第一章 どうやら女の子になったようです4
「ただいま」
「た、ただいま……」
晴人と家に帰ってきたボクは、玄関に入るなり靴を履いたまま座り込んだ。
つ、疲れた……。まさか半日ずっとボーリングすることになるなんて思わなかった。結局修一郎は一度も晴人に勝てず落ち込んでいたし、しかもボーリング代は奢りという約束だったから本当に払って貰ったし、いろいろとかわいそうだった。明日はジュースぐらい奢ってあげよう。あ、ちなみにボクのスコアはアベレージ24で一度も30を越えなかった。当分ボーリングはやりたくないです。
「ほら、こんなところで休むなって」
「んん……もう少し休憩したらね」
「リビングで休めばいいだろ」
「そこまでが遠い」
「ほんの数メートルじゃないか」
晴人がボクの腕を取って引っ張り上げる。ボクに立ち上がる気はなかったので、一瞬体が僅かに持ち上がっただけだった。
「その数メートルが、今の気持ち的には富士山の五合目から七合目くらいの道のりなんだよ」
「気持ち補正凄すぎるだろ。うだうだ言うなら抱っこするぞ。体重軽そうだし」
「え、そ、それはちょっとやめて」
大の大人が、しかも元男のボクが抱っこされるなんて、たとえ抱える相手が家族でさらにはボク自身でも御免被りたい。
「だったら立てって」
「疲れてるのに……」
「抱っこするぞ」
「すぐに立ちます」
渋々靴を脱いで立ち上がる。だらだらと脱いだ靴を揃えて、リビングに向かう。
「ただいまー、って誰もいないのか」
「なんだよもう、あのままでも別に良かったじゃん」
リビングのソファーにダイブする。しばらくそのままの体勢でジッとしてから、ローテーブルに置いてあったテレビのリモコンを手に取った。
「今日なんか面白いのあったっけ?」
「水曜は……特にないな」
「じゃあこれでいいか」
歌番組をしていたのでリモコンをテーブルに放り投げる。
「母さんと父さんは仕事、亜依莉は友達の家に泊まるってよ」
くるりと転がってダイニングの方を見る。
「本当に誰もいないんだ。御飯どうする?」
「作るしかないだろ」
うちの両親は帰りが遅くなることが多いので、母さんがいないときは長男であるボクが代わって晩ご飯を作っていた。
「えー。出前じゃないの?」
動きたくなかったボクが抗議の声を上げる。
「材料を買ってあるみたいだからな。心配するなって。俺が作る。結葉はテレビでも見てろ」
「え、いいの? 手伝わなくても?」
「疲れてるんだろ。一人でやる」
「おー。我ながら優しいことを言ってくれる」
せっかくなのでここは晴人に甘えよう。またソファーの上に転がって体をテレビの方に向ける。
「……なあ、結葉」
「んー?」
「……もう一度確認するが、お前、本当に俺だよな?」
「何を今更。朝にあれだけ確認したでしょ」
体を起こし、大袈裟に肩を竦めてみせる。
「いや、今日のお前を見てると俺じゃない気が――」
「先週の火曜日、五時頃に近くの本屋で買った本のタイトルは――」
「お前は俺です」
即答だった。さすがいかがわしい本の威力は絶大だ。
「よろしい。でもあの本は微妙だったよね。ボクの好きなシチュエーションが少なくて――」
「い、いちいち言うな! 感想を語るな! お前が俺でも、そうやって言われるのは恥ずかしいんだよ」
「あはは。そうだよね。ボクも恥ずかしい」
笑いながらテレビに目を向けると、最近人気を博しているらしい五人グループの歌手が煌びやかな衣装を身に纏って踊っていた。あれは口パクだ。間違いない。好きな曲ではないけれど、ふと口ずさんでしまいそうになる定番のメロディーが両耳から入って両耳から抜けていく。ボクはロックが好きなんだ。
「結葉は、今日一日、女をやってみてどうだった?」
背後からトントンと包丁の音が聞こえる。聞き慣れた音。聞き慣れたリズム。まるでボクが料理しているかのようだ。
「とにかく疲れた。この体、凄く重いんだよ」
「いやどう見ても軽いだろ」
「体重的な意味じゃなくて、怠さ的な意味で。結葉ってとにかく体力がないみたいで、前の調子で走ったりするとすぐに疲れちゃうんだよね。重い物も持てないし、感覚も鈍い気がするし」
「まあ、男と女じゃいろいろと違うだろうからなあ」
「だとしても咲良はピンピンしてたのにボクはこれだから、女としても平均以下なのは確実だよ」
筋肉痛確定な腕を上げて、手を開いたり閉じたりする。
「鍛えてみたらいいんじゃないか?」
「筋トレかぁ……よし、マッチョな女子大生を目指しますか」
「はは。なれるものならなってみろ」
