顔のない少女
第二章『声のない少女』一
「マジで行くんだよね……何回考えても滑稽だね、俺」
千沢町から外に出るバスに揺られながら、奏は何度目かの弱音を吐いた。
後悔というか、恐れというか、何か冷たい物が脚の下から這い上がって来る気分で、情けないと分かっていながらも弱さを吐き出していないと耐えられそうになかった。
「今更泣き言?情けないわよ」
隣に座る双樹も、何度目かは分からないが奏を嗜める。
何度も同じ弱音を繰り返す奏も大概だが、毎回怒ってあげる双樹も中々のものだ。そのあたりを見るに双樹は意外にも、面倒見が良いのかも知れなかった。
現在、夏真っ盛り、夏休み開始日。授業から解放され、普段と違う日常に心高鳴る時節。
見える景色も一味違い、心地の良い朝の木陰が季節を涼しげに彩る。朝の弱い奏と言えども、寝起きの時には涼やかな空気を感じ、これからの始まる日常にときめいたモノだった。
しかし、双樹とバス停で合流する時には既に弱気が頭をもたげていた。『今から見知らぬ世界で勉強だ』と思い出して気分が重くなり、二人を乗せた樹茨町行きのバスが山間部を走り抜けていくに連れて、重い気分は底なし沼の様に奏を引き釣り込んでいったのだった。
「分かってるけどさ…俺素人で、馴染まないというか、笑われないかと心配でさ」
「素人って、なんのよ?」
「勉強の」
「勉強の素人ってなによ?」
「知らないけどさ…なんかこう…分からない?」
「分からない。変な事言ってると、アホくさいわよ」
千沢町から山を二、三越えた先に『樹茨町』がある。その樹茨町に教室を構える『光芽塾』が、今回奏達が夏期講習を申し込んだ塾である。開催されるのは短期強化型の夏期講習で、塾生だけでなく奏達の様に近隣からも沢山の人が参加するらしい。
奏だって授業を受ければ学力が上がると言われれば、中々楽しみである。夏を越えた後に、どんな自分に成れるのか夢想するのは、悪い気分ではなかった。
だが、奏が諸手を挙げて講習を享受できない理由が二つあった。
その一つがクラス分けである。
講習を申し込む時にテストがあり、一応は二人とも合格した。だが、それは申し込みのテストであると同時にクラス分けのテストも兼ねていた。テスト結果により双樹は一番高いレベルのクラスに入り、奏はギリギリ合格のクラスに振り分けられてしまったのだ。
そして、もう一つの理由がテストの時に感じた『皆が皆、勉強する為に集まっている』という雰囲気と、『知らないところに来てしまった』という場違いな感覚である。
奏は今まで家や図書館で一人で勉強する事が多かった。学校の授業は自学の復習程度に思っており、当然一緒に勉強する級友達をライバルとは思っていなかった。だから、テスト会場で初めて感じた『競争相手』達の存在にある種驚き、竦んでしまったのだ。
「そ、そんなに私と一緒のクラスじゃなかったのが、嫌なの?」
「いや、それはいいんだけどさ」
「……」
「どうしたの、双樹?」
「べっつに……」
「テスト受けた時の塾の雰囲気あるじゃない?」
「雰囲気ねえ……」
「皆、真剣でさ、一生懸命だったんだよ」
「奏くんも、全力でやったんじゃないの?」
「そりゃ、頑張ったけど……でも俺も場合は、受験に取り組む動機も不純で、そもそも思い付きみたいに講習に行きたいと思っただけなんだよ」
「まあ、そうなんでしょうね」
「動機の不純な俺と違って、皆は今まで進路について考えてて、それでこのテストを受けに来てるんだろうなって思うと、自分があの場に相応しくない気がしてきてさ」
「不純不純ってさ…」
双樹は奏から目視線を外し、天井に逃がした。
「そんな高潔な動機で受験に臨む人なんて居ないわよ」
「そうかな?」
「そうなの」
テスト会場でもある光芽塾の入るコンクリートで出来た七階建ての建物には、嗅いだ事のない匂いがした。焦げ臭いような、埃臭いような、香ばしいような匂い。
言い表して近いのは、スポーツ競技の全国大会の雰囲気だろうか。長い間の練習を経て勝ち抜き、共通の意思を持った者達が集い、優勝を目指して競い合う神聖。
奏には試験会場がそういう場に見え、自分は相応しくないと感じてしまった訳である。
「……はぁ、全く。恰好良くなったと思ったら、これよ」
「褒めても飴くらいしか出ないよ?はい」
「ん……あふぃがと。とにかく、あの会場の半分以上はテストに落ちてるんだから、高尚な理由だろうと何だろうと、半分以上は奏くんよりパフォーマンスが悪かったんでしょうが」
「あ……そういえばそうか」
「そうよ。奏くんが凄いって感じてた人達の半分は間違いなのよ」
「いや、でもさ?」
「でももぷにもないわよ」
「ぷにってなにさ」
「もう……」
奏の情けなさを前に、双樹はこめかみを押さえてしまう。
もう少し話をして根性を叩き直そうかとも思ったが、このまま話を続けては初授業の前に奏のテンションが下がり切ってしまいかねなかった。
「……夏祭り…あるんだよね?八月に入ってから」
「おう?」
双樹が下手な話題転換に取り出したのは、昨日京成に誘われた夏祭りの事だった。
奏に任せていた双樹の夏祭りへの勧誘だったが、いつまで経ってもはぐらかすだけの奏に業を煮やしたのだろう。終業式の最中、京成が双樹を夏祭りに誘ったのだ。
勿論、京成の気持ちは分かっていたが、奏の胸がざわついたのは確かだった。
「あるよ。千鶴沢でやってた夏祭りを小さくした感じの」
奏はその話題は少し嫌だったが、双樹が気分転換に選んでくれた話を無下に流す訳にもいかなかった。
それに京成は双樹を誘うだけは誘ったのだが、双樹の答えを聞く前に逃げてしまったのだ。
その為、返事の確認を奏がしないといけなくなった訳である。
「『沢隠し』の事ね?」
「サワカクシ?何それ?」
「奏くん、『沢隠し』知らないの?」
「え?知らないけど」
「嘘でしょ…」
「生涯で一度も嘘吐いたことないよ」
「嘘吐き!英単語とか一つも覚えてなくていいから、これは覚えといてよ」
「そんなに大事なの!」
「だ・い・じ!」
「わ…分かった……」
「あのね『沢隠し』って言うのは、千鶴沢では大事だったお祭りなの。この前のお茶らけた神様の話と被っているから説明するけど、ちゃんと覚えておいてね?」
「わ、分かった」
お茶らけた神様の話とは、以前奏が京成に聞いたドジな神様の話だろう。
千鶴沢の因習と聞いて拒否反応が出そうになる奏だったが、双樹がそこまで大切にしているなら仕方ないとなんとか堪えた。
「絶対に知らないって事はない筈なんだけどね…奏くんは」
双樹は奏の無知が気に入らない様で、ぶつぶつ文句を垂れてから説明を始めた。
それが『森神』双樹が語り聞いていた話。
千鶴沢の外れの森に住まうキツネの話であった。
奏達が昔住んでいた千鶴沢では『沢隠し』という祭りがあった。
千鶴沢の西の山にある『敦賀神社』で行われる祭りで、簡潔に言ってしまえば、千鶴沢にある敦賀神社の鈴を千沢町にある敦賀神社に持っていく祭事である。
行程は決まっており、千鶴沢を出て、樹茨を通り、そして千沢に行く。
今でいえば千鶴沢から北西方向にバスで二時間行くと樹茨町に着き、樹茨町から南西の方向にバスでまた二時間行くと千沢町に着く。だが、道の整っていない昔は道に火を焚き、丸一日かけて移送を行ったそうだ。
なぜそんな祭が有るのか?
離れた地に同じ名前の神社が存在するのか?
それは千鶴沢に伝わる伝承によるらしい。
曰く、昔千鶴沢の辺りでは悪い鶴が暴れていた。鶴は雨の神様を誑かし、人を襲い、食料を奪い、田畑を荒らし、家を倒し、それはそれは悪逆非道を尽くしていたそうだ。
村人達は大変困り、毒には毒をと山で悪さをしていた狐に相談する事にした。
村人の相談を受けた狐は、驚いた事に二つ返事で村人に知恵を与えた。
狐が言うには千鶴沢と良く似た地を探し、そこに敦賀神社と良く似た物を作れとの事。そして、偽物の神社で鈴だけは本物を奉り、鶴に千鶴沢の場所を分からなくせよ、という事だった。
そんな事で大丈夫なのかと村人は首を捻った。ただ、他に手立てもない村人達は、騙された心地で鶴が暴れても千鶴沢に被害が及ばない離れた盆地を探し、神社を作った。
そこが千沢の地だった。
村人は千沢の地に敦賀神社を建て、鶴に見付からない様にこっそりと鈴を運び込んだ。
やがて、鶴が暴れる時期が来、村に甲高い鶴の鳴き声が近付いてきた。人々は家で身を寄せ合って怯えた。
しかし、待てども、待てども鶴は来ない。外に出て見ると、確かに鶴の暴れる声が聞こえたけれども、それは鶴が千鶴沢で暴れる音ではなかった。
狐の企て通り、鶴は千鶴沢ではなく千沢の地へ赴いたのである。
村人は驚き、喜び、そして感謝した。無事に過ごせた人々は、お礼をすべく狐を探した。
けれど、不思議な事に狐は何処を探しても見当たらない。代わりに偽者の敦賀神社の鈴がなくなっている事だけを見付けたのだった。
以降千鶴沢で鶴が暴れる事もなく、偽の敦賀神社に運ばれた鈴は、毎回ちゃんと失敬されてるのであった。
「てのが『沢隠し』に纏わる話よ」
「あ~、何となく覚えてる…てか、妙に覚えてるな…昔話は知らないけど」
双樹の話を聞いて、奏の中にもやもやした記憶が立ち込めた。昔話は全く知らなかったが、沢隠しという行為は記憶にある気がしたのだ。
とは言え、それを『覚えている』と評して良いかと言えば答えはNOだろう。
「もう!千鶴沢に残る昔話なんだからね?私達が大切にしないと」
「いやはや、面目ないね」
説明を終えた双樹はどこか寂しそうで、奏は申し訳ない気がした。
(しかし、キツネ……か)
千鶴沢でキツネの子と呼ばれてきた双樹。その双樹の口からキツネという言葉が出る度に奏は身震いしてしまう。
双樹は、キツネの子と呼ばれる事を気にしていないのか?
それとも、荒唐無稽な話だと鼻で笑っているのか?
もしくは動かせない事実として、そこにあるのだろうか?
因習を嫌うだけで踏み込んで否定できない奏は、双樹の真意を確かめる術もなく、もやもやしたままバスに揺られるのだった。
「どうかした、奏くん?」
「どうもしないよ、双樹」
「…めんどくさいわね、奏くん」
「自分でもそう思う」
光芽塾の自社ビルは少し暗い雰囲気で、外観はちょっと立派な雑居ビルといった所。白い壁に大きな青い看板があり、看板には塾の名前が刻まれている。
古びたビルだが入り口は中々に豪華に設えられており、一階と二階の半分を吹き抜けにしたエントランスが生徒達を迎える。一階で受付や様々な掲示がなされ、二階には面談や休憩用のスペースが用意されている。一、二階部分のみがエスカレーターで繋り、一階から七階へは階段とエレベーターで結ばれていた。
中は小奇麗にされているが、教室以外の照明が落とし気味で、雨の日はかなり暗いと予想できた。三階から六階までは、一階ごとに三、四個の大小様々な部屋があり、教室として使われている。最上階の七階は主に飲食スペースとして使われており、更にちょっとした集会も出来る大ホールもこの階に用意されている。
奏と双樹の二人は塾のすぐ前にあるバス停で降りて一階の受付に向かう。そして、受付で手続きを済ませ、教室へ向かおうと思った。だが、エレベーターは生徒でごった返しており、暫く待たねば使えない雰囲気であった。
事務の人に確認すると、案の定授業前はだいたいこの混雑らしい。なので、生徒の殆どはエレベーターではなく階段を使うらしかった。
「お~、階段高いね」
奏と双樹もエレベーターは諦めて階段を使う事にした。
階段の壁の一方はガラス張りになっていて、樹茨町の街並みを奏達に見せてくれた。
人や車の行きかう道、空を支えるかの様に高いビル達、正面のビル壁に設えられた巨大なスクリーンではテレビのCMなんかを流していた。
奏は窓の外に見える『都会』という感じの景色に感心し切りであった。
「あんまりキョロキョロしないでよ。田舎者っぽいでしょ」
「仕方ないよ。俺達田舎者なんだし」
「奏くんはね。私は違います~。田舎者じゃないわよ」
「そうか。双樹は、この前まで大きな町に居たんだっけ」
「そうよ。忘れてたの?」
「忘れてた」
「……もう」
双樹は奏のあっけらかんとした笑いにムスッとするが、どこか機嫌が良い様にも見えた。
「じゃ。またね」
「あ~、双樹は上まで登らなくていいのか」
三階に上がった所で双樹は脚を止めた。ここが双樹の入ったクラスのある階である。
この塾の構成としては下の階に成績のいいクラスがあり、上の階に行く程下位のクラスになっている。生徒は主に階段を使って教室に行くので、成績上位者のクラスを下の階に作るのはある種の優遇措置なのであろう。
「頭のいい奴は良い想いしとるね」
「そうよ、分かってるじゃない」
「う……皮肉のつもりだったんだけど」
「刺激のない生肉みたいな文句ね。お腹壊しそう」
双樹は歩き出し、振り返りもせずに手を振った。
「優遇されたかったら、上がって来なさい。男の子でしょ?」
「男とか女とか関係ないよ」
「あるわよ。入試における男女の平均点って、結構開きがあるのよ」
「それ、関係あるの?」
「ないけど。格好付ける参考にして」
(双樹はいい嫁になるよ、本当もう…)
冗談半分で思ったが、恥ずかしいので口に出すのは止めた。
奏は代わりに面白くない冗談でも。
「クラス的には上がりたいけど、物理的には下がりたい訳だよ」
「冗談の言い方も勉強してきなさいよ。つまらないから」
「席~。席は何処かな」
奏は受付で貰った番号と廊下に張り出されている掲示を照らし合わせながら、自分の教室と席を探していた。
奏のクラスのある6階のフロアには教室が2つ有った。
大きい方の教室の前の張り紙に奏の受付番号が入っていたので、そちらが奏の暫く世話になる教室らしかった。
「う…」
教室に入った途端、既に座っていた人達からの注目を浴びた。知らない瞳の全てが自分を見ている様に感じ、物怖じしてしまう。
教室は広く、白で統一されていた。と言っても汚れも目立ち、白というよりは灰色の印象が強い。後ろの席でも授業が良く見える様にとの配慮なのか、部屋の奥行きは浅く、横に長い造りになっていた。
そのせいで黒板脇の扉から入った奏は、全ての目と相対する事となった。自分を値踏みするような、もしくは警戒する様な知らない色を持った瞳の数々に晒される。
