ナツナキ
第三章『ナツナキ』一
停止していた世界は、二人の鼓動と共に動き出した。
一つの祭りは超常を解決する事はなく、しかし安寧を齎した。
神を鎮め、一年先十年先にある筈の崩壊を千年万年に先延ばすものを神事という。
ならば、初めから解決など望むべくもないのだ。
神事を編み、祈りを組むのみが人に許されるのである。
人の力ならぬものを神と呼び、神も扱い切れぬものを厄災と呼ぶのなら、祈りの形を選び取れただけでも上出来なのだろう。
故に祭事とは、異常に対しての根治ではないが完治ではある。
二百年後に発症する病なのならば、百年の人間には関係なく。
次に世代の人間も次の世代の人間も、人間が滅びるまで先延ばしを行っていくだろう。
死ぬ事もなく、救われる事もなく、細々と生を享受していく。
謳歌はせず、挽歌は響かず、静謐に閉じ籠る訳でもない。
奏と双樹が行った事も、そんな延命の系譜に違い無い。
連綿と受け継がれ、粛々と繋がっていく蜘蛛の糸の様な細き生命。
累々と蓄積された、人の営みの一つであった。
「うく…うぇ、埃っぽい」
沢隠しの祭りの次の日。
奏はお堂に漏れ入るぼやけた日光と、――で目を覚ました。
「体痛いね…ふぁ。変な所で寝たせいかな」
埃塗れの床から体を起し、腕を擦る。堅い所で寝た為か体の所々が痛く、汗と埃で皮膚がベタベタしていた。
奏はワザとらしく物憂げな顔をして服に付いた埃を払う。しかし、昨日の事を思い出して、つい顔がにやけてしまう。
好きな子に告白してしまったのだ。正確には告白を再現しただけだが、結果としては告白を初めてしたのに相違なかっただろう。
「沢隠しを終わらせ、夏啼きを防いだ。そんな人知れぬ英雄も弱みがある、って?」
仕方ないので、おどけてみた。しかし、独り言を言ってみてもつまらない。
何故かと考えるまでもない。傍に誰かさんの冷たい反応も寝息もないからだ。
「双樹は帰ったのかな?それとも、外?」
奏は眠い目を擦って立ち上がり、お堂の出口へと向かった。
「うわ……結構な風だね」
立て付けの悪い扉を開くと、かなりの風が吹き込んできた。威力を持って砂利が顔に飛んでき、奏は目を細めながら境内に回った。
空は灰色で、風に砂が舞っている。かなり視界が悪く、口の中に砂も入ってくる。
不快に眉根を寄せ、腕で顔を砂から守りながら、お堂の周りを見て回る。だが、建物の周りには誰も居らず、境内を通り神社の出口へと向かった。
すると、砂を含んだ風の先、入り口付近に人影を見付けた。
「あれ、双樹かな?」
奏は人影の下へ向かう。
風は追い風となり、背中を押してくる。健康な田舎っ子の奏でも、倒れてしまいそうな強い圧力を感じた。
「おはよう、双樹。よくこんな所立ってるね。建物の中で過ごすか、先帰れば良かったのに」
奏が思った通り、人影は双樹であった。
「…双樹?」
しかし、双樹は様子がおかしかった。声を掛けても反応を示さないのだ。風は強いが、声が聞こえない程ではない筈だ。
何より双樹の後姿は現実感がなく、揺らいでいる様に感じられた。
「ねえ!双樹って」
奏は不安になり、双樹の肩に手を置いて揺する。
けれど、双樹は虚ろな目で鳥居の外を見るばかりである。
「奏…くん…奏くん…」
「双樹?」
やっと振り向いた双樹の顔は蒼白で、目に涙を溜めていた。
「どうしたの!双樹?落ち着いてよ」
双樹は誰に話しているのか分からない暗い視線が定まらない。首を振り、うわ言の様に何かを呟き、やがて膝から崩折れてしまった。
「双樹!大丈夫だから!」
「奏くん……」
奏もしゃがみ、双樹の顔を無理矢理自分に向けさせる。
掌に伝わる双樹の体温は低く、かなり長い時間ここに立ち尽くしていたと思われた。
「一体、何が有ったの?」
「奏くん…私…」
双樹は奏の腕の中で更に泣き出し、震える手で奏の服を掴む。
「私…間違った…違った…こんな筈じゃなかったの…ごめんなさい……ごめんなさい…」
「何を謝るのさ!とにかく落ち着いて!それで説明を……」
要領を得ない双樹に対し、奏の声に苛立ちが混じり始める。
けれども、奏はふと、この世界の違和感に気が付いた。
「あ……?」
耳がおかしくなった気がした。
手がどうしようもなく震え出した。
息がうまく吸えない。
頭が何も回らない。
景色の中で溺れそうになる感覚。
吐き気に近い麻痺が臍を駆け巡った。
拒否?拒絶?蒙慟?逃避?
「嘘でしょ……?」
奏も……聞いたのだ。見たのだ。
双樹が聞いたであろう間違いを。
彼女が見たであろう絶望を。
コオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ
それは、千沢町を覆い尽くす音の高鳴り。
それは、唸りを上げる鶴の啼き声。
「沢隠しは、やったじゃないか!なんで……なんであんな事になっているのさ!!」
「ご、ごめんなさい!」
「昨日ので夏啼きは起き無くなったって言ったじゃないか!」
「そ、その筈だったの」
「でも、起きてるじゃないか!」
奏は双樹の震える肩を強い力で掴み――
自分の服を掴んで泣く双樹を罵倒し――
「………何言ってるんだ、俺?」
――自分が何をしているのかと怖くなった。
「ごめん…ごめん、双樹……」
声もなく首を振る双樹の姿が、初めて年相応の女の子に見えた。
奏は自分がどれ程勝手な人間だったのか、思い知らされた気がした。
「ああ、そうだ……俺は。誰よりも双樹を恐れていて、誰よりも双樹を頼っていて、誰よりも双樹を馬鹿にしていたのかもしれない」
「……?」
双樹には自分しかいない。
なんて馬鹿げたことを考えて、それで双樹より偉い気になって。
招いたのがこの結果と、双樹一人に全部背負わせようとする獣みたいな自分だ。
「こんな…事って……あるのか」
風は、奏の後ろから吹いている。砂塵を纏い、境内を通り、千沢町の中へと吹き込んでいく。風は向かいの山に当たって二つに分かれ、盆地の淵をなぞる様に回転していく。
幽閉された風の出口は存在せず、超える飽和は中心へ吹き上がり、千沢町の中心に強大な二つの渦を作り出していた。
ゆっくりと回る砂塵の渦は、加速し、濃度を増しながら千沢を覆っていく。
砂と少量の雨を含んだ相反螺旋は、町を破壊せんと旋回する狂騒の大槌に見えた。
「…俺達は…間違えたの?」
奏の泣きそうな声も掻き消し、嘲笑う高音。
盆地全てに被さってしまう巨大な暴力。
目の前に現れた破壊の槌。
それこそがまさに、『夏啼き』の始まりの姿であった。
「なんで……双樹はあれでいいって言ったのに」
「ご…ごめんなさい!」
無意識に奏の口から出た言葉が、またも双樹を責め立て苛む。
奏はしまったと思いながらも、震えながら許しを請う双樹の姿に茫然とした。
(俺は……いったい何をやっているんだ?)
ごめんなさいと呟く唇も、怯える目も、十五歳の小さな女の子の物だった。
双樹はキツネの子。双樹は凄い奴。双樹は特別。
だって、色んな事を知っている。
だって、かなと喧嘩出来る位頭が回る。
だって、全国模試一位なのだ。
「……バカなんだね、俺」
奏は、頭の中の気色の悪い合唱を聞きながら、使い込まれた双樹の参考書を思い出した。
(俺は双樹を天才だと言って、人と違うと決めつけて、一緒に歩くなんて覚悟したつもりで、その実全部押し付けて。こんな小さな中に全部背負わせて、何をしてたんだよ)
怒りと後悔が胸の中で灼熱の鉛となる。
(双樹は努力してた。全国一位なんて凄いけど、十年間の積み重ねだって、分かっただろうに……それなのに俺は嫉妬して、その嫉妬を双樹が受けるのは当然みたいな顔をして。これじゃ、5歳の女の子を神様みたいに崇めてた村の人と同じじゃないか!)
双樹にはキツかったが、自分には甘かったかなの様子が脳裏に蘇り、嫌になる。
かなは双樹を対等と認め、自分には何も期待していなかった。
その結果があの情けない『許し』だ。それなのに自分の言葉で許してもらえた結果を拡大して、自分が双樹より凄いだなんて思えてしまった。
そもそもの始まりすら忘れて、双樹に助けられているのだという事すら思い至らず。
散々バカだバカだと言われつつも、全て聞き流していた自分の愚かさを後悔した。
「ごめん、双樹!暫く泣いててくれ」
「ソウくん?」
「その間に、俺が何とかするから!」
後悔して…でも反省する時間すら惜しんで立ち上がる。
やっとの思いで、自分の脚で立つ。
町に渦巻く暴風を睨み付け、足りない頭で打開策を探す、
「とにかく、今は町の人を避難させないと!」
「…それは無理よ」
「え?」
奏の呟きに対して、双樹が辛そうに口にした。
「たぶん、千沢の地では『夏啼き』の話は出来ないの」
「どういう事?」
「理由は分からない。そういう土地なのか、何かの力が働いてるのか。ただ、出来ないのだけは確かなの」
「なんでそんな事が分かるのさ?」
「きっと、奏くん、何回か私に夏啼きの話をしようとした事あるでしょ?」
「ああ。しようとした」
そして、その度に――
「私、聞いてなかったでしょ?」
「……ああ」
――歯痒い思いをした。
「私も奏くんに、夏啼きの話はしようとした事があるの」
「本当!?」
「本当よ。それも、何回も。でも、奏くん覚えてないでしょ?」
「…全く覚えてないよ」
「暴れ鶴の呪いとか、そんなんなのかな?事情を知ってる私達でもそんな様なんだから、町の人達に説明するのは至難の業の筈よ」
「……」
双樹の言っている事に納得した訳ではない。けれど、実感のある事柄だ。
それに加えて、奏はこの前のかなとの会話を思い出していた。
『この町が滅ぶとしたら、かあさんはどうする?』
『それが神様が決めた事なら抗わないわ』
古い伝統的な考え。奏には理解できないが、村々の人々は後生大事にしてる信条らしい。
奏は、そんな信条は下らないものだと思っていた。人を縛り、道を違えさせ、時に他人を傷付けさせる。それが伝統であり、因習であると。
逃げればいいのだ、勝手な神様等無視をして。
忘れればいいのだ、自らを殺す自縛の法など。
しかし、信条とはそれまで生きてきた自分自身や、紡がれてきた先祖代々の肯定の様をいうらしい。偉さや清さで人生を測る人達にとっては大切なことで、それを止めろと二言三言言われたくらいで手放せるのならば、それこそ自分自身の生きてきた10年、20年に意味がなかったと認める事に相違ない。
無意識に感じていた自身の肯定が消えた今なら。
自分が周りに守られていたと気付いた今なら。
そういう信条も大切なのかもしれないのだと、心の片隅で思った。
だからこそ思う。信条とは触れればどんな感情が飛び出すか分からないブラックボックスである。双樹相手なら決死の覚悟で解体を行おうとも考えられるが、それ以外の相手に行う気は到底起きなかった。
更に、何かの呪いで会話が阻害されるというのならば、説得は困難を極めるだろう。
「……時間が無い中での退避の説得が不可能に近いなら、夏啼きを止めるしかないよ」
暫し呆然と立ち尽くしていた奏だが、事に押し潰されている場合ではないと思い直す。
『青の刻、鶴が飛び立つ。光に眠り、夜を食う』という一節を思い出したのだ。
青の刻とは昼と夜との狭間。今ではない時間だ。そこに鶴が住むというならば、目の前の破壊の槌は本格的な夏啼きではなく、破壊の前の準備段階であるという事だろう。
時間があるという意味では朗報だが、これ以上の災害であるという意味では悲報であった。
「双樹、ごめん!泣いててくれって言ったけど、やっぱり俺一人じゃどうにもならないよ。泣きながらでいいから走り始めてくれ」
「奏くん……」
「いくよ!頭が回らないなら、ただ俺に着いてきてくれ。俺には双樹が必要だ」
「う……うん……」
風に煽られ、こけそうになりながらも、奏は走る。
「俺達は失敗した。夏啼きは止まってない。けど、まだ町は吹き飛んでない!」
風が強い。喋るのも辛い。けれども、奏は怒鳴るように言葉を届ける。
双樹を苦しめる自分を許す気はない。
今までの情けない行動を肯定する気など起きない。
しかし、未来へと走り出すために、過去の自分すら鼓舞して駆けていく。
「言ったよね。何事もトライアンドエラーだって。俺達は間違えた。だから、間違いを正すんだ!」
「奏くん……うわ!?」
「うく……なんなのさ、この風は」
階段を降りると、町の様子は普段と一変してしまっていた。
町には物凄い密度の空気が犇めき、息苦しい程に分厚い風が停滞していた。出歩いている者はなく、店々にはシャッターが下りていた。
町から見知った生活が消えていた。
この景色は、自分達が生み出した異常なのだと思い知ると胸が痛んだ。
けれど、奏達に苦しんでいる権利などない。悠長に苦しむ暇などない。
この時だけは、間違いに目を瞑り、後悔を噛み殺し、正解を探さす為に血眼にならなくてはならないのだから。
「どうればいい……」
けれども、奏は立ち止まるしかなかった。
街中で鳴り響く風切り音は、変わり果てた日常の悲鳴に聞こえ、無人の様相は自分の未熟に食い荒らされた平和の成れの果てに見えた。
町の状態は思った以上に致命的で、奏の手に負える範囲だと思えなかったのだ。
(こうなれば……なんだっけ?理由は分からないけど避難して貰えばいいんだっけ?)
そして困った事に、奏も双樹も呪いとやらにやられたらしく、夏啼きの事を誰かに告げるべきだという事を忘れてしまっていた。
であれば、奏の手の中にある情報だけで、現状を打破何しなければならないらしい。
しかし、それは頼りなく。
双樹の知識でこうなった以上、それに頼る訳にもいかない。
では、かなに頼るか?
無理だろう。母親始め、村の大人達は猛毒の様な信条に、手足の先まで犯されている。彼らは神様の行いとして見えるものを、異常なまでに受け入れてしまうのだ。
守上沙羅がキツネに攫われた時も、『仕方ない』の一言で全員が諦めたと聞く。
今回だって、町を破壊する鶴を前に抵抗なんてするだろうか?
神話では、暴れ鶴に対して困り、キツネに相談したという。
けれど、それはきっと脚色だ。
村人はきっとキツネに祈る程度の事しかせず、キツネはキツネで鶴が邪魔だったのだろう。
その結果、キツネが鶴に勝ち、村は強きキツネに守られているという事を言いたいのだろう。
ならば、奏もキツネに祈り、助けてくれることを待つべきだろうか?
それとも、鶴に祈り、怒りを鎮めるために生贄でも捧げようか?
「ふざけないでよ……失望させないでよ、俺」
奏は渦巻く風を見上げ、強く拳を握った。
「そうだ……持って帰ってきた本がある!」
奏のバックの中には、双樹の家から拝借した本が入っている。これを見直せば、現状を打破するヒントの様な情報が得られるかもしれない。
しかし、たかが本一冊。これだけで街一つを覆う怪物を消してしまえるとは思えなかった。
ならばどうするか?
