影女の噺
いわゆる、考えおち。
東京を江戸と申した時分のお話。
増田という武士が、友人の酒井吉左衛門の家に招かれた。この二人は子供の頃からの付き合いで、いわゆる幼馴染であった。この日は久しぶりに酒でも飲み交わそうと昼に約束をしていた。
日が暮れかかった頃。増田某が酒井家の屋敷の生垣を通り過ぎて玄関へと向かう途中、屋敷の窓から若い女の姿が見えた。
はて、妙だな・・・吉左衛門はまだ独り身で、親兄弟もなく一人で暮らしているはず。若い女が屋敷にいるはずはないのだが。
そんな事を思うと、妙な胸騒ぎが起こり少し足が速くなった。
玄関に辿り着くと声を掛ける。すぐに吉左衛門が現れたので、増田はひとまず安心した。先ほどの事を尋ねようかと思ったが、吉左衛門は待ちきれないと見えて、すぐに酒席の用意をし始めたので増田はそれに従った。吉左衛門は男やもめであったが、予め支度をしていたのだろうか、肴を手際よく出してきた。
出された皿はいずれも美味であり、二人の酒はいつもに増して進んだ。
料理も酒も落ち着くところまで来たとき、増田はふと外を見た。すっかり日が落ちているが、雲一つない空に月が浮かんでいるので外は大分明るい。
ふと、増田は座敷から外の景色見た。そして目に入った光景に驚いた。開けられた障子に明らかに女の影が映っていたのだ。それを見た途端、夕方に感じた女の気配の事も思い出した。
「酒井殿。女中でも入られたのかな」
「いや? 相変わらずの一人暮らしだが」
「では、そこの女の影は…」
増田の酔いは一気に醒め、刀に手を掛けた。一方、逸る増田とは対照的に吉左衛門は落ち着き払っている。そして小さく笑いながら言った。
「そこにいるのは『影女』だ。いつの頃からかこの家に居つくようになってな。まあ、こんな時は物の怪でも女っ気のある方がいいだろう」
すこぶる気味が悪かったが、ここで逃げ出しては良い笑いものにされてしまうだろうと増田は平静を装っていた。
「心配せずともよい。これはどういう訳か、家の中には入らん。外廊下の障子にしか映らんのだ」
そう言われても不安は消えなかった。増田は自棄になって再び酒を呷っていた。
◇
後日。
増田は、再び吉左衛門の家へと招かれた。まだ気味が悪かったのだが、それでもどうしてもと強く頼まれたので、渋々足を運んだ。先の酒を酌み交わした座敷へ通される。するとやはり同じ障子に影女の姿が映っていた。
こちらの心情など知らん顔の吉左衛門は、何故か廊下に恭しく座ったのだ。障子の影と隣り合わせで、まるで並んで座っているように見える。
「実は折り入って頼みがあるのだ、増田殿」
そう前振りをして、吉左衛門は身の内の話を語り始めた。
◇
先日、増田が帰ってからも、影女は連日連夜に渡って吉左衛門の屋敷に姿を見せていた。ある時、吉左衛門はいつも通りに障子超しに姿を見せる影女に向かって何の気なしに声を掛けた。
「偶には相伴せぬか?」
「…生憎、私は嗜みません」
返事をしたことに吉左衛門は驚いた。今まで口を聞いたことなど一度もなかったからだ。
「お主、喋れるのか」
「はい」
「何故、今まで黙っていたのだ」
「女から先に殿方に声を掛けるのは憚られましたので」
「そうか。それは今まで悪いことをしてしまったな」
それからと言うもの吉左衛門と影女は、月の照らす晩には決まって語り合うようになったという。吉左衛門は生い立ちや半生、趣味、好物、仕事の話を聞いてもらいながら酒を飲むのが何よりの楽しみになっていた。そうしているうちに、影女に対して恋情の想いを持つまでになっていったのだ。
ある晩、吉左衛門は前々から思っていた事を聞いた。
「お主は、何故拙者の屋敷に現れたのだ?」
「…」
影女は答えない。その言いよどむ姿を見て吉左衛門は確信を得、またそんな事を聞いた自分を恥じた。
そして、その汚名を挽回したい思いではっきりと告げた。
「お主さえ良ければ、ずっとこの家に居てはくれまいか? 拙者と共に」
「・・・はい」
影女は長い間、吉左衛門を慕っていたことを全て打ち明けた。決して屋敷の中に映らなかったのは、結ばれてもいない女子が家の中に入る訳にはいかぬと操を立てての事だった。
吉左衛門はその健気な性分に益々惚れ込んだ。
「ただ、一つお願いがあるのです」
「なんだ」
影女は澄んだ声で話し出した。
「私は御覧の通り、影の存在。月光の他に光を浴びることができぬのです。陽の光は元より、今も傍らに置かれております、行燈や提灯の光にも耐えることができませぬ。どうか、くれぐれも私の前に『光る物』をお出しになさいませぬように・・・」
「うむ。しかと心得た」
吉左衛門は、すぐさま行燈の火を吹き消した。月が出てはいるが、流石に座敷の中は闇に飲まれてしまった。するとその途端、自分の隣に確かに気配を感じたのだ。見れば障子に月影は写されていない。
「こうなっては仲人を立て、結納をしなければの」
「嬉しゅうございますが、私は人の身ではございませぬ。物の怪と連れ添うなど、吉左衛門様の評を害することに・・・」
「心配はいらぬ、以前お主もあったことのある男がおるであろう。増田という拙者の唯一無二の友じゃ。あの男に任せれば心配いらぬ」
それから影女と吉左衛門は、暗闇の中で肩を寄せ合いながらこれからの事を話し合っていた。
◇
「・・・という訳なのだ」
「では頼みとは・・・」
吉左衛門は力強く頷く。
「増田殿に仲人を頼みたい。これは承知の通り人ならざる者、まさか盛大に式を挙げる訳にもいかなくてな・・・幸いにも拙者には身内はおらぬし他に人を呼ぶつもりなどは更々ないが、せめて結納の形くらいは作ってやりたい。そこで増田殿を思い出したのだ」
ここまで腹を割って話されてしまっては、おいそれと無碍にはできなかった。増田にも多少の恐れはあったが、それ以上に親友の覚悟を叶えてやりたいと思う友情があった。そして、自ら狐に抓まれるのも一興かと、吉左衛門の頼みを引き受けたのである。
こうして吉左衛門と影女は目出度く夫婦となった。
◇
「増田殿、忝い。なんと礼を言えばよいか」
「いや。拙者もまたとない奇妙な役をさせてもらった。尤も人には言えぬがな」
闇の中に、三人分の笑い声があった。
「しかし、このような事になるのなら酒か何か買っておくべきであったな。目出度い席に空手とは面目ない」
「何を言う。仲人を引き受けてくれたことがこの上ない祝儀。実は増田殿の事だからきっと引き受けてくれるだろうと思っておってな、寿司を出前しておいたのだ。相伴して行ってくれい」
「忝い。お言葉に甘えるとしよう」
「では私がお持ちします」
暗がりの中にすくっと立ち上がる気配だけがあった。影女はスルスルと滑るかのように台所へ向かって行った。
ところが、待てど暮らせど影女は戻ってこなかった。流石に不審に思った二人はやむを得ず、灯りなしで台所に向かった。何度声をかけても影女からの返事はない。文字通り影も形もなくなってしまったのだ。
それからというもの吉左衛門の家に影女が現れることはなかった。
届いていた寿司桶の中に、旬の秋刀魚や鮗の寿司があったことに吉左衛門が気付いたのは、夜が明けてからの事だった。
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