琥珀色のクリスタル
僕の寿命は普通の半分に満たない。でも、三十代で死ぬわけじゃない。平均寿命くらいは生きられると医者が言っていた。「じゃあ、どうして寿命が半分だなんて言うの?」って聞かれれば、起きていられる時間が短いからだ。寝ている時間に意味はない。
六時~十三時。
これが僕の『至適時間』だ。十三時がくればスイッチが切れたようにバタリと倒れ、眠りにつく。
十三時に眠ってしまうなら、もっと早く起きればいい。そう考えたこともあった。でも僕の場合、五時に起きると、十一時前にダウンする。逆に七時に起きても、十四時までもたない。
最大七時間しか起きられない。それが僕の病気だ。治療法はまだ見つかっていない。
こんな病気だから、普通の高校には行けない。特別な配慮のある通信制高校へ通っている。自習してレポートを作るのは普通の通信制と一緒。でも、スクーリングは課せられていない。同じ病気の患者には至適時間が深夜の人もいるし、三時間を切る人もいる。その人たちに配慮してのことらしい。
外出できるだけの時間があり、昼の世界を知っている僕はまだ幸せだ。だけど、ただでさえ短い時間を通学に割く気はない。もっと大切な時間が、僕にはある。
朝九時前、中央図書館の開かない自動ドアの前に、あゆみが待っていた。
「おはよう、尚」
こちらに手を振る姿も、見た目もごく普通の女の子だ。天然パーマの独特なウェーブがかわいいと思う。やけに細身で色白ではあるけど、引きこもりだった過去を考えるとしかたない。あゆみも僕と同じ病気なのだ。いまは同じ通信制高校に通っている。
あゆみとはSNSで知り合った。互いの発言で同じ病気であることを知った。たまたま同じ市内に住んでいて、たまたま至適時間が同じだった。そして、互いの家の間にある中央図書館で会うようになった。休館日の月曜は別の場所に行く。毎日会うのをあゆみが望んでいたし、僕も望んだ。どうやら静電気と違って、マイナスとマイナスは惹かれ合うらしい。
「あゆみ、その膝、どうした?」
スカートの下から紫のあざが見えていた。
「なんでもない、転んじゃって……引きこもっていたから血管が弱いのかな?」
「それ、ほんとか?」
「ほんとだって」
そう微笑むあゆみに、僕はそれ以上聞かなかった。
それなのにあゆみの荷物はいつもやたら多い。華奢な身体なのによくこんなに持ってこれるな~、っていつも思う。転んでしまうなら加減すればいいのに。
自動ドアはまだ開かない。そのやたら重そうな荷物を代わりに持った。
「いったいなに持ってきた。パソコン?」
「そうだよ。17型のやつ。それとペンタブに、スケッチブックに、ペンに、今日締め切りの数Ⅰの教科書と、ノートと……」
「十二時には出ないといけないのに、そんなに要る? 数Ⅰやるだけでギリギリだと思うけど」
「だって、尚に見てもらいたいから。公募の最終確認。もう出さないといけないの」
「なんでいつもギリギリなんだ? もっと早い段階で見せてくれればいいのに」
「だって、未完成なもの見ても仕方ないでしょ。あっ、開いた」
自動ドアが開くなり、あゆみは話を打ち切って館内へ入った。荷物がないから足取りは軽やかだ。僕はあゆみを追いかけて、図書室のドアをくぐり、自習室へと直行した。
自習室を入って左側、一番手前のテーブルが僕らの定位置だ。人の出入りがうっとうしいけど、奥のテーブルまで行く十秒が惜しい。僕らには普通の人と違って時間がないのだ。
テーブルの上に荷物を置くと、あゆみがさっそくパソコンを取り出した。壁のコンセントにACアダプタをつなぎ、Core i7が載ったご自慢のパソコンに餌を与える。僕が数Ⅰのレポートを広げている間にパソコンが起動したらしく、左肩をポンポン叩かれた。
クリアな液晶にはまた異世界が広がっていた。