(しっかし、まぁ、見事に知らない奴ばっかだね。こりゃ、双樹が『講習は友達作りに行くんじゃない』って言ってた理由が分かるってもんだよ。打ち解けられる気がしないね)
奏は逃げる様に奥に進みH―1の席を見付けた。
奏の席がH―2なので、壁側から一つ入った所が奏の座席だ。
「すいません。後ろいいですか?」
「ん?は~い。おっけおけ」
H―1の席に座り、グデッとしていた女の子に声を掛けると、椅子を引いて道を開けてくれた。奏は女の子の後ろを通って座席に付き、ようやっと一息を吐いた。
「どもども……これは大変な所に来ちゃったよ」
全く知らない視線の中を逃げてくるのは、意外に疲れた。いや、疲れたと言えば片道二時間のバス通学も含めての疲労も無視できない。
しかし、これから授業を受け、同じく二時間かけて家に帰り、復習をして、また明日ここに来る。それが毎日続く訳だ。
初っ端からこの疲弊感では、長い講習を乗り切れるのかと不安になってしまった。
「ねぇ、こういうとこよく来るの?」
「ん?」
そんなお疲れな奏に、元気な声が掛かった。
椅子を引いてくれた隣の子だ。
「いいや。全くの初めて。君は?」
「私も初めて。初めて同士、よろしくね。私は吉住沙希」
ニコリと笑う彼女は、明るめの髪を長めに伸ばした元気そうな少女だった。
奏は、ここで初めて彼女が美人である事に気が付いた。
「俺は祇蔵奏。千沢町から来たんで、町の事も知らないんだ。その辺もよろしく頼みたい」
「そーくんだね。おっけおけ。任せといて。私地元だから」
「沙希は都会っ子なんだね。凄いや」
「いやいや、それ程でも~。ま、樹茨町が発展してるのは駅前だけだしね」
「そうなの?これでか~……」
「そんなに凹む所?」
「いや、千沢町と比べたら外国レベルだからさ」
「あはは、そこまでなの?ちょっと見てみたいね」
沙希は人懐っこい雰囲気そのままの人物で、話していてとても楽しかった。
奏も奏で現金なもので、一瞬前までの塞いだ気持ちは既になくなっていたのだった。
「え~…と、何?」
必死に受けている内に授業は過ぎて、待ちに待った昼飯時がきた。
九時から始まった授業は、学校に比べて難しかったが、反面とても面白かった。参考書との睨めっこが多かった奏に取って、教える事を考えた講師の生きた講義は新鮮だったし、近い学力の人達の授業への反応を感じて自分の理解の程度を確かめられるのも有難かった。
とは言っても、この講習の授業は一授業90分。学校の倍である。慣れない長さの授業は疲れたし、そもそも覚えるべきことだらけで気力の消費が激しかった。午後もまた授業が待っている事を考えると昼休みは、気力を入れ直す大切な時間であった。
その休憩を支える七階のフードスペースは、階の半分を使った広い空間に、沢山のテーブルと椅子が並べられているだけの場所だ。一応自販機コーナーも有るが、適当なラインナップで6台並んでいる位。基本的には食事をメインにする場所ではなく、持ち込みの食べ物をつまみながら授業の隙間の時間に自習したりする場所なのだろう。
「えと…双樹さん?」
で、授業の終わった奏は、双樹より先に七階のフードスペースに行き、席を確保していた。幸い教室が六階だった事もあり、席は難なく取ることが出来た。
後は双樹が到着しさえすれば、有難く弁当に有り付ける所だったのだが、双樹の到着と共に問題が起きてしまったのだ。
奏を見つけて寄ってきた双樹は、凄く機嫌が悪かったのだ。奏の座るテーブルの前で仁王立ちし、無言で睨むばかり。長らくその状態が続いており、フードスペース内にもちらほら異変に気付く者が出始めた程である。
奏は双樹の威圧感と周りのざわつきに耐え切れず、視線を弁当に落とした。
使い慣れた弁当箱が、見知った布で包まれている。中身は母親に作って貰ったご飯だが、きっと美味しいだろう。おかずは何だろうか?まさかカレーということは無いだろうが、それでも好きなものが入っていれば嬉しい。
「ねえ!」
「おお!おお…」
弁当箱の中身に現実逃避しようとしたのだが、あざとく見抜かれて呼び戻された。
「どうしたの…双樹?」
「一つ聞きたい事があるんだけど?」
「お?何でも聞きな?弁当の内容?フードスペースの使い方?それとも授業で分かりにくい所があった?俺が教えれるかは分からないけど、一緒に考える事は出来るよ。一緒に考えるってのは大事だ?質問して教えられる事よりも、質問する事自体が学力の促進に…」
「ねえ!」
「…ごめんなさい!」
「この子、誰?」
「へ?」
不機嫌な双樹が何を言うのかと思えば、見知らぬ顔の紹介が欲しかっただけらしい。
奏は隣に座り、何事かと状況を見守っていた沙希と顔を見合わせ、胸を撫で下ろした。
「彼女は吉住沙希だよ」
「はぁい!私は沙希よ。よろしく。そーくんと席が隣なの」
「奏くん!」
「はい!ごめんなさい、何で!?」
自己紹介をしてもらったのに、双樹は挨拶も返さずにこめかみをピクピクさせていた。
まるで鏡を前に怒る猫の様で、目を凝らせば猫耳と尻尾が見えそうだった。
「…………いわよ」
「え?なに?」
双樹は何かを呟くと、クルリと踵を返した。
「もう良いって、言ってるのよ」
「もう良いって双樹………ちょ!どこ行くんだよ!」
「何処でもいいでしょ!」
奏が戸惑っている内に、双樹はフードコートの外へと走り出してしまった。
小さい頃に野山を駆け回っていた健脚は健在らしく、双樹はあっという間に見えなくなってしまった。あの足の速さから見るに、双樹は勉強だけでなくスポーツも出来る文武両道なのだろうなと思ったりしました。
…ではなく、嵐の様な双樹の行動に、さしもの奏も茫然と見送る事しか出来なかった。
追うタイミングを逃した奏は取り残され、周りに何だ何だと注目される。
しかし、何が起きたのか説明して欲しいのは寧ろ奏の方であった。
「あっちゃぁ、嫌われちゃったかな?私」
「いや、双樹が社会不適合なの忘れてたよ」
「そーくん、追う?」
「なんで、沙希は目を輝かせるのさ?」
「だって、おいしいシチュエーションじゃん」
「当事者になって見なよ。ドラマチックなんて要らないから」
「冷めてるぅ」
沙希は楽しそうにけらけらと笑う。
双樹を追い掛けようとも思った奏だったが、暫く考えてから浮かせた腰を下ろした。
あの速度で逃げられたら追い付きようがない。それに見知らぬ町中に出られたら、今度は奏の方が道に迷って帰ってこられなくなるだろう。
後、慣れない授業に気疲れしている今は、不機嫌な双樹より笑顔の沙希と一緒に居る方がいいかなと思ってしまったのだ。
強ち嘘ですよ、と自分に言い訳をしながら、奏は双樹のために買っていた缶コーヒーを沙希にあげ、昼ご飯に取り掛かるのだった。
木々に覆われ、まだ日中だというのに山道は暗く。
静音という名の異音に包まれるバスが走り抜けていく。
重く、暗く、ヘドロの様に沈殿する無音。
濁り、混ざり、微生物の様に漂う不機嫌。
不快な汚物を載せて揺れるバスは、精神衛生上宜しくなく。
疲れている奏の疲労を倍増しに増やしていった。
「…双樹。なに怒ってるのさ?」
「……」
奏は双樹の後頭部に、何度目になるか分からない質問を投げかける。
そして、問われた双樹は何度目かになるか分からない沈黙を守った。
双樹は昼以降黙ったまま、何も喋ってくれない。
いや、放課後直ぐに教室に来て奏を引っ張っていく時に、一言二言言っていた気がするが、あれは言葉というより鳴き声に近いので厳密に言わなくてもノーカウントだ。
だから、どう聞いたって答えは返ってこず。
そして、何度謝ったって許してもらえない。
ガラガラのバスの中、態々離れた席に座る双樹の後姿を見るのもしんどくなってきた。
だから、いい加減、限界だった。
奏は投げ掛ける言葉に少し怒気を混じらせた。
「謝っても許して貰えないってのは、俺が悪い訳じゃないからかな?」
「……そうよ」
奏の苛立ちを感じてか、はたまたタイミング的なモノか。
言葉を掛けられた双樹は、久しぶりに声を出してくれた。
のだが、その受け答えは酷くメンドクサイ。
「そうかい?ソウちゃんが悪いの?」
「ソウちゃんって呼ぶな」
「へいへい。悪かったよ」
「そうよ…私が悪いのよ。私が悪いんだ」
奏に文句をぶつけてくれればまだいいのに。
双樹は自分を責め、背中を丸めてしまう。
「あのさ、双「悪いのは、私なのよ。ううん。悪くない。情けないだけ」
「……ったく」
双樹はなんだかとっても自己嫌悪。この双樹は、千鶴沢で泣いていた彼女に瓜二つだ。
それがいいか悪いかなんて知らないが。なんにせよ、気に入らない。
「あのさ、双樹」
「…なに?」
「夏祭り、行こうよ?京成は誘ってたけたど、行くか行かないか答えてないでしょ?俺が聞くから、俺に答えを聞かせてよ」
「え…」
「え?って、何さ」
奏の質問で、変な雰囲気は止まり、代わりに双樹の間の抜けた顔に出会う。
奏自身、夏祭りの事を決めていないのが双樹の怒りの根本とは思っていなかったが、少し強引に話を進める位いいだろうと思ったのだ。
「奏くんは…奏くんって……」
「ど、どうしたの、双樹?」
「どうしたもない!」
双樹は立ち上がり、烈火の如く捲し立てた。
「行くわよ!馬鹿!奏くんは、私がそんな事で怒ってると思ってたの?馬鹿にしてる?してるよね?馬鹿ぁ!今、全然関係ないでしょ、それ!」
「え?いや、だって…ごめんなさい……」
「ごめんって、失礼しちゃう!また謝って!私をどれだけメンドクサイ女と思っているの」
「いや、むしろ思った以上に面倒くさいという事が…」
「なに!?」
「いえ!別に何でもないよ!」
「もう、知らない!」
双樹は盛大にそっぽを向き、またもや沈黙を生み出す機械となってしまった。
違うとすればその様相。さっきまでが無力を見詰める沈黙とすれば、今は暴風に耐える沈黙といえよう。シシュポスの苦心から、白雪姫のご機嫌を取る苦労に転進したらしい。
「あの~…なんか知らないけど、ごめん」
「ふん!」
「双「知らない!」
「さ「黙ってて!」
「し「うるさい!」
「す「遊んでるでしょ!」
「せ「なんなのよ!」
「ソ「ソウちゃん言うな!」
いや、運転手さんから見れば沈黙どころか、二人は随分と騒がしかったに違いない。
「……ったく、足速いね」
沈黙を乗せたままバスは千沢町に到着した。バスが着いた途端双樹は速足で降車し、奏を待たずに帰路に付いてしまった。
追い掛ければ追い付けるのだろうが、二時間の沈黙に疲れ、また追い付いたところで何を話せる訳でもない。ので、奏は双樹の後姿を黙って見送る事を選択した。
三時に塾が終わり速攻でバスに乗る羽目になったので、今は午後五時少し過ぎ。電灯の少ない田舎とは言え、この時間はまだ明るく、双樹を送らなくても大丈夫だろう。
「無駄に疲れたね……」
奏は寄り道して帰ろうかと思い、帰宅とは別の方向に足を向けた。
その瞬間、
「う……」
双樹との再会の日に出会った不思議な女の子が、目の前に立っているのに気が付いた。
いつの間に立っていたのか?
何のために現れたのか?
暑さからではない汗が肌から噴き出てきた。
太陽は有った筈だし、辺りも暗くない筈なのに、今が昼なのか夜なのか認識できなくなる。
着物の様な服を着た幼い女の子。口は無く、表情のない目で奏を見詰める。
何かを訴えかけている様子なのだが、言葉を発しないので何を言いたいのかは分からない。
「何なのさ……お前は……」
最近、こいつは事ある毎に出てきては、奏に無駄な時間を過ごさせる。
その姿は何故だか奏を苛立たせ、恐怖させる。
見透かされている様で、見下されている様で、恐怖性の攻撃性が沸き立ってくる。
拒絶したい摩訶不思議を見せ付けられている様で、足元から溶けていきそう。
「なんか言えよ!」
恐怖する。
なぜ?
知らぬが本能的に腰が引ける。
こんな女の子に?
意味が分からない。訳が知れない。
それは脅威。
古い因習の村、千鶴沢。
妖怪の伝承が色濃く残り、生贄の祭りが連綿と続いた村。
そう聞いている。だから拒絶したい。
因習など悪い事だ。伝統など無駄な事だ。
そんな風に思い、何も知ろうとしなかった。
何があって、何が起きて、誰が悲しんで。
そんな事を知ろうともせず、無知に逃げ込んだ。
だから、実態は何一つ知らない。
その無知が、形になって目の前に現れている様で。
自分の無能を晒されている様で。
奏は殺意すら持って女の子を睨み付ける。
――ナツナキ
そんな言葉を聞いた気がした時だ。
「う……」
地面が消え、奏は透明な千沢町に立っていた。その足の遥か下に何か大きなモノがいた。
風が吹く。風が渦巻き、奏を煽る。
「うわ……あ……」
立っていられない風。突風ではなく、地面から吹き上がる渦巻き状の風。
風が濃くてまるで液体。海の底に叩き込まれた様に、深くて硬い風に溺れそうになる。
「息……出来ない……!」
足掻き、手を伸ばす。地面を張って必死に進み、女の子へと手を伸ばす。
泣きそうな顔で、恐怖した女の子に助けを求める。
その様は無様で、滑稽で、情けなくて。
冷徹な瞳が奏を蔑むように見詰め――
ふと、風が止んだ。
「はぁ…あ……かは……」
女の子の姿もなく、風も吹いていない。
地面も舗装されたコンクリートでしかなく、その下に化け物の欠片など感じられなかった。
何だったのだ、今のは。
ワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイ!
何も理解できないし、どれも受け入れられない。
奏の体が震え、死にも似た恐怖が奥底から広がっていく。
「あ……あああ!」
落ちた、溺れた、息が出来なかった。
今のは何だったのか?
今のは何だったのか?
今のは何だったのか?
疑問の言葉だけが台詞の様に湧き出してくるが、一歩として解消に踏み込めない。
思考は巡らず、考察は立ちいかず、解決には到底至らない。
超常現象から解放された事によって恐怖は膨れ上がり、怯えは倍増しになっていく。
手足が震え、さっき感じなかった落下感、地面の崩壊を幻視した。
怖い怖い怖い怖い怖い何故だか分からないけど怖い!