「双樹!千鶴沢に行こう!」
「え?千鶴沢?」
「行けば、何か分かるかも知れない!というか、俺達の手持ちの情報ではどうしようもない!」
「でも、時間がないわ!」
奏は提案したが、双樹も正しい。
千沢町から千鶴沢までは4時間弱かかる。往復しなければならないのならば、8時間近く使うことになる。今この状況では、失敗できない選択となる。
「きっと、まだ間に合う!『青の刻』に鶴が飛び立つ筈なんだ。だから多分…まだ…分からないけど、何とかできる方法があるかもしれないなら、俺はそれを選びたい」
「そうね…そうよ。まだ、これは本番じゃない。風はどう見てもこれ以上に加速する。それは防がないと。私達の責任だもの」
奏が必死の必死さが幸いしたのか、双樹の顔から泣き顔が消えた。
「行きましょ。賭けを躊躇って、時間を浪費する訳にはいかないわ」
「……分かった。一刻も早く千鶴沢に行こう。話はそれからだよ」
奏は双樹の手を強く握り、震える足を見ない振りした。
「行こう、ソウくん」
「ああ、ソウちゃん」
双樹は奏の手をそっと離し、在りし日の様に不敵に笑って見せた。
千沢町からバスに乗り、千沢町の盆地を抜ける。
すると、風の濃度は一気に減り、嘘の様に山々は平静を保っていた。
「本当に超常現象なんだね」
奏は窓の外を見て、一人呟く。
後ろを振り返れば千沢の牢獄に捕まった黄色い風が立ち上るのが見えた。息を吸うだけで口喉や肺を傷付けるあの毒は、同時にいつか爆発する火薬でもある。
あの風をどうにかするには、爆発に繋がる導火線を切るか、閉じ込めている檻を壊して風を逃がせばいいのだろう。それは分かるのだが、その手段が全く思い付かなかった。
爆弾でも持ってきて盆地を囲う山でも取り除けば、風が逃げてくれるのだろうか?そんな荒唐無稽な想像をした時は、逆に規模の大きさを感じて血の気が引いたものだ。
正直、奏も諦めて、神様に祈りたい気持ちにすらなっていた。
「まあ、俺の神様は双樹だった訳だけど。本当、情けない精神状態だったんだね」
その双樹は奏の隣に座り、熱心にノートに何かを書き込んでいた。何を考えているのかは分からないが、話し掛けて邪魔するべきではない雰囲気である。
(いつもの俺なら、ここで双樹に任せてぼけっとしてたんだろうね。神様仏様双樹様、祈って上げるから俺を助けさせてあげますよって)
奏は少し前までの自分を恥じ、鞄からノートを取り出す。
そして、おもむろに地図を描き始めた。
その地図は、昔のこの辺りの地図だった。奏はその地図の中に小さな点を書いていく。
その点は、雨娘の出現した場所だった。
何か宛があっての行動ではなかったが、夏啼きという異常の解明に取り組むにあたり、明らかな異常である雨娘に付いて考えぬ訳にもいくまいと思った訳だ。
「いや、だからどうだって話だけど」
奏は点の入った地図を眺めて唸る。
千沢町の北の方に多い……気はするのだが、接触回数が少な過ぎて、発生の法則を見付けようにも材料が足りない。しかも、いつも接触後に記憶が曖昧になるので、位置関係もはっきりしないときた。
この記憶への干渉も千沢町の呪いなのだろうか?
本当に、厄介な土地だと、頭が痛くなる。
「ん?そういえば、雨娘に会ったのって、千沢町の中だけじゃないよね」
講習に行くバスの中で、双樹と一緒に一度会ったのだ。
山道の中なので、地図で見てもどの辺りなのかは分からない。話をしていたので、どれくらいバスで走った場所なのかも確定できない。
けれど、奏は試しにバスが千沢町の北に接近しそうな場所に順繰りに点を打っていった。
ここでもない、ここでもないと試していく中で、幾つかそれっぽい場所に目途を付けた。
「ここ……ここだったら、出現ポイントが円形になる」
そして、バスが曲がりくねる道を通って、かなり千沢町に近付く場所に点を打った時、どうにもその点が正しい位置の気分になった。
確証は全くない。一週間くらい毎日乗っているバスだが、正味どこをどう走っているのかなんて興味もなかったし、双樹と話し込んでいる事が多くて風景だって見てなかった。
ただ、山の稜線と樹茨町までの時間を考えると可能性は十分にある点だった。
「仮に雨娘がバスに出現した場所がギリギリ現れる事が出来る場所だったとすると、この点が最端である筈だ。千沢町の出現ポイントの南、南西、南東とすると、円はこうなる……」
奏は地図の中に三つの円を描き、更に三つ四つ足していく。
其々の円の中心点は山の中に行くのだが、その中で一つだけ海に置かれたものがあった。
「海……いや、海じゃなくて、海岸線かな?」
千沢町の北に広がる森を、北東に抜けた先に置かれた中心点。海と森との境に存在するその点が、どうにも特別な意味を持っている気がした。
しかし、千沢町の北に広がる森とは、『迷い茨の森』の事である。然したる確信もなく、迷い茨の森に入り、何があるのか分からない海岸線を探すというのは到実的ではなかった。
そもそも異常、異常と考えているが、雨娘とは何なのだろうか?
口を持たず、目を持たず、耳もない妖怪。
双樹はそう言っていた。しかし、雨娘には目が有ったし、声も出していた。話を聞いている素振りはなかったが、もしかしたら奏の声も聞こえていたかもしれない。
「……でも。喋った時は殆どないよね。そうだ、しっかり喋ったのは一回だけで、それは双樹が近くに居た時だ……声だって双樹に似てた」
あの声は双樹の声を借りていたのか?
……でも、なんで双樹なのか?
いや、双樹が特殊なのは知っている。
キツネの子。森神様の血を引く娘。
キツネや神だから、雨娘も喋れる様にするし、凄い力で夏啼きをどうにかできるのか?
「いや、双樹は人間だし……凄い事したことないし」
いや、全国模試一位とか十分凄いけど。
でも、双樹が本当に妖怪チックに凄いのならば、雨娘は双樹に直接言えばいいのだ。それで全部解決するのだろう。
しかし、双樹は雨娘に会ったのは奏と一緒に見た一回だけだと言う。雨娘が双樹の前には姿を現さず、奏の前ばかり姿を現したらしいのだ。何故だろうか?いや、それとも双樹を含めて多くの人の前に姿を現しているのだが、皆には視認されなかったという事だろうか?
それだと自分が特別だという事になる。それはない。特別なのは双樹の……
「ダメだ…何情けないこと考えてるんだよ。止めてくれよ、俺」
さっき捨て去った筈の双樹への甘えが、知らぬ間に表面に浮き出てくる。
奏はこれ以上考えるのは無理だと判断し、ノートに『雨娘?』と書いて次の疑問に移る。
「迷い茨の森だって変だよ。森田さんも、康平も帰ってこなかった。一緒に入った人が、姿が見える数メートル先に確かに居たのに、瞬きの間に消えてしまったという人もいた。あの森は、本当に変なんだ」
ならば尚の事、奏と双樹が迷い茨の森を抜けられたことはおかしくなる。
奏はあの日、千沢町から大木へ行き、大木から千沢町へ戻ってきた。
迷い茨の森のルールに照らし合わせるなら、奏は一度それらの道を通ったことになる。しかし、そんな記憶は全くないのだ。
まあ、帰りは双樹と一緒だったので、双樹が一度道を通っていた可能性もあるのだが、行きは確実に奏一人だった。
「いや、違う。行きはおかしなことが起きた……行きは、雨娘と一緒だったんだよ」
そして、そこまで思い出して、もう一つの不可思議に思い至る。
「あの日の敦賀神社の風景。あれは『現在の敦賀神社』じゃなかった。かといって過去に跳んだって感じでもなかったし……そうだね、誰かの記憶だった気がする。雨娘が荒唐無稽に作り出したものというより、誰かの思考の混ざった流用品だったんだよ」
誰の記憶なのか?それだけは、疑問を差し挟むまでもなく確からしさを持っていた。
「雨娘は双樹の声を使っていた。なら、双樹の記憶を使う事もできるかも?つまり、雨娘は双樹の声というより、記憶を使って会話をしようとしてたんじゃないかな?その影響で俺は双樹の記憶と自分の記憶が混線して、嵐の夜の記憶を持ってたのかもしれない。経験していない筈のあの出来事の記憶を」
そして、双樹が『ソウ』と嵐の夜を越えた記憶があるとすれば、それは……
「ねえ、双樹。質問があるんだけど」
奏は顔を上げて、双樹に問いかけた。
しかし、反応はない。
「あ~……参ったな」
双樹は集中していて、人の話を聞かないモードになっていた。この状態になってしまっては、無遠慮に眺めようが、スカートの裾を摘まもうが気付かない。
多少強引に強引にアプローチすれば気付いてくれるだろうが、ただの確認事項で双樹の思考を邪魔する訳にはいかなかった。
何より真剣に考え込む双樹の横顔はとても綺麗で、つい頬っぺたを圧したくなるのだ。それをしてしまうと滅茶苦茶怒られた挙句、丸一日口を効いて貰えなくなるのである。
そんな不和を起こしてしまっては、テスト終わりの見直し中ならまだしも、今日に限っては致命傷になりかねない。
「よ、よし!双樹に質問する前に、もうちょっと煮詰めよう!」
奏は無意識に動いていた右指を引っ込め、ワザとらしく考え込む。
ノートの端に『双樹、千沢と大木を往復?』と書き、次の疑問へ没頭していった。
「くっそう…時間がないのに」
樹茨町に到着した奏は、千鶴沢方面に行くバスの中で苛立っていた。
千沢町ではあれ程強かった風も嘘の様に弱く、樹茨町も平和だった。台風が近付いている喧騒こそあるが、町が崩壊しそうな雰囲気など微塵も感じられなかった。
しかし、問題が一つあった。台風の影響でバスが減らされ、連絡待ち状態になっていたのだ。
「くそ…どうしたらいいのさ…」
「いいから、静かにしててよ」
奏は途方に暮れ、ただ焦燥感に苛まれる。他方、隣に座る双樹は、バス停近くのビルの壁の巨大なテレビ画面を食い入るように見ていた。
テレビではニュースキャスターが台風情報を読んでいた。何でも今夜、千沢町の辺りに最接近するらしい。
画面に映された現在の時間は十一時前。青の刻が夏啼きのタイムリミットだとすると、後九時間もないと言えた。千鶴沢まで行くとやはり時間は厳しい。が、このまま千沢町に戻った所で打つ手はないのだから、この行軍は仕方がないといえるだろう。
そんな時間のない中で、奏はただ時間を空費し、双樹は貪欲に思索の助けを探している。
(やっぱ、俺って駄目だな)
奏は落ち着いてみると、溜息を吐くしかなかった。動かなければとバタバタするが、その間はいつも思考停止している。双樹を引っ張っていく様な素振りを見せたって、結局は彼女の後ろを着いていくしかないのだ。
『大変ながらくお待たせしました。発車致します』
「やっとだね」
「やっとね」
気分が落ち込みかけたその時車内にアナウンスが流れ、寸での所で持ち堪えた。
エンジンの振動が車体の下から聞こえ、景色が後方に流れていく。
双樹はニュースから目を離し、鞄の中からノートとペンを取り出した。
「ところで、奏くん、さっきバスを降りて、どこに行ってたの?」
「コンビニに朝飯の買い出しと、京成に電話をしてたんだよ」
「電話?繋がった?」
「一応。夏啼きの事とか、皆を連れて避難して欲しい事とか、出来る限りは伝えたよ」
「出来る限り……」
「電波が悪かったらしい……塾の電話と京成の家の電話だから、どっちも固定なんだけどね」
「……相場くんを信じましょう。私達は私達のすべきことをしましょう」
「そうだね。ところで、双樹は、ツナマヨとエビマヨ、どっちがいい?」
「なんで、同じ様なおにぎり買ってくるのよ?」
「な!どっちも全くの別物じゃないか!」
「え?何その熱量。奏くんおにぎり好きなの?」
「そりゃそうさ。嫌いな訳ないじゃないか」
「むぅ……なんか気に入らない」
「どういう事さ?」
「エビマヨ貰うわ……とにかく作戦会議をしましょう。ちょっとだけ落ち着いたから」
「いや、双樹はエビマヨとツナマヨの違いについて知るべきだよ」
「何のこだわりよ!いいから、真面目にやってよ」
「了解、この時間は有効に使おう」
動き出すバスの中、奏は不機嫌になる手前で逃亡する。
真面目な顔で座り直し、様々な事が書き込まれた双樹のノートを覗き込んだ。
「そもそもおかしな事は、少し前からあったのよ」
「おかしなこと?」
「覚えてる、奏くん?千沢町は、朝霧が出てたわ」
「それがおかしいの?」
「盆地っていうのは、水分を含んだ風が、山を越えるまでに水を全部吐き出すから、霧なんて出ないのよ」
「空っ風と同じ原理だね」
「つまり、千沢町には、何らかの理由で、山を越えない風が吹き込んでいるのよ。それも大量に水を含んだ潮風が」
「潮風か……」
思い出す。錆び付いた印象の敦賀神社。
そう。敦賀神社の風は、微かに潮の香りがしたのだ。
「吹き込み口は、敦賀神社じゃないかな?」
「私もそう思うわ。あの神社、なんか磯臭いし」
「そんなに眉を顰める程かな?」
「あれはかなりのモノよ」
「そうなのか……?」
「昨日も、それで目が覚めたもの。奏くん、鼻大丈夫?」
「双樹の匂いしか覚えてないよ」
「ふぉ……いや、ダメよ。ダメよ!奏くんは直ぐに真面目な話から逸れるんだから…」
双樹はブツブツと呪詛の様なモノを唱えながら、下を向いてしまった。奏の意図に従って論点がズレルのを防ぐ為らしかったが、結果的に話が止まるので同じではないだろうか?