あゆみは異世界もの大好きだ。ページを繰っても繰っても終わらない。
「いったい何ページあるんだ?」
「九十六ページ。なにその顔? めんどくさいの?」
「いや、そんなことない」
「もっと真剣に読んで。ものすごく時間かかったんだから。公募通ったらお金がもらえる。それに私の単位がかかってる。美術と美術専門で八単位もらえるの。数Ⅰより単位多いんだから。手抜き禁止!」
僕らには特例があって、授業を受けなくても、一定以上の収入を伴う実績があれば、対応する科目の単位が認定される。だから、あゆみは真剣なんだ。
最初からもう一度読み直した。
剣と魔法がぶつかり合う異世界バトル物。塗りもネーム付けも終わってて、セリフはかっこいいと思う。でも、絵はお世辞にも上手いとはいえない。登場キャラクターが全員、茄子みたいな顔だ。紫に塗れば完璧だと思う。
いつもの癖だ。
「あゆみはもっとかわいらしいものを描いた方がいいと思う。それかギャグ」
「なんでまたそんなこと言うの? なにがおかしいの? まさか、またなすびとか言わないでよ」
怒ってる。病的に白い顔が桃色に変わってる。
「自覚してるなら直したら。シリアスな展開とその絵は合わない」
「だって、かわいいものもギャグも思いつかない。異世界なら、夢の中で見れるの」
「そうかもしれないけど、公募通らないと意味ないし」
「でも、かわいい系とかギャグって賞金出る? 三十万以上もらえないとだめなの」
特例の単位を得るには一定以上の収入がいる。その金額が年間三十万円だ。この制度は普通に勤務できない僕らが自力で稼ぐのを支援するためにある。自立を目指すからには生半可な額は許さないらしい。もちろんバイトは参入できない。学校からは制度での単位取得を強く勧められてはいるけど、この高いハードルを越えなくとも卒業はできる。
「なんであゆみは三十万にこだわる?」
「だってお金稼がないと生きていけない。当たり前じゃん」
「でも一発で稼ぐ必要はない。他にも探そう。あゆみに合うものを」
「なんで?」
「僕はあゆみに光の当たる場所へ出てほしいんだ」
「ヒドイ!」
「なんでそんな風に言う?」
「私は夢の中の異世界を描きたいの。私の心には異世界しかないの。だからバカにしないでよ」
「バカになんかしてないって。イラストの方が合うって言っただけ。あゆみの絵は見ただけであゆみだとわかる。だからいっそ癖を活かした方がいい。お金も稼げるし」
あゆみの頬が膨れた。完全に拗ねている。
こちらをまったく見ることなく、無言でペンタブの上にペンを走らせ始めた。白紙の画面にまた茄子みたいな顔を書いている。
あゆみのリュックにある数Ⅰの教科書は眠ったままだ。どれほど課題を終わらせているかわからないけど、おそらく一題も手をつけていないだろう。レポートは単位を得るのに必須で、一つでも不合格ならアウトだ。数Ⅰは必修科目だから落とすと卒業できない。
僕はあゆみをよそに数Ⅰのレポートの仕上げにかかった。時計はもう十時半。十二時のチャイムが鳴ると僕らの時間は終わってしまう。残された一時間で家に帰り、レポートをスキャンしてメールで送らないといけない。提出期限は今日の二十四時だけど、僕らに十三時から先はない。
教科書にはsin、cos、tanが並んでいる。頭が痛い。
ほんとはあゆみの方が自然なんだ。中卒では心許ないし、高認だと孤立するから通信制に行っているだけで、僕に学習意欲なんてないのかもしれない。
僕らは会社では働けない。だから稼ぐ方法を身につけなければならない。特例の単位制度があるのはそのためだ。学校の枠から放り出されたら、勝つのは間違いなくあゆみだと思う。
数Ⅰのレポートは終わった。切り口によっては役に立つ内容だけど、いまの僕には、数式の書かれた紙束以外残っていない。
十二時のチャイムが鳴った。あゆみが僕の左肩を引いてくる。