「双樹!助けて!」
「へ?……うわ!」
奏はいつの間にか双樹の背中を追って走っていた。
双樹に追い付くと、驚く双樹の腕に縋り付いて地面に膝をついた。
「どうしたの!奏くん」
「う…うう……」
双樹は奏の傍にしゃがみ込み、何があったのかと辺りを見回す。
奏は双樹の傍に行った事で緊張が解けたのか、腰が抜け、言葉も出なくなってしまった。
「奏くん……」
双樹は何も言えない奏を持て余し、奏が落ち着くまでの間、ただ傍にしゃがんでいた。
その間奏は息の仕方すら忘れた様に、ぜいぜいと耳障りな呼吸を続けていた。
「奏くん、落ち着いた?」
長い時間を過ぎてから、双樹は恐々と声を掛けた。
奏はゆっくりと頷き、双樹の腕を離した。
「……ごめん」
「…ちょっと歩こう?」
「……うん」
奏は汗だくで、血を絞り出したかの様な嫌な不快感が纏わりついていた。
平坦だがよく聞けば不機嫌ではない双樹の声に促され、奏は重い腰を上げた。
「自分で歩ける?」
「大丈夫、歩ける。心配掛けてごめん」
「うん……」
奏が頷くのを確かめると双樹はやや先行して歩き、奏は双樹の斜め後ろを歩いて行った。
自身の恐怖に驚く奏の意識には地面すらなく、景色すらなく。
火を求める夏の虫の様に、覚束ない足取りで双樹の背中を追っていった。
双樹が向かったのは敦賀神社だった。
双樹は後ろに無言の奏を伴ったまま神社に続く石段を登り、木々の道を抜けていく。
やがて双樹は鳥居の下で立ち止まり、後ろを振り返った。ここは隠れた絶景スポットで、盆地の千沢の町が一望できるのである。
「久しぶりね。ここ」
双樹は階段の最上段に腰かけ、町を眺める。
暮れ泥む盆地の町。周りを山に囲まれているので太陽が沈むのが早く、夕暮れを楽しめるのは僅かな時間だけだ。
しかし、盆地の皿に太陽の光を零したようで、この時間の町はとても美しいのである。
「久しぶりってのは、どこからの話なの?」
「再会した日に来たでしょ?」
「一週間も経ってないよ、それ」
「そういえばそうね」
双樹は少し驚いた顔になる。
確かにあの日から一週間も経っていないが、全くそんな気がしないのだ。充実した日々を過ごしたからか、それとも懐かしい人と一緒だっからか。
どちらにしろそれは楽しい疑問で、少し嬉しい気がした。
「それに十年前に迷子になった日、この場所で保護されたじゃない」
双樹はそんな事を零した。
双樹の言葉を耳にした途端、ズキリと、奏の右腕が痛んだ。
確かに覚えている。嵐の中、深い森を彷徨った記憶。女の子の手を引き、二人で生存に辿り着き、この敦賀神社で自分達を探しに来た大人達に保護されたのだ。
その森の枝で右腕を切り、大きな怪我をしてしまった。
「……」
奏は記憶にある痛みに、右腕を抑えた。
しかし、それがおかしい事を奏は知っている。そして、千沢町に居る間はそれをおかしいと思えない異常も実感している。
今疑問を疑問として胸に保てるのは、この神社に居るからだろう。敦賀神社は千沢町の外れに建てられているので、千沢町に働くある種の不思議な力の外にあるのだと思われる。
「確かに双樹、俺には嵐の森で迷った記憶があるよ」
「ええ。私にもあるわ」
双樹は珍しく声に感情を溶かした。
しかし、世界に怯える奏の声はどこまでも冷えていく。
「けど、俺には迷子になった双樹を大人達と探して、敦賀神社に避難した双樹を見付けた記憶もあるんだよ」
「え?」
奏の言葉に、双樹は凍り付いてしまった。
その反応を見るに、双樹も心の何処かで記憶の矛盾に気付いていたのではないかと感じた。
「でも……ね?あれは私と奏くんだよ」
「きっと、おかしいんだ。見てくれよ、双樹」
奏は袖を捲り、右腕を見せた。
そこに傷などなく、嵐の森を彷徨った証は存在しなかった。
「え……でも、奏くんはあの時に怪我をして」
「その記憶はあるよ。でも、正しいかどうかは…分からない」
奏は目を伏せ、言い難そうに双樹に頼んだ。
「双樹、右腕を見せてくれ」
「……変態」
「いや、俺は腕フェチじゃないからね」
「いざ言われると恥ずかしいわね…」
双樹は文句を言いながら、袖を捲っていく。
「え?」
「やっぱり、そうなのか」
双樹の右腕には、バッサリと枝で切った様な古傷があった。
それが嵐の夜に出来た傷だとは限らないが、双樹の表情を見るにきっとそうなのだろう。
双樹は傷を見た瞬間、見てはいけないものを見たように頭を押さえたのだから。
「コレ……ハ……」
双樹の目が虚ろになる。
その差異を。明らかなる不可思議を。
「俺……行くから」
奏は見ない振りをして立ち上がる。
いや、見ない振りをしたのではなく、事実大きな事と認識できないのか。
『ナツナキ』という単語。恐らくは致命傷となるその言の葉を伝えられた双樹がそうであった様に、奏も嵐の夜の記憶の認識を拒んだのだ。
「ア……レ……?」
腕の傷を見て記憶との相違に狂う双樹。
膝を突き、信じるべきか信じぬべきかと怨嗟の様に吐き出していく。
千沢の地に帰れば忘れてしまうであろう異物感。
飲み込めぬ事実に苦しむ双樹を残し、奏は階段を下っていった。
太陽の地を受けて真っ赤に染まる千沢の地へ、戻っていったのだった。
懸命に生きる時、夏の暑さは増していく。
昨日より今日、今日より明日。深く、高く、季節は進む。
相対性理論の根本起源が人の感情で有る様に、ただ時は優しく、二人を叱咤し、激励する。
「昨日、小テストあったんだよ。英語」
淀みなく廻る季節と同じ…とは言えないが、奏も成長していく。
毎日講習に通い、毎日違う授業を聞いた。劇的な向上はなかったが、日増しに分かる事が増えていくのは楽しかった。
「どれ?」
しかし、この夏、奏にとって一番大事な時間が授業時間ではなかったのも事実だ。
それは片道二時間、往復で四時間のバス移動。双樹と過ごす長い通学だった。
「これ。夜に直ししたから、なんか分析あったらお願い」
「ふ~ん…悪いわね」
「うぐ…でも、点は上がっているでしょ?」
「そう?これで満足なの?なら、これ以上点は上がらないわよ?」
「だ~か~ら~、このまま上げるよ」
「スペルとかケアレスミスがなくなって来てるだけで、地力はまだ上がってないわよ」
「でも、そんな二、三日で上がるもんじゃないでしょ?」
「そうよ、二、三ヶ月掛けて上げるの。そして皆もそれで上がるのよ。スタートの遅い奏くんが、ちゃんと二、三ヶ月後に皆に追いつけている青写真はある?」
「青写真…野望なら、ある」
「…野望って、どこの魔王よ」
「第六天魔王」
「第六天て、六層ある内の最下層だからね?ちゃんと恥じてね?」
「頭のいい人苦手だよ…そういう返し止めて」
「知識は武器だから、正確かつ深いモノが必要なのよ。仏教に関しては、私の知識も大したことないんだけどね」
「広く浅くはダメなの?」
「入り口として広く知るのは大事だし、初めは浅くても仕方ないわ。けど、好奇心のある人なら浅いままにはしないのよ。出来るだけ早く浅さは解消して欲しいわ」
「へいへい。頑張るよ」
「で、昨日はどんな所やったの?」
「おう。ここだよ」
ノートの掲示を求められ、奏はコピー用紙を引っ張り出した。
双樹は眉をピクリと上げ、まるで敵を見付けた猫の様に怒りを吐いた。
「なにこれ?」
「沙希にコピーして貰ったんだよ。途中全然分からなくなってさ。自分でもノートに何書いてるのか分からなかったし」
「そんな甘え方するから、授業聞かないんでしょ?自分で書きなさいよ」
「写せなかった物は、仕方ないでしょ?白紙のノート持って帰っても、仕方ないじゃない」
「だから、白紙にするなって言ってるの!何か書いてあれば、私が解読するでしょうが」
「解読出来なかったら、どうするんだよ。俺は嫌だね。双樹の読解力と理解力に小テストの運命を握られるなんて。自分の運命は他人には任せたくない!」
「だから、現状沙希ちゃんのノートに運命託してるでしょうが!」
先程、『バス内では勉強している』と言ったが、撤回が必要かも知れない。
大体は奏と双樹の犬も食わない喧嘩で時は過ぎる。勉強会というよりは出来の悪いディベート会という感じだが、人間何事も修業だと思えば有用なのだろうか?
「分かったよ!取れば良いんだろ!読めなくてもさ!」
「奏くんの書いた物なら、私が解読出来るわよ!」
夏休み前テストで大した成果を上げられなかった奏は、夏休み中の模試で結果を出すべく日夜頑張っていた。双樹がそこに協力を惜しむ筈もなく、二人三脚というよりは奏が引き摺られる形で進んでいた。
授業の事、夜の勉強の事、小テストの事、そしてたまに昨日のドラマの話をしたり。
色々と取り留めのない事を零しながら、日常の様なモノを紡いでいく。
「いや?俺の中では何となく答えが出てるんだよ…って感じ」
「俗に言う詰めが甘いって奴だから、それ」
そんな平和な朝の光景。
清廉満ちる爽やかな山。
うっすらと掛かる朝靄も、
目に奇麗な緑の木々も、
世界の広さを伝える遠い山々も。
何もが良く出来た写真の様に感じた。
「あれ?」
そんな折、双樹は沙希の字が躍るコピー用紙の端っこに、あるものを見付けてしまった。
それは走り書き。奏の落書きの様な文字の意味。
――ナツナキ
ただ一言のその言葉は、空気を介する事なく双樹に伝わってしまった。
晴れ渡る空は、やがて朝靄を消すだろう。
涼し気な木々は、朝の太陽に焼かれて深い影を作るだろう。
鬱蒼とした山は、濃い緑の領域を更に延ばしていく筈だ。
全ては一瞬一瞬で、移り流れていく。
そんないつもの光景。
でも、そんな当たり前の物が、いつまでも続く訳がなかった。
「……………………ん?」
「どうしたの、奏くん?」
「砂嵐みたいな音がする…世界が剥がれていくような……」
「ナニソレ?」
ザ――ザ――――
二人は違えているのだから。
二人の時間は止まったままなのだから。
―始まりがおかしいのにそこに続くモノが普通ならば、それこそおかしいといえよう。
―始まりとは再会ではない。別れの一点。立てた誓いの事を言う。
だから世界に突如、爆雷の様な音が鳴り響いた。
ザアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
「ぬおあ!?何だこの音!!」
「え!?な、何!!爆発!?」
二人が周りを見渡すと、なんとバスは瀑布の様な雨の中に居た。
突然の変化に驚き、奏も双樹も席を立つ。
景色が変わったのか?
意識が変化したのか?
本当の運命とは始めからこんな姿をしていて、今までずっと気付かなかったのか?
「ちょっと!何よ!」
「さっきまで晴れてたのに…なんだ、これ!?」
双樹は慌てて窓の外を見る。
けれど、雨は濃密な霧の様に視界を隠し、一メートル先すら見えやしない。
「どうなってるんだ?」
奏は急いで席から立ち、運転手の所に走った。
―だから、君達はやり直さなければならない。
―間違った誓いを捨て、あの一点から。
―祭りはまだ続いている、終わってはない。
「う!?お前は」
走り出した奏の足は、直ぐに停止させられた。
奏の目の前に『あの時』出会った、ギョロリとした目が見開いたからである。
「奏くん?」
外に現を探していた双樹は、奏の警戒を感じてバスの中に目を戻した。
そして、女の子を見て息を呑んだ。
「その子…まさか…」
「知ってるの?」
奏は顔を引き攣らせ、その目……着物を着た小さな女の子から目を逸らさずに聞く。
「雨娘……?昔、千鶴沢で見た事ある」
「なにそれ?双樹の子供?」
「妖怪よ」
「まじかい……」
双樹の説明は驚くべき事で、同時に驚くに値しない僻事だった。
だって、目の前の女の子は随分と変わった子である。突然どこにでも現れるし、探したってどこにも居ない。目も耳も口もなく、それなのに普通の人とどこが違うのか分からない。
これでこの子がただの人間だと言われたら、逆に困ってしまう所だ。
と、ここで初めて少女は口を開いた。
『夏啼き―』
双樹の声を何回もコピーを繰り返し、安物のスピーカーで再生したような声だった。
「ナツナキ?だから、何だよそれ」
『夏啼きが来る。貴方達の勝手な振る舞いのせいで。祭りは終わらない。夏啼きは来る。鶴は暴れる。全部、貴方達のせい』
「なにを言っているのさ?」
『貴方達が夏啼きを止めて。貴方達には、それだけの責任がある』
奏は問い詰めるが、言葉はどうにも一方通行で、奏の声は女の子に聞こえていない様子だ。
女の子は相手の理解や納得など置き去りに言いたいだけ言うと、現れた時と同じ様に霧雨の様に消えていった。
「……どういう事なの?」
奏はキツネにつままれた様な顔で、辺りを見回す。
既に雨は止んでおり、破壊的な雨音も消えている。天は雲一つなく、山の葉は朝露に濡れる程度。タイヤの振動は先程までと変わらない音で響き、道路も木々も雨の跡など一切ない。先の事が幻でしかないとでも言いたげに、晴天の装いを見せ付けていた。
運転手さんがミラー越しに、通路で佇む奏を不思議そうに見ていた。
「……なんなんだよ、いったい」
今のは何だったのか?
何が起きて、何が起こっていくのか?
自分で考える前に双樹の方を見てしまった奏に疑問が解決できる筈もなく。
双樹が押し黙ってしまった今、奏には何も理解し得なかった。
「はぁ…意味分かんないよ」
奏は講習の教室で頬杖を付き、授業も聞かずに呆けていた。授業を受けたい気持ちはあるのだが、今朝の出来事が頭から離れず、全く気分が乗らないのだ。
突然の雨に、いつも通り急に現れた女の子。口の無い筈の女の子が話し始め、その声はどうにも双樹の声に聞こえた。そして、その内容は奏と双樹を糾弾するモノだった。
ナツナキが来て鶴が暴れるとか。
何かが途中でほったらかしになっているとか。
何が何だか分からないし、何をどうすればご希望に添えるのかも知ったこっちゃない。
何かして欲しいのならちゃんと伝えてくれと思うし、そうしないのなら大事な事ではないのだろうと居直りたくなってしまう。
しかし、今朝の事は『沢隠し』に繋がる感じがしたし、千沢の地面の下の大きな何かが居る錯覚とも関係ある気がした。
要するに、捨て置きたいのは山々なのだが、放っておけば自分にも大きな業として返ってくると思ったのだ。
「しかも、双樹は何かおかしいし…」
双樹はバス停到着後、『やっぱり今日は休む』と言い出したのだ。
『ちょっと私気になる事が有るから、行って来るね』
『気になる事?行くって何処へ?』
『千鶴沢』
『はい?』
双樹から出てきた懐かしい名前に、奏は思いもよらない所から殴られた気がした。
今更あの廃村に何がるというのか?
双樹は何が有ると思っているのだ?
―――――――――――――――?
『千鶴沢って…あそこは誰も住んでないよ』
『それでも気になるの。気にしないで。大した事じゃないから』
双樹の行動が、不思議な出来事を肯定するみたいで気に入らず、奏はぶっきら棒ないい様になってしまった。
子供の様に怯える奏など気にも留めず、双樹は千鶴沢方面に向かうバスに乗り込んでしまった。奏は双樹の背中を追おうと思ったのだが、心が重く体を留め、ついぞ足が地面から離れることは無かった。
(大した事じゃないか……双樹が嫌いな千鶴沢に行くなんて…)
「そーくん、どうしたの?」
「ん?」
奏がぼうっとしていると、隣の沙希から声を掛けられた。
「いや、なんでもないよ」
奏は姿勢を直し、沙希に応える。
「授業中話してると怒られるよ?」
「いいの~、先生雑談してるだけだから」
「そうなの?」
「休息タイムに気付かないなんて、どれだけ、心此処に在らずなのさ!」
「悪い、悪い。なんの雑談してるの?」
「樹茨町の歴史!」
「なんで沙希が、えばるのさ?」
「だって地元だし」
「ああ、そうか」
ああ、そうかと、素直に繋がる答えかは微妙だったが、沙希の迫力に圧されて頷いてしまう。
講師の話に注意してみると、確かに黒板をいっぱいに使って樹茨町の話をしていた。この辺りは昔一面のススキの原っぱだった事とか、その原っぱは金色でとても美しいと評判だった事とか、それをどう開発してきたかとか、どう発展して来たかとかとかの話である。
興味のある話ではなかったが、嬉しそうに故郷の事を話す講師の様子はいいなと思った。
「街に歴史有りとは、まぁ言うまでもないね」
「わっかる~?そうなんだよね~。で、私の歴史には興味ある~?」
「なっしんぐ!」
「ひっど~い」
「あはは。嘘だって。十分魅力的だよ」
沙希がわざとらしく傷付いた顔をするので、奏は声を潜めて笑った。
人に歴史有り、街に歴史有り。言うなれば其々事情があるという事。
(ま、俺みたいな薄っぺらい奴に事情なんてないんだけどね)
奏は自虐するように笑った。
そして、どうせつまらない自分で、つまらない日なんだからと享楽に耽る事にした。
「あのさ、沙希。午後って時間ある?」
「私は今日も明日も講習さ!時間……ねぇ」
沙希は少し考え込む。
「そーくんも、時間あるの?」
「一応ね。午後の授業は、取るか取らないか分からない社会だから」
「ん~…私もどちらかと言えば、そうなんだけど」
「ならさ、町を案内してくれない?」
「授業をさぼって?」
「そ。息抜きも必要だって」
「う~ん……」
「喫茶店で奢るからさ」
「よし!ノッタ!」
「致命傷そこ!?」
「まあ、お金というより、一人じゃ入り辛いお洒落なお店が有るんだよね」
沙希はあははと笑い、サムズアップを見せる。
「初デートだね!」
「いや、そこだけは否定しとくよ」
「え~!その気にさせたくせに」
「怖い人がいるからね」
「あ~…怖いねえ、あの子」
「は~、久しぶりに楽しんだね!」
「いや、都会すごいね。本当に千沢町と同じ町なのか…」
「同じだよ~。ま、発展の積み重ねの違いかな~」
沙希は楽しそうに言った。しかし、『積み重ね』という言葉が自分達の状況と比喩的で、自分で言ってから少し弱ったような顔をした。
「積み重ね、ね」
奏と沙希は喫茶店で向かい合って座り、デート?を楽しんでいた。
現在時刻は12時ちょっと前。午後に授業を抜け出す約束をした二人だったが、午後を迎える前に沙希のテンションが上がってしまい、結局一限目の授業が終わると塾を抜け出してしまったのだ。
そのまま町に繰り出した二人だったが、特にお小遣いに余裕がある訳でもないので、店を散々冷やかして回る事となった。それでも十分に堪能でき、寧ろビルに昇るだけでも感嘆を漏らす奏の様子が面白かったのか、沙希も楽しそうに町案内をしてくれた。
久しぶりに気楽な時間を過ごした二人ではあったが、一応は夏休みに夏期講習に通う位には真面目に受験生をしている学生である。
どうしても授業をぶっちぎって遊んでいる事への罪悪感は覚えてしまっていた。
それを自覚して少し落ち着いてしまった二人は、沙希お目当てのお洒落な喫茶店に入り、ランチをしながらだべっていた。
「ところで、そーくん。何か相談でもあるの?」
「なんで?」
「突然のお誘いだったし、元気なかったし」
「元気ないのは、思った以上に勉強ばっかりだからかな。夏休みだし」
「まーねー。夏休みなのに」
「町では同じ年位の人達が楽しんでたしね」
「夏休み、なんだよねー。今」
「行きたい高校に入れれば、また遊べるんだろうけど、暫くしたら大学受験だよ。それで大学入ったら、多分すぐに就職活動だし」
「中学最後の夏休みだし、楽しみたいけど……かといって、受験が頭に浮かんで割り切って遊ぶことなんてできないしね~」
「ままならないよね~」
沙希はとてもいい奴で、話し易い相手だった。
だからだろうか?