まあ、つまり北の敦賀神社から、海のある南の方に噴き出している訳だ。
「どういう原理かは分からないけど、海の風が森を抜けて千沢町に吹き込んでいるんだね?」
「そう。だから、朝の風は序の口よ。きっと、夜になったらもっと風が吹くのよ」
「夜になったら風が吹く……海風?」
千沢町の山を南に越えた所には海がある。
だから、双樹は昼夜の寒暖で、風が変化すると言いたいのだろう。
「ん?待って。夜になったら、強く吹くのは陸風でしょ?陸から海に、風は流れる筈だよ。なら、夜になったら、風はマシになるんじゃないの?」
「それは地表付近の話よ。山の高さになると、陸風反流って言って、流れが逆になるの。ほら、対流の上の部分がこっちに来るのよ」
「ああ。成るほど」
「敦賀神社から千沢町に噴出する風は、下手をすれば時速二、三十キロになるでしょうね」
「時速二、三十キロ?そりゃぁ…結構な風だね」
「真面目に聞きなさいよ」
「真面目だよ」
奏の気の抜けた声に、双樹はやっぱりそうくるかと不機嫌になった。
しかし、奏は別にふざけている訳ではない。時速二、三十キロといえば確かに暴風だが、破壊的な物ではない。風で町が破壊されると思っていた時に出てきた現実的な数字に、緊張が途切れたって仕方ないだろう。
だが、続く双樹の説明には戦慄するしかなかった。
「その風は敦賀神社から吹き出すんだから、『北から南へ吹く』のよ」
「海からの風が、森を通って真反対から吹くのか……ん?それはヤバくない?台風って『西から東に吹く』んじゃなかったっけ?」
「そう。だから時速三十キロ同士の間逆の風が掠める様にすれ違うの」
「すれ違うと…どうなるのさ?」
「強い風がすれ違って出会う時、生まれるのは強いダウンバーストよ。雑な言い方をすれば超ド級。体感風速60キロの巨大な竜巻が発生する。それがきっと『夏啼き』なのよ」
「そ…そんな…事って有るのかよ」
千沢町に渦巻いていた二つの竜巻を爆発させる導火線は、その超ド級の竜巻なのか。
たしかに文献には青の刻が、刻限だと書いていた。その時刻に風が凪ぎ、反転するのだとすれば、嫌な事に符号は一致する。
「今回ばかりは、双樹の計算ミスとか大歓迎するよ?」
「私だってそうよ。でも、別に間違う程も難問でもないから……止めて欲しいわ」
双樹は、辛そうに目を伏せた。そんな双樹の落胆を隣に感じ、奏は歯を食い縛った。
止めなくてはならない、そんな惨劇は。
――止められなくても、その罪を双樹一人に背負わせることだけはしてはならない。
「全速全身、勇猛邁進。やるしかないんだね」
「それも即断即決速攻即座に、よ」
だから覚悟を決めるしかなく。二人は見えない壁をキッと睨み付けた。
バスは風の中をゆっくりと進み、人の領域から自然の支配する山へと入っていくのだった。
「も~!しっかりして!」
「ぜぇ…ぜぇ…ちょ…たんま…」
怒りながらも本を掻き集める双樹を横目に、奏は息絶え絶えで床に這い蹲っていた。
…………彼らは忘れていたのだ。台風が接近し、雨降る中で、山道を進んで千鶴沢へ行くのがどれほど過酷なのかを。
「休んでないで、調べるわよ!!」
「分かった…俺は情報…を纏める。双樹は……調べててくれ…」
奏の時計は前から壊れているし、双樹の時計も山道の途中で動きがおかしくなってしまったので、どれだけの時間を使ってしまったのかは分からない。だが、あの行軍でかなりの時間を浪費してしまったのは確かだ。急いで解決策を見付けないといけなかったのだが、そんな中、奏は全く動けなくなっていた。
奏は、雨でぬかるんだ道を固めながら進んだり、風に揺らぐ枝の衝突を防いだり、双樹の雨避け風除けとなって山道を進んだため、双樹より体力消費が激しかったのだ。
森を抜け、村の道を進んでいる間は足を動かせたのだが、祇蔵の家の書斎に辿り着いた瞬間に気力の糸が切れ、倒れ伏してしまったのだ。
で、休息を欲して口以外がストライキをしてしまった奏は、仕方がないので口を動かす事にした訳である。
「まず『沢隠し』。文献に拠ると『千鶴沢→樹茨町→千沢町』に敦賀神社の鈴を移す事だよね。その『沢隠し』に拠って、千鶴沢で起こっていた『夏啼き』は千沢町で起こる様になった」
双樹は、聞いているのか聞いていないのか分からない感じで文献を読み漁っているが、特に奏の思考整理を止める様子はない。
「これは本当に起こる場所が変わっている訳ではない、というのが俺達の意見。『移る』のが本当だったら、この二十年で千沢町か千鶴沢どっちかで被害が出てる筈だけど、その感じはなかった。とにかく言えるのは、実際に『夏啼き』が起こっているのが千沢町である事」
奏達が到着した千鶴沢では『夏啼き』の兆候はなかった。ただどこかの山の向こうから微かに鶴の鳴き声が聞こる気がするだけだ。
「雨娘曰く、今回『夏啼き』が起こるのは、俺と双樹のせいらしい。千沢町には千鶴沢出身は他にも沢山居るし、直接沢隠しに関わった人だって居る。俺と双樹が他の人と違う事ってのは一つだけ。十年前に『沢隠し』を『二人』でやった事だね。
一つの解決策として、俺と双樹は先日『沢隠し』を行った。『千鶴沢→樹茨町→千沢町』と鈴を運び、千沢町の敦賀神社に鈴を奉納した。これは間違いない祭りの作法だよね?」
「文献に載っている限りはこれで正しいし、ママに聞いても一緒の事を答えてくれた。他の千鶴沢出身に聞いても同じよ」
「なら、間違いないとしよう」
ならば、やっぱり問題点は一つ。
「十年前に俺と双樹がやった『沢隠し』に間違いが有ったと考えられる」
「…そうよね」
「沢隠しの正しい記述の確認、夏啼きに関する詳しい資料の発見、妖怪の対しての対処法の抽出、その他諸々見付けなきゃいけない。なんだったら、千沢町で『夏啼き』に付いて話せない呪いの解呪の仕方でもいい。何か……もしくは複数を見付けないとダメなんだけど……やっぱり十年前に何が有ったのかも明らかにしないとマズいよね」
「もう一回千鶴沢にくれば、十年前に何が有ったのかを思い出すかな、なんて甘い考えもあったけど…甘かったわ。全く思い出せないわ」
「少しは覚えててよ…」
「奏くんはどれくらい覚えてるの?」
「告白したことは一言一句間違えずに覚えててるよ。それ以外は全く」
「………使えないわね」
「辛辣だね!」
双樹は文献を漁る手は止めないが、溜息を吐き、意識を奏へと向けた。
虚ろな過去と見知らぬ過去を同時に繋ぎ合わせる。
時間のない中で同時に行うのはかなりの難行といえるだろうが、それをせねばならないのだから、やるしかない。
「あの日は双樹が引越しをして、遠くの町に行ってしまう前の日だったよね」
「そうね。間違いないわ」
「俺も双樹もそれが嫌で、『何か特別な事をしよう』という話になったっけ?」
「そう。それで『沢隠し』をしよう、って話になった」
「沢隠しって名前とか覚えてなかったけどね。名前言ってたっけ?当時」
「大人がやってる『お祭り』しようとか言ってた気がする。その日に沢隠しやってたから」
双樹は本を一冊床から拾った。
「当時参考にしたのは、この本だったと思う」
「要するに俺達は説明書通りの事はした訳だ………いや、した筈なんだね」
奏はん~…と頭を掻き、本をパラパラと捲った。
「当時見たのが本当にこの本かも分からない気がしてきた」
「それ言われると、も辛いわ。記憶は思った以上に曖昧で、補正に引っ張られるわね」
言いながら、双樹は別の本を幾つか持ってくる。
「…そういえば、私達が本に書かれている通りに『沢隠し』をしたとすると、変な事が在るんだけれど」
「おかしな事って?」
「『私達があの木の所に居た』事に決まっているじゃない。明らかに説明書通りにやってないでしょ。何処をどう行ったら、あんな所に行くのよ?」
「…………………………あ」
言われた瞬間、奏は金槌で殴られた様な感覚に陥った。
「……でも、なんでだろ?」
「ん~~~~~~~~~」
けれど、気付いただけでは、どうという事もない。
「え?俺達は端から方法を間違えてたの?」
「でも、間違った方法なら、おかしいでしょ?『私達は沢隠しをしていない』事になる」
「だよね」
「まず『沢隠し』は、ここ何十年かでやってない時期もあったのよ。それでも『夏啼き』は起きなかった。十年前は千鶴沢がなくなるから、記念でやった様な物。それも関係ないんでしょ?でも、『私達の沢隠し』では『夏啼き』が起きる様になった」
「同じ年に二回やったのがいけないのかな?なら、もう一個鈴を千鶴沢から千沢町にもっていけばいいんじゃない?」
「私達が今年鈴を持って行ったのは、あくまで私達の沢隠しが不自然だったからよ。大人達がやった方は、正しい手順で完成してる筈だから、それでは解決しないわ」
「たしかにね」
「それに、大人達を含めて全体的な沢隠しが間違っていたのなら、雨娘は私達『二人のせい』なんて言わないでしょ」
「全員のせいって言うよね。表現の差異とは言えない程の違いがあるし、本格的に俺達二人の『沢隠し』のみに焦点を当てないといけないか」
「一応考えられるのは、私達が結果的に『沢隠し』じゃない事をしたって事ね。滅茶苦茶にやった為に、『別の儀式として作用した』って事」
「要するに『沢隠しモドキ』のつもりが『夏啼きを呼び寄せる祭り』をしたって事だね」
「そう」
「でもそれだと、文献に載ってる筈だしね」
少し方法を間違うだけで別な物になってしまう儀式なら、文献には『何をするな』という禁忌が書いてある筈だ。しかし、どの文献にもタブーは書いていないので、そう簡単に『バグ』を行えるものではないと思われる。
「うん、そう。だから逆の発想としては、『沢隠しが夏啼きを発生させる物であるという事』はないかしら?沢隠しは夏啼きの場所を変えるのではなく、元々呼び寄せる儀式であった」
「それは……ありえるね」
つまり、そもそも沢隠しをしなければ夏啼きは起きないと言いたいらしい。
「でもそれだと、どうしようもないから保留にしよう。だって俺達が本当に『沢隠し』をしたかが怪しくなって来てるんだから」
双樹の案だと先程の注意書きと同じく儀式へのカウンターパートが在る筈だが、なら雨娘が『再開しろ』と言いに来た理由がやっぱりない。
だから、『何であの木が思い出の場所に行った』かを考えなくてはならないのだろう。
「あの木よね。千沢町の敦賀神社奥の森、『迷い茨の森』を抜けた先にある『木』。単純に考えたら、沢隠しが終わった後に行った訳だけど、何で私達あそこ行ったの?」
「…いや、思い出せない」
「……よね」
奏に関しては、『告白』した記憶が強過ぎて前後の事を覚えていないし、双樹に至っては『告白』された事すら覚えてなかったのだから。
「ん~~~~」
「う~~~ん…」
分からない……完全に行き詰った。
記憶の欠片はバラバラで、色も褪せ、ピースの形まで目茶目茶。輪郭があやふやで、完成する絵さえも確かではないと来た。
奏の胸に汚い風が吹き込み、砂利の様な焦燥感が去来する。
進展したと思ったら、実は足踏みをしてるだけでした。
そんな自分達の現状に目頭が熱くなってくる。
「……ああ、くそ」
どうしようもない。手の施しようがない。
ふと、奏は一生懸命文献に『禁忌』が載っていないか探す双樹の横顔を盗み見た。
綺麗で、かわいくて、愛おしい女の子。自分とは住む世界が違うとまで言える凄い娘。十年前に別れて、二度と会えないと思っていたのに奇跡的に再会できた。
いや、奇跡というか、単に双樹の両親が引っ越しを決めただけの事なので、文学的な確率に感謝する必要はないのだが。それでも自分の与り知らぬ所で幸運が起き、考えられなかったような毛㏍が訪れたのだから、そこに何らかの意思が働いたと思いたい。
そして再会した双樹は、自分なんかを好きでいてくれるらしい。
――十分なのではないだろうか?
二人でただ罪を背負って生きていけたら。
責任を果たさず、罰を受けず、贖わぬ傷を舐め合って過ごしていく。
千沢町に帰らず、事件も迷宮に放り込んで、ただ夏啼きをやり過ごせばいいのではないか?
双樹は苦しむだろうし、自分だって潰れてしまうだろう。
だが、それでも命さえあれば人としての形は保てるんじゃないだろうか?
そんな思いさえ生まれてしまった。
「情けなくなってきた……」
双樹に気付かれぬように呟くと、奏は双樹の腕に目線を移した。
この前見せて貰った時、双樹の腕には木の枝で裂いたような傷が残っていた。
つい目を逸らせてしまった事実だが、奏の記憶によればそれは奏にあるべき傷だった。
暗い森で双樹の手を引き、ナイトよろしく彼女を守った時に付いた名誉の傷。
「……」
だから、それは異常。
奏も双樹も気付いているのに、何故かまともに認識できない差異項目。
千沢町で『夏啼き』の話をできないのとは別種の禁則に感じられた。
(……やらない訳にはいかないよね。何が飛び出してくるのか、本当に怖いけど)
「双樹、あのさ…」
「ん?何か思い付いた?」
「特にそういう訳じゃないんだけど、暗くて怖い森の中、二人で進んでた記憶。あれは何なんだろうね?」
奏が何度目かになる言葉を紡ぎ出すと、双樹も何度目かになる嬉しそうな顔を見せた。
「私も覚えてる。寒くて泣きそうな森の中、奏くんが私の手を引いてくれてたね」
ゲームのキャラの様に『初めから』の答えをする双樹。
(いくらなんでも、この部分だけプロテクトが強すぎるよね?)
特に双樹の認識がおかしい。
一体何が双樹の認知を阻害しているのか?
誰が何の意図をもって、こんな齟齬を生み出しているのか?
意図は分からないが、『誰が』の部分は何となく分かっている。
まずここは千鶴沢であり、千沢町ではない。だから、地面の下の大鶴の不思議な力のせいでこうなっている訳ではないだろう。そして、一応キツネの子らしい双樹にそんな呪いじみた事をするには、双樹との接触が必要な筈だ。更に、その記憶を阻害するのならば、その記憶に関わっているモノであると思われる。
「単純に並べていけば、犯人は考えるまでもない……でもなんでなんだ?」
彼女は双樹が居た方が、普段より遥かにコミュニケーションを取れるらしい。けれど、それを凄く嫌がる。
それは、何故だろう?
双樹の事が嫌いになったのだろうか?
いや、雰囲気的にそれは違う。ならば、双樹が好きだからか?
彼女は確かに記憶の中で凄く喜んでいた。
しかし、それは子供の時の双樹との思い出だ。
大人になった双樹は、自分と触れてどういった反応をするのだろうか?
昔と変わらず接するのだろうか?
それとも妖怪は恐ろしいと毛嫌いするだろうか?
