発言を悔いた。ハナからそう言わせた言質で丸め込もうという魂胆だったのだろう。
老婆はきっとした態度で続けた。
「あたしゃ決まりは守るよ。今日までにせめて利息だけでも払ってもらわにゃ、肩代わりにこの家を貰うからね」
「ち、ちょっと待ってくれ。そしたら俺は住むところがなくなっちまうよ」
「そんなことは聞いてないよ」
「・・・」
「他の家は何とか利息くらいは出してきたから目こぼししてやったけど、アンタのとこは絞ってもなにもでなそうだね・・・掟を守るか家を守るかはアンタに任せるよ。今日の夜までに払うもん持ってきな」
老婆はそう言って帰っていった。
しばらくは、やりきれぬ思いでじっとしていた慈英太だったが、どれほど考えても妙案は浮かばなかった。
慈英太は覚悟を決めて、黙々と漁へ出るための支度を始めたのだった。
◇
その日の海は驚くほど穏やかであり、天候も風も誂えたかのような絶好の日和であった。
帆は風を受け、面白いくらいに船は進む。いつもの半分の時間で漁場へと辿り着くことができた。
慈英太は、ここまで来てしまったならと、腹を括った。謝るような思いで網を海へと放つ。すると、かつてないほどの魚がかかったのだ。四方八方、どこに網を放っても軽々と魚が獲れた。ものの半時の間で、もう船には乗せられぬほどの量になってしまった。
ところが。
漁を終えて帰ろうかと思うと、途端に風が凪いでしまった。仕方なく潮に身を任せて漂っていると、今まで一度も来た事のない岸辺に辿り着いていた。その頃になると、既に日は水平線に沈むところまで傾いていた。
少々心細くなった。しかし見上げると、微かに村はずれの小高い丘に生えている一本杉が見えた。ということは、海岸を辿って行けば、いずれは自分の漁村に着くということになる。
日が暮れてから見も知らぬ海域を通ることほど怖いものはない。潮が読めなくなるし、座礁する危険もある。憚られたが、慈英太はここで停泊して、一晩を過ごすことにした。
舫い綱を上手く岩へとかけ、錨も降ろした。明朝の日の出とともにいの一番で村を目指そうと思い、慈英太はすぐさま床についた。
◇
岩肌の海岸に、さざ波がぶつかる音だけが聞こえている。
海に慣れぬものであったら眠れぬ程の音かもしれないが、海育ちの慈英太にとってはむしろ子守唄のようなものだった。
しかし、時折その波音の調子を狂わすように、ザブンっと海で何かが跳ねるような音が交ざるようになった。一度二度であれば、魚であろうと思うが、そのような頻度ではない。いよいよ、慈英太は微かに眼を開けて様子を探った。
いつの間にか雲は流れ、月明かりで岩肌さえもくっきりと見えていた。
別段、変わったところはない。嫌な予感もただの杞憂だったか・・・。
安堵感で欠伸が一つ出そうになった。
だが。
それは目に入った、異様な事態に打ち消された。
◇
船の縁に手がかかっている。
それを見つけた途端、全身の血の気という血の気が一気に引いた。この冬の海にいる者など人間であるはずはない。確かめたくても、足も手も動いてくれなかった。
手にだけ気を取られていたのだが、すぐに別の異変にも気が付いた。手がかかっている縁の色が、馬鹿みたいに黒くなっており、見間違いでなければ微妙に蠢いているように見えた。
そして次の瞬間、それが勘違いでなかったことを思い知らされた。
蠢いて黒いものの正体は、髪の毛であった。それは瞬く間に這いより慈英太を襲った。先端は鉄のように固くなっており、無防備だった慈英太の足を次々に突き刺した。
その痛みはかつて祖父から聞かされた昔話の記憶を呼び起こした。そして慈英太は、悲鳴の代わりにその話に出てきた妖怪の名を叫ぶ。
「『磯女』だっ!」
それは船乗りを殺す妖怪として知られる磯女という妖怪だった。上半身は人間のそれと同等であるが、下半身はぼんやりとしているか、蛇のように長く鱗が付いている。夜になると舫い綱を辿って船に上がり込み、自らの髪の毛を用いて人の血を吸い取って殺してしまうという。
慈英太の頭の中に、かつて聞いた昔話が反響した。酔っぱらうと祖父はいつもこの話を聞かせてくれていたのだ。恐怖と混乱と思い出が交錯する中、慈英太は磯女を退ける方法も思い出した。
「苫の毛を毟って服の上に乗せておけば、磯女の難を逃れられる」
それを思い出した刹那、慈英太は渾身の力で立ち上がり、今まで寝ていた小部屋の上から苫を毟って服の上に乗せた。
すると、足に絡まっていた無数の髪の毛はどんどんと剥がれ落ちていった。するすると床を這って船縁を越えていく。最後には掛かっていた手も、ドプンっという音と共に消えて行ってしまった。
慈英太は辛うじて命拾いしたのだった。
◇
それからは眠気などは一切起きず、ひたすら朝日が昇るのを祈りつつ待った。
日の出とともに舫い綱を切り、錨を上げると一目散に村を目指した。舟を出して見れば、小半時も過ぎぬうちにいつもの見慣れた漁村が見え、慈英太は涙を流した。
船をいつもの場所に寄せると、すぐさま金貸しの老婆の元へと急いだ。昨日は言われた通りに舟を出した事、大量だったからかなりの額の返済ができること、そして磯女に襲われたがために昨夜のうちに浜まで戻ってこれなかったことを逐一説明した。
ところが。
老婆はそれを聞き入れなかった。どんな事情があったにしろ、昨日のうちに利息だけでも払わなかったのは、慈英太が悪いと言って聞かなかった。追い出されるかのように老婆の家を出た慈英太は途方に暮れた。
やがて無意識に彷徨いながら、辿り着いたのは自分の船の前だった。宝の山に見えた大量の魚も、今となってはただの骸の山にしか見えない。
◇
「なんて婆だ。磯女よりも人の生き血を啜って生きていやがる・・・」
そんな恨み言を呟くと、慈英太は船で沖に出て行った。そして二度とこの村に戻る事はなかった。
その後の行方を知る者は誰もいない。
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