話している内に、どこか気持ちがハイになる。という程でもないが、沙希と話しているのと双樹と話しているのとは随分と勝手が違ってくるのは感じた。
双樹と居る時は常に先行する双樹に引っ張られ、不満を生成する時間すらない。
しかし、沙希と居る時は歩みに余裕が出来、進んだ道を鑑みる暇ができる。
だから、だろうか?日頃思ってもなかった鬱憤の様なモノが形になって、思いがけず口を突いて出てきてしまっていた。
「ところで、そーくん。双樹ちゃんについてはどう思ってるの?」
「双樹?なんで」
「双樹ちゃん抜きには、そーくんは語れないでしょ」
「意味が分からないよ」
「またまた~、双樹ちゃんの為に、夏期講習行くって決めたんでしょ?」
「な!なんで知ってるの?」
「双樹ちゃんに自慢されたから~」
「あ~、さいですか…」
「大丈夫?」
「ちょっと大丈夫じゃない」
「頭抱えちゃって。頭痛いなら、私のドリンク飲むといいよ?」
「自分のを飲むよ」
「そんなに頭抱える程の事?」
「いや、双樹が相変わらず乱暴な行動するなっていうのはあるけど、今回のはそこまでショックじゃない」
「今回のは?って、前もなんかあったの?」
「目を輝かせないでよ……ちょっと前に双樹に双樹が教室で『奏くんに近寄らないで』みたいな宣言をしちゃったんだよ」
「うっわ~、すっご!」
「本当、ハチャメチャなんだよ、双樹は。あれは本当にキツカッタ……というか、まだ継続してる感じだよ」
「ああ、教室が引き摺ってるの?特に双樹ちゃんは、男子人気凄そうだしね~」
「凄いよ、本当」
「これは私の所見なんだけどさ~、そーくんと双樹ちゃんは似合わないよ」
「……なんでさ」
「住む世界が違うっていうか…規格が違うっていうか」
「……否定はできないね」
沙希が言い難そうに口にした事は、普段から奏が思っている事でもあった。
奏は気にしている事を指摘されてムッとしそうになったが、『出会ったばかりの沙希からそんな意見が出るのだから、きっと誰が見てもそんな関係に見えるのだろう』という事を思ってしまい、憤りは尻すぼみに消えていった。
「あのね、守上双樹って名前、私は前から知ってたんだ」
「そうなの?」
「というか、私以外にも知ってる人いると思う。多少は有名人だし」
「なんで?」
「私さ、模試を受けた後、順位表を結構長い事眺めてるんだ。上位のこの人たち凄いな!って感じで」
「そんなんで、双樹の名前を覚えたの?」
「だって、この前の全国模試、一位だったし」
「マジなの!?」
「マジマジ。それ以外の時も、順位一ケタの常連さんだよ」
「は~……そんな事になってたのか」
奏はこめかみをコツコツと叩き、空になったドリンクをストローで吸う。
自分と双樹には開きがあるとは思っていたが、ここまでとは想像していなかった。衝撃の事実を知ってしまい、虚脱感の様なモノに襲われて、胸が詰まる気がした。
「上から順番に順位が付いていくんだから、一位ってのは居るに決まっているんだけど…」
それが知り合いで、それも隣に立つ人間だとは考えてもみなかった。
「同じ世界の人とは思えないよね~」
「全くだよ……何も知らずに双樹と同じ高校目指してた俺って……哀れ」
「ん~、同じ高校は別にいけるんじゃないかな?」
「どうして?相手は全国一位様だよ」
「正直、双樹ちゃん、そーくんに合わせてランク落とすでしょ」
「……有りえる」
それはマズいなと、働いていない頭の中で考えた。何がマズいのか全く出てこないけど、どうマズいのかも整合しないけど、何かマズい気だけした。
だから?
マズい気がするから、双樹にとって良い事でない気がするから、自分はどうするのだ?
「………」
どうにもしないのだ。自分はそんな人間だと、奏は味のない氷水を飲み込んだ。
そんな奏の様子を見て、沙希は身を乗り出して尋ねた。
「そーくんは、それでいいの?」
「はい?」
「だ、だから、頭のいい双樹ちゃんが、自分の為にランクを落として受験する事」
「良いか悪いかって……いや、良くはないんじゃないかな?」
「だったらさ!ね?」
「ね?と言われても」
「双樹ちゃんに、ちゃんとしたトコ受けようって言ってあげたら?」
「ちゃんとしたところ……か」
「うんうん!」
「言っても聞く奴じゃないよ」
「でも、そーくんは双樹ちゃんが、ランク落とすの良くないって言ったじゃない?」
「言ったけど……というか、どうして沙希が必死に、双樹の進路考えてやるのさ?」
「ひ、必死じゃないけどさ……」
沙希は前のめりになっていた体を慌てて引き、誤魔化すように髪を弄った。
「も、勿体ないと思うから……」
「それね、俺も思う。でも、双樹なら、どの進路を通ったってやりたい事やっちゃう気がするしさ」
「やりたい事って?」
「何かは分からないけどさ。でも、受験とか進路とかそんな次元の話じゃない凄い事。どんな学校に行ったって関係なく、好きな仕事やったり、何かを成し遂げそうっていうさ」
「……確かに。双樹ちゃん見てると進路で悩んでるのが、バカらしくなってくるね」
「本当にね。これからあの凄い奴の傍に居ないといけないと思うと、気が重いかな」
「一緒に……だ、だったら、息抜きとか必要じゃない?」
「今してるとこだよ」
「そ、そうだよね。息抜きだよね……」
「?」
会話はどこにも行き付かず、奏と沙希はお互いに口を閉ざしてしまった。
会話が無くなってしまったというよりは、其々に粘土で捏ねた結論みたいなモノを出してしまったという空気。どちらもが動く事なく、ただ静かに喫茶店の空気の中に停滞していく。
奏の飲み干したコップの氷が溶けてカランと音を立てた時、沙希が立ち上がった。
「ごめんね。私午後の授業出ることにする」
「……そう」
「そーくんはどうする?」
「ここで自習してる」
「そ」
沙希は自分の代金をテーブルに置くと、じゃあねと手を振って店から出てしまった。
奏は暫く離れていく沙希の背中を眺めていたが、深い息を吐いてテーブルに突っ伏した。
「俺は一体、何を言ってるのさ……」
奏は僅か前の全ての事を思い出し、罪悪感に背中を押さえ付けられる。
口を突いて出てきた沢山の事、沙希に話した多くの事…進路の悩みとか双樹への劣等感とか……は、別に普段思っている事ではないし、心の奥底に仕舞っている秘密でもない。
……ないと思う。
しかし、あれらは自分の耳で聞いてしまえば、たしかにそれらしい劣等感だった。
いや、劣等感があるのが要点なのではなく、『それらしい』劣等感という所が重要なのだ。
つまり、劣等感を感じるやらして真剣にならないといけない事態に対して、自分はまた受け流していたらしいのである。自分は憂慮すべき事項に対して悩んでいるふりをしているだけで、心はさしてざわつかず、確たる要件として扱っていないという事なのだ。
つまり、双樹に着いて講習に来たり、かなとの約束を守るために日夜勉強をしたみたりした訳だが、自分は双樹と再会する前の何事にも真剣になれない人間のままだという事だ。
「…なんか、もうヤダ。ちょっとは変わったと思ってたのに」
奏は自分の頑固さに打ちのめされて、何もする気が起きなくて。
肌に触れていた木目が生暖かくなるまでそのまま突っ伏していたのだった。
千沢町から樹茨町までバスで二時間。そして樹茨町からバスと徒歩でまた二時間行った所に、秦達の故郷である千鶴沢が有る。
廃村になった村なので直接のバス停はなく、運転手さんに適当な所で降ろして貰う必要があるのだが、この辺にはそういった村が多いので運転手さんも要望に応えてくれたりする。
「ふ~、やっま道やっま道だね。やっぱり辺鄙な所だよ」
途中下車させてくれた運転手さんに礼を言って、奏は道路を横断する。そして道路脇の柵を越えて千鶴沢に向かう為に山の中に入っていった。
千鶴沢は山間の静かな村であった。緑の深い、隔離された村で、入るのも出るのも獣の顔色を窺いながら行わないといけない陸の孤島。
そして、外を拒絶した排他的で思考停止の群体だった。
人は神の決定には抗わず。
あらゆる災難に疑問を差し挟まず。
誰かの犠牲の上に建つ事を奇異とも思わない。
外界を隔離し、小さな箱庭で独自に育まれた因習は、人の物とも鬼の物ともつかぬ異形の物。
神が決めたのなら人をも屠殺し、
神が求めたのなら子を差し出し、
神が怒ったのなら自ら命を絶つ。
そこに崇高など紛れ込む余地もなく、
そこに神聖など生まれる術もない、
血生臭い必死の人の業の骸。
死屍累々と転がる墓場の様な溜りの村。
そんな千鶴沢が変わり始めたのが今から二十年前、この辺りの村や沢を統合して大きな町にしようという計画が立ち上がった時だ。反対を押し切り、千鶴沢からも幾人かが計画に参加したらしい。
そうして、千鶴沢はその住民を千沢町へと吐き出し始め、十年前、住人は全員での移住を決定し、千鶴沢が廃村となった次第である。
森神の信仰の篤かった人の反対も多かったが、祭神の中心であった守上、祇蔵の家がさっさと出て行ってしまったので割かし人死にも少な目で済んだと聞く。
「ここ……やっぱり双樹、千鶴沢に来てるね」
山に入った奏は、ついさっき出来たらしい轍を踏み締めて歩く。
奏が進もうとする場所の草が踏み倒されていたり、目印の様に枝が折られているのは双樹の仕業だろう。何故双樹が戻っているのか、やっぱり疑問に思ったが、その疑問は今は脇に置いておかなければならない。
地図も標もない山道を記憶だけを頼りに進み、どこにあったのか定かでない故郷に辿り着こうと言うのだ。下手をすれば遭難してしまいかねない難行だ。無駄な事に気を回す余裕はない。
「わざわざ止めないでよ。行きたい訳じゃないんだから……」
木々が揺れる様が、行くなと引き止めている様で随分と心障りに感じられた。
奏は吐き捨てる様に言うと、手近な枝をボキリと折った。
千鶴沢の地形を著すならば、夏の青葉に満たされた錐鉢という表現がぴったりくるだろう。
北になだらか斜面があり、他三方は家を建てるに適さない急斜面からなる。北側に数十の家々があり、それ以外は捨てられたような住居が点在するのみである。
廃棄された村はこの十年で自然に侵食され、田畑は愚か、道と呼ばれていた所まで緑が生い茂っていた。人の生活の跡はかき消され、十年分の木々草花に覆われた村は、主体が人から自然に切り替わっていた。最早村は、山を拓いた人工ではなく森に作った加工の様に見えた。
新たな木々はまだ低く人の背丈にも満たないが、いずれ村を覆い尽くしてしまうのだなと思うと、こんな村でも郷愁なんて感じてしまう。
「ふぅ……雨娘と夏啼きの載っている文献を探さないといけないけど…」
風雨で崩れた道を歩きながら、双樹は特な感慨もなく行くべき所を思案していた。
「調べ物なら『祇蔵』の家か『守神』の家ね。でも、奏くんの家に行くなら一言言うべきだろうし……」
双樹は村の西、山の中に偉そうに作られた鳥居を眺めた。
そこには千鶴沢を守る『敦賀神社』がある。敦賀神社はこの村の信仰の拠り所であり、同時に双樹の元家でもあった。神社の由来は古く、この村の始めと共にあったと言われている。
「自分の家に行くべきか……いやね、こんな帰郷。風景が変わってて懐かしさもない」
双樹は自分でも良く分からない怒りの様な物を吐き出しつつ、廃墟マニアが見たら喜びそうな景色の中を歩いていく。
その道すがら―
「―――――」
――とある家を見付けて、双樹は足を止めた。
いや、それはもう家ではなかった。
壁が破壊され、柱が折られ、屋根は焼け焦げている。
明らかな破壊の跡。明確な暴行の傷痕。
壊された家族の住処だったところ。破壊は重機による解体ではなく、人の手による暴砕と見て取れた。執拗に壊された後からは、込められた執念を感じてしまう。
ムワリと血生臭い風を感じた気がして、双樹は家だったものを見詰め続けた。
この家に誰が住んでいて、どういった理由でこんな事になったのかはよく覚えていなかった。
ただ、この家の人達が自分の家族を慕ってくれていて、自分の家族が移住する時にも手助けしてくれたらしいことは聞いている。
そして、森神を信仰する人達が、村から出ていく守上家に反抗する訳にもいかず、八つ当たりみたいな理由でこうなってしまった事も耳にしていた。
「ごめんなさい……」
長い時間を掛けて、ようやっとその言葉を絞り出した。
生み出した懺悔は重く、ぽっかりと脇腹に穴が開いたような気持になる。
ふと優しかったこの家のおじさんの顔を思い出し、穴が脈動した。
双樹は奥歯を強く組み絞め、泣くまいと不機嫌を顔に張り付けた。
黴臭い書蔵庫の中、双樹はひたすらに書籍を読み漁っていた。スカートが埃に塗れようが注意もくれず、汚れた床に直に座って本に目を通し、床に広げたノートにペンを走らせる。
双樹より背の高い書棚が並ぶここは、守上家の元書斎である。書斎というよりは書物庫か小さな図書館並みに内容が充実したこの部屋は、村に伝わる書物や先祖代々が趣味で集めていた書籍が所狭しと並んでいる。
その一角に双樹はお目当ての本群を見付け、がっさり取り出して調べている所であった。
「あの妙な雨……それに夏啼き、どう関連してくるのか、今一分からないわね」
呟きながら、必要そうな情報と思い付きをノートに書き殴っていく。
その様は難しい問題に行き当たった時の様に真剣だったが、一心不乱に床のノートに書き込む姿は行儀が悪かった。
「最初の日、私はぼうっとして気が付いたら、あそこに居た感じだったけど、奏くんは雨娘を見たって言ってたし……昔ならいざ知らず、今の私なんかより、祇蔵の奏くんの方が遥かに妖怪との親和性が高いから、その話も分かるんだけど……でも、あの子がそれをするかしら?」
「はぁ……驚くべき集中力だ。呼びかけても全く気付いてくれない」
何かを調べ、思考している時の双樹は、成程大した集中力である。
奏が近くに来ても気付かず、本とノートに目を落としたまま顔を上げない。これが全国模試一位の集中力かと思うと、後学のために無防備な姿をもう暫く眺めていようとも思った。が、グズグズしていては帰りのバスがなくなってしまうので、渋々声を掛ける事にした。
「なぁ、双樹。さっきから何をぶつぶつ言ってるのさ?」
「うひゃあ!?なっなに!?雨娘!?」
肩を揺さぶられた双樹は、バタバタバタと書物を投げ出して壁まで後退する。
驚愕状態で熱心に辺りを警戒する様は、尻尾を掴まれて動転するネコの様を想起させた。
「な…なんだ奏くんか」
声を掛けたのが奏だと分かり、顔に不機嫌を張り付ける。
「どうして奏くんが、ここに居るの?ここは私の家よ」
「アホか。誰も住んでない家はただの穴倉だよ」
「穴倉でも表札が出てれば、そこは私の家なの」
「分かった。今度高橋さんちの犬小屋に双樹の表札出しとくよ」
「…変態」
「変態で結構だワン。それより何してたのさ?」
「色々不思議な事が有ったし、その現象がおじいちゃんに聞いていたものと似てたから、調べに来てたのよ」
「ああ、そうですか」
その説明をバスの中でしてくれれば良かったのに、と奏はちょっと拗ねる。
「不思議な事って、あのバスで起こった妙な雨と、あの女の子の事?」
「うん。それとあの子が言ってた『夏啼き』」
「そっか」
どこか心の奥で予想していた通り、双樹は簡単に日常の垣根を越えて行く。
超常現象なんて認めたくないとうじうじしていた奏も、双樹のこの姿を見せ付けられては、不思議な事も全部現実なのだと諦めて受け入れざるを得なかった。
「んな訳ないよね。諦めなんて簡単に着いたら、世界平和だって訪れるよ」
「何か言った、奏くん?」
「双樹、スカート捲れてるよ」
「嘘!?え?え!………嘘つき…」
「お茶目な冗談だよ。シロ」
「冗談どころか、滅茶苦茶心臓に来たわよ!……白って!?」
「いや、適当に言っただけだよ」
「もう!私、奏くんにぱ、パン……なんて見られたら死んじゃう……」
「それは困る。ちょっとした軽口じゃないか」
「軽口じゃないわよ!これは暴力よ、暴力!」
「暴力は双樹の専売特許でしょ。俺、双樹に腕っぷしで勝ったことないって」
「そ……それは昔の話じゃない……」
「今だって無理だって」
「ふん!いじわる…」
双樹は両手の指を絡ませて怒りを示した。