コミュニケーションの取れない彼女は、そんな風に怯え、昔生まれた喜びの感情が壊れてしまう事を恐れているのではないだろうか。
(つまりは、人間みたいな反応してるんだね。人間の双樹が、『自分』に気付いた時、子供の時と同じように接してくれるか分からない。もしかしたら、化け物と罵られて石を投げつけられるかもしれない。だから、俺だけに接触して事を済まそうと思った)
そう言う理由だろうか?まあ、奏に観測できる事実はそこまで多くないので、今はこれ以上の結論はでないだろう。
だから、このままの理解で作業に移らねばならない。
奏は爆弾部分に触れない様に、慎重に言葉を進めていった。
「怪我してるの、俺じゃなくて双樹だよ?」
奏が当たり前の事を口にすると、双樹は初めて気が付いたかのようにハッとした。
「え?逆だったってこと?」
「……一応聞くけど、逆って?」
「私が勇敢に奏くんの手を引いて森を抜けて、奏くんは私に手を引かれて泣いてた……」
「な、訳ないよね!さすがにね!さすがにね?」
「ない……のかな?」
「心配そうな顔止めよう!さすがにそれはないとして、話を進めよう」
「……う、うん」
「そこ!返事は『はい』」
「は、はい!」
鬼軍曹よろしい奏のはしゃぎっぷりに驚き、双樹が背筋を正した。奏はふざけ過ぎたかと咳払いをすると、真剣な顔をして続けた。
そして、間違えない様に、違えない様に患部を切開していく。
「双樹はあの時、あの森で、誰と歩いてたの?」
「へ?」
双樹は、なんというか、取り返しの付かない顔を作った。聞いてはならなかったことを聞いてしまったからか、奏の視界が僅かにブレる。
邪魔をするなと歯を食い縛り、奏は引き下がらずに言葉を続ける。
「もっと聞くよ?双樹は千沢町から大木の所に行ったことが有るよね。双樹は十年前、夕暮れ時。森に……迷い茨の森に入る前に、神社で誰かが泣いているのを見付けた。ソレは誰?ソレはなんで泣いていたの?」
奏は書斎の奥の方を見詰め、問い詰めるように聞いた。
「……なんで知ってるの?」
双樹の声が震え出す。
「……あれは誰?」
双樹は肩を抱き、本を落とした。
震え方が異常だった。痙攣に近い病的な機能不全。若しくは霊的なものに呪われて息の根を止められそうになっているみたいに見えて心配になる。
それでも、奏は言葉を止めず、暗い書斎の奥を見詰め続ける。
いや、そこに居るであろうモノに、強く言葉を浴びせ掛けた。
「考えなくても分かるよ。だって、ずっとこっちを見てる」
「いない……誰もいないもん!」
「雨娘。彼女は口を持たない。だから、双樹の声を使って話していた。いや、もっと正確に言うと双樹の『記憶』を使って話してたんだ。最初に雨娘と会った時、あの子は確かにそういう事をしていた」
尤もあれは最後の力を振り絞った結果で、それ以降の雨娘は満足に意図を伝える事すら出来ていない様だったが。
雨娘が双樹に話し掛けず、奏にばかり接触を試みた理由。勿論、双樹の記憶を使って双樹に話しかけた所で意思疎通にならないというのもあっただろうが、雨娘は嵐の夜の正確な記憶を双樹に明確化させることを嫌がっていたように思えた。
「神社の記憶は、その時に見せられたんだよ」
奏は双樹の肩に手を置く。
もう書斎の奥に雨娘の気配はなく、双樹も落ち着いた様子だった。
「……そういえば小さい時、私あの子に会ってる。何回も」
双樹は奏の手を握り、顔を上げた。
「あの子、私を『ソウくん』って呼ぶのよ。だから私は『ソウちゃん』って呼び返してた」
「……そう」
奏は呟き、逸る動悸を整えた。
「少し、見えてきた気がする」
奏が思い出すのは、迷い茨の森のルール。伝わる四つの但し書き。
「双樹、森のルール覚えてる?」
「この前言ってた、迷い茨の森の?」
「そう。双樹は十年前、キツネ…というか、妖怪と一緒だったから、森を通れたんだよ。で、その時一回通ったから、俺と再会した日にも通れた」
「そう…なのかも…」
「そして、それが夏啼きの原因じゃないかな」
「え?」
奏は言って、悔しそう目を伏せた。
双樹と雨娘は仲が良かった。そこから何かが間違って、今回の大惨事に繋がってしまった。
だから、雨娘は奏にだけ罪を思い出させ、物事を解決しようとしていた。
バスの中で奏と接触した時に傍に双樹が居たのは事故というか、雨娘はまともな目を持たないので双樹の存在に気付いていなかったからではないだろうか?
そして、そうなれば、その罪とはこれだろうと、奏は考えた。
「双樹が嵐の夜に雨娘と森を通って、森が開いたんだよ。風が迷う筈の道が開いてしまって、迷わせる機能を失った。だから、千沢町に風が吹き込むようになってしまったんだよ」
「へ?」
奏が結論を出すと、双樹がグラリと揺れた気がした。
「そんな……私のせいで夏啼きが起きるの?どうすればいいの!?」
双樹はさっきとは違う恐怖で震え出し、幽鬼の様な顔で奏の服を掴んだ。
「落ち着いて!双樹を責める訳ないじゃないか!」
「だって!」
「森を閉じるんだよ。そうすれば、夏啼きは止まるさ!」
「森を閉じる?どうやって!」
「わ、分かんないけど」
「分からない?じゃあ、どうするの!」
「分かんないって!」
「きゃっ!」
奏は怒鳴り、気が付いたら双樹を払っていた。
「あ……」
双樹の悲鳴で我に返り、自身の払った手に驚く。
「……ごめん、双樹」
「……うん」
「落ち着いた?双樹」
「落ち着いてられないわよ!」
「っ!?」
「私のせいで…そんな……」
「待って!本当にそうだって決まった訳じゃないしさ」
「だって、奏くんがそう言うんだもん!」
「い、今までだって『俺達のせい』って事だったし、責任的には変わらないでしょ?」
「奏くんに言われるのと、別の人に言われるのは違うもん!」
「そ、双樹!本を投げるなよ!」
「だって~…」
最悪だった。頼りの双樹は子供の様に取り乱すし、奏の頭は双樹を落ち着かせることが自分の仕事!とでもいう様に動き、それ以外の思考を放棄してしまっていた。
気持ちは滅茶苦茶、頭はグチャグチャ、責任感など心の隅に追いやられた。
苦しみを伴う一個人としての尊厳よりも、
痛みを生み出す人間としての使命よりも、
一人の子供としての逃避を選んでしまいそうだった。
構築は空転直下に無為と成り、
論理は天動驚地に無駄に成り、
思考は空蝉空回り無益と成る。
意識は泣き喚き、責任の所在ばかりを探し始めた。
シャリ―――――ン
「ん?」
それでも、
『いい加減にしろよ、俺!』
と、奏が僅かに自責を過らせた時、奏のポケットから何かが零れ落ちた。
それは祭りの出店で売っていた『狐鈴』と名が付いた小さな鈴だった。
「やばい…金払わず持ってきちゃったよ…」
「皇ヶ埼町の鈴?沙希とか居たし、きっとお金払ってくれてるでしょ…」
泣き声のままの双樹は、今度はいじけ始めていた。
「そうだと良いんだけど…ってあれ?皇ヶ埼って、どこかで聞いた事あるよ?」
奏は既視感だけのある単語に、はてと首を傾げた。
鈴の説明で皇ヶ埼の名は聞いたが、思えばその時点より前に知っていた気がするのだ。
「そりゃそうでしょ。皇ヶ埼町って、樹茨町の隣の町でしょ?あれだけ毎日樹茨町に行ってれば、嫌でも名前は聞くわ」
そんな―――
―――マッタクモッテマトハズレナコトヲオシエテクレタ
瞬間、奏の中でピースが蠢き、急速に絵が組み上がっていった。動悸が激しくなり、全身の毛穴から濁った汗が噴き出す様だった。
奏は慌ててこの辺りの古い地図の乗っている本を探した。
そして、見付けた本の地図を、必死に指で確認していく。
「ど、どうしたの?奏くん」
「まず、おかしかったのは古い地図の町の位置なんだ。方角とか位置とか間違ってた」
「でも、古い地図でしょ?間違ってたっておかしくないわ」
「そりゃ、この辺りの山に関してはまともに測量出来ないんだから、仕方がない。でも、樹茨町の位置が違うのはおかしいでしょ?ほぼ千鶴町と千沢町の間に書いてあったんだよ」
「そりゃ…」
奏の頭にそれがどうしても引っ掛かっていた。
「その理由が、双樹のさっきの言葉で分かった」
「皇ヶ埼町の事?」
「そう。皇ヶ埼ってのは、古い地図にも載ってるんだよ。今の樹茨町の所に…ほらね、これ」
「本当ね」
「だから、その近くに今の樹茨町も有る筈だ。でも、樹茨町は名前が違っていたんだ」
「名前?」
「そう」
「たしかに、町の名前が変わるのは、よくある事だけど……どれが樹茨町の元の名前なの?」
「樹茨町の元の名前は『金原』。それがあの町の元々の名前だよ」
それは、皇ヶ埼のすぐ傍に載っている町の名前だ。
「…根拠は?」
「昔、あの一帯はススキの原っぱで有名だったんだよ。黄金の原っぱ、金原。それがいつしか『キハラ』『キバラ』に訛って、似た字の『樹茨』の名を取ったんだと思う」
「つまり『沢隠し』って言うのは、千鶴沢を出た後、樹茨町じゃなくて……どこを通る……ん?千沢町の横の樹茨?」
「樹茨に似た名前の、千鶴沢と千沢町の間にあるモノ……あった!『樹茨の森』!」
「え…それって、『迷い茨の森』じゃない」
「そうだね。迷い茨の森っていうのは俗称で、『樹茨』があの森の正しい名前だったんだよ」
「じゃあ、『樹茨の森』を通るのが正しいルートだったの!?」
「きっとそうだよ」
「そして、私達はその正しいルートを通った訳ね」
双樹の興奮した言葉に、奏はゆっくりと頷いた。
そして、首を振る。
「でも、俺は『鈴を千沢町のお堂に入れて祭りが完了する』って事をこれっぽっちも知らなかった。きっと、十年前もそんな完了の仕方をしていないんだよ」
そこ…そこなのだ。要衝は。
「つまり…終わってないの?」
「ああ。浪漫でも何でもなく、本当に俺達の時間は止まってたんだよ。俺達は『沢隠し』を完遂していない。きっと途中で投げている事が、夏啼きが起こった原因だ」
「投げてるって?」
「鈴だよ」
奏は確信をもって答えた。
どこかに居る筈の雨娘の気配が、僅かに濃くなった気がした。
「狐の嫁入りって、知ってるよね?」
「天気雨の事でしょ?」
「そう。キツネと雨は仲いいんだ。だから、そういう逸話がある」
奏は、バスで書いた雨娘の出現パターンを双樹に見せた。
「雨娘の出現ポイントは、割かし円になってる。その中心は、樹茨の森のどこかだ……というより、森を抜けた海岸線……これは希望だけど、俺達が約束した大木の所にあると思う」
「そこに何があるの?」
「キツネ……の入った鈴があると思う」
奏は、狐鈴を示した。
「雨娘は、俺達が沢隠しをした後、キツネが行方不明になったから泣いていたんだ。そして、キツネを探す為に双樹と森に入った。双樹は千沢町から大木に向かった筈だから、きっと引っ越しの途中で、千沢町に寄ったんだよ」
「……それで雨に降られて途中で引き返した。それが嵐の夜の記憶なの?」
双樹はブツブツと独り言を排しながら、考え込んでしまう。
「私達が沢隠しで鈴を運んで……その中に森の管理者のキツネが入ってたっていうの?それで、後日、私は雨娘と鈴を探しに行った?」
「断定はできないよ。ただ、一番マシな仮説がこれだ」
強く言うと、奏は双樹を立ち上がらせた。
「行こう!双樹。何があったかは覚えてないけど、鈴はきっと木の所だよ」
「私達の大事な場所……」
奏は走り出し、双樹も弾かれた様に後を追う。
どこかで雨娘も動き出した気がした。
奏は家を飛び出て、神社の裏の森に向かった。
深く、鬱蒼とした森。子供の時は入ってはいけないと言われていたこの森は黒々とした口腔を開けており、入る者を捕食しようとしている様だった。
そのおどろおどろしさは、確かに迷い茨の森と似通うモノが有った。
「ここから行こう。この『迷い茨の森』から。いや、『樹茨』から」
「本当にあの木に繋がってるの?地図ではそうだったけど、正しいかはわからないわよ?」
「分からないよ。でも、今からバスを使って千沢町に戻って、そこから木の所に行く時間はないんだ。だから……これに賭けるしかない」
奏は自信満々な態度を見せようとしているらしかったが、明らかに怯えていた。
それはそうだ。奏は子供だ。それも割かし情けなくて、甘えん坊の部類の。
そんな15才が、街一つ。そして大切な人達の命を預かる選択をしている。
寧ろ、怯えなくては信じられない。
死に等しい重責に苛まれてなくては嘘だろう。
「時間は限られてるわ。この選択を間違えたら、私達の町がなくなるかもしれないわよ?」
それでも双樹は敢えて問う。
今この瞬間。奏にとっては空前絶後の覚悟が必要な一大事に違いない。
けれど、双樹にとっては楽な選択でしかないのだ。
奏を殴るべきか、着いていくべきか。
そんな簡単な二択。
町の命運など関係ない。
奏を信じる罪を選ぶか、別の道を模索するかの分かれ道でしかない。
だったら、答えはとっくに決まっている。
奏を信じる道がどんな罪だろうと、歯牙にも掛けてやるものか。
心とは決して折れず、ただ歪んでいくもの。
ならば、今一つ。双樹の心は歪んだのだろう。
それでもいい。
決定的な間違などなく、
徹底的な思索などなく、
自身の全てに罪を見出して、拉げた心のまま生きればいい。
「俺を信じて、着いて来てくれ」
「……うん。分かった!」
怯え、震え、それでも意地を張る生の奏に触れて、双樹は容易で単純だった。
何があっても貴方と生きていく。
幼い選択は確かに易かったが、壮絶な色をしていた。
「行こう。奏くん」
「ああ。双ちゃん」
二人は頷き合い、人を迷わせるその森に飛び込んだ。
自らの罪を贖うため。大切なモノを守るため。
太陽が死んでしまいそうな夕刻。
水中に流れ出た血の様な雲が舞い飛んでいる。
青を赤が染める静かな世界。
奏は一人で賽銭箱の前に座り、膝を抱えていた。
なぜこんな所でいじけているのかというと、好きな子が遠くへ行ってしまうのを聞いたからである。その子はこの敦賀神社に住む子で、とても可愛い子だ。
その子はいつも皆を怖がって笑顔は別の人に任せているが、本当は彼女だって楽しそうに笑う事を知っていた。この千沢町には同年はその子と奏だけで、皆よりも沢山遊んだからだ。
怖がりなその子は泣き虫で、奏の後ろに隠れる事が多かった。それが子供心に嬉しく、奏は敵ばかりのその子を守って来た。
その泣き虫の子が、別れを告げに来た今日は泣いてなかった。
無表情で、手を真っ赤に成る位握り締めて。泣くまいと意地張ったまま、自分は違う場所に引っ越すのだと教えてくれた。
「はぁ……」
心の何処かで、自分はその子とずっと一緒に居ると思ってた。
離れるなんて未来が世界に存在するって、頭のどこにだって考えなかった。
「ソウちゃん……」
その子の名前を呟いてみると、途端に涙が溢れそうになった。
『男の子は泣いちゃいけない』
誰かの言葉が思い出された。普段大事にしている言葉だが、この言葉はあの子の引っ越しを止めてはくれない。
この大事な時に力になってくれない言葉なんて、大切にするのもバカらしく思えてしまった。
「うう…」
目の前では、自分より年上の子供達が楽しそうに遊んでいる。
ソウちゃんのお別れ会をこの神社でした。その後ソウちゃんは引っ込んでしまい、大人達はお祭りに行ってしまった。
そうなると、子供達にとって今日がどんな日かなんて関係ない。境内で輪になって遊び始め、楽しそうにはしゃぎ回るばかりである。
別に子供達に罪はないが、その楽しそうな様が奏に一層の苦痛を感じさせた。
「ソウちゃん……」
もう一度呟くと、皆が遊んでいる光景が滲み出した。
ならばもう手遅れ。涙は一度溢れ出せば、止める術はない。だったら、いっその事、大声を出して泣いてしまおうかと思った。
うくっ……グス……っ……すんっ……
「え?」
その矢先、すすり泣く声を聞いて、奏は顔を上げた。
自分はまだ泣いていないのに、どうしてそんな声がするのかと驚き、辺りを見回してみる。けれど、皆楽しそうに遊んでいて、泣いている者などいやしなかった。
「女の子の…泣き声?」
注意深く聞いてみると、声は脇のお堂の方から聞こえて来る様だった。
奏は賽銭箱の前から立ち上がり、そちらの方に向かった。
「この裏?」
奏は声のするお堂の裏をこっそりと覗いた。
そこは自然と人の境界線。魔と人を分かつ神社の中でも、特に人から遠い場所だった。
そんな一人ぼっちの場所で、女の子はやっぱり泣いていた。
「うくっ…す……っ……」
その姿を認めた途端、奏は悲しい様な、嬉しい様な不思議な気持ちになった。
家族から、友達から、奏からも隠れて、涙を見せまいとこの泣き虫は頑張ったのだろう。一人隠れて涙を流した努力を無為にしてしまった訳だが、どうにもそれが不思議な気分にさせた。
「ソウちゃん…」
「ヒク……え?ソウくん!?」
声を掛ける。女の子は油断していたらしくポカンと口を開けたまま固まってしまった。
「あ……うくっ」
しかし、奏に無防備な涙を見られている事に気が付くと、慌てて袖で顔を拭った。
「……なに?」
涙を拭き終わった女の子は、赤い頬のまま不機嫌を顔に張り直した。相変わらずの不器用っぷりであるが、幼い奏はとても愛おしいと思った。
涙を止めるのではなく、
悲しみを排除するのでもなく、
共に立ち、
共に歩み、
困難に苦しむ度に手を差し伸べたいと望んだ。
それが所謂間違いの始まりだったのか。
それともとっくに彼らは間違っていたのか。
今となってはどうでもよく、当時ですら意味のない考察だったろう。
ただ、奏が望んだ道が共にある事だったというだけ。
「ソウちゃん!あのさ!」
「……うん?」
困難な共同作業を行った二人は結ばれると聞いた事があった。
そして、結ばれれば離れなくても良いと、大人達が言っていた。
「――ふたりで『おまつり』しようよ!そしたら、きっといっしょにいれる」
それが奏の出した答えだった。
そんな風に願っただけの幼き幻影。
誰に責められる筈もない、小さい男の子の精一杯の背伸び。
誰を怨むでもなく、何を生み出したかも理解していない無邪気な厄災。
決して悪ではなく、だが決して無実ではない正義の種。
「ソウくん……」
でも、たった一つだけ言える事がある。
「うん!!!いっしょに『おまつり』しよう!!」
女の子の涙でくしゃくしゃになった笑顔は本当に輝いていて。
奏は、この笑顔より美しいモノは、この世に存在しないと思ったものだ。
「うお!寝てた?」
奏はけっつまずいてバランスを崩し、その拍子に目を覚ました。
慌てて辺りを見回し、自分の状況を確認する。
今自分は決して布団の中でまどろんでいたのではなく、森の中を歩行中である。
テスト終わりに疲れて居眠りしていたのではなく、夏啼きを防ぐために奔走中である。
そう。思い出した。
木、木、木、木、木、木、木!!!