キッチンの方からフライパンを振るう音が聞こえてくる。それと同時に芳ばしい香りが漂ってきて、ボクの食欲をそそる。
「今日のメニューはなに?」
「野菜炒め」
なんでそのチョイス。たしかに野菜を切って炒めればいいから作りやすいけど。
「安心しろ、ピーマンは入れてない」
「よくやった」
ボクと晴人が親指を立てる。嫌いなものが一緒なのはこういうときいいなあ。
それから数分後。
「できたからこっち来い」
「御苦労様」
重い体を起こしてダイニングへ。テーブルには温かな料理が並んでいた。今日は二人以外に誰もいないので、料理を作った晴人がキッチン側に座っていた。
「ピーマン抜いたこと、母さんには言うなよ」
「分かってるって。いただきます」
手を合わせてお箸を取る。野菜炒めも味噌汁も、味は慣れ親しんだ好みのものだった。
「青椒肉絲のピーマン抜きってなんて言うのかな?」
「ただの焼き肉じゃないか」
「タコなしのたこ焼きは?」
「タコなし焼き」
「焼きじゃないの?」
「焼きじゃ何か分からないだろ?」
「焼き肉だって、ピーマン抜き青椒肉絲って分からないじゃないか」
「いやだって、ピーマン抜いたら焼き肉じゃん」
どうでもいい会話をしつつ食事を進める。この時もお昼のようにいつもの半分よりも少ない量を食べたところでお腹いっぱいになった。
これだけの量で動けるのは、小柄だから相応なのか、それとも省エネなのか。是非後者であってほしい。
「洗い物ぐらいはボクがするよ」
「んじゃ俺は先にシャワー浴びるわ」
晴人がリビングから出て行く。ボクは服が汚れないようにエプロンをして袖を捲り、キッチンの前に立つ。さて洗おうとしたら髪が邪魔をしたので、母さんが使っている髪留めを拝借する。ポニーテールにして、今度こそ洗い物を始める。
ささっと洗い物を済ませて、晴人が戻ってくるまでテレビを見て時間を潰す。いつの間にか歌番組は終わり、クイズ番組が始まっていた。千葉県では出席番号は誕生日順らしい。これはちゃんとみんなに誕生日を知って貰って、みんなからお祝いして貰うようにという学校側の配慮だろうか。なんともありがた迷惑な。
「結葉、空いたぞ」
しっとりと濡れた髪を拭きながら、半裸の晴人が現われる。そこそこの長身に、ほどよく引き締まった体、そこそこ割れた腹筋に、まあ悪くはない顔立ち。彼は冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出して、直接口を付けた。半裸で首にバスタオルをかけて水を飲む姿はなかなか様になっていた。
「どうした?」
「いや、なんかエロいなと思って」
「ぶっ!?」
晴人が水を吹きだした。霧状に空中を舞う水滴が光を受けてキラキラと光った。
「と、突然何言い出すんだよ!?」
口元を拭きながら晴人が叫ぶ。
「エロいというか、こうして見ると悪くはないなあ、と思って。むしろ、それなりにいけてると思うのに、どうして今まで誰からも告白されなかったんだろうね」
「う、うっせえ! 俺が知るかよ! というか、自分を見てエロいとか言うなよ!」
「自分だけど、今は他人でもあるからね」
ニシシと笑う。お風呂上がりのせいか、晴人の顔が赤く染まっている。
「客観的に見てそう思ったんだよ。料理できるし、それなりに気が利くし、ルックスもそこそこ。ボクが女ならたぶん惚れてるよ。うん」
女じゃないか、というのはナシで。
「……自分で言ってて悲しくならないか?」
「ちょっと」
睨まれてしまった。それを受け流して立ち上がる。
「じゃ、シャワー行ってくる」
これ以上ここにいると怒られそうだ。早々に退散することにした。何か言いたげな晴人の横を通ってリビングから脱衣所へ。さて脱ぐかと服に手をかけたところでハッと気がついた。
今のボクは女の子だ。つまりはこの服の下は……。
途端に顔が熱くなってくる。そうだよそうだった。どうしてさっきまで気付かなかったんだろう。シャワーを浴びるってことは服を脱がないといけない。服を脱ぐってことは、この結葉の裸を見てしまうってことじゃないか。朝の着替えとは違う。今度は下着も全て脱ぐんだ。
「どうしよう、どうしよう」
頭を抱えて脱衣所をうろうろする。うん。分かってる。どうしようもないことくらい分かってる。それでもなんとかならないものかと考え込んでしまうのはボクの性格だ。
……脱ぐしか、ないのか。
洗面台の鏡に映る結葉に問いかける。もちろん答えは返ってこない。今日はボーリングをして汗をかいた。このままシャワーを浴びずに寝るという選択肢はなかった。
……で、できるだけ見ないようにしよう。