しかし、気になっている事が有ったらしく、双樹は珍しく怒りのケージが下がり切る前に奏に質問をした。
「奏くんって、私がここに帰ってきて最初に合った時、なんであの場所に居たの?」
「それって重要?」
「死よりも重いわ」
「マジですか…」
奏は双樹の物言いにおどけて見せた。
しかし、双樹の目は思う以上に真剣で、奏も重い空気になってしまう。
「…それは千鶴沢の伝統より重いの?」
「奏くんって、伝統とか因習とかいう言葉が嫌いよね」
「そりゃね。この村の風習とか好きじゃないし」
「子供だった奏くんが、この村の何を覚えてるのよ?」
「それは……全然覚えてないけど」
「じゃあ、拘らなくていいじゃない」
「……そうだけど、そうじゃない」
「子供っぽい」
「ほっといてよ」
奏はムスッ垂れて、下を向いてしまう。
そして、暫く部屋の奥の暗い空間を眺めた後、重い口を動かした。
「伝統とか、因習とか、そういうの嫌いなんだ」
「なんで?」
「どんなにそれが違ってたって、誰もそれを認めようとせず、生贄とか、村八分とか平気で肯定する。誰かの地獄に咲いた花は他の誰かを傷付けるんだ。俺はそれが嫌なの」
「当たり前じゃない。数十年生きてきて、急に『貴方の人生は間違ってました』なんて言われて、認められる人はいないわよ」
「それはそうかもしれないけど……俺は嫌いだ」
「あっそ」
「………」
奏は何を言うでもなく部屋の奥から視線を外し、自分の掌を見た。
枝が道を隠す山の中を歩いてきたためか、泥だらけになっている手。そこにどこで切ったのか、薄っすらと赤い筋が入っている事に今初めて気が付いた。
その傷を指でなぞりながら、奏はとつとつと語り始めた。
「バスに現れた子、居たじゃない?」
「雨娘の事?」
「たぶん、その子。あの日も、あの子が境内で蹲っていて、いきなり迷い茨の森に入って行ったんだ。それでその子を追って行ったら、双樹が居た」
「……小さな女の子を追い掛け回してたの?」
「ちっげ~よ、眉を顰めないでよ!あの女の子泣いてたんだよ。それでそのまま森の中に飛び込んでいくから、慌てて追いかけたんだよ。あの森、人死にが出る位深いだろ」
まぁ、泣いていたのはあの子じゃなくて――だったが、この際どうでもいい。
「泣いてた……私達に声を掛けてきたのすら、良く分からないのに、どういう事?」
「なにが?」
「あの子って、目も口の耳も無いのよ?」
「え……怖い事言わないでよ」
だって、実際あの女の子は――を揺らして喋っていたと、奏は曖昧な記憶で顔を顰めた。
「ま、奏くんのロリコン疑惑は置いておくとして」
「そのまま一生置き忘れてくれよ」
「私も同じ様な状況で、あの木の所に居たんだと思うわ。十年前、都会に引っ越す前に奏くんと『また会おう』って約束したあの木の場所に」
双樹は良く分からない事を吐き出して、ふむと唸った。
奏は双樹が勘違いに困ったなと思ったが、訂正する勇気はなかった。
「あの女の子は、キツネだったの?」
妖怪と言われると構えてしまう奏だが、キツネと言われれば疑問にも思わない土地柄育ち。そうであって欲しいとせめて地獄に花を求めたが、そんな自己肯定は儚く散りぬる。
「あの子は『雨小僧』。女の子だから『雨娘』って所ね」
「アメムスメ?雨女みたいな物?」
「奏くんが思っている雨女じゃないわ。単純に雨を降らす妖怪」
「そんなの居るの?」
「居るわよ。ここはまだ自然が生き、八百万の神も居る忘れられた土地。何よりあの現象が起きた理由はそこにしか結べないし、証明定理としてはこの文献がある。そんな所」
双樹は床に散乱した本を示した。本があるということは、その契機になった出来事があるという事。そんな風な事を言いたいらしい。
病魔ではないが症候群。
命題ではないが題提起。
真実ではないが近似値。
オカルトも千万集まれば限りなくエビデンスに近付くという事。
別に曖昧な定義に沿う気はないが、否定出来る情動も持ち合わせていない。
ただ、反論材料もなく怪異を唾棄するのは科学的ではないなんて、今時は小学生でも分かっている事なので、仕方なく呑み込む事にした。
「本がいっぱい在るね。全部妖怪の話?」
「大体は不思議な事象の記録とその研究。でも、妖怪に遭遇したっていう話もあるわ」
「ふ~ん……ま、俺なんてそんな長く生きてる訳じゃないし、知らない事もあるか」
奏は手慰みに本をパラパラと捲った。
「『ナツナキ』ってどんな妖怪?」
「『夏啼き』ね。妖怪というより現象よ」
双樹も一冊の本を拾い奏に見せる。奏はその表紙に見覚えがあり、覗き見ると、方程式や流体力学の図解なんかが所狭しと書かれていた。
「これ何の本?」
「これがその『夏啼き』について書かれた本なのよ」
「これが?」
「ええ。暴れ鶴の話はしたわね?」
「ああ。『沢隠し』の話だったよね」
双樹と奏は並んで座り、仲良く本を覗き込む。
「あの話の『鶴が鳴く』のを夏啼きっていうの。鶴の鳴き声の様な甲高い声が、沢中に響いたんだって」
「正体不明の鳴き声位なら、物理現象の範疇だとは思うけど……」
「まだそんなこと言ってるの?」
「う…仕方ないでしょ?俺は常識の中で生きてきたんだから」
「地獄に咲いた花…ね~」
「は、話を進めようか」
「え~…」
双樹は珍しく意地悪気に目を輝かせるが、嗜虐心もいいが説明欲求も満たしたいところ。
仕方なく奏を虐めるのは切り上げて、説明に戻る。
「神話に近い現象は実際在ったっぽいのよ。ま、説明不能な事に理由をつけるのが神話だから、尾鰭はともかく原型はあったとしましょう」
双樹が本を捲り、別の数式や図の書かれたページを開く。図は千沢の盆地を描いており、その中に幾つもの矢印が書かれていた。矢印は風や温度変化を著しているらしく、盆地の地形に煽られた風の強弱の関係で突風や竜巻が発生する可能性を言いたいらしかった。
「つまり……鶴の鳴き声の正体は暴風被害?」
「でしょうね。鶴の鳴き声に似た音ってのは風だと思う。それが十年に一度来るのよ」
「物理現象じゃないか」
「仕方ないでしょ。妖怪の使う法則なんて分からないんだから、人間の使う公式によって答えを導き出すしかないの。その結果、人間の常識の範疇の答えに行きつくのは当然の帰結ね」
「不便なものだね」
「例えば相対性理論は、人がどんな速度で動いていても光の速さは一定っていう主観に基づいた理論になっているでしょ?でも、ニュートン物理学でも、主観に基づいているのは変わらないの。だって、『物Aが落下する』っていう目の前の主観に対して数式を当て嵌めたのがニュートン物理学でしょ?でも、宇宙の何処かに視点が有って、そこから見たら物体Aは地球の自転とか公転とかに巻き込まれてるんだから、単純な『落下』なんてしてないでしょ。でも、主観では落下してて、それに数式を当て嵌めたんだから、数式は『主観的な落下』に対して適応されて当然なのよ。だから、相対性理論も観測できる主観に基づいた数式になるのよ」
「成程ね」
「ま、その主観の数式にはきっと、主観以外の『絶対を打ち消す数式』が隠れてると思うんだけど……まあ、それは置いておいて、この本もあくまで筆者の主観に当て嵌めて作られた数式であって、そこには妖怪的な『数式』も隠されてはいるんだと思うけど、それは筆者には観測できなかったから、打ち消されてるの。どっちを辿っても多分結論は同じだから、道筋はこの際気にしなくていいわ」
双樹はまたページを捲り、本の一説を指した。
「『夏啼きと呼ばれる現象がある。そのために沢隠しをするのだが、それは夏啼きを消すのとは関係ない神事だと思われる。そもそも千鶴で夏啼きが起こる訳ではない。それは神事と関係なく、千鶴に近いあの盆地でずっと続いてきたと思われる。つまり元々千鶴で起きた訳ではない夏啼きを、千鶴からあの盆地に誘導したのだという風に書いたのだと、私は思うのだ』」
「納得できる考察だね。でも、これがどうだって言いたいのさ?双樹」
「つまり、夏啼きっていうのは、千沢の盆地の特殊な地形なんかが関係しているって事」
「神事とか不思議要素は?」
「今それ関係ない」
「え~!俺、不思議減少結構受け入れる覚悟してたのに」
「だって、私達だってまともに妖怪を観測できないでしょ?」
「それはそうだけど……」
「それに、怪異については、雨娘で受け入れときなさいよ」
「……あいつそれなりに無害だし」
「雨娘は魂を食べる化け物よ?」
「嘘!?」
「うそだけど」
「勘弁してよ…」
「でも、有りえる話でしょ?奏くんは何かにつけて、想像力と危機感が足りないのよ」
「う……分かってるし、言われたくない」
奏は不機嫌気味に部屋の奥に視線を逃がした。
双樹は更に奏がどれ程愚かで間抜けなのかをとくとくと説明しようとしたが、そんな事をすれば3時間程掛かかってしまう事に思い至り、今は止めておく事にした。
「雨娘は暴風被害が千沢町で起こると警告しに来たのね。その原因や真偽は有るだろうけど、『起こる』と考える方が自然ね。その前提で防ぐ方法を考えましょう」
「どう防ぐか……かぁ…」
「どう防ぐかは、千沢町の地形の何が特殊なのかを考えればいいと思うの」
「特徴って言ってもね…盆地って事と、割かし海が近いって事くらい?」
「あと盆地としては大きい方よね。大きい建物が少ないし。山に囲まれてるっていうのも特徴と言えなくもないわね。後は出来て間もないから、風土資料が少ないのは、特徴ではないけど懸念材料ね」
「風土資料は学校の図書館に有った筈だから、今度行こうか」
「そうね。何かの足しにはなると思うわ」
「後は……というか、ナツナキって、夏に起こるの?」
「資料的にはそうっぽいわね」
「だったら、原因は台風かな?」
「私もそう思うわ。千沢の地形で風が加速したり、乱反射したり…そういう話じゃないかと思うの。正確な周期は分からないけど、十年に一度ペースで強い台風が来たり、接近したりっていうのは有り得る話よ」
「で、台風が本当に原因か検討するための、この数式か」
「うん。でも、それだけじゃない。『雨娘』が関係あるはずよ。十年に一回来るのなら、既に千沢町には被害が及んでる筈」
「そりゃそうか。出来て二十年だもんね」
「そう。でもそれがないし、そもそも台風なんてしょっちゅう来るわ。その被害をなくしてくれているのが、雨娘なんじゃないかと思うの」
「ていうか、やっぱり数式に妖怪を当て嵌める気じゃないか」
「雨娘は全く観測できない訳じゃないから、一応ね。あんまり当にはしないつもりだけど」
「分かったよ。ん~、でも、なんで雨娘は俺達の前に出てきて、夏啼きが来るなんて警告をしたんだろう?あの子がいれば、なんとかなるんだろ?」
「理由があって、暴風被害を弱める力がなくなってるのよ……ん?雨娘?」
「どうしたの、双樹?」
「ちょっと待って!分かってきたかも!」
双樹は興奮したように言うと、自分のメモ帳を捲り始めた。
そして、長い間メモ帳と睨めっこした後、嬉しそうに奏を見た。
「きっと、夏啼きが起きそうになっているのは、私達と関係してるのよ!」
「俺達って、何さ?いや、雨娘はそう言ってたけどさ」
双樹は自信ありげに奏に指を突き付けたが、奏は自身の根拠が分からず顔を掻いた。
「思い出して。私が引っ越す事になって、私達がした事を」
「え~とだね…」
双樹の言葉はとても真剣だった。そして、真剣さの中に小さな怯えが在った。
きっとこれは双樹にとっての大事な物なのだろう。それで、この泣き虫はそれを奏が忘れていたらどうしようとでも思っているのだろう。
まあ、覚えていないのだが。
「ひ、ヒント要る?」
「早いね!くれるなら、貰うけど」
「嵐の夜!」
「あの日か……」
あの日…迷い茨の森で迷って…大木の下で約束して…神社で誰かが泣いていて……
奏はぶつぶつと断片的な行動を繋いでいく。
その横顔を双樹が心配そうに見詰めているが、奏はそれには気付かなかった。
「俺達は、双樹が引っ越すあの日。「何かしようって」何かをしようってなった。それは大事な事で…えっと…「大人達の見様見真似でさ」それで大人の見様見真似で………そうだ、敦賀神社の鈴を運び出した!」
「そうそう!」
「つまり、俺達二人で『沢隠し』をしたんだ!それが不完全で『途中』って事なんだね」
「ええ。そうよ。そして、それがきっと原因」
「なら、沢隠しを再開すればいいのかな?」
「きっとそうよ。それで問題は解決するわ」
双樹は少々興奮気味で、奏に身を寄せた。
そして二人で本を覗き、事態の解決を図るべく肩を並べて話し合ったのだった。
調べるだけ調べた双樹と奏は、人里に戻るべく千鶴沢外れの森を進んでいた。
「何入ってるの?それ」
奏は山道を拓きながら、双樹のリュックを指摘した。
双樹は鞄から勉強道具を取り出して奏に預け、代わりに何かを入れていたのだ。
「神社の鈴。雨娘は祭りを続けろって言ったでしょ?この鐘を使って沢隠しをするのよ」
「成程……十年前、確かに鈴を持ち出したね」
双樹の家は神社であり、また沢隠しで鈴が大事である為、鐘のスペアが沢山用意してあった。なので十年前、奏達はその一つを持ち出して沢隠しの真似事をしたのだ。
「私達が千沢から居なくなったから、千鶴沢では大騒ぎだったらしいしね」
「笑い事じゃなかったよ。おじさん達が血相変えて帰ってきたんだ。双樹が居ないって」
「千鶴沢の人達にも、千沢の人達にも、助けを求めるなんて、おかしいね」
「おかしくないよ……いや、当時の村の実情を考えると『おかしかった』んだろうけど。そんな事言ってられなかったでしょ」
「あの共同作業で千鶴沢と千沢町の間の蟠りが少しでも減ったなら、おもしろいね」
「気楽なもんだよ、全く」
「そりゃそうよ。十年も前に過ぎた事だもの。思い出す今は気楽以外の何物もないわ」
「ま、今に比べたらそりゃ気楽か」
「どういう言い回し?」
「だって、今、バスなくなったら大変だよ?街灯もない山道と夜通し歩き続けるか、諦めて野宿もワンチャンある」
「……それは嫌ね。急ぎましょ」
「これ以上急ぐと、枝でケガするだろうけどね……」
「それも嫌ね……私、沢隠しした時の怪我、ちょっと残ってるもん」
――ザ
チャンネルが切り替わるような音がする。
二人はまた忘れたまま道を進んで行く。
「傷って、どれ?」
「これ」
ほら、と双樹は袖を捲り、腕を見せた。
「あ~、確かに、傷が……あるね?」
前にも似た事をした気があるなと、奏は首を傾げた。
「いつまで顔近付けてるのよ、エッチね」
「殿方にほいほい肌を見せる双樹がエッチなんだよ」
「違います~」
「というか、まだ傷残ってるんだね。十年前だろ?」
「大した傷じゃなかったんだけどね。でも、お堂を見付けて嬉しかった時に、枝で付いた傷だから、なんとなく残ったのかもね」
「ん?」
双樹は愛おしそうに傷を撫でるが、奏は違和感を拭えない。
双樹の話はどうにもちぐはぐで、どういう整合性を取っているのか見とれない。
ザー
「その鈴で沢隠しをすれば、どうにかなるかな?」
「どうにかなるんじゃない?この鐘を千沢町の敦賀神社に届けておしまい。それで沢隠し完了よ。幸い明日は夏祭りだしね」
「そうか……なら安心だね」
双樹はなんて事ないと自信を持っているが、奏は胸のどこかにざわつきを覚えた。
―奏達は昔一度沢隠しを行った。
―それは遊びの様な物で不完全だった。
―そのせいで夏啼きが起きようとしている。
―夏啼きを止めるには、正式に沢隠しをすれば良い。
―沢隠しとは千鶴沢の敦賀神社から千沢町の敦賀神社へ神社の鈴を持っていく事である。
それが双樹の出した雨娘への解答だった。
(俺も、これでいいと思う……胸のつっかえは、自分で考える前に双樹が答えを出しちゃった事への嫉妬かな)
奏の肩掛けバックには、もやもやを消す為の重さがある。
双樹の家から、夏啼きに関する書物を何冊か拝借してきたのだ。
「安心ねぇ。私はバスに間に合うかが不安よ。こんな森深い山で一夜を明かしたくない」
双樹は、半ば冗談半ば本気で嫌がる。
冗談でなく、誇張でもなく、原初の山で夜を越えるとなればそれなりの覚悟が必要だ。