何処を見ても、目に飛び込んで来るのは木だ。
緑なんて生易しい物ではなく、黒く、影る木色。
獣の口の様で、蟲の目の様で、蠢き、誘い、忍び、囲い、取り込み、侵食する暗色だった。
樹茨の森。
思い出の木の場所に出るために、双樹と一緒に迷いの森を突っ切る選択をした。しかし、その森が思った以上に厄介だったのだ。
森自体も木々が生い茂り、非常に深かった。しかし、迷いの森の本領はそんな唯物的な事に発揮されるのではなく、精神的に打撃を与えるものだったらしい。
言ってしまえば歩く度に夢に引きずり込まれるのだ。眠くなるという様な生半可なものではなく、おかしな構造のせいで夢の中に歩き出す幻覚を見るのだ。
「だから…なんだ……一度通った道だ…山の子供舐めないでよ……」
何に対してかは分からないが、雑念を雑念で振り払って、無限矛盾の出口を目指す。
それでも気が付けば、足が重い、頭がぼやけてきた。
目が何処を見て良いのか分からなくなる。
耳には自分の体内の音しか聞こえなくなっている。
地面がぬかるんで、足の裏がヌメヌメしてきた気がする。
皮膚がズルリと―――
「お、起きるんだよ、俺!」
奏は沈みそうになっていた意識を、無理矢理引き上げる。
「ぶはぁ!何ここ!この森!危ないって話じゃない!意識を飛ばす草でも生えているの!?」
そうだ、そうだ。意識が飛びそうになるのだ。
進む程におかしくなっていく。視界がギュニャギュニャして、ムニュモミュして、何処が右で何処が上か分からなくなってくる。歩いているのか飛んでいるのかの区別なんて出来やしないし、時間の感触すら無くしてしまった。
もう何時間歩いているのか分からない。外に満ちている筈の風の音もここでは聞こえない。数時間後か、数分後かに待つ筈の町の崩壊も、とっくの過去に思えてしまう。
「双樹!俺はちょっと駄目だよ。今何時?ここは何処か分かる?」
「……………………………………へ?」
「双樹も寝ぼけてるの!?」
「にゃ、にゃてないよ!」
「寝てたよ!?」
双樹はじゅるりと涎を引っ込め、口元を拭った。
「やばいよ…道分からないし、二人とも使えないし、寝ぼけてるし。目的を思い出そうとすると、変な記憶ばっかり出て来て、一歩も前に勧めないし……」
説明不能に危険なこんな森を見せ付けられては、『とにかく祖先が森が危ないのだと言えば、異論なく危ないのだ!』という千鶴沢の人達のスタンスも、強ち間違っていないのだと思えてくるから困ってしまう。
森が深過ぎるのだ。道もなく、木々の帳で日の光も届かない暗さ、そんな中を地図も案内人もなく行進するなんて人の身に余る難行だった。
焦っていたとはいえ、僅かでも準備をすべきだったと後悔する。
狐が迷わせる森。半ば眠り、半ば崩壊。
どんなに抗っても極限の眠気には抗えないのと同じ様に、どれだけ気を付けようとも脳に甘い痺れが広がって機能が正常に作動しない。
欠陥ではなく、欠損でもなく、不具合を起こさせる。
死の危険ではなく、彷徨う恐怖でもなく、甘い眠りを与える罰。
程度の低さ故に備える精神も隙を生み、抗い切る事が出来なかった。
「奏くん……後5分しかない!」
目を覚ましたらしい双樹が、目の覚めるような現実を披露してくれた。
双樹は忘れているが、双樹の時計は壊れているので時刻は正確ではない。しかし、針を進ませる機能は残っていたので、時間が経過しているという一点においてのみ正しいだろう。
「なんだ、何日も彷徨ってたと思ったら、たった数時間だったんだね!」
「言ってる場合じゃないよ!」
「……分かってるって」
(落ち着け…落ち着け…)
自分達で何とかすると勢い込んだ挙句、間に合いませんでしたとなれば誰に顔向け出来ようか?いや、間に合わなかったら、顔向けする人達を失うのだという事を思い出す。
「冗談じゃない……寝てる場合じゃないよ……」
唇を噛み、口内に僅かに鉄の味が広がる。
それでも目は完全には醒めず、痛みすら微睡の中に消えていく。
耳にはざわつく風がうるさく、枝や葉がお化けの様に見えてくる。
太陽は見えず、道は分からず、鈴の気配もない。
自分自身さえ失いそうな偏屈。
自信さえ失ってしまう退屈。
回り等どうして見えようか?
それでも光明を見付ける奇跡を掬い取らねば、破滅するのだ。
今まで生きてきた自分も。
そして、これから生きていく人生も。
(落ち着け…どうにかするんだ……)
何度目かになるそんな祈りを捧げた後、ふいに悪夢の中に正気が落ちてきた。
(落ち着けって…それが何になるんだよ……)
奏は自分にはそれしか縋る言葉が無いのかと泣きたくなった。
落ち着けば道が開けると思っているのか?
自分はそんなに有能なつもりか?
冗談じゃない。自分に出来る事なんか限られていて、この件はゆうに能力の上限を超えているのだ。冷静になったからと言って何を好転させられる?精神を健全に戻したからって何を正解できる?肉体の異常を取り除いて、思考の波を正常にして…それで?それで自分に何ができるっていうんだ?何もできない。異常をきたしているから解決が図れないのではなく、そもそも手に余るのだから……
「奏くん!!」
「うわ!?」
顔を俯かせていると、いつの間にか前に回っていた双樹に顔を掴まれた。
無理矢理視線を上げさせられ、真剣に怒る双樹の瞳に出会った。
「今の顔は駄目だよ」
「……双樹。ごめん、恰好悪かった」
「うん。頼むよ」
双樹はむぅと手を離し、奏はそんな双樹の表情に久しぶりに笑った気がした。
と、少し気持ちが持ち直した奏の耳に、何かが聞こえてきた。
「…これは?」
とても澄んだ音色だった。初めて聞く、美しいが危なげな鈴の音。
いや、今考えれば、音色は森に入る前から鳴り続けていた気がする。双樹と再会したあの日からずっと、奏達を呼び続けていた気がするのだ。
「鈴の…音?孤鈴って奴か?」
奏は自分のポケットを確かめた。そこでは共振するように鈴が震えていたが、大元の音の出所は、これではなかった。
「ずっと…呼んでたのか」
だから、あの日聞いた泣き声の正体が、やっと分かった。
「双樹!こっちだよ!!あいつが泣いてる!」
「そ…奏くん?」
奏は双樹の手を引いて走り出す。
確証が有った訳はない。
核心に至った訳でもない。
しかし、この鈴の音は、奏と双樹を引き合わせた物と同じだと思ったのだ。
だから、根拠もなく走り抜け、物語は初めの異常に収束する。
「間に合ってくれ…間に合ってくれよ!!」
急がなくてはならない。そうでなくては、間に合わない。
内側から燃える焦りのままに、駆け、走り、急ぎ、目指し、森を横切っていく。
「く…ぁ…はっ…」
絶え絶えに成る呼吸に、これが最後だからと叱咤する。
宥め、賺し、摩耗する。
森の悪戯か、疲労の嫌がらせか。右足を出しているのか、左足を出しているのか分からなくなる。走り難い事この上なく、膝も痛くなってきた。
進んでいるかすら定かでなく。意味が有るかさえ自信がない。
それでも足を前に出す。
走るのではなく、一歩一歩歩を進める過程に、前に進むという結果を繋いでいく。
そんなトロイ、全力疾走。
はっ――――
それは徒労に終わる事無く、古い潮の匂いを運んでくれた。
誰の感情か分からなかったが、『戻ってきた』という懐かしい感触が去来した。
「う……」
「え……?」
突如木々が割れて、暗い世界に明るさが氾濫した。
森の領分を抜け、太陽の庇護下に逃げられたのだ。
「こ…ここだよ、双樹!」
「ここ…って……まさか…」
そこは大きな木の立つ、海の見える崖。
奏と双樹が約束を交わし、そして再会した大木のある高台だった。
「本当に…繋がってたんだ…」
「ああ……でも、繋がってるだけじゃ、不十分なんだよ」
ここまでは奏が正解だ。
けれど、正解ならば万事解決という訳ではない。
「太陽が…沈んでいく…」
刻限が空を赤く染めていた。
空を追い尽す雲が深紅に燃える。
美しき夕の後には、心を塗り潰す闇夜が待っている。
その前に事態を好転させる鍵はないかと、奏は辺りを探る。
高台は僅かに草に覆われているが裸の土が多く、中心に大木を誇る以外は見晴らしのいい場所だ。そんな場所で見回しても、目当ての鈴は見付からなかった。
樹の裏や崖のギリギリまで探すが、どこにもない。
大木によじ登ろうかと考えたが、5才の子供が鈴を抱えて登れる木ではなかったし、記憶のどこにも木登りの残滓はなかった。
(まだなんだ、沈まずに待ってくれ。解決方法が分かっていない)
ザッ…ザッ…
ザッ…ザッ…
「く…そう……」
拳を強く握り締める。森を抜ける中で掌を切っていたらしく、血が滲んで痛みを覚えた。生まれた淡い痛みが言い訳になるかと脳裏に過り、情けなさに泣き笑いの表情になる。
遥か海の上では、太陽の断末魔が響く。奏の代わりに、残酷な現実に抵抗するかの如くに雲を血色に染めていた。
その抵抗が終わった時、この日に夜が訪れる。
問答無用で、完全無欠で、意地悪な神様の答え。
反論の余地もなく、反撃の機智もなく滅ぼされる。
縋っても、非難しても、媚びても、強請っても、喚いても、威張っても、怒っても、粘っても、差し出しても意味がない。
ザッ…ザッ…
諦めても、
夢見ても、
泣いても、
嘆いても、
背けても、
翻っても、
戦っても、
慟哭しても
目を瞑っても
結果は変わらない。
昼と夜が混じり凪いだ風が反転すれば、化け物の様な雲と風はこちらに流れ込むだろう。
そうすれば鶴は暴れ、風は町を破壊し、砂は人々を切り裂くのだ。
ザッ…ザッ…ザッ…
視界の遥か向こうでは雲が渦巻き、醜い筋肉の塊の様に膨張を繰返していた。
「どうすればいい?俺は……」
頭の片隅、体の芯。上から下から右から中から、記憶や傷を漁っていく。早く何かを思い出せと自傷行為の様に脳細胞を引っ掻く。肉が滲み、爪が剥がれ、神経が剥き出しに成る錯覚。
ぬめりと、体が剥がれた気がした。
ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…
けれども、思い出せない。
十年間、奏を支えてきた記憶が鱗の様に視野を塞ぐ。
双樹に伝えた言葉、伝える為の勇気、そして双樹の笑う顔しかここにはない。
大切な物が多過ぎて、大事な物が零れてしまった。
皮肉が強過ぎて、胸のつっかえに吐きそうになる。
ザッ…ザッ…ザッ…
「くっそ!くっそ!くっそ!くっそ!くっそ!」
もう、太陽の余命は幾ばくもない。
立っていられない程に、風が強くなってきた気がした。
ザッ…
ザッ…
だから、奏は精神的に完全に叩きのめされ、
「うるさいわね!情けない顔してないで手伝いなさいよ!」
「ぐは!」
ついでに肉体的にもぶん殴られた。いや、殴られてはいないが体当たりを食らった。
奏は後方に倒れ、相手に文句をぶつけた。
「何するんだよ、双樹!」
「何するんだじゃない!手伝って!」
「手伝うって、何を……くあ!?」
双樹は呆ける奏を平手で一つ打つと、木の根元で膝を付き作業に戻る。
「此処を掘るの!」
「…なんで?」
「なんでもいいから手を動かす!私を信じられないの!」
「わ、分かったよ!」
双樹の剣幕に圧され、奏は訳の分からぬまま双樹の向かいに座って地面を掘り進めた。
ザッザッザッ…
一心不乱にとにかく掘る。掘る。掘る。掘る。
双樹は最初、海側の木の根元の半径40センチ程を浅く掘っていた。そして、ある場所に辺りを付けた後は、10センチ四方の土を一心不乱に掘り返していた。
シャベルや使い勝手の良い石ころが無かったらしく、双樹は土を微かに赤く染めながら素手で土を掴んでいた。
奏も穴を掘るのを手伝おうとしたのだが、双樹の指先の皮膚が破れて土と血で赤茶けているのを見て、暫し手を止めて眺めてしまった。
奏が幼い時の嗜虐心に似たものを感じていた時、双樹の指が何かに当たった。
「在った!!此処!此処よ!」
「え?あ?何?」
双樹は固いものの回りを必死に掘り起こす。スカートが汚れるとか、爪が剥がれるとかには無頓着で、そんな痛みより、ここには大事な物があると言わんばかりの必死さを見せ付けた。
「在ったって、何が?」
「在ったのよ!忘れたの?」
「覚えていない事を除いた範囲でなら、全部覚えてるよ」
「それを忘れたって言うのよ!……やった!」
地面の中から丸くて汚い何かが現れ、双樹がそれを引き抜いた。
茶色くて、所々錆びて、土だらけだった。大きさはボール程だが、弾力は感じられない。
「…何それ?」
「覚えてないかな~?」
「だから、丸ごと全部覚えてないんだって」
不思議そうな奏の反応に、双樹は呆れる様な、怒っている様な、もしくは真逆でとても楽しそうな笑い方をした。
「鈴よ、これ。私達が将来を誓い合って埋めた、ね」
「鈴……埋めたっけ?」
「埋めたの~」
大きな木の根元に埋まっていたのは、奏と双樹が埋めた敦賀神社の鈴だった。
それはタイムカプセルではなく、いうなればタイムマシンであろうか。二人の思い出が詰まっている訳でないが、双樹の顔を見るに、離れていた時間を失わせてくれたらしい。
「思い出したのよ」
双樹は掘り出した鈴を愛おしそうに見詰める。
「私がさ、『お祭りが終わったら、本当にさよならだね』って言ったのよ。そしたら奏くんが、『じゃあ、終わらせない!一番奇麗なこの場所でお祭りを止める。そしたら二人の時間は止まるでしょ?』って。臭いよね~。で、海が見える大きな木の下に埋めたのよ」
「そ…そういやそんな事あったね…」
そういえばそんな遣り取りの後に、あの告白が合った気がした。
――もう、笑い事じゃないよ。
「え?奏くん、何か言った?」
「いや?双樹でしょ?」
二人で顔を見合わせ、誰のモノでもない声に驚く。
それは鈴の音。キョトンとする二人の目の前で鈴が揺れ、鈴の中から何か飛び出してきた。
「やっと出れた!」
「狐!?でっか!」
「お、女の子?小さくて可愛いわね」
鈴から出てきたのは、狐の耳と尻尾の生えた生き物だった。狐にしては大きいし、子供にしては小さな、恐らくは女の子。
その出現は超常現象ではあったが、二人はいきなり出てきた事にビックリするだけで、鈴から女の子が出て来た事には驚かなかった。
どうにも感覚が麻痺してきたらしい。二人とも呑気に怪しい女の子を眺めていた。
「もう、酷いよ!君達。埋めるなんてさ!」
キツネの声は双樹にそっくりで、その鳴き声は奏の記憶のどこに引っかかった。
「そうか、お前は双樹か」
「ま、そうだね!ボクが双樹だよ」
奏が、昔を思い出してポンと手を打つ。
キツネ娘は両手の人差し指で自分の頬を指し、わざとらしい笑みを作って見せた。
「どうする?ボクが双樹だけど、それでも君はその子に惚れる?」
キツネ娘は大いに疑問符を浮かべる双樹に目を向ける。
奏も一度双樹を見てから、躊躇いもなく答えた。
「俺が好きになったのは、双樹だ。双樹を守るための笑顔じゃないよ」
「言うねえ。でも笑ってる子の方が可愛いでしょ?ほらほら」