「尚、これでどう?」
白紙だったキャンバスに茄子の妖精がいた。紫色の身体にうちわのような羽が生えている。
「さっきより、良いと思う」
「それ本気? 一円も稼げなかったら許さないんだから」
「大丈夫、一円以上は稼げる。もし稼げたらマンガにしたら?」
「それは嫌、私は異世界がいいの! さっき尚に見せたような」
あゆみがバンと音を鳴らしてパソコンを閉じた。
ラグビーボール型の透明な琥珀色の粒が転がってきた。
「なにこれ?」
「サプリだよ。ビタミンE」
あゆみは透明なケースを取り出した。ケースにはビタミンEがいくつも入っている。その中に落ちた一粒を拾って入れた。
この机はお世辞にもきれいとは言いがたいのに、どうして捨てないのだろう。ビタミンEのサプリなんて、そんなに高くないはずなのに。もう遅い、三秒ルールなんてものは嘘っぱちだ。
僕らは図書館を出た。
あゆみはパソコンの入った重いリュックを背負っている。シリアスな世界で戦う茄子顔キャラ並に不釣り合いだ。
どうして異世界にこだわるのか、僕にはわからない。まさか、ほんとに夢で見えているからか? 僕には信じられない。だって僕の十三時から六時は完全に欠落しているから。夢なんかみたことないから。
そう思いながらあゆみと別れ、家路についた。
スカートの下のあざが、ひときわ黒く見えた。
家に帰ると十二時十五分だった。すぐさま仕上げた数Ⅰのレポートを、プリンタのスキャナに通していく。ADF機能はないから一枚ずつスキャンして、順番どおりにPDFを結合しなければならない。作業が終わればすぐ先生にメールを送る。十二時三十五分、なんとか間に合った。
それから猛ダッシュで台所に駆けこみ、母さんが作り置きした昼食を摂る。僕の起きている時間は短いけれど、カロリーは人並みに食うから、流し込むように食べないといけない。ほんと燃費の悪い身体だ。湿ったトンカツをかき込みながら、テレビを見た。
担架に乗った男が病院に搬送されている。モザイクが施された顔に呼びかけても反応はない。画面の右上には『危険ドラッグ 救急搬送相次ぐ』のテロップが出ていた。
どうやらこの男はある危険ドラッグの中毒者らしい。ドラッグの名前は『クリスタル』、摂取すると夢を見るという。そこではすべてが自らの意のままになるらしい。中毒者は夢の世界に囚われて、やがて多臓器不全で死に至る。こんな薬で寿命を削るなら、その時間を僕に分けてほしい。
気づけば十二時五十七分だった。十三時まであと三分、まだシャワーを浴びてない。皿を流し台に放置して、寝室へダッシュした。十三時になれば僕は倒れてしまう。そんな眠り方をすれば頭を打って、ケガするかもしれない。シャワーは朝に浴びよう。
僕は十三時になる一分前にベッドへ飛び込んだ。
それから二月経った。
朝六時に目が覚めると、枕元でコードにつながったスマホが白く光っていた。SNSを開いくと、タイムラインに新着メッセージがあった。
神崎あゆみ(6:01)
落ちた
メッセージは一つだけ。僕は文字を打ち込む。
雨宮尚人(6:05)
なにに?
紙飛行機をタップすると、すぐさまバイブが鳴った。
神崎あゆみ(6:05)
マンガの公募
雨宮尚人(6:06)
残念……。別の公募、頑張ろう。イラスト公募通ったんだし。
神崎あゆみ(6:06)
農産キャライラストコンテストのこと? 入賞しても五千円しかくれなかったんだよ
雨宮尚人(6:06)
五千円でもゼロじゃない。
神崎あゆみ(6:08)
バカ! 五千円じゃ足りないの
私はこのために数Ⅰも世界史Bも国語総合も情報も全部捨てたの! なのにお金稼げなかった 単位もない 親が許さない
尚はこの公募にどれだけ時間をかけたと思ってるの? イラスト描いてる場合じゃなかった 尚のせい なんかおごれ!
