針女の噺
東京を江戸と申した時分のお話。
ある町に噂が立った。夜道に見目麗しい、若い娘がいつの間にかたっているのだそうだ。娘は一言も喋ることなく、ただ立ち尽くしている。そして前を通る男がいると、朗らかに微笑みかけるという。大方の男は、夜道に立っている怪しいい女と近づきもしないのだが、偶に馬鹿正直な人間や助平根性のある男が笑い返すことがある。
そうなると一巻の終わりだという。
娘は結ってある髪をハラリとほどく。その髪はまるで針金のようであり、先端は鉤状になっているそうな。驚き、逃げ去っても髪の毛はどこまでも追ってくる。そして着物の裾や袖に引っかかりでもしたら、瞬く間に雁字搦めにされ、どんな屈強な大男も動くことができずどこかに連れ去られてしまうというのだ。
近くの者はこれを『針女』と呼んで、夜道で娘に遭うことを恐れていた。
◇
ある時。一人の表具屋見習いの男が、酒によって夜道を歩いていたところ、この針女に出くわした。噂を聞いていたのだが、酔いで感覚が鈍っていた男は、つい微笑み返してしまった。
途端に噂のことを思い出したが、時すでに遅く、針女はほどいた髪の毛を使い男に襲い掛かってきた。
男はすぐにその場から逃げ出した。しかし案の定、髪の毛は自分を追ってくる。
家のすぐそばだった事が幸いし、中に駆け込むとすぐに表戸を閉めた。ところが、男は自分の修行のために家の殆どの戸を障子や衾で拵えていたのだった。当然、針女の髪の毛はいとも容易く障子戸を突き破ってしまった。
男は奥へと逃げた。けれども木戸を閉めていなかったので障子を次々と突き破り、髪の毛が襲ってくる。その時、物置の中に空の木箱があったのを思い出した。すぐに物置部屋の木箱に身を隠す。襖を突き抜け、木箱に針がかかるようなカリカリという音が一晩中続いた。とても生きた心地がしなかった。
翌朝。一番鶏の声と共に、木箱を引っ掻く音が止んだ。
恐る恐る木箱から抜け出してみると、ボロボロに削られ、家中の障子や襖は穴だらけであった。それでも男は、命が助かっただけ儲けものだと、ようやく安堵したのだった。
◇
その日は仕事を休んで、自分の家の片付けに専念した。障子も襖も全て庭へ出し、せっせと紙を剥しては付け替えていった。
「針女から からがら逃げて 今朝のオイラは 張り男 ってか」
などと調子づいて都都逸など詠んでいるが、手が震えている分、いつもより時間がかかっていた。
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