「お前は双樹で、確かに笑顔を見せてたけど、俺にとっては脈絡が無かったんだよ」
「へえ、へえ!思ったより骨がありそうだ」
「いや、ないよ。ここ数時間で心を入れ替えようと思ったばっかりなんだ」
奏とキツネ娘が言い合っていると、不安そうな顔の双樹が奏の裾を引っ張った。
「ねえ、奏くん。あのキツネが私ってどういう事?」
「ああ。多分、千鶴沢に居た時、あのキツネが双樹の人格に住み着いてたんだよ?」
「へ?」
「双樹が作り笑いする時は、あのキツネが…何というか、人格を乗っ取ってた感じだったよ」
「嘘でしょ?」
「多分本当。俺はそれを双樹だと思ってなかったから、俺の記憶の中の双樹は全部不機嫌顔だったんだよ」
「なによ、それ。失礼ね」
「あはははは。面白いね、君達」
空中をぷかぷか浮きながら笑うキツネ娘の姿は、残念な事に怖さは全くなく、寧ろ全身から可愛らいオーラが出ていた。
尤も、奏の記憶通りこのキツネが人の人格を乗っ取る妖怪なら、それを前にヘラヘラなどしていられない。だが、キツネ娘はキツネ娘でヘラヘラ笑っているだけなので、二人ともいまいち警戒し難らかった。
「ていうか、君はキツネで凄いんでしょ?鈴に閉じ込められたからって、泣いてないで出ればよかったじゃないか?俺達がここに来なくてもさ」
「ボクはこれでも神様みたいなものなんだよ!だから、封印とかそういうのは弱いんだ」
「フウイン?」
「だから、君達、ボクを埋めただろ?」
「え?それで封印される訳?」
「神は様式美に弱いからね。それに君達は特別だ。特にそっちの我が娘っ子」
「ふぇ?私?」
「そ。君君」
「私が『我が娘』って、なに……?」
「君、守上沙羅の娘だろ?なら我が娘だよね」
「……意味分かんない」
双樹は少し下を向き、視線だけは強くキツネに向ける。
要するにこのキツネは、奏達のせいで十年ここに閉じ込められていたのだろう。神社が神を囲う事で神を逃げられなくするのと同じで、キツネの入った鈴を埋めた事で、意図せず『封印』状態になってしまったとの事である。
「皇ヶ埼の方に鈴に狐が宿るって話は聞いてたから、狐が鈴に入ってたのは納得するけど……貴女なんで、この鈴に入ってたの?」
「よく聞いてくれた!我が娘!」
「それ止めて」
「ボクは、ここ周辺の管理というか守り神というか、送り狐だったんだ」
「キツネ…がね」
「で、あの一帯から人が居なくなるって話が有ったじゃない?本当はもう、いっそこのまま千鶴沢に居ようと思ったんだ」
狐娘はエヘンと胸を張っていたが、話している内に寂しそうになった。
そして、思い出した様に怒り出す。
「そしたらね!二人でこの森を抜けようなんて、恐ろしい事をいう子達を見付けたんだ!それも一人は、ボクをその身に宿す我が娘だ!その子達が風を迷わせるこの森を通るなんて無茶苦茶を言うから、助ける為に鈴に入って付いてったんだよ」
「つまり貴女は、私達の生命の恩人って訳?」
「失敬な!子供に売る恩なんてないよ。見縊らないで欲しい」
双樹が感謝しようとすると、キツネ娘はプリプリと怒った。
奏と双樹が樹茨の森を抜けるなんて、正気の沙汰じゃない事をやろうとしている事を小耳に挟み、神社の鈴に潜んで二人に付いて来てくれたらしい。
ただ、二人が途中で鈴を埋めてしまった為、この十年封印されてしまった、と。
(で、泣いていたと。何とも可哀想な奴だね)
「その顔!何か思った?!」
「いや、何でもないよ!」
「ところで、迷い茨の森を通れないってどういう事?私達は、再開した日に通れたわよ?」
「あれは十年前、君達が通れるように、ボクが道を開けてたからだよ。埋められたから、明けたまま直せなかったの!」
「う……埋めたのは申し訳ないと思ってるわ」
尋ねられた狐娘は腰に片手を充て、双樹の鼻先に指を突き付けた。
「ま!我が娘は雨娘と一回通ってるってのはあるけどね」
「やっぱりそうなのか?」
「あと、この森を作ったボクの血筋だっていうのも大きいね」
「森を作った?貴女が?」
「そ。夏啼きの場所を変えるためにね」
「場所を変える?そんな事が大それたことが出来るのか?」
「当然だね!昔、千鶴沢で夏啼きが起こっていたのは、知ってるね?」
「文献に書いてあったのは読んだよ」
「それは、この樹茨の森が千沢盆地の方面にしかなかったからなんだ。だから、千鶴沢の方に風が吹き抜けていて、その風に乗って大鶴が暴れに来ていたんだ」
「昔、千鶴沢で夏啼きが起こってたのは、本当なのね……」
「うん。だから森で風を迷わせて、千沢町に風が吹き抜ける様にしたんだ。ついでに大鶴の力の一部を千鶴沢に閉じ込めてやった!ま、二十年前に君達が千沢に移るって言うから、風を森に閉じ込めて、大鶴の力を失わせてから森の方に吐き出す管理方法に変えたんだけどね」
「でも、今起きるよ?夏啼き」
「そう!それは君達が通れる様に、ボクが道を開けたからなんだ。本来風も人も迷う森を、君達が通れる様に千鶴沢から千沢までを一方通行で開けたんだ。だから、風は千沢の方にばかり抜けていくんだ」
奏が尋ねると、狐娘は耳をピーンと立てて怒った。
「千鶴沢からここまでって、道開いてるの?開いてた、双樹?」
「開いてる感じはなかったわよね?」
「開いてるよ!すぐに来れたでしょ?」
「いや、かなり迷ったよ」
「うん。すっごい時間掛かった」
「あんなの迷った内に入らないよ!森が深かったから、時間がかかっただけさ。『迷う』っていうのは死ぬの!人が入ったら死ぬんだから!どれだけの計算式を用いたと思っているんだ!」
「う……あれで開いてるのか」
言われて奏は、先程の森の気持ち悪さを思い出した。
森があれより深いなら、きっと自分達は意識の混濁の中で溺死していただろう。いや、あの状態でも鈴を介して呼んで貰えなかったらと思うと、今更ながら肝が冷えてきた。
「ところで、結局、夏啼きってダウンバーストってことでいいの?」
「だうんばーすと?そんな妖は知らないね」
双樹の質問に狐娘は首を傾げた。
「今の夏啼きは大鶴の覚醒と、それによる破壊の事を言うんだ。大気っていうのは『大きな気』なんだけど、大鶴の大元の気が周期的に千鶴沢に吹き込むんだ。千沢盆地は落ちてきた神様を閉じ込めるための場所だから、吹き込むばっかりで出ていかないから、全部の気が大鶴の切れ端に集まって、復活させちゃうんだ。大鶴は暴れるだろうし、下手をすれば落ちてきた神様も起こしちゃうんだ。それが今の夏啼き」
「霊的に閉じられた場所って事?その一部を切って、気を逃がす訳にはいかないの?」
「千沢の封印を切ったら、それこそ千沢に落ちた神様が目を覚ますよ。三百年前ならいざ知らず、今のボクに神様を相手取る力は無いなぁ」
「さっき、自分で、自分も神って言ったじゃないの」
「我が娘ながら滅茶苦茶言うなあ!神にも格があるの!」
「いや、もう。神とかキツネとか、規模のでかい話は俺は分からないよ。ダブル双樹」
「ダブル双樹言うな!」
不思議な半紙を受け入れる覚悟は決めた奏であったが、キツネ娘の話はさすがに理解の範疇を超えていた。奏はとにかく、自分の力ではどうにもならない事だけ理解する事にした。
「ま~、ボクを封印したのが此処ってのがマズかったね。そうじゃなかったら雨娘に封印を解いて貰う事も出来なくはなかった。あの子も妖怪だから、封印自体は解けないけど、何かしら手はあったんだ。でも、ここに雨娘は来れないんだよ。あの子はさっき言った神様をこの地に落っことしちゃったから、神様が帰る為のこの木を育てないといけない。だけど、どうせドジで木を枯らすから、木が成長し切るまで近付くな、って禁忌を食らったんだ」
良く分からないが、言っているのは多分京成に聞いた神話の事だろう。
「で!なんだけど、そんな話してる場合じゃないくらい、切羽詰まった事あるよね?我が娘と少年ボーイ」
狐娘は困り顔のままヒョウと飛び、腕組みして二人を見回した。
「切羽詰まった事?あるかな?」
「困った事?」
狐娘は心配する気配を出しつつも、悪戯する子供みたいな残酷さを湛えていた。
その様子に嫌な予感がして双樹が冷静になり、そして真っ青な顔をした。
「それって……まさか」
ビョオオオオオ
途端、耳朶を打つのは響く異常音。
奏も現状を思い出し、異音の方向に顔を向けた。
「げ!なんなのさ!!?」
海の向こうに目を向けると、黒雲が化け物の様に肥大化し、音を立てて迫ってきていたのだ。
「双樹!大変だ!雲がこっちくるよ!!」
「え?……ちょっと!何あれ!!?」
錯覚ではない。本当に雲が巨大な怪物みたいに動いて、高台に向かって来ていた。
奏は本能の根本で危険を感じ、双樹の腕を掴んだ。
「うん。時間がないんだ。今から風を迷わせる為に森を閉じる。君達は、全力で逃げて」
ハ?ナニイッテンノ?
「森を迷いの森に戻す。あの風の本体が少しでも千沢町に到達すると『迷わせる』事が出来ないんだ。そしたら、夏啼きは止められない。町一つと君達二人の命を天秤に掛けたら、ボクがどうすべきか分かるよね?」
キツネ娘は屈託ない笑顔を見せ付けてくれた。
その笑顔は奏が記憶に残さなかった双樹の切れ端。
「………」
それは、彼女が妖怪であるという事を奏に知らしめた。
つまりは人間とは常識が違う。いや、様式が違う生き物だ。幾ら奏達を助けても、あくまで味方ではなく、精々人間が虫を殺さないで見逃す程度の意識しか持っていない筈だ。
「いくよ!双樹!」
「わ、分かった!奏くん」
二人は、狐娘の話が終わる前に走り出した。
その背中に、狐娘の無責任でシビアな応援が浴びせられる。
「せめて足掻いて。閉じる前に森を抜けるんだ。風より速く走ってね。じゃないと死ぬよ」
「ちくしょう、無茶苦茶言ってるよ!双樹、頑張ろう!」
「う…うん!がんばる」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ
「うわ……信じられないよ」
「凄い力ね」
二人が森に入ると、奏達の後ろで木々がメリメリと音を立てて閉じ始めた。森を塞いでいるのだろうが、それでも風の一端は木々をすり抜けて進んでくる。
「速くね!この時点では、風はせいぜい時速十六、七キロ位だけど、その内時速二十五キロにだって到達する!急いで!風は少しだって千沢町に入れる訳にいかないんだ。風の一部だけでも道を覚えちゃったら、全てが抜けていってしまうから!」
「分かった。お前は躊躇なく、千沢町を救ってくれ」
「はいはい、はいよ」
キツネ娘に告げて、奏は本格的に速度を上げた。
森は生きている様に蠢き、その道を閉めていく。そのただ中に入っていくのは、巨大の生き物の腹の中に行く様で、不気味で、不吉で、不潔で、不穏で、不幸な気がした。
「双樹!森に閉じ込められたら、風と一生お散歩だよ!」
不気味な物を左右に見ながら、奏は体力の配分は止めようと全力を出す。
どうせ先程の行軍で体力は使い切っている。膝の感覚は既になく、足の裏も地面の触感をちゃんと伝えてくれない始末なのだ。
「時速二十五キロって、どれ位なの!!」
「時速二十キロでフルマラソン走れれば、オリンピック入賞も行けるよ!」
「山走るのよ!嘘でしょ!?」
「嘘でもなんでも、やらなきゃ死ぬって!!!」
そんな騒がしさを置き去りに、奏と双樹は暗い暗い森へと入っていったのだった。
走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った走って走って走って走った。
深い森を、木に擦った腕を擦りむきながら。
粘っこい地面の上を、取られた脚を痛めながら。
太い木の根にぶつけた足の甲は、きっと青黒く膨れ。
鋭い枝で叩かれた肌は、赤く腫れ上がっている。
痛んだ内臓が重く、何度吐き捨ててやろうかと思ったか。
絞られていく視界が不自由で何度恨めしく思ったか。
足が重い、腕が重い、腹は熱い、胸が熱い、頭が苦しい、酸素が足りない。
どれだけ口を開けても、空気の代わりに雨が割り込む。
どれだけ前に進もうとも終わりはちっとも見えてこない。
割に合わない。溺れそうになる。
耳が痛い、喉が痛い、目が痛い。
体の中で雨が膨れ上がって、器官全てを外に押し流そうとしている様だった。
コオオオオオオオオオオオオ
「っ!!!っ!!!」
背後から風が猛追してくる。
森が喰らわんと随伴する。
音がうねる。
傾ぐ様に追随する。
飲み込もうと、
蹂躙しようと、
肉薄しようと、
その速さを誇示していく。
「はっ…はっ」
膨張する。
拡大する。
狂騒する。
暴走する。
狂暴する。
疾走する。
奏と双樹を追い、風も森も加速していく。
まるで風は獣の咆哮の様。
まるで地鳴りの共振の様。
割れる暗海の豪響きの様。
形の無い牙で森を押し退け、大地を蹴り割り、空を食べ暴れ、木の葉を舞い散らす。
恐怖のない心で、進み、砕け、走り、再生し、爆発する。
崖に砕ける波の様に、凶暴に存在を組み替えながら二人に手を伸ばす。
「双樹!ガンバ…がんばれ!」
「はっ、はっ……は、はっ…はっ、はっ」
奏は必死に双樹を鼓舞するも、握った手が段々重くなっていくのを感じていた。
気力を超えて走る双樹の息は加速度的に上がっていき、手は火の様に熱くなっていく。
コオオオオオオオオオオオオオオ
「うくっ……」
奏にすら、風の獣の息が掛かる。後ろを行く双樹は半分飲み込まれている様なもので、風の顎は双樹の体力を容赦なく奪っている筈だ。
「奏く…っは…私は…も…ぅ…」
「何言ってるのさ!行ける!行ける!」
双樹の泣き出しそうな声がする。
何を言いたいかは分かる。
奏だって双樹と似た事を考えているのだから。
でも、言葉にしては駄目だと、奏は双樹の言葉を遮った。
「………」
風はどんどん速くなる。今ですら全力疾走に近いのだから、既に死に体。限界だ。それなのに風は今以上に速くなるという話なのだから、自分はきっと逃げ切れないのだろうなと、双樹はどこか他人事の様に思った。
それでも奏は励ましてくれた。手を握ってくれた。嬉しかった。楽しいとも感じた。
だから、双樹は決意する事が出来た。
出来てしまったのだ。
「…奏くん!先に行って!!」
「は!何言ってるのさ!!」
双樹は風に掻き消えそうな声で叫ぶ。
奏は振り返りもせずに怒鳴った。
自分ですら――なのに止めて欲しい。
「ごめん…ごめんね」
「おかしな事言わないでよ!…双樹!返事して!!」
奏は必死に双樹の手を握り、絶望の冷たさに染まっていく双樹に悪態を付いた。
「何か言ってって!馬鹿するんじゃない、双樹!」
奏は不安になって、躍起になって、振り向きもせず叫ぶ。
しかし、双樹は呼び掛けに答えず首を振った。そして自分勝手に口を開く。
「このままじゃ、二人とも死んじゃう。私は奏くんを殺したくない。足手纏いじゃなかったって……自慢させて欲しい」
「双樹!馬鹿!お前馬鹿だよ!!!」
声は……震えていただろうか?
