白粉婆の噺
東京を江戸と申した時分のお話。
江戸の頃から女の化粧と言えば白粉であった。この時代の白粉の原料は大きく分けて二つある。米粉などの穀物か、もしくは鉛や水銀などの金属である。
鉛から白粉を作る場合は、まず鉛を沸かした酢で蒸してそれを水に晒して固める。この方法で作る白粉を俗にハフニと呼んだ。ハフニは穀物から作る白粉に対して精製が簡易であり、ノリがよく、何よりも安価であったため武家、貴族、庶民を問わず幅広く愛用されていた。
なので時たま白粉塗る町民はさておき、化粧をすることを生業の一部とする役者や遊女、一部の貴族たちは重度の鉛中毒となっているのが常であったという。
◇
その白粉にまつわる怪談に『白粉婆』という妖怪の話がある。
天文六年の事。
長谷寺の座主である、弘深上人の鶴の一声で巨大な和紙に観音菩薩を描くこととなり、津々浦々から絵の心得のある僧侶たちが集った。
しかしながら、その年のとある日に足利家の軍勢によって寺を含め近隣の食物が粗方奪われるという事件があった。僧侶たちは食に事欠くのではないかと絵を描くどころの騒ぎではなくなってしまった。
すると、何処からともなく寺の境内に女が一人現れた。顔には無数の皺の入った老婆だったのだが、いかんせん厚く白粉を塗っており遠目にはうら若き乙女にも見えたという。
老婆は寺の井戸水を使い、米をとぎ始めた。研いだ米をざるに移すとそこから一粒だけ米粒を拾い上げ、また桶で研ぎ始める。すると不思議な事に忽ち桶が米でいっぱいになった。
幾日も老婆は食事時になると決まって現れて米を研いだので、絵師たちは仕事に専念し、見事な観音の一枚絵が完成した。
すると皆の頭には老婆が二度と現れなくなるだろうという考えが過ぎった。寺の者も総出で老婆に感謝の念を伝えると、婆は何かを言い返してきた。
◇
けれども誰一人として婆が何を言っているかが分からなかった。
白粉婆の言葉はひどく訛りがあったそうな。
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