人工のない森はとても暗く、太陽のある今でさえ木漏れ日も許さない。これで太陽が沈めば、人間が顰める環境も消え去ってしまう。一切の視界の効かない森は人の領分ではなく、そこで迷い人が生きられる道理などないのだ。
今の時期に凍死はないだろうが、熊、野犬、猪、雨、崖、落石、怪我……死ぬ為の要素は十全に用意されてしまっている。
「急ごう、双樹。暗くなってきた。迷子になったら洒落にならない」
「ねぇ、鞄持ってよ。背負い難い」
「い~や~だ」
「けち…」
「自分で持ってよ。俺は地面を固めて、枝を払って道を作らないといけないんだから」
「紳士じゃないわね」
「ははは。田舎育ちなもんで。泥臭い人間でさ」
「だいたい奏くんの顔の高さの枝払っても、私は高さ的に関係ないし」
「そうだね。双樹はもうちょい育って欲しいよね…」
「私だけ成長したって、奏くん置いてけぼりでしょ。情けとしての猶予なんだから」
「へいへい。精進しますよ」
楽しそうな会話で不安を掻き消し、二人は家まで急ぐのだった。
第三章『沢隠し』一
思わぬ帰郷を果たした次の日。涼し気な靄の中、奏はいつも通りの千沢町の朝に居た。
千沢町はまだ大きな建物は少なく、建造物も密集していない。道路も広々と取っているので、道から見渡しても町の多くが見えた。
道路を広く取ってある理由は、建物の増築をし易い様に最初の道路整備に力を入れたかららしい。その都市計画はまだまだ途中らしく、計画通りにいけば建物ももっと増える筈だし、今より住み易くなっていく予定なのだ。
「この町が崩壊する…ねぇ。現実的とは思えないね」
遠くに見える山を眺める。盆地なので三百六十度、何処を見ても山である。
あの山が風を増幅し、加速させ、町を吹き飛ばすなんて考えた事もなかった。
『母さんはさ、この町がなくなるって聞いたらどうする?』
『なくなるって、突然だね』
『まあ、津波とか大雨とか。授業でそんな話をしたんだよ』
『そうだね…どうもしないね』
『どうもしないって……え?そのまま死ぬって事?』
『抗って済む問題なら抗うけどね。町が消えるなんて大きな事は、人の手には余る事だよ。それならきっと、神様がそう決めた事なんだよ』
『なんだよ、それ』
『千鶴沢では、ずっとそうだったでしょ?』
『神様の決めた事には逆らわない?母さんがそんなこと言うなんて、思ってもみなかった』
『奏も大人になったら、分かるわよ』
「………分かりたくない」
昨日の夜、かなとそんな会話をした。やっぱりあの村の人間と、その人間を育てるあの村の風土は嫌いだと再確認した。
奏がかなとそんな話をしたのには、きっかけがある。昨日双樹の家から持ち帰った本にちょっと気になる事が書いてあったのだ。
持ち帰った本は風化していてあまり読めたものじゃなかった。それでも可能な限り拾い読みした感じではこの辺の古い地図とかそういう物だった。
そこに描かれていた地形の方角とか、距離が変だったのだ。奏が教えられた地理では西に千沢町、その東北東の位置に樹茨町、その南東に千鶴沢が有る筈だった。だが、文献では西に千沢があり、その東に樹茨、そしてその東に千鶴沢が描いてあったのだ。
本来樹茨町がある部分には、谷川とか金原とか皇ヶ埼とか小さな村が沢山記してあった。
「ま、だからなんだって話だよね」
奏は大きな欠伸を一つ噛み殺す。
あの文献は気にはなったが、あれは古い地図な上に、この辺は現在でも測量が進んでいない厳しい山間部だ。メモ書きみたいな地図では、ミスもあるだろうと思う。
奏はもう一つ大きく欠伸をした。古い地図を遅くまで読んでいた事と、母親と喧嘩した事、そして、模試に向けて勉強もしていた事で睡眠が足りていないのだ。
今日の夕方に夏祭りがあり、明後日にはもう模試が待っているのだから、呑気に欠伸なんてしてる場合ではないのだが、いくら酸素を吸っても脳の甘い痺れは消えてくれなかった。
「なんせ、昨日は授業さぼっちゃったしね…取り戻すために遅くまで勉強してたけど、それで授業中に眠くなったら本末転倒だよ」
「な~に、朝からへこんでるの?」
軽く自己嫌悪をしていると、後ろから声を掛けられた。
「ああ。双樹か。おはよ」
「おはよ。何?今日のお祭りが楽しみだった?」
双樹は奏の隣に並び、冗談というよりは意地悪に言った。
「たりまえだよ。ところで、あの鈴どうするの?」
「お祭りに持って行って、折り見て境内のどっかにしまっておく。そういう準備とかも有るから、私は今日午前で帰るね」
「マジか…俺も早退しようかな…」
「駄目よ、勉強しなさい…って言いたい所だけど、私もサボりだから、強い事は言えないわ」
「へ~……」
「なによ?」
「何でもございません」
「変な奏くん」
双樹は勢い込んで止めると思いきや、意外や意外。あっさり引き下がってしまった。
奏が感心してしまう程に、今は機嫌が良いらしい。
「ま、帰るかどうかはその時考えるよ。それより急ごう、バスが来た」
「あ、待ってよ。奏くん」
双樹の緩んだ顔がむず痒く、誤魔化す様に早歩き。
小走りしながら、今朝の景色に対して胸の片隅で疑念が顔を上げた。
ただそれは小さ過ぎて。
爽やかな朝の風に吹き飛ばされてしまった。
夏の夜は短く、静けさは狭間へ。
明昼に追いやられ、喰われいく闇夜は、冬の夜空の様に頑強なる深さを持たず。
ただ存在の軽さと昼と混じる柔らかさを持つ。
それ故に親しみ深く、侵し易い。
夏の夜は昼の暑さが引き摺られ重き湿気が纏わり付く。
押し込む腕の様に、引き上げる羽の様に。
不快なまま寝苦しく濃くなっていく。
でも、だから人々は夏の夜に集うのだろう。
集まり、騒ぎ、語らい、笑い合う。火に集まる虫の様に。
一ヵ所で顔を見せ合おうと競う、遊覧胡蝶の如くに。
集まる人が更に人を呼び寄せ、群となり、秩序を呑み込み、祭りとなっていく。
儀式とか、神事とか、お払いとか、そんな事情は後回し。
由来とか、到来とか、存続の理由とかは後付けで。
祭りを楽しめ、楽しめないヤツは、神妙に騒ぐ理由を考えろ。
そんな心粋こそが日本の心。
千の沢の悲喜交々を内包するこの祭りに、特定の狡すっからい理由などない。
騒ぐに理屈など到底なく、囃すに窮屈など宛がわない。
「いや~、祭だな!奏」
「祭だね~。京成は誰か呼んだの?」
空が暮れ始めた時分、奏と京成は並んで集合場所に向かっていた。
「一人呼んでるぜ!女の子」
「本当か。頑張ったね~」
「いや、しみじみ言うなよ!ただ喜び、褒め称えろよ」
「京成の呼んだ子だしな~。なんか結果が見えてる気がするよ」
「この野郎!そういう奏は誰か呼んだのかよ?」
「双樹呼んだ」
「いや!それ誘ったの俺じゃん」
「確約取ったの俺だよ」
「確約って、大事か?」
「大事だよ。双樹は何かを頼んだところで、うんと言わさないと、実行に移さないしね」
「マジか!危険な所だったんだな」
「夏祭りに双樹が居るのと居ないのとでは、だいぶ違うからね」
「だよな~!一夏を越せるかどうかレベルの大違いだぜ」
京成は心の底からその意見らしく、全力で気炎を吐いた。
その様子に過剰なものは感じるものの、京成が双樹を特別に思う部分だけは動かし難い真実に思えた。
「京成ってさ、本当に双樹の事が好きなの?」
「そりゃな……当たり前だ。好きだぜ」
「でも……さ……」
京成は言い難そうではあったが、意見としてははっきりと奏に示した。
対する奏は、奏は目を泳がせてまごついてしまう。
自分から聞いておいて、予想通りだったら動揺するってどういう事だよ。なにが『でも』だよと、自分でも嫌になる受け答えに情けない気持ちになった。
「別に奏は、双樹ちゃんと付き合ってないんだろ?」
「……言いたくない」
「そうか!なら、遠慮はしねえ」
「……どっちとも言ってないじゃないか」
「言ってないなら、いいだろ!」
「……ご自由に」
思った以上に反論も肯定も出てこない事に驚きつつ、奏は黙ったまま歩く。京成は京成でこの話題を続ける気はないらしく、暫くの間どちらも口を開かなかった。
そうしている内に祭りの喧騒が聞こえ始め、集合場所も見えてきた。待ち合わせ場所のスーパーの前に華やかな三人娘を見付け、奏と京成は手を振った。
「よ~!ばんは、真夜」
「京成に奏か。こっちだ、こっち」
「真夜だったのか。京成が呼ぶって言ってたの」
「はっはっは。京成が他に呼べる筈もなかろう」
「そういえばそうだね」
「おい!失礼な奴らだな」
野郎二人を見付け、三人の内の一人が手を振った。背が高く、黒い髪を編みこんで上げている真夜である。浴衣のシックな雰囲気もあり、いつも以上に大人っぽい印象を受ける。
「京成は夏休み中も何回か会ってるが、奏は久しぶりだな。と言っても、終業式以来だが」
「講習を頑張り過ぎて、終業式が去年みたいな感覚だよ」
「充実しておるな」
真夜は、はっはっはと胸を張って笑う。
京成は奏と真夜からの扱いに口を曲げる。しかし、お目当ての人物が居る事に気が付き、一気にテンションが戻った。
「こんばんは!双樹ちゃん」
「こんばんは。思ったより大人数ね」
「お~!双樹ちゃん、浴衣可愛いね~」
双樹は不機嫌顔ではあるが、ピンク地に沙羅双樹の描かれた浴衣は可愛らしかった。
ただ、双樹は可愛らしい浴衣姿にリュックという装いに合わない恰好をしていた。
「双樹、何でリュックなんか背負ってるの?」
「そうだよ~!なんなら俺が持つぜ」
「いらないわよ。そんな気遣い」
「くは!」
京成が荷物持ちをしようと双樹に近付くが、双樹はさっさと奏にリュックを押し付けた。
腹にリュックを押し当てられてワザとらしく痛がる奏は、リュックの中にシャランという音を聞き、中身に思い至った。
「ああ、これ神社の鈴か」
「そうよ。大事にして。あと雨が降っても良い様に服も入ってるから、着ないでよ」
「着ないよ!てか雨?」
「小さな台風が近付いてるの。明後日最接近だけど、雨は来るかも知れないでしょ」
「なるほど、双樹は台風嫌いだしね」
「そうよ。台風好きな人なんているの?」
「男子は結構好きだよ?ね、京成」
「おう!ロマンがあるよな」
「…意味分かんない」
双樹はそれだけ伝えると、さっさと言葉を切ってしまう。
やっぱり機嫌が悪い様子である。その原因が分からず奏が首を傾げていると、もう一人の人物が理由を教えてくれた。
「双樹ちゃんは、人数が思ったより多いから、ご機嫌斜めみたい」
双樹の横に立っていた沙希である。
奏が、夏祭りがあるから早退するか迷っている、と相談すると、沙希も来たいと言い出したのだ。断る理由もなかったので、一緒にバスに乗って千沢に来た次第。
沙希はお手洗いに寄ってから来るとのことだったし、奏も一度家に帰るつもりだったので、一旦分かれて再集合したのである。
因みに沙希は奏と午後まで授業を受けていたので、私服のままだ。
「人数?賑やかな方がいいじゃないか?」
「普通に考えたらそうだよね~」
「まあ、双樹は普通じゃないとこあるから」
「だね~」
沙希と奏が話していると、遠慮がちに京成が入ってきた。
「いや、俺も人数に関しては説明して欲しい!その娘、誰だ?」
「ああ、京成と沙希は、初顔合わせだったね」
そういえばそうだったと思い出し、奏は其々紹介した。
「こっちは京成。この子は沙希。講習で隣の席なんだよ」
「ね~。お隣、お隣」
「なっ!?真面目に勉強してると、信じていたのに!奏は、講習に女を作りに行ってるのか!」
「……京成の言っている意味が分からないよ」
「意味分からんのは、奏だ!くっそ!羨ましい」
京成は握り拳を震わせ、奏に噛み付いた。
奏は弁明をしようとするが、沙希を見るとイヤンとふざけているし、何故か双樹はうんうんと大きく頷いており、味方が全くいない状況となっていた。
「……ま、いっか。行こう、真夜」
「ああ。楽しい夜になりそうだな」
取り敢えず唯一冷静そうな真夜に助けを求め、さっさと歩き出した。
真夜は豪快に笑って付いてきてくれたが、京成は女々しく食い下がるばかりであった。
「いや!行く前に、奏は申し開きをすべきだ」
「しない!絶対しない!」
「なんでだよ!」
「この三人相手に口を開けば損をする!本能がそう言ってるんだ!」
「いいじゃねーか!既にいっぱい得してるんだろ!」
「してないよ!してたとしても、今口を開いたら全部吹き飛ぶ程度だよ!」
「よし!一緒に借金生活しようぜ!」
「やだって!」
姦しい彼らと対照的に風は謬と一つ吹いた。
風は静かで、この喧騒を吹き飛ばす程度の無粋さだって持ってやしなかった。
騒がしい夏の夜の日。涼やかな虫の音と人のさざめき。
まだ新しいスピーカーから流れる祭囃子が不思議な色彩を醸し出し、道行く人々の装いや笑顔が日常を消し去ってくれる。
「なんつーか『祭り』!っていう厳粛な雰囲気じゃないけど、夏祭りって感じにすればそこそこの規模出てるんじゃないか?」
「いいね~。いいね~。上がるねぇ」
視界の先に会場の明かりが見えると、真っ先に京成と沙希の興奮に火が点った。
「この祭りは、年々規模が大きくなっているそうだ。認知され始めたという事だろう」
「普段、この道通る人少ないし、こういう縁日で盛り上げるのは大事だよね」
真夜と奏がその次に続く。
「あ~!焼きソバあるよ!買ってこうよ」
道を進み、出店の群まで到達すると、真っ先に沙希が魅力的な店を見付けて目を輝かせた。
「こういう所で食べる焼きソバっていいよな!おっちゃん!一つ」
「む、京成、一人だけ頼むとは卑怯な。私も一つ頂こう」
「はいよ!」
沙希は焼きそばの屋台に突撃し、京成と真夜もそれに続く。
おじさんはお金を受け取ると用意していたパックを出し、三人に渡した。
「ほい。零さない様にな」
「ありがと~」
「サンキュッス」
「ありがたい」
パックを開けると香ばしいソースが顕著に香り、随分と食欲をそそった。
京成は焼きそばを見せびらかし、その破壊的な匂いを奏の方へ向けた。
「ほら!食わねーのか?奏」
「く…凄い威力だね。けど、俺はまずお好み焼きを食べるって決めてるんだ」
「へ~!あ、ウマい」
「…でも、あ~…焼きそばいいなぁ…」
奏は祭りに向かう道すがら、今日はお好み焼きを最初に食べると公言していた。
のだが、焼きそばの香ばしいソースは抗い難い魔力を持っており、奏の意思は早くも挫けそうになっていた。
「食べなよ~、食べちゃいなよ。その初めてに、それ程大事にする価値はあるのかい!」
「く…悪いね、沙希。この行為に意味は無くとも、誘惑を耐え切る事に意味はあるんだ!」
「ん~、そういわれると邪魔したくなるよね♪」
「鬼!悪魔!」
「分かる?この乙女心」
「そ……それはずるい表現だよ」
「ほ~ら、ほ~ら」
「くっ!」
沙希は割り箸で焼きそばを持ち上げると、奏の鼻先でゆらゆらさせた。
「耐えるな~、奏!てか、焼きそば、うめ~」
「こら京成、頂きますをしないか」
「い~んだよ!真夜。祭では、多少行儀悪いのが礼儀だ」
「む、そうなのか?」
「事実!歩きながら食べるのすら推奨だろ」
「たしかに、言われてみればそうだな」
「騙されたらだめだよ、真夜。祭ではしっかりいただきますをするのが、神事なんだよ」
「奏、適当な事を言う……おおい、真夜!焼そば返せ~」
「真実が分からぬ時は保留。これが一番であろう」
「いただきますいただきますいただきます!ほら三回言ったぞ。焼きそばを返してくれ」
「それはそれで無礼なのでは?」
「いいんだ!許した!神が許さなくても俺が許す」
「実に雄大なセルフだな。まあ、いいだろう」
「それで許すの!真夜!?」
「残念だったな、奏!皇ヶ埼ではこういうのが日常なんだよ」
「私にそういった類の記憶はないのだが……」
「あ、お好み焼き屋さんあるよ~」
「おお!マジだ!行ってくる!」
「おお、奏。行ってら…と見せかけて、ひっ捕えろ!」
「ほいきた!」
「のわ!何をするのさ!」
お好み焼き屋さんへと走り出した奏は、しかし、京成と沙希に捕縛されてしまった。
見ると二人とも双樹に焼きそばを預けており、両手が自由に使える状態になっていた。
「ふっふっふ。何と聞かれると特に目的はないね!」
「じゃあ、止めてよ沙希!」
「いーや、目的はあるね!真夜、先に行って、お好み焼きを買い占めるんだ!」
「うおぃ!モノポリるつもりなの!?」