理不尽だ。あゆみがマンガを見せてくれたのは応募の直前じゃないか。早めに見せろって言ってるのに、あゆみはいつもギリギリ。そんなタイミングで見せられたらツッコんでも直す時間がない。僕のせいじゃない。勝手だ。
神崎あゆみ(6:08)
あぁ、異世界行きたい
また異世界に憑かれている。異世界といってもいろいろあるはずなのに、どうして剣と魔法の世界なんだろう。公募ってオリジナリティーがいるから、似通った世界だと評価が厳しくなる。同じ異世界でも、茄子顔の種族が闊歩する、茄子だらけシュールコメディーの方が望みはあるはず。
雨宮尚人(6:26)
今日、時間ある? おごるから。
地元から三つ離れた駅に遊園地がある。そこにあゆみを誘った。肌の色がますます白くなった気がする。ゲートにはかわいらしい動物のキャラクターがたくさん描かれている。幼稚園のバスみたいな絵は僕らの雰囲気とは大違いだ。
あゆみの望みは異世界。ほんとはディズニーランドやUSJがいいに決まってる。どちらも新幹線に乗らないといけないけど、ネットで得たわずかな稼ぎと小さい頃のお年玉を合わせれば、じゅうぶん賄える。
でもダメだ。僕らには七時間しかない。異世界へついた途端、二人とも倒れてしまう。まだ十六だからホテルをとるのは厳しいし、チケット買うだけの夜行バスも、十三時出発・翌六時着なんてない。そもそも寝てごまかすのはリスクが高すぎる。親の協力があればなんとかなるけど、見事に却下された。
寂れた遊園地の観覧車は半分以上空っぽだ。そのゴンドラに乗り込み、二人並んで座った。窓から見えるのは知っている町の景色。テレビの向こうに映る世界はここにない。僕らの生きる世界はほんとちっぽけだ。どこか疲れ切ったあゆみの真っ白な頬が、ぷっくりと膨らんでいた。
「あゆみの見る異世界の夢って、どんな感じなの?」
「いきなりなに? なんでいまさらそんなこと聞くの?」
やっぱり怒ってた。
僕は謝るしかなかった。
「でも、気になってたんだ。マンガにしたくなるほどの夢の世界って、どんなのだろうって」
「尚に見せたでしょ。あのマンガのとおりだよ」
「いや、きっと違うはず。あゆみが見る異世界は殺気だったバトルばかりだとは思えない。もっと優しい世界があるんじゃないかって。そうでなきゃ、あゆみが異世界に憧れるなんてないと思う。現実のあゆみとあの異世界は違いすぎる」
「そう……かな?」
「きっとそうだ。じゃないと茄子みたいなキャラ描けない」
「もう! またなすびって言った。尚はちょっと隙を見せたら貶すんだから」
「褒めたつもりなんだけど……」
「褒めてない、貶してる!」
あゆみの蒼白の顔がほんのり桃色になった。
「そう? 僕はあゆみが優しいから、あんな絵が描けるんだと信じてる。だから教えて欲しいんだ。あゆみの見たほんとうの異世界を。あゆみのマンガを二度と貶さないように」
あゆみは窓を見ていた。てっぺんまで上ったゴンドラに、視界を遮るものはなにもない。
どこかうつろな眼差しで、あゆみは快晴の空を見ていた。
「きっと尚の想像と違うよ」
「それでもいい」
空を見たままのあゆみに、そう答えた。
スイッチが切れる5分前、私の元に光が四つ降りてくるの。赤、青、緑、黄色のLEDみたいな光が身体にすーっと入ってくる。するとね、身体に力が入るの。光は精霊と名乗ってた。火と水と風と土を司る四元素の精霊だって。私は精霊たちの力を借りて、真っ暗闇の空間を抜けていく。するとね、雲一つない青空と緑の平原が広がっているの。
私は現実とは違う広い世界を駆け回ってたくさんの町を渡り歩いてる。お金を稼がないといけないのは変わらないから、剣を握って戦いに行くの。なすびみたいな絵を描く私と違って、向こうの世界の私はとても器用で、英雄に取り憑いたように軽やかに動ける。剣道とかやったことないのに剣術が身についてて、誰よりも強い。現実と違って私は悪い人をばっさりと切り伏せられる。戦うときも至適時間なんてまったく気にしなくていい。徹夜だってできる。時間がテープみたいにつながっていて、日の沈む瞬間も、星の浮かぶ夜の世界も見えるの。