結局できることはそのくらいのもの。顔を真っ赤にした結葉に小さくゴメンと呟いて、鏡から目をそらす。
ブラジャーのホックを外すのに多少戸惑いつつも服と下着を脱ぎ、視線を前方に固定したまま浴室へ。見ない、意識しないと念じつつ、蛇口を捻ってバスチェアに座る。そこで気が緩んでしまった。ふといつもの癖で目の前の鏡を覗き込んでしまう。
「ぬわっ!?」
鏡に映り込んだ結葉をもろに見てしまい、たまらず声をあげた。
白い肌はシャワーを浴びてほんのりと赤くなり、胸を隠すように捻った体は小柄で細く、女性特有の曲線を描いている。お尻が多少なりとも大きいが、それはあくまで男だった頃と比べてであって、女性としては小さい方だろうか。ぼんきゅっぼんではなく、きゅっきゅっきゅっとスレンダーな体型だ。腕の間から覗く胸は手で覆えるくらいに小さい。が、形はいいと思う。垂れていないし。いや、垂れるほどないとも言えるけど。そして視線を下に向ければ――
「って、何じっくり見てるんだよ!?」
鏡の結葉に向かって叫ぶ。鏡の結葉は頬を朱に染めて恥ずかしげにしていた。迫力なんて欠片もない。しかも濡れた銀色の髪が体に張り付いて妙にエロい。
ぬぐぐ……。これじゃただの女の子じゃないか。ダメだ。早く出よう。これ以上ここにいると変な気分になりそうだ。
体は諦めて、顔と髪だけ洗うことにする。コーナーに並んだボトルから一つを取り、名前を探す。我が家ではシャンプーなどのボトルにはそれぞれの名前が書いてあって、当人以外がそれを使ってはならないというルールがあるのだ。きっと結葉も名前を書いてあるはずだと探してみると、予想通りあった。しかし、
「……『ゆいは』って平仮名とは……」
精神年齢の低さがうかがえた。
◇◆◇◆
シャワーからあがったボクは髪を乾かして早々に布団に入った。朝みたいにワイシャツ一枚というわけにはいかないので、ちゃんと結葉のパジャマを着ている。結葉の部屋のベッドで横になり、目覚ましをセットして目を閉じた。今日は昨日以上に疲れたし、すぐに眠りにつけるものだと思った。
しかし、
「だー! 落ち着かなくて眠れない!」
結葉の部屋の結葉のベッド。いくらボクが結葉だとしても、ここは見慣れない他人の部屋で、とくに部屋のあちこちに配置された大きなぬいぐるみが気になってしまい、まったく寝付けなかった。ぶっちゃけ怖いよこのぬいぐるみ。なんか目がギラギラしてて、ジッとこっちを見ているような気がするし……。しかも布団からは何やらいい匂いがしていて、これもまたボクの眠りを邪魔するのだ。
どうしよう。体は疲れていて睡眠を欲しているのに、まったく寝られる気がしない。ただでさえ結葉になって神経過敏になっているんだ。このままじゃ夢の世界に旅立つなんて到底無理なことだ。
時計を見れば午前零時。そろそろ寝ないと明日に響く。明日も一限目から講義だ。しかも明日のは代返が効かないどころか毎回講義終了時に今日の講義の考察と題したレポートを提出する必要がある。ちゃんと講義を聞いておかないといけないタイプの面倒臭いヤツなのだ。必修科目だから絶対落としてはダメだし、寝不足はほんとヤバイ。
――と、いうわけなので、
「お邪魔しまーす……」
枕を抱えてそっとドアを開ける。覗き込めば、中は真っ暗。目を凝らすと、布団の中で寝息を立てる晴人を見つけた。
寝てる寝てる。ボクはほくそ笑んで部屋の中に入り、後ろ手でドアを閉めた。
眠れる場所。それはボクが一番落ち着ける場所ということ。ボクが一番落ち着ける場所と言えば、無論自分の部屋、つまり晴人の部屋になるわけだ。ちなみに一応ノックはしたので不法侵入ではないです。あしからず。
勝手知ったる自分の部屋。暗くて何も見えなくとも、どこに何があるかなんて手に取るように分かる。スススと暗闇の中を進み、ベッドの傍まで行って晴人の顔を覗き込む。
……うん。よく寝てる。これなら少しのことじゃ起きないだろう。
ボク(晴人)は一度寝ると朝まで起きないのだ。いい感じで手前側に人一人分のスペースが空いていたので、枕を置き、布団の中に潜り込んだ。顔だけ出して隣を見やると、目と鼻の先に晴人の顔があった。これが赤の他人ならドキドキのシチュエーションなのだろうけど、相手が自分なのでまったくドキドキもワクワクもしない。
……ん、晴人の匂いがする。
布団に鼻をくっつけてクンクンと鳴らす。ボクってこんな匂いがするんだ。可もなく不可もない匂い。でも安心する。さっそくウトウトとしてくる。
「おやすみ、晴人」
朝起きたら、今日みたいに叫ぶんだろうなと小さく笑って、ボクは目を閉じた。