「ふむ。不可能である事は分かっているが、善処したくなる」
「しなくていいよ!今の真夜は冷静さを欠いているよ!」
「やっちゃえ、やっちゃえ♪」
「無責任に煽るんじゃない、沙希~~!」
京成一人だったら殴って振り解けるのに!と奏が物騒な考えでわちゃわちゃしている間に、真夜はお好み焼き屋に向かってしまった。
無論、お好み焼きを買い占める事はせず、戻ってきた真夜の手には人数分のトレーが抱えられていた。
「取り敢えず、皆の分を買ってみたぞ」
「なんだよ!真夜~、買い占めろって言ったろ~」
「分かった、今すぐ財布を渡してもらおうか、京成」
「お、おう!悪かった。悪かったから、そんな怖い顔するなよ、真夜」
京成は愚か、奏も沙希も、真夜の迫力に本気でビビってしまう。
及び腰で近付いてこない三人を横目にしつつ、真夜はトレーの一つを双樹に渡し、代わりに京成と沙希の焼きそばのトレーを預かった。
「はい、これは君のだ」
「……ん」
素直に受け取る双樹の様子を見て、捕らわれのままの奏が戦いた。
「待って、双樹!俺より先に食べる気なのか!初めてお好み焼きを食べるのは、俺なのに!」
「……」
双樹は不機嫌な面持ちのまま、奏とお好み焼きを見比べた。
「あむ!」
「あ~~~」
「ふん!」
そして、お好み焼きが青春の敵であるかのように、力一杯齧り付いた。
がっくりと項垂れる奏の前で、双樹はひたすらにお好み焼きを腹に詰めていったのだった。
神社の境内には出店がないとの事だったので、奏達は神社への階段は素通りして一度道の端まで行くことにした。
出店範囲は思う以上に広く、沢山の店が出ていた。だが、残念な事にかなりの店がネタ被りをしていて、種類としてはさほど多くなかった。しかし、道の端の方に近付くにつれて王道の店はまばらになっていき、次第に良く分からない店も増えていった。
「この町の人は祭慣れしてないんだな!素人っぽい店が多いな~」
京成はたこ焼きを頬張りながら、素直な感想を吐き出した。
「基本、素人が店出してるだけだからね。椅子並べて『喫茶店』とか、文化祭っぽいくていいとは思うけどね」
「ま、それぐらいでいいよな!本職の祭屋さんがいても嫌だからな」
「メインの出店スペースには、結構居たよ。本職さん」
「マジか!ま、さすがに必要か。この町の人だけだと、文化祭レベルで終わるからな」
「神輿とかも無いし、境内も使わないことになってるしね。これで出店がちゃんとしてなかったら、地味ですまないだろうしね」
「出店巡りは出店巡りでいいんだけど、メインイベント!ってのも欲しかったな」
「花火とか?」
「いいな!それ。それで、『花火より双樹ちゃんの方が綺麗だよ』って、言うんだぜ~」
「それはいいけど京成、双樹は、花火と比べられたら怒る感じの奴だよ?」
「う!そうなのか?」
「いや、分からないけど、自分で言って、それが正しい気がしてきたよ」
「怖い事を言うなよ!言うなよ……」
京成と奏は取り留めのない会話をしながら、恐々双樹の方を見た。
双樹は相変わらず不機嫌そうに歩いており、二人と目が合っても反らそうともしない。
「双樹の奴、どうしたんだろ?」
「俺が知るかよ!奏は心当たりないのか?」
「双樹が双樹であること以外には、特に浮かばないよ」
「関心薄いな!奏がそんなだから不機嫌なんじゃないのか?」
「俺はいつも俺なんだから、それだと双樹はずっと不機嫌じゃないか」
「奏が居ないところだと、双樹ちゃん、いっつもケラケラ笑ってるぞ」
「何その幸せな嘘!すっごい見てみたいよ」
「俺が双樹ちゃんを笑わせて見せるさ!」
「京成、笑わせるのと笑われるのは違うからね」
「失礼な奴だな!ちゃんと喋りで大爆笑取ってるっつの」
京成と奏が相変わらず実の無い会話を続けていると、沙希が奏の袖を引っ張った。
「どうしたの、沙希?」
「あの店、変わってると思わない?興味あるんだけど」
「ん?あの店?」
「そうだよ、そーくん」
「看板には……キツネスズ?聞いたことないね」
沙希の見付けた店は、赤い構えで、店員さんが元気に呼び込みをしていた。店の前にはキーホルダーの陳列棚が置いてあり、看板には『狐鈴』と書かれていた。
小さな鈴が紅白の注連縄でぶら下がっているストラップみたいな物が並べられており、きっとそれが狐鈴なのだろう。
「いらっしゃ~い。気軽に見て行ってね」
奏達が近寄っていくと、店番のお姉さんが笑顔で迎えてくれた。
ハッピに捻じり鉢巻きと、祭仕様の人で『姉御!』という雰囲気の人だった。
「確かに奇麗な鈴だけど、普通の鈴と何か違うの?」
奏が商品を手に取り質問すると、真夜が代わりに答えてくれた。
「皇ヶ崎の辺りに、鈴に狐が宿るって言い伝えがあるんだ。コリンって読むのだ」
「お!お嬢ちゃん、良く知ってるね」
「あの辺り出身なので。な、京成」
「だな~!俺はこれ、初めて見たけど」
「…勘弁してくれ、京成。狐鈴は有名じゃないか」
「そうなのか!?聞いたことないなぁ」
「お!お兄ちゃんも皇ヶ埼の方出身かい?」
「そうだぜ!結構早くにこの町に移ったけどな」
「なら、狐鈴は持ってないとな。どうだい?1つ」
「だから、普通の鈴とどう違うんだよ!それが分からなきゃ買えねーな」
「ふっふっふ。キツネは異性を誘惑すると言われている。だから、キツネの宿ったこの鈴を好きな子に贈ると、好き合えるって言われているんだ」
「本当かよ!贈らないとダメなのか?」
「いやいや、持ってるだけでも、効果はある。それに…本当はこっちが本来なんだけど……キツネは気紛れだが、ここぞって時は助けてくれるから、お守りとしても効果があるのさ」
「え~、本当?私、買う、買う」
「俺も欲しいぜ!取りあえず三個下さい」
「毎度あり!うまく使ってくんな~」
なんで三個買うんだと、奏は京成に不満とも不審とも取れる視線を投げ掛けたが、京成は気にせずにお姉さんから鈴を受け取っていた。
「お兄さんは、いらないかい?」
「俺は…どうしようかな…」
店員さんに尋ねられた奏は歯切れ悪く答え、ディスプレイされた鈴を弄るばかり。
勿論、一介の健全な男子としては、異性を誘惑する鈴というモノに興味は有るのだが、買ったところでどうすれば良いのか分からない訳だ。
だって贈りたい相手は実に不機嫌で、何が気に入らないのか不満が溜まりまくっているらしい状態なのだから。
「双樹は、要る?」
「…要らないわよ」
機嫌が悪い理由は分からないが、双樹はずっとこの調子だ。楽しむべき祭りの場なのに雰囲気を悪くしているどころか、皆に気を使わせてしまっている。
双樹の変わらぬ態度と強い否定に奏もムッとして、止せばいいのに詰め寄ってしまう。
「なに怒ってるのさ、双樹。楽しい祭の雰囲気が台無しじゃないか」
「何を怒っているか…ですって?」
「お…おう。そうだよ。皆気になるじゃないか」
「皆?気になる?本当に言ってるの、それ」
「本当とか嘘とか…何で嘘言う必要が有るんだよ?」
「必要とか、不必要とかそんな話をしたいんじゃないの。奏くんには分からないのね」
「はぁ?何が言いたいのさ?」
「自分で考えなさいよ!」
「だから、何をさ!言わないと分かる訳ないじゃないか!」
「わ、私に言わせたい訳?鬼!悪魔!変態!」
「はあ?双樹は俺をそんな風に思ってるのかよ?」
「何そのめんどくさい女みたいな、ダッサイ一般化?信じらんない」
「へー、へー!俺は女々しいですよ!そして、察しが悪いですよ!誰かさんと違って、頭が悪いものでね。すいませんね!」
「なによ、その言い方!」
「はいはいはい!そこまで、そこまで!」
二人が過剰な熱にやられている事を感じ取った京成は、慌てて割って入った。
「そんな喧喧しなさんな!二人とも~」
「ふん!突っかかってきたのは、奏くんでしょ」
気を削がれた双樹は、そっぽを向いてしまった。
しかし、京成を鬱陶しそうに扱うその仕草が、一層奏をカチンとさせた。
「俺からって、双「ま~まぁ!待て、待て、奏。気を確かに」
京成は奏と肩を組み、双樹に聞こえない声で釘を刺した。
「気を使って喋り掛けた奏が切れてどうする?本末転倒だろうが」
「……別に切れてないよ」
「分かってるって!ま、奏は大丈夫そうだな」
京成の困った笑いに火を消され、奏は処理出来そうにない感情を心の奥底に押し込めた。燃え上がりもせず複雑に絡む感情の一端が、神経を弄くる様で落ち着かない。
今日は何かがおかしい。その発端が分からぬまま、幼い感情は標無き水面に溺れていく。
それでも京成は口を噤んだ奏は大丈夫と判断して、今度は双樹に近寄った。
「双樹ちゃんも!楽しくしようよ」
「……ふん」
「ほら!あそこに面白そうな物があるぜ」
「………」
京成はフレンドリーに双樹に寄り添い、一つの店を指差した。
二つ並んだ影二つ。その背中から目を逸らし、奏は俯いた。
(ったく、どうにかしてるかな?)
奏は何か、とてもムカついて……同時に寂しい?思いをしたのだ。
怒りの様な、寂しさの様な、裏切りの様な、不確かな気持ち。
どこか知らない場所で迷子になったとか分かり易い不安ではなく、待ち合わせの場所に行ってみたら誰も居なかったかの様なそんな気持ち。
(……どんな気持ち?というか理由が分からない)
奏は自分の心情が理解出来ず、下を向いたまま考え込んだ。
そんな奏の顔を横目で確認したからだろう。双樹は奏の感情を勘違いし、深い溜息を吐いた。
「…どれ?」
「お♪」
「なに?」
「いや、何でもない!あれだよ、『お化け屋敷』だって」
「お化け屋敷…ねぇ」
「確かにしょっぱいけど!でも、カップルでお入り下さいだってさ」
「ふ~ん」
「双樹ちゃん!俺とペアで入ろうぜ~」
京成の指した先に有ったのは、お化け屋敷だった。出店というより、最早出し物の類だ。
急拵えの柱にベニヤの壁とテントの布を貼り付けた物安っぽいもので、道路の片側に出さねばならない制限からか店が歪に細長かった。恐らく一本道になっているだろうと思われた。
壁は黒く塗られ、様々なお化けの絵と共に『お化け屋敷』の赤い文字が躍っている。血をイメージしたと推察されるテイストだが、字が汚いだけと言われても納得してしまう出来である。
文化祭レベルの造りで怖さなど期待できそうになかったが、不出来を誤魔化すスパイスとして『カップル限定』の文字が掲げられていた。
双樹は髪先を弄りながら奏の方を伺う。そして、奏の横にちゃっかりと沙希が近寄っているのを目にすると、キッと口を結んでお化け屋敷を睨み付けた。
「…そうね。行きましょうか」
「お~、マジで~!楽しみだね~」
京成は速足にお化け屋敷に向かう双樹に追い付くと、仲良く肩を並べてカップル限定の小屋へと向かっていった。
(あ?)
京成が双樹の腰に手を当て、エスコートしていく。
二人が一緒に向かうその光景を見た瞬間、奏から余分な音、景色、全てが消えた。
視界は白に絞られ、意識は削られ、情報は遠のく双樹だけに成る。
つまり、簡単なことだ。いくら繕っても、感情を押し込めても、嫉妬は双樹の専売特許ではなく、寧ろ奏の心の奥底に深く根差していたのである。
「行こう、行こう!双樹ちゃんノリ良いね~」
「まぁ……ね」
――だから、楽しそうな背中を見て、正常な意識が飛んだ。
祭り囃子も、雑踏のざわめきも、出店の食べ物を焼く香ばしい音も。
聞こえない。頭に来た。足の下か、臓腑の内からかザワザワする。そこここの管に直接心音をブチ込まれた様で、体の何処にでも鼓動が在って気持ちが悪い。
吐き気と怖気と目眩と怒り。
無知も蒙昧も軽挙も妄動も幾条もの真白な刃に、
内側より刺し貫かれた頭では到底許せない。
自分の勝手さと相手の勝手さと罪と罰を計れば、天秤が微動だにしないのがムカついた。
すれ違いの根源にやっと気が付いた。
致命傷。脳味噌の何処かが穿たれていた。
まともな思考が出来る訳がない。
雷で撃たれた足は跳ね上がり、地面から嫌われた偽物の翼に成り下がる。
体の奥底が鉛の様に重く、急性の貧血になったかの様に世界が歪み、吐き気がした。
やたらめったら目が良くなった気がする。
やたらめったら視野が狭くなった気がする。
お化け屋敷は恋人同士で入るらしい。
作りが荒いのを、色恋のノリで乗り切ろうというのか?
浅ましいったらありゃしない。
しかし、それがルールなのだから仕方ない。
だから、京成は間違ってない。
であれば誰もおかしくない。
でもアイツ、なんで仲良く並んでお化け屋敷に行くんだよ?
――全く!本当にもう全く!!
人殺しより早く。林檎より真っ逆さまで。
気が付くと、奏は一歩を踏み出していた。
「ん?そーくん?」
肩で風を押しのけて歩いていく奏の様子に驚き、沙希は奏に声を掛けた。が、奏は呼び止められても気付く様子はない。
そのまま速度を落とす事なく進み、乱暴に双樹と京成の間に割って入った。
「いて!?…奏?」
「な、何?」
奏の気絶にすら近い行動事由による暴挙。
いきなり間に割って入られて、双樹は戸惑いの視線を奏に絡めた。
だが、奏だってそんな風に見られては困る。何かを考えて行動を起こした訳ではないのだから、奏の中に説明なんて概念が生きてる筈もないのである。
「なんでもないよ」
「ちょっと!奏くん!?」
だから奏は、誤魔化す事すら諦めて、無造作に双樹の腕を掴んだ。途端、浴衣の生地を通した双樹の肌の温度が奏の掌に沁み込んだみたいで、頭が急速に沸騰してしまった。
意識と現実の間に分厚い硝子を挟まれた様な操作感覚の欠如。溺れるような混乱の中、皆の驚いた顔と出店のお姉さんの口笛が、奏の記憶にこびり付いた。
「鈴!持って行くんでしょ」
「え?あ、うん」
ブワリと汗だか蒸気だか分からないものが肌から噴き出る。
冷たくなって行く体とは裏腹に、言葉は強く熱かった。いや、熱いとか冷たいとかの話ではなく、奏の機能のどこかしらが灼熱し、加減の仕方が欠落したらしい。
自身の操縦すらままならない奏は、思った以上に双樹の腕を強く握ってしまって焦り、双樹は強く握られた手の理解が追い付かず、口を開けたまま引き摺られる。
「ぁぁ……もぅ…馬鹿なんだから…」
そうしている内に、奏のおかしさの理由に双樹の理解が追い付いたらしい。
頬の熱さを自覚してしまった双樹は、顔を上げずに奏に引っ張られるままに歩く。
「おやおや。何も世話を焼く必要なんてなかった訳だな」
「ちぇ~……仲良いね。あの二人」
奏は手を伝って感じる沈黙の鼓動より、背に受ける皆の視線が気恥かしかった。
激流する血潮の音で半ば泣きそうであり、同時にそんな風に考える自分が冷静だなどと前後不覚な感想に陥る。
夏の夜は蒸し暑く、今が冬だったら良かったのにと、見えない何かに八つ当たりした。
人混みを突っ切り、階段を駆け上がり、境内を進んでいく。
何を話し合う事もなく出店通りを抜け切って、
何かを確かめ合う事もなく境内を過ぎ去って、
ただ漫然と一秒を積み重ねて拝殿の裏まで来てしまった。
聞いていた通り神社は祭の喧騒から切り離され、人も疎らだった。
僅かに数人目に付いたがそれらは皆二人ずつで、人目を憚るように言葉を交わしており、自分達には注意も向けなかった。カップルなのだろうか?もしくはその一歩手前か。
そんな風に好奇の目を向けてしまったが、自分達もそんな風に見られているのではないかと思うと恥ずかしく、二人とも目を伏せて足早に通り抜けた。
お堂の裏まで行くと、さすがに人影はなくなった。
やっと一息吐ける気がして、二人は立ち止まり、呼吸を整えた。
「ねぇ、奏くん、どうしたの?」
双樹は早歩きで乱れた呼吸と浴衣を整えてから、奏の手を離した。
双樹の声は血が通い、心臓に合わせて鼓動しているみたいでおかしかった。
「…だから、その鈴を何かするんでしょ?早くしないと」
いや、おかしいのは奏の口だ。
どうしていいか分からず、つまらない事を言ってしまう。
「そう…そうよね」
しょうもない、みっともない。此処に来てこれはないだろうと、奏は自分を殴りたくなった。
それでも奏は目の前の可愛らしい女の子が、酷い奴だという想いを拭切れないでいた。
(本当、双樹は分かってないよ……)
自分が何のために受験なんて人生の分岐点で、双樹と進む道を選んだのか?