向こうに行けばなんでもできる。そんな世界が夢の中には広がっている。何日も何日もその世界が続いて、精霊の力が尽きたとき、現実世界のスイッチが入るの。
でもね、一つだけおかしいんだ。このとき異世界の人間はみんなのっぺらぼうになる。向こうにいる間は普通だったはずなのに、この世に戻ると顔がなくなる。異世界にいる間だけ、人が人になる。
それから尚に会うまで、私は地獄を生きるの。
観覧車を降りた後、あゆみを売店に連れて行った。特大フルーツパフェを一つ頼み二人でつついた。もちろん代金はすべて僕持ちだ。パフェは冷たく、ゴンドラで寒気を覚えた身体をよけいに冷やした。
「どうしてあゆみは異世界で人を斬る? あゆみらしくない」
「そうかな? 尚に会うまでの時間が地獄だからかもしれない」
「あゆみはどうして現実を地獄なんて言うんだ。家でなにかあるのか」
「放っておいてよ! なんでもないから」
「いいや、嘘だ。絶対なにかある」
それから僕はあゆみを問い詰めた。でも、家のことは答えてくれなかった。代わりにあゆみは目を輝かせながら、異世界のことばかり話し続けた。もう異世界の住人であるかのようだった。
僕はもう異世界の話を聞く気になれなかったのに、あゆみの話は止まらない。ゴンドラの中で堰が切れたようだ。端から見れば中二病をこじらせたヤバい女だ。今日は平日だから、あゆみの話を聞く人間は僕しかいない。もし休日で客がいたらセーブできるのだろうか。いや、そういう問題じゃないと思う。
あゆみは異世界に憧れているのではない。囚われているのだ。病的に青白い顔はまるで幽霊のよう。マンガやイラストの話は一つも出なかった。
十一時半、僕らは記念撮影をして遊園地を出た。たった二時間半の異世界、その最後をお互いのスマホに収めた。そのとき、あゆみのポケットからまたビタミンEが出てきた。
電車の中でビタミンEを飲む理由を聞いたけど、あゆみは美容のためとしか答えなかった。美容ってビタミンCのイメージしかない。あゆみはどうしてビタミンEを飲むのか、なにか特別な効果があるのだろうか。
あゆみと別れたあと、歩きながらスマホで調べた。
『ビタミンE 効果』
抗酸化作用があり、老化防止に役立つ。ビタミンCと複合摂取でより効果が高まるらしい。美容のためというのは間違いなさそうだ。
さらに検索。
でも、過剰摂取は出血傾向につながるらしい。血行がよくなるのにどうして顔が白いままなんだ?
さらに検索。
どうやら僕らの病気が改善されるわけではないらしい。そもそもドラッグストアの安いサプリで治るなら、こんな苦労してない。ディズニーランドもUSJにも頑張れば自由に行ける。
さらに検索。
『ビタミンE 夢』まともなヒットなし。変なサジェスチョンが顔を出す。
『ビタミンE 夢 ドラッグ』
近年、若者たちの間で新種のドラッグが蔓延している。「飲めば異世界へ行ける」という触れ込みで販売され、摂取した者が病院へ救急搬送される事例があとを絶たない。今月二十日までに搬送数は千二百人を超え、うち四百九人が命を落とした。
『クリスタル』という名のドラッグには特異な幻覚作用があり、中毒患者は『精霊が見える』、『精霊が異世界へ連れて行ってくれる』、『なんでも叶う天国のような世界に行ける』など、ほぼ同種の精神症状を訴える。中毒者は異世界に耽溺したまま『クリスタル』の摂取を続け、やがて多臓器不全に至る。自殺率も極めて高い。
透明な琥珀色の外観は、ビタミンEのサプリに酷似しており、所持していても目視判断は難しい。化学的にはモルヒネやコカインなどと同じアルカロイドに属する。しかし、分子構造は既存薬物と大きく異なり、法令の包括指定をくぐり抜けた形だ。規制が行き届いておらず、数あるドラッグの中でも末端価格が異常に安いため、急速に拡散し、事態の収拾に歯止めがかかっていない。
政府は法の整備とともに、検査試薬の開発を進め、迅速な摘発体制を整えるとしている。
クリスタル、聞いたことがある。ビタミンE、青ざめた顔、異世界の夢、救急搬送……。
僕はすぐさまSNSを開いた。
雨宮尚人(12:56)
あゆみ、どうか行かないで!