奏は意地でも取り合わないと前だけを見て、強く強く手を握って引っ張った。
「痛ったい!!?……双樹っ!!」
けれど、腕に痛みを感じた瞬間、双樹の重さがなくなった。
軽くなってしまって、泣きたくなった。
「双樹!」
「奏くん。また会えて良かった…」
双樹は涙でグチャグチャの顔で笑い、全ての思いを込めて足を止めた。
「双樹!!!!!!!!!」
噛み付かれた位で手を解いた自分が情けなかった。
最早急停止する力もない奏は、風に押されて、山道を滑り下りていく。
「奏くん…ごめんね」
「双樹!」
遠くなる奏の姿を見ながら、双樹はこれ以上涙を見せたくないと、奏の声に背を向けた。
きっと奏くん一人ならこの風を振り切り、逃げ切れる。
無事に森を抜け、平穏に戻れるんだ。
「……」
でも、私が足を引っ張っていては奏くんは、実力を発揮できずに私と共に死んじゃう。
それは嫌。
私は自分のせいで『夏啼き』に巻き込まれてしまう人をなくす為にここまで来た。その巻き込まれる人が、奏くんを以て一人も居なくなるのなら、それは成功ではないか?
酷い現実を前に、ある程度本気でそう思った。
「それでもやっぱり…泣きたくなるけどね」
風の獣は噴煙を巻き上げ、迫り来る。
風と並行して森が閉じて行っているが、あの森は閉じ込め迷わせる為の物で、風の速度を阻害しない。当然の事、私を守ってもくれない。
だからきっとこのまま、私は風に無残に食い千切られるのだろう。
いや、それより酷い惨状が待っているか。風と一緒に森に閉じ込められ、迷っている事も知らず迷い、死んでいる事にも気付かず死んでいくのだろう。
「くす…」
それも良いかなと思った。
迷いの森で嵐の中、一人誰かに想われて死んでいく。
なんて悲劇的ではないか。王子様はきっと、私のために泣いてくれるだろう。
そして、時間が経ち、いつか彼が誰かと一緒になった時でも、時々は私を思い出して忍んでくれるかもしれない。
そんな風に思い、涙が流れた。
「…ぐす…ありがとう」
誰に言うでもなく呟き、目を瞑った。目を閉じたからといって何か楽しかった事が浮かんでくる人生でもなかった。
けれど……足りない物だらけの世界だけど、私にはちゃんと私で在るべき物が揃っていた。
此処に至って無念だと思える未来も有り、尊厳も、自負も、悲しみも、自省も……そして奏くんも居た。人生の最後でこう思える事はきっと素晴らしい事で、誇れる事だと思う。
本当、此処に帰って来て良かったと、今なら思える。
「~♪」
自然と口にしたのは、耳に付いているCMソング。おはようからおやすみまでを一緒に過ごそうと歌った曲で、小さい時、奏くんが泣くまいとする時に歌っていた曲だ。
歌っていると瞼が涙でいっぱいになった。
涙と鼻水でグチャグチャになって、次第に歌も消えていった。
(死にたくは…ないよ……)
「でも……千沢町に引っ越して来た時とは違う。今の現実は、私が決めた事だから!」
私は顔を袖で吹いて、風の化け物の姿を目に焼き付けた。
「―――――!!!」
見えぬ敵。逃れられぬ死。
しかし、風は確かに姿を以て迫り、明らかな殺意を以て私に到達する。
そうして私は風の到達と共に――
――無残な形で地面を引き摺られた。
泥だらけで独り。
見るも痛ましいボロ雑巾となったのだった。
其れは体の奥底から湧く衝撃。
衝動を凌駕して、
懺悔を酷使して、
投影を昇華して、
他者を抑圧して、
恐怖を制圧して、
猜疑を淘汰して、
自分勝手に我が儘に利己を中心として光臨し、
散々凄惨な所業として、少女を魔王の様に連れ去った。
「…へ?」
双樹は最初何が起きたのか理解出来ず、されるがままになっていた。
肉を地面に擦る嫌な音が内側から聞こえた。
片方の耳には容赦なく泥が入ってきて気色が悪い。
地面には掘られた筋と血、擦り剥けた肌が痛ましい道を作る。
痛みは覚悟していだけれど、覚悟した物と痛み方が違った。
「痛い痛い!なんで!?痛い痛い!!肩、ズドンって言ったよ?てゆーか、痛い痛いって!」
自身の体の痛みの不自然さに双樹は泣き喚いた。
「待って、うぷ…痛い…痛いよ!」
体が土に塗れ、砂泥が口に入ってくる。
何より痛い。
痛みも苦しみも覚悟していた。
死ぬのだと腹を括ったのだから、死ぬ程の痛みは当然だと心を構えた。
けれども、痛みがこれ程辛いのだと思い知らされれば、否が応にも震えさせられる。
思う以上の神経の灼熱に、いっそ気でも狂ってくれと願いたくもなる。
「痛い…痛いよ――」
ましてやその痛みの元が、大自然の猛威でも、摩訶不思議な妖でもなく。
想い人だというのだから遣る方ない。
「奏くん!何でよ!逃げてって言ったのに!!」
双樹は引き摺られるのは止め、立ち上がって走る。いや、最早走るとは言い難い速度しか出ないが、それでも足を動かしながら奏に本気で怒った。
引き摺られ傷だらけにされている事にではなく、行けと言ったのに行かない奏に。二人だと死ぬから、自分は残ったのだ。それを助けに戻るとは侮辱ではないか?
「知った事じゃないよ!」
「っ!!?」
けれど、奏は双樹の咎めなどお構い無し。
むしろ、双樹なんて比べモノにならない位、奏は激昂していた。
「どんな時でもトライアンドエラーでしょ?失敗しそうなだけで諦めないでよ!」
「奏…く……でも!」
奏には双樹が諦めた事が不満らしいが、このままではどうやったって逃げ切れないのだ。
「でも奏くん!これが私なりの答えなんだもん!」
「分かってるよ。でもその答えは…止めてよ」
「奏くん…」
奏の泣きそうな声に、双樹も目を伏せる。
奏だって双樹の覚束ない走りは知っているし、二人が風の中に居る事だって分かっている。
それでも奏は戻ってきた。それが同情や正義感からなんかじゃないのは双樹も分かっている。
それは愛と呼べるものかもしれない
とても未熟で幼くて、誰かが見たら笑ってしまう程に真っ直ぐな愛。
「ごめんね…ごめんね、奏くん。一緒に……最期の瞬間まで一緒に生きよう」
「ああ。俺達は生きている。諦めない。でも、一緒じゃないと生きていけない」
気が付いたら双樹は泣いていた。嬉しいのか、怖いのか分からない。
ただただ感情が溢れて来て、涙を止める事が出来なかった。
「現状は最悪だ。でも双樹、諦めるのは、生きるのが終わってからにしよう」
「……うん」
足はまだ砕けていない。
腕はまだ千切れていない。
心臓はまだ爆発していない。
頭は付いている。
肺は存命。
血管はまだ息してる。
肉は全滅まで遠い。
眼球は飛び出しそうな程痛い。
喉はひり付いて熱い。
手足の爪は今にも剥がれてしまいそうだった。
痛い。身体が痛い。
だから、自分達は、まだ走れるのだ。
「行くよ!双樹!風を追い抜く!」
「きゃっ!?奏くん何を!?」
奏は急に立ち止まり、しゃがみ込んだ。
驚いた双樹は奏の背中に負ぶさってしまったが、奏はそのまま双樹を背負い上げた。
「よっし!しっかり捕まっててよ」
「嘘でしょ、奏くん!こんなんじゃ走れない!」
どうやら奏は、双樹をおんぶして走る気らしい。
「無理よ!降ろして!自分で走るから…うわ!」
「だから、離れ離れは嫌って言ったでしょ!二人で走る!元気になったら降りてよ!」
「う…うん。分かった」
奏は反論する隙もない位早口で捲くし立てた。
その勢いに流石の双樹も何も言えず、頷くしかなかった。
(ずるいよ…ずるいよ、奏くんは)
揺れる奏の背中は大きくて温かった。
だから双樹は顔を埋め、心の中で文句を言った。
奏は限界を押し隠して走り続けた。
雨に濡れてグジュグジュになった山道は良く滑る。
いつまでも走っている訳はないが、しかし時間の感覚もない。
体力の残量とか残りの道のりとか、普段であれば計算する事柄すら頭から抜けていく。
奏は不思議な森や、妖怪の悪意や、暴れる神様によってではなく、心身の限界で走ることがままならないという日常起き得る誤作動によって死に嵌り込んでいった。
だから、日常の線上にある異常こそ、気付かぬ恐怖なのだろう。
異常として現れる怪異ではなく、ぬるりと日常に入り込む狐を昔の人が恐れた訳だ。
(…やっぱり、もう走れないか)
奏は下り坂を滑り落ちる事しか出来ない脚に、虚ろな意識で力を加えた。
それは最悪の悪手となった。
「あぐ…!!」
ビキリと、足首の筋が凄い音を立てた。筋を壊したらしい。
誤動作と痛みで脚が崩れ、泥に足元を掬われる。
「奏くんっ!!」
「くっそ!ここまで来て下手踏めないよ!」
奏は崩れた体勢を必死に立て直す。いや、立て直すのではなく、上手く転んでいく。倒れないギリギリのラインで、落下する力を前進する力に変換し、何とか踏ん張った。
……なんて事をしようとしたが、駄目だった。まだ転んではないが、もう立て直せないだろう。今は奇跡的なバランスでスキーの様に滑り降りているが、止まってしまうか、倒れてしまうかすれば、きっと二度と動き出せない。
(ざまぁないね、人の事言えないや)
奏は心の中で自嘲した。背中では双樹が必死に叫んでいた。
降ろして!私が引っ張るから。
嘘を吐けと、笑いそう。
双樹はもう動けない。背中でどんどん冷たく、重くなっていく。もう、しがみ付いてる力すらない癖に、私が助けるとは泣かせてくれる。
「…………………………………………………」
このまま二人とも無為に人生を終わらせるぐらいなら。
「双樹……双樹、俺を怒らないでくれ」
「っ!!!!!」
奏は双樹だけでも助けようと望んだ。
双樹を掴み、数センチでも出口に近い所に放ろうと思ったのだ。
それでどうなるかなんて思い付かなかったし、どうやって助ければいいのかなんて分かる筈もなかった。
でも、せめて1%でも生存に近い場所へ。
1秒で良いから生かしてやりたい。
バカなことだが本気で思い、笑ってしまうような行動を取った。
「そう…じゅ?」
「っ……!!」
しかし、双樹が必死に自分の服を掴んでいる事に気が付いた。
途端、ハッとした。
「双樹…ごめんっ!」
覚悟が消え、決心が揺らぎ、緊張の糸が切れた。
張り詰めていた物、抑え込んでいた物が溢れ出し、弱い自分が止められなくなった。
「そうじゅ…ソウちゃん!俺…俺ぇ!」
自分でも何が言いたかったのか分からない。
何も意味を纏められず、放り投げようとする腕を止め、双樹を抱き締めた。
「奏くん…謝らないで」
そんな奏を双樹は笑い、抱き返した。
二人はそのまま泥の中に倒れ込んでいく。
もう……体は前に進まない。
「泣いてないよ、私。奏くんが心配するから…もう泣かないよ」
「うん…うん……」
昔から泣き虫だった双樹は、最後のこの時に笑った。
自身の喜びでも、他人の目を逃れるためでもなく、大好きな人に見せるために。
冷たい雨が降る暗い森の中。冷えていく体で、二人は幼く抱き締め合う。
「ごめんよ」
奏は双樹の頭に顔を埋めた。
「ごめん、双樹。俺、今まで何やっても真剣になれなくて、必死にできなくて……何しても悔しくなくて、へらへら笑って過ごして……それなのに、今になって後悔してる。ごめん、ごめん、双樹。俺がもっと懸命に生きてきて、がむしゃらに成長して、物事を真剣に考えられる奴だったら……そうしたらもっと双樹を引っ張っていって、双樹を守って、双樹を笑わせてあげられたのに」
「奏くん……」
「変に格好付けず、双樹も京成も傷付けず、怪異だって解決して、今頃眠い目を擦って勉強してたんだろうなって。それで、次の模試で双樹に勝つとか負けるとかで競って、勝って喜んだり、負けて悔しがったり出来たんだろうなって……」
「………」
「今になって…悔しい……俺の人生は俺しか生きてあげられないのに、俺は誰かを眺めてるみたいに無駄に過ごして…その結果、双樹に置いて行かれて…置いて行かれるのが当然みたいな顔をして……相応しくないのに……ごめん」
「……」
酷使した筋肉は全て切れ、伸び切り、業務を放棄した。
さっきまでは双樹だけが冷たかったのに、今では奏の体の方が冷たい位だ。
そんな奏の体を、双樹は更に抱き締める。
温もりを分け合うのではなく、共に冷たくなれるように。
「ごめん、じゃないよ。私達には『おやすみ』と『おはよう』しかないんだよ。奏くん」
「ごめん……」
「…奏くん」
「……ありがとう、双樹」
「うん…」
風が、森が、二人を包み始めていた。
迷いの森は深さを増し、光を消し、人間の存在できる領域を塗り潰していく。
直ぐにこの森に正常な部分は消え失せ、二人が二人で居られる余地は消滅するだろう。
けれども二人で残りの生涯を笑い合う。
「この場合、『おやすみ』と『おはよう』のどっちになるんだろうね?」
「おやすみでいいんじゃない?二人で良い夢見ましょうよ」
こんな終わりならいい気もする。二人一緒なら。
「双樹、ありがとう。短い間だったけど…とても楽しい夢を見たよ」
「うん、私も。奏くん、ありがとう」
どうせ長い人生、二人ずっと一緒に要られるか分からないのだ。
ならばここで時を止め、永遠になる。
そんな終わりも、良いんじゃないだろうか?