中学生最後の大事な夏休みを、勉強に使っているのか?
毎日毎日朝早くから、時間をかけて遠い町まで通っているのか?
テストの結果に必死になり、睡眠時間を削ってまで駆けずるのか?
同情や優しさでそんな苦難を取る人間がいるとは思えない奏は、自分の選択の理由が双樹に伝わっていると思っていたのだ。
だから、今日のこの日、双樹がなんで怒っているのか分からなかったし、察した後も、分かる気はないと意地になっていた。
自分が悪さをするとすれば、それは浮気となるだろう。しかし、双樹は『盗られる』と思ったらしい。それは確かに自分も悪いのだが、双樹にしたって馬鹿にしてると思ったのだ。
(本当、俺は情けないよ。そんなつもりはなかったけどさ)
そんな子供みたいな自己中心性の保持。
もし傷付けても双樹は自分といてくれるなんて思える幼稚な全能感。
そんな幻想を抱えて生きていく所だった。
しかし、不幸にも薄汚い独占欲が、自分の目を覚ましてくれた。
さっき奏は京成に嫉妬したのだ。双樹の横に立つ京成の姿を見て、京成でも……いや、自分じゃなくても双樹の横に立てるのだという当たり前の事に気付いてしまった。
『双樹は社会不適合だから』
何度も思い、口にもしてきた言葉。それが単に、双樹に自分以外の社会と関わって欲しくないという不健全な願望でしかなのだと知らしめられた。
双樹を手に入れたいという独占欲ですらない。
燃え上がる憎悪と、共に幸せになりたいという愛。そんな愛憎からはかけ離れた未熟。
嫉妬の原因は双樹に誰も近付いて欲しくないという潔癖症にすら似た浅ましさだ。
笑えてくる悍ましさ。いや、笑えすらしない。
そんな浅い自分と、そんな自分しか作れなかった人生の道を後悔した。
いや、後悔なんて今している暇はないのだ。反省なんて自分勝手も今すべき選択ではない。
京成に嫉妬した自分に『ようやく分かったのか馬鹿野郎』と笑われているみたいだった。
「そうだな……俺は馬鹿だからな」
「………うん」
健気に待ってくれている双樹が珍しくて、いじましくて、可愛かった。
呑み込んだ生唾が茨の様に喉に引っ掛かる。お堂の裏に辿り着いた時は、全身の筋肉を引き抜かれた様に体は冷たくなっていたと言うのに、いつの間にか躯は過熱状態に戻っていた。
心臓の音がうるさい。顔が熱い。手の熱、心臓の動悸、足の震え。
止まらない、逸る気持ちとそれを著す生理反応。
好意と覚悟を示す全ての音や熱が双樹に伝わってしまっているのではないかと思うと恥ずかしくて、隠れたくなってきた。
(でも、いいんだ。丁度いい機会だ)
『あの日』の約束を『また会おうね』なんて曖昧な覚え方しかしていない双樹に気持ちをぶつけ、双樹だって恥ずかしい記憶に溺れさせてしまえと思ったのだ。
「あのさ、俺…」
「…うん」
だから奏は口を開く。
それを双樹は、茶々も入れずに待っていた。
初めて流れる空気の味が、口の中に解けていく。
甘いような痛いような、血と鉄の味。
鼓動を合わせ、想いを重ね、言うなと怯える防衛本能を麻痺させる。
決意のままに奏は双樹を見詰め、
双樹も赤い顔のまま視線を返し、
「……」
「……」
バッシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
「俺…うわああああああああ!?」
「きゃあああああああああああ!?何よこれ」
二人の高揚は、突然の雨に叩き落とされたのだった。
「何なんだよ一体…」
唐突に降り始めた大雨から逃げ、奏と双樹はお堂の中に入り込んでいた。
窓がない為に外は確認出来ないが、音を聞く限りはよほどの大雨らしい。木で出来たお堂には、激流の中に漕ぎ出してしまったかのような轟音が響いている。
「台風が近付いてるらしいから、その影響じゃない?…もぅ」
双樹は水に濡れた髪を搾っているらしい。ポタポタと水が滴る音がした。
「台風?なんだよそれ、危ないじゃない」
「言ったじゃない。別に小さい奴よ。そこまで近くに来ないらしいし」
隣に座る双樹は、いつもの素っ気ない調子に戻っていた。
「あ~あ、びちゃびちゃ。後で着替えるわ」
そう言って、リュックを探し始めた。
その状況に奏はドキドキしてしまい、自分は変態かと目を逸らした。
「でも、それより先にこれね」
「あ、ああ。そうだね。そうだった」
双樹がリュックから取り出したのは着替えではなく、神社の鈴だった。
「ワザとらしい……いいけどね」
奏に対して双樹の反応は冷たい。
そして、双樹は唇を尖らせて鈴を抱えると、女の子みたいな声で尋ねた。
「ソウくん」
「ん?」
「さっき何を言おうとしたの?」
「うげ、やっぱり覚えてたんだね」
「あったり前でしょ!忘れられないわよ、バカ!」
双樹だってドキドキした訳だ。始末は付けて欲しい。
暗くて双樹の表情も良く見えなかったが、声色は熱っぽく、まいってしまう。
奏は女の子の顔をした先程の双樹の表情を思い出して、胸がむにゃんむにゃんした。
「……持って帰った本にさ、『青の刻、鶴が飛び立つ。光に眠り、夜を食う』って一節が有ったんだよ。青の刻っていうのは夕暮れ後の時間帯の事だと思うんだ。つまり、夏啼きが始まるのはその刻だと推察したんだけど、双樹はどう思う?」
「……へぇ」
どうでも良い奏の逃走体勢に、双樹は本気で不機嫌になった。
その瞳は氷の様に冷たい……訳もなく、ただ不満と呆れに満ちていた。
「分かったよ」
「遅いわよ」
奏だって逃げ場がないのは分かっている。というより、逃げ切れてしまうと不本意だ。
ここまで来たら夏のせいか、神様のせいにして後先考えないのが一番だと一歩を踏み出した。
「双樹は、『あの日』の約束覚えてる?大きな木の下でした、さ」
奏は照れ隠しに建物の向こう側の壁を睨みつけた。
耳が慣れたのか、雨音が小さくなった気がした。
「ん~………『引っ越しても、また会おうね』じゃなかった?」
「……だろうね。そんなんだよね」
「むぅ……仕方ないでしょ?十年前よ?」
「俺もちゃんと覚えている訳じゃないんだけどね…」
そんな訳はない。奏は嘘を吐いた。
親の顔を忘れようとも、心をどこかに置き去りにしようとも。あの日の景色と高揚は記憶に刻まれたままだと自信をもって言える。
だって、あの時形作られた何かが、奏の情けなさの根を確実に深くした。
とは言え、
『覚えてないならそれでいいさ。俺が思い出させてやるよ』
なんて伝える甲斐性もない奏は、赤い顔のままどうすべきかと考え込んだ。
そして、考えたって仕方ないと思い直し、思い直す前に双樹の目を覗き込んだ。
「ソウちゃん」
「な、何よ?」
「目を逸らしたら負けって、双樹は猫なの?」
「むぅ!」
「まあいいや、真剣な話があるんだ」
「ど、どんときなさいよ!」
「だから、なんでそんな戦闘態勢なのさ?」
「し、仕方ないでしょ!どうしていいのか分かんないんだし!そ、奏くんこそ、は、早くしなさいよ!」
「なにをさ?」
「わ、わかんないわよ!」
双樹は意味の分からない位ダメになっていた。
勿論、奏も同じ位ポンコツになっていたが、それに甘んじて二人でダメ人間になっていてはこの夜は何一つ変わらない。
奏は、せめて落ち着かなくてはと、自身の心を頭の中に思い描いた。
回転するリング。ダイナモ…いや、今一番使い勝手のいい心の形は独楽だろうか。
心臓が早鐘の様に打ち、脳味噌が荒れる海の様に歪む。
それを乱れた独楽に準えて、不調の状態を明確にしていく。
撓む円環、暴れる軸。
塗られた幾筋もの色は混ざり合い、茶の様な汚い色を撒く。
実に不快な症状だ。このまま進んでも、まともな結果にならないと確信できるろくでなし。
その独楽の縁を正し、軸を安定させ、綺麗な彩を取り戻していく。
「よし……」
何とか息を一つ吐いて、まやかしの落ち着きを手に入れた。
独楽はかりそめの安定を取り戻したが、恐らく二十秒もしない内に暴れた状態に戻るだろう。いや、次に平静を欠いた時には、数秒前よりもっと酷い自分になっているに違いない。
だから、僅かな猶予の内に格好を付け切ってしまおうと決心する。双樹の両肩を優しく掴み、思う限りの気障な男の笑みを浮かべた。
「むひゃ!」
「……変な声出さないでよ。雰囲気おかしくなるよ」
「ご、ごめん……だって、びっくりしたもん」
奏は一度目を瞑って気を持ち直す。そして、色が乱れない内にと、考えうる限り甘く、情熱的に目の前の女の子の名前を呼んだ。
「ソウちゃん。一緒に居よう、ずっと。離れ離れになる事もあるかも知れないけど、何回離れたって、何年離れたって。明日また会うようにおやすみをして、昨日会ったようにおはようをしよう。僕らの未来は共に続いているんだ」
「……は?」
それはそれは情熱的な告白で、受けた双樹はぽかーんとしてしまった。
そして、双樹の頭が真っ白になってから十数秒後。
「は…はいぃ!?」
頭の中が真っ赤になった。いや、ピンクになった。
「だから、ずっと一緒だよ。ここで、僕らの時間は止まって、ずっと一緒に居られるんだ。ソウちゃん。僕を忘れないでね………引っ越しても。再会したその時にも」
「うん……え?」
そう締め括り、奏の告白は終わった。
奏は心臓がバクバクして、筋肉がドクドクして、このまま破れて体内が真っ赤に染まるんじゃないかなんて思った。そうしたら文字通りのハートブレイクだな~、なんて後悔する。
まぁ、一世一代の告白直後に、意外と冷静にそんな事を思えるのには理由がある。
だってこれ、一言一句違わず二回目だから。
「………どういう事」
予想通り、双樹は最後の言葉がお気に召さなかったらしく、器用にも顔が真っ赤なまま冷めた目をする。ふざけているのか真剣なのか見定めるように奏を見た。
『もし嘘や冗談やからかっているなら引っ掻きまくった後に大泣きするわよ』とでも言わんばかりの、拗ねている様な、不安な様な、怒っている様な解釈に困る表情だ。
「だから、これ告白だよ。十年前に、あの木の下でした」
「え?」
「ハッキリ言って、俺はあれで気持ちが伝わってる気でいた訳だよ。というか、これを忘れている相手にこれ以上の愛への言葉を積み重ねる気はないね」
奏は、恥ずかしくて顔が熱くて、向こうの壁の木目を数えるしかなかった。
一方奏の話を聞いた双樹は、やっべーという顔になった。
「そういえば、そんな事言われた気がする…う~~~~~……」
「覚えててよ、ソウちゃん」
「十年前の事なんて普通覚えてないし…それに十年前の恥ずかしい台詞、覚えられてても困るでしょ?子供の言葉だし。酔っぱらっての勢いとか勘違いかもしれないでしょ」
双樹は何を納得したのか、自分で言って自分で頷いてる。
「ないよ。幻想の言葉じゃない。いや、これが幼い日の幻想なら、俺は現実に生きなくたっていい。大人にだって成らなくていい位だ」
「ソウくん……大人にはなってよ」
「うぐ……いい?恥ずかしいから、もう一回しか言わないよ」
双樹の顔を一切見ない様にして、奏は最後の勇気を吐き出した。
「普通の事じゃないから、覚えておきやがれ。十年前と俺の気持ちは何にも変わってないね。時間は止まってるんだ。本当にあの時必死で、双樹のために今この時に止まれって願ったんだ。だから、気持ちは変わらない。俺は十年前のままだよ、あ~もう!」
一息に言い終わると、耐えら切れなくなって奏は壁に全体重を預けた。
体全部が心臓になったみたいで、世界が蠢動する。自分の中に冷たい部分なんて一遍もなくて、力が入らない。奏は壁に凭れたまま倒れ、双樹に背中を向けて横向きなった。
「覚えててよ……ソウちゃん」
「……うん」
双樹は恥ずかしそうにポリポリと頬を掻いた。
そして、奏とは別の方にパタンと倒れた。
「そっか…」
そして、にふふと笑う。
「うふふ。そうだったんだ」
「いつまで喜んでるのさ……」
「だってね~♪」
「んく!?……ったく」
「えへへ♪」
奏は背中にこつんとぶつけられた物が、双樹の頭だと知って硬直した。ただ、それは単に双樹のテンションが上がって頭突きをされただけらしい。全く以てロマンティックの欠片もなかった。
でも、背中に当てられた掌とおでこは焼ける様に温かく。きっと双樹の身体も、自分と同じで冷たい場所なんてないのだなと思うと後戻りできない気持ちになる。
「雨、止みそうにないね、ソウくん」
「うん、そうだね」
「これじゃ帰れないね……だから、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
双樹の声はなんだか酔っぱらってるみたいで、奏はおかしくなりそうだった。
「うお!?」
「にふふ~♪」
「痛い、痛いって、双樹!」
「えへへ~♪」
「ところで、鈴はいいの?」
「鈴?」
「いや、さすがに分かってよ。呆け過ぎだって」
「え~?」
「え~?じゃないって……沢隠しの鈴だよ。双樹は沢隠しをしたから夏啼きはもう起きないって言ったけど、外はこの大雨だよ?これ、鶴が暴れてるんじゃないの?」
「ん、大丈夫。鈴をこのお堂に持って来れば、『沢隠し』は完了なの。周りを見て。いっぱい鈴があるでしょ?」
「ん~……確かに」
暗くて良く分からないが、周りには確かに鈴っぽい物が沢山転がっていた。
「じゃ、『夏啼き』ってのは、もうないのかな?台風は来てる様だけど」
「ないと思うわよ。台風だって、去年も来たんでしょ?その時に起きてないなら、台風自体は大丈夫な筈よ」
「そうか」
「この雨だって、雨娘が早く鈴をお堂に入れろ、って催促のために降らせたのよ」
「え?あれを見てたって事」
「かもね」
「それは勘弁して欲しいな」
「いいじゃない。私としては、奏くんにあの顔を見られたんだから、もう誰に見られたって同じよ」
「俺の基準はどこにしてるのさ」
「平均値」
双樹は言って、ふぁっと欠伸をした。
「私、このまま寝るわ。奏くんは、どうするの?」
双樹は疑問形で投げ掛けるが、奏が帰ると言い出すとは思っていない口ぶりである。
無論、言い出さないが。
「おやすみ、って言われたし、おやすみするよ」
「そ、じゃ。お休み」
「うん。おやすみ」
お堂の外では相変わらずの大雨が降り続き、出来の悪いノイズが鼓膜を犯していく。
うんざりした様な雨の音を耳にしながら、微睡に落ちていく。
雨の匂いと埃臭さを感じながら、二人分の寝息が静かに重なっていった。