プロローグ
まぶたを薄く照らす光を感じて、急速に意識が浮かび上がる。肌に触る冷たい空気にブルッと体を震わせ目を開くと、そこは一面真っ白な雪景色……なはずもなく、慣れ親しんだ布団の中だった。頭まですっぽりと被っていたらしい。毎度自分のことながら、寝ていて息苦しくないのかと呆れてしまう。
ふあ、と欠伸をして、布団の外に出ていた両手と両足を引っ込めて丸くなる。
……眠い。昨日は友人二人とボーリングにカラオケとはしゃいでしまって疲れたから早くに寝たというのに、それだけじゃ寝足りないらしい。八時間睡眠したはずの体が二度寝を欲している。だがしかし、今日は一限に講義が入っているので起きなければならない。起きないと遅刻だ。欠席だ。でも眠い。
うーん……。よし、今日は休んで寝よう。
悩んだのは一瞬。睡眠欲に負け、早々に予定を変更する。大丈夫、大丈夫。講義は全体の七十パーセント以上出席すれば、あとは学期末の試験の結果が全て。赤点さえ取らなければ単位は貰えるのだ。少しくらい休んでもどうってことはない。というわけで、おやすみなさい。
そうしてボクは再び目を閉じた。
――が、そのとき、
「お兄ちゃん! 今日は一限から講義なんでしょ? 起きないと遅刻するよ!」
甲高い声とともに、突然ドアがバタンと音を立てて大きく開かれた。それは聞き慣れた亜依莉の声。今日もわざわざボクを起こしに来てくれたらしい。我が妹ながら殊勝な心掛けだ。
妹の顔を立てるため、そして数秒後に飛んでくるであろうボディプレスをキャンセルするため、渋々起きることを余儀なくされる。十一月の朝は寒い。手探りで布団を体に巻き付けて上半身を起こす。右手で頭を掻きながら、ゆっくりと目を開いた。
……ん。なんだ。この絹糸みたいなものは。
目と鼻の先、顔の横を上から下へ流れるように、銀色に輝く極細の糸が無数に見えた。ためしに引っ張ってみたら頭がクイッと傾いた。痛い。頭皮が引っ張られている。どうやらこれはボクの髪の毛らしい。
「何これ……」
髪を見つめながらぽつりと呟き、そして驚愕する。髪を引っ張っていたボクの手が余りにも細く、小さく、白くて、呟いた声も鈴を振ったような可愛らしい女の子のものだったのだ。これが驚かずにはいられようか。
どうなってるんだ……。訳が分からず、頭が混乱する。
「あれ、お姉ちゃん? もう、またお兄ちゃんのベッドに潜り込んだの? 幾ら双子で仲がいいからって、大学二年生がそれじゃダメだと思うよ?」
腰に手を当てて、ため息混じりに言う亜依莉。
お、お姉ちゃん? 双子?
亜依莉は何を言っているんだろう。ボク達兄妹に双子なんていない。いるのは兄であるボク、加志崎晴人という男子大学生と、二つ下の高校三年生の妹、加志崎亜依莉だけだ。
朝からふざけているのだろうか。そう思ったけど、亜依莉は少しも冗談を言っている風には見えず、あくまでも自然体だった。
「それじゃ、あたしは先に学校に行くから。ちゃんと戸締まりしてね。あと、大学遅れないように!」
「あ、う、うん。いってらっしゃい」
「いってきまーす!」
ボクの様子に気付くことなく、亜依莉は手を振って玄関へと走っていった。間を置いて鉄製のドアが閉まる音が聞こえ、家の中がしんと静まりかえる。
亜依莉に振り返した手を下ろし、しばし呆然とする。いつもと同じ朝なのに、いつもとは大きく違う。その原因がボク自身にあることは明白で、とある可能性が頭にちらつくけど、それは余りにもSFチックであり、現実離れしていて、簡単に「はいそうですか」と割り切ることはできなかった。
ドアから視線を外し、何気なくクローゼットの方を向く。その扉に貼り付けられた大きな鏡を見て、ボクは再びの衝撃を受けた。
そこにはベッドの上に座って、男物のブカブカなワイシャツを着た、小柄な女の子が映っていた。
銀色の髪は背中を覆うほどの長さで、今は寝起きのせいで至る所にできた寝癖がピョンと跳ねている。大きな瞳は赤色に輝き、少し釣り目なところが少女を勝ち気そうに見せていた。肌は驚くほど真っ白で、けれど頬は僅かに朱に染まり、血色は良さそうだ。小さな唇は桜色、手足はほっそり、胸は控えめで余り育っていないけど、それでも丸みを帯びた体にくびれのある腰は間違いなくどこからどう見ても紛う事なき女の子だった。
鏡の中の女の子は口をぽかーんと開けたまま身動き一つしていなかった。それを見つめるボクも同じで、ためしにと両手を頭に持っていってみれば、彼女も同じように頭を抱えてみせた。
「まさか……これ、ボク?」
同時に彼女の口が動いた。事実を突きつけられたような気がして、ヒッと声を漏らす。逃げるように座ったまま後ずさると、コツンと足先に何かが当たった。慌てて振り返り、それを見たボクはサアッと血の気が引くのを感じた。
「な、な、なんで……」
声が震えて、うまく言葉が出ない。何度も詰まらせてから数秒かけてゴクリと喉を鳴らし、やっとのことで思い切り叫んだ。
「なんでボクがいるんだよ!?」
ボクの視線の先、そこにはいまだベッドに横になって眠り続ける男、加志崎晴人その人がいた。
嘘だ。ありえない。ボクが目の前にいるなんて。しかし二十年間毎日鏡で見続けたミディアムショートな黒髪に極々平凡なこの顔は間違いなくボク自身であり、何よりもの証として、右耳から少し後ろの首筋にはほくろが二つと、昨日ボーリングをしたせいで割れて変な形になった右手人差し指の爪の形がそっくりそのまま。この男はボク以外にありえなかった。
これはボクだ。間違いない。自分自身が目の前にいる。それはドッペルゲンガーでもなければありえないことなのかもしれないけど、よくよく考えれば、ボク自身が見知らぬ女の子なのだから、この現状はあり得るのかもしれない。
……あ、そうか。ボクが何者かに体を乗っ取られたという可能性もあるわけか。そうなると問題はどうやって体を取り返すかになるわけだけど……。っていやいや、だったらこの女の子は誰なんだって話になる。亜依莉はボクを見ても普通で、しかも「お姉ちゃん」なんて言ってたし……。
とにかく、ボクだけじゃさっぱり分からない。こうなったら目の前のボクをたたき起こして、この現状を問いただすしかない。きっとコイツなら何か知っているはず。たぶん。
「んん……」
お、グッドタイミング。ちょうど目の前のボクじゃない晴人が小さく唸って目を開けた。ゴクリと緊張から喉を鳴らし、彼の言葉を待つ。彼は焦点をボクに合わせ、その後何度か瞬きをして、再度ボクを見た。そして目を大きく開いて飛び起きた。
「だ、誰だよお前は!?」
「……へっ?」
彼は目を見開いたまま後ずさる、ほんのり顔が赤いのはきのせいだろうか。
とにかく、それは想定外の反応だった。
イラストはふみさんに描いて頂きました。