『短い人生だったけど、とても楽しかったです』
本気で思った。
本当に胸を張れる気がした。
心の底から想い合えた人と出会えたから。
人生の意味なんて考える暇ない程楽しかったから。
変わった恋だったけど、真っ当なハッピーエンドだと思えたのだ。
幸せな人生だったと、倒れる二人は永遠にこの森で惑う。
夏啼きが過ぎ去る頃には冷たい死体となっている事だろう。
もしくは人理の消滅と共に二人は居なくなるのかもしれない。
何人が悲しむかも分からない。
抱き合う死体を見て良かったねと言ってくれるかも知れない。
それはもう二人には関係ない世界の出来事だ。
二人の体力ではこの夜を越えられない。
二人の存在ではこの森で生きられない。
ならば今を永遠にしよう。
二人の声は風に消え、森に惑う。
そんな永遠の物語。
そんな二人の物語。
そんな―――
――たった一秒だけの永遠の物語。
人間なんて大自然の前には脆い物。
一個人など、地上の片隅で生きる生物の欠片。
決意も、純粋さも、努力も、考察も。
時には、無力に踏み踏み躙られるしかないのである。
『反省した?もう懲りた?十年分の寂しさは理解して貰えたかな~』
「へ?」
「は?」
二人が残りの生を生き切ると覚悟した時、見計らったように声が降ってきた。
双樹の声に似たそれはキツネ娘の声で、緊張感も切迫感もない。
寧ろ、ケラケラと笑う声は、実に愉快そうで、楽しそうだった。
『君達二人は全く成長しないね。本当、面白くて、愚かで、愛おしい』
「え……どういうこと?」
『説明要る?ほら、歯を食い縛って。痛いよ。吹き飛ばすから』
そして、雨娘の声も降ってくる。
口の無い女の子はキツネ娘の声を録音した様な声で喋っている。雨と風の音のせいで聞こえ辛く、声はほぼ同じに思えるのだが、其々の声色に性格が滲み出ており、何となくどっちが喋っているのかは分かってしまった。
正直、今そんなことはどうでもよかったのだが。
妖二人が笑い合う声と同時に、奏と双樹はドドドドという嫌な音と振動を感じた。
「な、何だ?何だよ?」
「あ~……そういう事?最高の気分ね」
意味が分からず慌てる奏とは対照的に、双樹はこれが何の音か理解していた。
「この音……土石流よ」
「あ~……」
体の下が動き出したのを感じた瞬間、奏と双樹は遠い目をしてしまった。
土石流。山で起こる地滑りの様な災害で、その威力は絶大だ。車や、家さえも押し流すエネルギーを持っており、最高時速は四、五十キロに到達する。
恐らくは、道筋も含めて風より速く奏達を押し流してくれるのだろう。
「……すっごく反省したからさ、あんまり痛くしないで下さい」
「ええ。本当、悪かったわ。閉じ込めて」
『い~や♪十年動けないって長いよ~♪』
音が迫る。脳裏に未来の衝撃が浮かび、体中が痛くなった。
「駄目。きゃ~、とかいう元気ない」
「アホか!もうちょっと……さぁ!!備えようよ、双樹」
地面の直ぐ下を水が流れる音を聞いて奏は顔を引き攣らせる。
一方で双樹は無気力というか、投げ槍というか、助かるならいいやと脱力モード。
多分、奏とのやり取りをを誰かに見られてたり、奏の気持ちを確かめられたり、まだ生きていけるのだと分かったりで、感情がオーバーヒートしてしまったのだろう。
ドドドドドドドドドドドドドオドドドドオドドドドドオドドドドオドオドド
そんな二人を他所に音は一気に膨れ上がり、
「っ!!!!!!!!!」
「――――――――――――――!?」
瞬間、地面がなくなった。
「来るぞ……うわあああああああああああああああああああ、滅茶苦茶すんなああああ」
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
茶色い大災害は、倒れ伏す奏と双樹を飲み込み押し流し。
暴風を閉じ込める迷い茨の森の外まで、二人を吹き飛ばしたのだった。
『エピローグ』一
「くお~、分からない訳じゃないけど、結構キツイよ…」
とある日の午前中の光芽塾。模試会場である七階の大ホールでは沢山の生徒が机を並べ、各々の思いを胸にテストに取り組んでいた。
眩い夏の光が差し込み、真剣な熱気と静かなペンの音だけが躍るこの部屋で。奏もいっぱしの受験生らしく、模試で結果を出す為に心を砕いていた。
まぁ、夏啼きを防いだ昨日の今日なので、大分お疲れの雰囲気ではあるのだが。
『痛い…死んだよ…これ死んだって…』
『体が…体が動かないぃ……』
土石流に流された後、気が付いたら、奏と双樹は千沢町の敦賀神社の境内にぶっ倒れていた。
倒れる二人の周りに散乱する古い木片は、恐らくお堂だった物の残骸であろう。そこから土石流の威力は推し量れるのだが、普通に考えれば二人の生存は不可解だった。
『やばい、痛い、死にそう、何これ…』
奏は気が付いてから、ひたすら呟き続けている。
別に喋り続ける元気があるという訳ではなく、全身が痛くて喋って気を紛らわせていないと、正常な精神を保てそうになかったからである。
『うん痛い…それに体動かないわ…でも……』
双樹もずっと唸っている。
けれど、双樹は怨嗟を吐き出しながらも、にっと歯を見せた。
『でも…星が奇麗ね。動けないから……良く分かる』
双樹の笑顔は、二人の上の満天の星空と同じ位綺麗だった。
体が痛い。だから……自分達はもっと一緒に生きていられるのだと、心底嬉しかったのだ。
『ああ。粋な事してくれるね』
『都会にはこんな星はなかったわ……』
奏はごろんと体を回し、星を零した様な空を仰ぎ見た。
耳には風の音が聞こえるが、それは普通の台風の音。夏啼きな破滅的な胎動ではない。
そして、敦賀神社の上だけはその台風の分厚い雲も押し退けられており、雲の穴から覗く星空が別段に奇麗だったのだ。
『終わったんだね、双樹。この体の痛みも、胸のドキドキも、生きてるって、分かる』
『うん。終わったね』
この星空も、水で奏達を押し流して助けてくれたのも、雨娘らしかった。
雨娘は不安定な感覚器官である双樹しかいない状態では殆ど世界を認識できなかったらしい。
彼女は単純に双樹を基地局としてコミュニケーションを取ろうとしていたらしいのだが、成長した双樹に妖的な能力は殆ど残っておらず、奏と接触を図るしかなかったらしい。
で、キツネ娘が解放された今はキツネ娘を基地局として喋り放題らしく、さっきまでひたすら続いていたキツネ娘との掛け合いでかなりお茶目な性格である事を披露してくれた。
その一方的なおしゃべり放送の中で分かったのだが、奏と双樹を森の外に出す事はかなり危険な賭けだったらしい。キツネ娘は反対だったとの事だが、それを雨娘が押し切ってくれた感じだった。
そんな騒がしさの後のやっと得られた静寂の時。
誰かに生かされた事を感じる事で、自分達もまた誰かの命を救ったのだと実感出来た。
……それがまあ、自分達のせいで起きた事だとしても、だ。
『どうしたの?双樹』
『別に。動けないだけ』
『そうか。俺もだよ』
双樹は星空ではなく、奏を見ていた。奏がなぜそんなつまらない事をしているのか尋ねたが、双樹は素っ気なく答え、笑うだけだった。
風が遠い。そして、星はもっと遠い。
大きな世界の只中でたった二人、空を見上げて寝転んでいた。
この平穏に誇りを感じ、込み上げてくるモノに目頭が熱くなる。
(双樹を守るって誓いはまだまだ果たせそうにないけど、一緒に歩く位はできるようになったかな?)
奏は答えのない問いを思い浮かべる。
その答えが出るのは、きっと数十年後かに奏が死ぬ時だろう。
その時、傍に双樹がいてくれたら、答えを聞いてみようと思った。
今は、何も言うまい。きっとどんな言葉も違うのだから。
(もう寝よう。そして明日の元気に目を覚ますんだ)
想いは大きく、瞼の裏には双樹の温かさを感じた。
『奏くん…おやすみ』
『ああ。双樹、おやすみ』
二人幼い誓いを交わし、そして静かに寝息を立てるのだった。
で!そこまでは良かった。ロマンチックで幻想的だった。
事態が急変したのは、夜も随分更けた頃だった。
『う~…痛いよ~、苦しいよ~』
『そ…双樹!!?どうしたの!』
恐らく、草木も眠る丑三つ時とか、そんな時分。隣から聞こえてきたのっぴきならない呻き声で、奏は目を覚ました。
慌てて双樹を見ると、凄い汗を掻き、寒そうに自分の体を抱いて震えていた。疲労や怪我で双樹の体調が悪化したのだろうが、どう対処すればいいかなど奏に分かる筈もなかった。
『双樹!頑張れ!大人の人呼んでくるから!!』
『う~……』
奏は大慌てで町に下りると、閉まった商店のシャッターを叩き、店の人を呼んだ。
『え?まさか、田口さん、居ないの?』
しかし、実の所町の人は大分減ってしまっていて、頼りになる知り合いを見付けるのにはかなり骨が折れた。
何故かというと、京成の活躍のせいである。幸か不幸か奏の連絡を受けた京成が大分騒いでくれて、少なくない人達が避難をしていたのである。
で、なんとか頼れる知り合いを見付けた後は、双樹を見て貰ったり、救急車呼んで貰ったりのドタバタ騒ぎ。そもそも奏と双樹が居ないという事で既に大騒ぎであったらしく、集まった大人達に随分怒られた。
とは言え、両親達を含む元千鶴沢の何人かは何が起きたのか理解していたらしい。そして、奏達の思った通り千鶴沢の人達は一人も避難していなかった。
彼らは大人しく破滅を受け入れる覚悟だったらしいのだが、何がどう拗れたのか、その破滅の運命を祇蔵の奏と守上の双樹が覆した!という流れになってしまい、かなり困った騒動になり掛けた。
そして、呆れたのは双樹である。双樹は担架が到着する頃には呻く元気もなくしていたらしく、本当に心配になる位青い顔をして、ぐったりとしていた。
だと言うのに、担架で運ばれていく際に残した言葉がこれである。
『明日…っていうか、今日の模試は頑張るのよ!奏くん』
『は?』
『駄目でもいい。トライアンドエラーでしょ!』
『いや、そういう事に驚いた顔したんじゃないからね!?受けるか微妙な心境だったんだよ』
『え……』
『いや!受けるから!そんな泣きそうな顔しないでよ』
『とにかく満点取ってクラスを上げるのよ!絶対、私と一緒に帝都高校行くんだからね!』
『それ全国で一番難しい高校じゃないか!?』
『だって、私そこ受けるもん?』
『え?』
『え?』
『………』
『……?』
『あ、はい…頑張ります』
つまり、双樹は、奏や沙希が心配?したように奏のために自分の受験ランクを下げるなんて全く考えていなかったらしい。むしろ奏を何でもできるスーパーヒーローか何かだと錯覚しているらしく、双樹の中では何がどうなってかは分からないが奏が受験までに自分と同じ学力水準に達すると確信しているらしかった。
周囲は苦笑いというか、微笑ましいというか。妙な空気に包まれたものだった。
そういう訳で、双樹の遺言を無為にする訳にはいかぬと、模試に取り組む奏であった。
「でも、ここ3日位、勉強してないんだよ」
奏は大きな溜息を吐いた。
この所、夏啼きに対応すべく奔走した(り、沙希とデートしたり、夏祭りを楽しんだりしてた)せいで、全然机に向かえてなかったし、授業もサボりがちになっていた。
双樹との予習のおかげで、それによる学力低下とか、試験範囲を攫えなかったりとかはないのだが、難儀なのは精神的な部分である。
つまりは集中力。頭が勉強モードになってないので、気合いが入らないというか、踏ん張りが効かないというか、もう負け戦の体だったのだ。
「頑張るね~、少年。というか、そこ間違ってるよ」
「ん?あ、本当だ」
それでも諦める訳にはいかず、奏は指摘された箇所を消しゴムで消す。
(ん?)
「うお!?キツネ娘!お前何で此処に居るのさ!?」
見ると隣でキツネ娘がふわふわ浮いており、奏の答案用紙を覗き込んでいた。
「大丈夫。ボクは人に見えないから」
「いや、そういう事じゃなくてだね……」
「『クジャ』だよ。よろしくね…って、どうしたの?頭を抱えて」
「だから、どうして、ここに居るのさ?」
「今この状況でボクを見て、湧き立つ疑問がそれなのかい?」
クジャは腕を組み、疑問の作り方が下手だね~、と首を振る。
「我が娘は成長して、結構な存在になってたさ。でも、君はまだまだだから、今度は君に憑くことにしたんだ」
「双樹の時は、双樹の中に居たでしょ?俺の中に入るつもりなら、止めてよ。お前らの善意は、人間にとっては大概迷惑なんだから」
「言うね~。でも、心配ご無用!我が娘に比べて、君はボクと親和性が無いからね。君の持ってる狐鈴に憑いて来たんだよ」
「それは助かったよ。でも、俺はそんなに情けないままかな?」
「落ち込むな、少年!君の我が娘への愛は無様だったけど、嫌な物じゃなかったよ」
「…それはどうも」
「別に君がしょうもなくて、逐一監視してないと、我が娘の婿に相応しくなれないとか思った訳じゃないから安心して!」
「いや…婿とか…いや、まあ……はい…というか、しょうもないって…」
「君がまだ頑張ると聞いてね、興味で付いてきたんだよ。大丈夫!あの頑張りを見せてくれた君なら、こんな試験なんて瑣末な事、きっと乗り越えられるよ!」
どこから来る自信か知らないが、クジャは奏を力いっぱい肯定してくれた。
「……」
そんなキツネ娘の自信に、奏は頬を掻いて照れてしまった。
もう正直気力も体力も残ってないし、全身痛いし腫れてるし、すぐにでも帰って眠りたい気分なのだ。このテストだって、事情が事情だから、かなも大目に見てくれるとは思う。
だから、次に頑張ればいいのだ。次に。
だから……だけど、
「……………………おう!頑張る!」
自分の頑張りを全部見ていた人?に褒められ、眠気も疲れも吹き飛んでしまった。
自分でも単純だなと笑みが零れたが、笑えたのだから今日は大丈夫だろうと思い、最後の気力を振り絞る事にした。
「やるぜ!テスト!燃やすぜ青春!見とけって、いっちょ双樹のクラスに上がるからさ」
「その意気、その意気」
「そして、絶対受かるよ!帝都高校!そして、帝都大学だ!」
「お~、良く分からないけど、我が娘基準に飛び込むってことだね」
「ああ、双樹にだって負けるものか!」
「その意気、その意気だよ!」
「でも、間違いは、もう指摘しないでよ。自力でやるから」
「お~、気持ち悪いぐらい迸ってるね~。了~解だよ」
窓の外には台風一過。輝く太陽が顔を見せている。
冷房の効いた教室には、受験生皆の熱気とやる気が溢れていた。
奏と双樹の中学三年の暑い物語。
不思議な季節と変わった恋は、まだ始まったばかりである。