あゆみに明日が来ることを願いながら、猛ダッシュで家へ帰った。
ほんとはこんなことしている場合じゃない! だからと言って路上で倒れてしまったら、目覚めは病院のベッド。そうなったら外出禁止であゆみに会えなくなる。この状況であってはならない事態だ。
ご飯もシャワーもどうでもいい。手と顔に水をかけて、パンツ一丁でベッドに飛び込んだ。
暗闇の中、僕は観覧車のゴンドラにいた。
隣にはあゆみが座っている。あゆみは飽きることなく異世界の話をしている。ずっとずっと何時間も、終わりのない念仏のように、虚ろな眼差しで語るあゆみは見るに堪えない。
そんな時間が繰り返されて、あゆみの声がした。
「異世界にいる間だけ、人が人になるの」
僕は生まれて初めて、夢を見た。
翌日、僕は朝食を抜いて家を出た。空腹感はまったくない。自転車をかっ飛ばし、中央図書館を通過した。
雨宮尚人(6:00)
あゆみ、起きた?
SNSのタイムラインは朝一に打ったメッセージで終わっている。
遊園地に行く日、めちゃくちゃ怒っていたときも、あゆみはメッセージを返してくれた。なのに返信はなく、既読すらついていない。まさか、倒れたのか?
あゆみの家の固定は知らない。だから信号待ちのたびに携帯へ電話をかけた。誰でもいい、あゆみの親でもいい。どうか出てくれ! 僕はあゆみが無事か早く知りたいんだ!
もしかして、もう救急搬送してて、家族はバタバタで……いや、考えてもしかたない。
僕はただひたすらペダルをこぎ続けた。
赤信号は無視した。こっちは救急なんだ!
白と焦げ茶で彩られた、シャープなデザインのマンションが見えてきた。ここがあゆみのいるマンション。そのエントランス前の公園に影のように黒い服を着た女がいる。ブランコに揺られている女の身体に力はなく、首が折れていた。僕は自転車を乗り捨て、女のもとへ駆け寄り肩をつかんだ。
女はあゆみだった。
「あゆみ、大丈夫か!」
足元にカタリと音がした。砂の上のプラスチックのケースには、偽物のビタミンEが二粒入っている。琥珀色の粒は辺りに散乱しており、キャップの開いたペットボトルが水たまりを作っていた。
「あゆみ。お前、クリスタルやってたのか」
「ただのビタミンEだって。少しでも起きる時間を長くするための」
「嘘だ。顔も目も黄色じゃないか」
ビタミンEなわけがない。ネットにあるようにサプリなんかで、僕らの眠りは短くならない。
あゆみの身体はフラフラ揺れている。目は虚ろ、ひどい黄疸だ。
あの琥珀色の錠剤はクリスタル。あゆみが見たのはすべて幻覚だ。
スマホを出し、電話アプリを起動した。
「なにしてるの?」
あゆみの手が腕をつかんできた。
僕はその両手を強引に払い飛ばした。軸の定まっていないあゆみの身体はバランスを失い、砂の上に倒れた。あゆみに初めて暴力を振るった。
「なにやってるの、尚?」
僕は何も答えず、119を打った。
オペレーターが出た。
「なんで、救急車を呼ぶの?」
「あゆみの身体が心配だから。その黄疸、きっちり診てもらわないと」
「イヤッ! 病院に行ったら私はもう逃げられない。異世界に行けない。施設に入れられたら尚にも会えなくなる。そしたら私、もう生きている意味なんてない」
「意味はある。あゆみは絵が上手い。イラストコンテストにも通ったんだ。あゆみの絵にはちゃんと価値がある。もし公募に通らなくても、僕が認める」
「違う! そんなんじゃない。私には居場所がないの。自由がないの」
「どうしてそんなことを言う?」
「だって私、自分の力で生きていけないんだよ。普通に働けない。お金を稼げない私は家から出られない。あの男が死ぬまで地獄が続く」
「あの男って誰だ。正直に言え!」
あゆみの家には絶対なにかある。いつまで隠す気だ。
僕はふらつくあゆみの身体を強く、激しく、揺さぶった。
あゆみの瞳から滴が垂れた。
「母親の愛人。金のことしか言わない嘘っぱちの父親。尚は知らないでしょ、母親が死んだことも。私、ずっと黙ってたから」
「どうして話してくれなかったんだ!」
「だって、尚に逃げられたくなかったから」
あゆみのポケットから、また琥珀色の錠剤が出てきた。
狂ってる。いったいどれほど金をつぎ込んだのだろう。ネットには末端価格なんて書いてなかったけど、あゆみが手に入れられるならきっと恐ろしく安いんだ。
最低のドラッグだ。
「これを飲めば琥珀に宿る精霊たちが、異世界へ連れて行ってくれる。新しい世界で私は自由に駆け回れる。七時間じゃない、二十四時間の生があの世界にはあって、私はなんでもできる。精霊の力が消えるまでの間、地獄のような現実から私を解き放ってくれる。
四元素の環が身体に満ちている間だけ、私は私になれるの。だから尚、止めないで!」
「あゆみ!」
あゆみは千鳥足で公園から飛び出していった。マンションの敷地を出たら大通り、ODする女の行動は想像がつく。
スマホから「どうされましたか」という声が聞こえる。僕は追いかけながら病状を伝えた。
あゆみはもう壊れていた。身体のすべてがでたらめに動いている。あゆみの足はどんどん通路からそれていき、敷地と道路を仕切る茶色いフェンスを握りしめたまま、全身ガクリと崩れ落ちた。息は荒く、目は上転している。だらりとした腕は異常なほど硬直していて、熱い身体は汗一つかいていない。
僕はその一切と、この場所をオペレーターに伝えた。そして、通話のままスマホから手を離し、あゆみを抱いた。
全身の体重が一気にかかってくる。激しかった息は徐々に静かになり、上転したまま開いていた目は閉じている。左の手首を走る脈に力はなく、とても遅い。横にしてできる限りの気道を確保するしかなかった。
ふと見えたフェンスの向こうには、あゆみが握っていた禍々しいクリスタルが散乱していた。
救急車が来たとき、あゆみの状態はかなり悪化していた。
そのあとのできごとを直接は見ていない。どうやらショックのあまり、スイッチが早く切れてしまったらしい。
あとで病院の先生に聞くと、遊園地に行った後、僕が家に駆け込もうとしていた朝の二度、クリスタルを大量摂取した可能性が高いという。
胃洗浄はもう成分が取り込まれてしまって追いつかなかった。血液透析はいまもしているけど、はっきりとした効果は現れていない。クリスタルに有効な拮抗剤はまだ存在しない。いまは対処療法を行い、クリスタルの作用が抜けるのを待つしかないそうだ。だけど、重度の常用者だったあゆみが、完全に回復するとは限らない。MRIで脳の萎縮があれば、本物のあゆみには会えないだろう。
あゆみの父親と話をしたら、クリスタルのことを知らなかったという。秘密裏に摂取していたのだろうけど僕には信じられない。父親の胸ぐらをつかみ、怒鳴った。
「知った口利くな! もうありったけの物はやった。ろくに稼がず、絵ばっかり描いてる金食い虫、誰が要る?」
父親はいまにも殴りかかりそうだった。僕は憐れみながら、そっと手を外した。
父親のいないところで、待合のソファーを蹴った。何度も、何度も蹴りつけて、ソファーの列は滅茶苦茶になった。
遠くで父親の声がする。
「入院費は出さねぇ、今すぐ酸素を止めろ!」
あゆみはきっと、家の中では異世界へ逃げこむしかなかったのだろう。マンガの世界ですら異世界の夢で埋め尽くすほど現実を拒んでいた。きっとなすびの顔は個性でもギャグでもなく、人の顔を見ていないから生まれたのだ。怒り狂う父親だけじゃなく、もしかしたら僕の顔もまともに見ていなかったのだろう。だけどあゆみは、僕に会うことで地獄の世界を生き延びようとしていた。
毎日訪れる三時間で、僕はあゆみと現実をつないでいた。いや、つないだつもりだった。僕はあゆみの心を満たせなかった。地獄の中の楽園を作れなかった。異世界に吸い込まれていくあゆみの手を引き上げられなかった。その事実に変わりはない。
たかがC、H、N、Oでできたドラッグに、僕は負けたのだ。
ベッドの上で、あゆみはクリスタルに囚われている。いま、あゆみがどちらの世界を向いているのか、僕にはわからない。
モニターに映る遅いパルスが、あゆみと現世をつないでいる。