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見えない雨の降る季節に  作者: 月猫
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サイカイ

プロローグ『嵐の森で』一

闇ではなく暗さが支配する空間。

地面も空も進む先さえも、同じ黒が敷き詰められる人外魔境。

凍る様な寂しさと、細波の様な心細さが手足に絡み付いた。

落ちる影が質量を持って、圧し掛かってくるみたいだった。

柔らかい土の下に異世界が有って、気を抜けば引き釣り込まれると思ったし。

木々の影が幽霊の様で、森に潰されそうだと感じたのを今でも覚えている。

幼い体に天は遠く、地は冷たい。

星の光も届かず、帰る先も分からない。

ただ恐ろしさと怯えだけが心に残って、何をどうして迷子になったかすら覚えがない。

不安と恐怖に身を喰われながら、それでも僅かな使命感で前へと進んだ。

それが暗い贖罪なのか、明るい英雄譚なのかすら。

この記憶は教えてくれなかった。


「うう……怖いよ」

誰も居ない森の中、孤独に歩く影双つ。嵐が暴れるワイルドハント。追い立てる獣は居らずとも、5歳の子供には苦しい逃避行。

大雨と暴風に覆われた真っ暗な森で、小さな騎士が女の子の手を引いて歩いていた。

泣かせない様に、何かから守る様に。

それがすべき事だと自分に言い聞かせながら、僅かずつ、僅かずつ歩みを進めていく。うねる根を乗り越え、大きな岩を避け、道無き道を失いながらも、標無くして歩を進めていく。

迷いの森に入り込み、道を忘却し、いつからとも分からぬ時間を彷徨っている。

人間の領域から外れ、帰る場所を見失い、行くべき先も定まらない。

闇は深く、森は濃密で、視界も効かなければ足元も覚束ない。

頼りもなく、光もなく、導いてくれる声もない。

孤独を以て心は恐怖し、不安を以て精神は拉げ、空腹を以て歩みは止まっていく。

ガサガサガサガサと木々が揺れ、そこに化け物が潜んでいるみたい。

ボタボタボタボタと雨が落ち、誰かが嘆き悲しんでいるみたい。

それは明確な恐怖の形。曖昧な死の輪郭。

子供にとって死は遠く、想像し難し。しかして、突如形を成して襲い来る化け物でもある。

森に捕まって仲間にされる。闇に食われて頭だけ残される。

子供の頭では荒唐無稽な死の形しか想像できなかったが、原初の森に於いては、何かが起きて自分は死んでしまうのではないかという正体不明の怯えが腹の底に沈殿してしまう。

腹に溜まった蟲の様な恐怖は足を動かす度に成長し、膨れ上がり、小さな騎士は最早女の子よりも先に自分が泣いてしまいそうになっていた。

「ダメだ…ダメだ、泣いちゃダメ……」

でも、泣いてはダメなのだ。もう泣かないと決めたのだから。

それに自分だってこれ程怖いのだから、後ろで震える女の子はもっと怖いに違いない。頼りない所を見せて、徒に不安がらせる訳にはいかないのだと唇を結んだ。

「ふふふんふ~ん、ふふふふ~ん♪」

気晴らしに鼻歌を歌ってみた。口を突いて出たのは耳に残っていたCMソングで、口にすると少し気持ちが明るくなった。

いや、嘘だった。明るく等ならなかった。寧ろ、声を出せば出す程、声と共に嗚咽が漏れて、泣き声や涙の我慢が効かなくなっていった。

「うヴ……帰りだいよ……」

涙だか鼻水だかで口腔が詰まって、呼吸が苦しくなってきた。

「…ソウくん…大丈夫だよ」

「っ!?……」

そんな様子を見兼ねて、女の子が小さな騎士の手を握る力を強くした。しかし、改めて握られた手から貰ったのは元気ではなく、焦りと驚きだった。

自分の事に必死で気付かなかったが、森に入る前は火に触れたと思う程熱かった女の子の掌が、今では氷を掴んだかと思う程冷えていたのだ。このままでは女の子が死んでしまうと感じた小さな騎士は、竦んでいた脚に慌てて力を入れ直した。

小さな騎士が巻き込まれたのは、八月の初めの台風だった。

経緯は定かではないが、女の子と共に森に入り、そこで嵐に合ってしまった。

雨量はとても多く地面は既に水浸しで、森の中は沼の様相を呈していた。全身はとっくにずぶ濡れで、靴どころか靴下まで泥に浸かっている。濡れた服は気持ち悪い事この上なく、冷たく重く、拘束のように付き纏い体力を奪っていく。

風もかなり強かったが、木々が遮ってくれているのでそれはあまり感じなかった。しかし、不思議な事に、森のある道筋だけ川の様に風が流れていた。

凄い濃度の風川に触れると体温が奪われたが、それがどうにも出口に向かっている気がしたので、小さな騎士は仕方なく冷たさに震えながら進んでいた。

「あ!あそこ!!」

そんな過酷の中、雨の隙間に希望を見付けた。

「え?何?」

「あそこ、あそこだよ!お堂がある。あそこなら雨宿り出来るよ!」

「どこ?」

「あそこ!木がしなった時にちょっと見えた」

「分からない!」

「大丈夫!連れていくから」

木々の切れ間に遠く霞んだのは、木で出来た建築物だった。恐らくこの森に入る前に見た、神社に建っていたお堂だろう。

小さな騎士は人工的な建物を見付けて僅かに安堵したが、同時に『早く辿り着かないとお堂が消えてしまうかもしれない』という意味不詳の焦りも覚えてしまった。

だから、知らず足を速め、

「痛っ!」

「ソウくん!」

突如、腕の中を激痛が走った。

雨でふやけた肌を枝が切り裂いたらしく、見ると腕が真っ赤に染まっていた。

「う……」

血を確認した途端、痛みが俄然増してしまい、我慢していた涙が視界をぼやかせる。

「大丈夫、ちょっと切っただけ。急ごう」

「え…でも…」

「大丈夫だから!」

「う、うん……ソウくんがそう言うなら…」

途轍もなく痛かった。深く肉が抉れており、大人でも顔を歪ませる程の灼熱である。

それでも、小さな騎士は奥歯を噛み締めて、女の子を心配させまいと強がりを示した。

「大丈夫、もう直ぐだよ」

「うん……そうだね。頑張ろう」

「そうだ、頑張ろう」

小さな騎士は、言い聞かす様に、祈る様に、弱気を鼓舞の言葉に変換していく。

女の子も小さな騎士の手を握り、必死に後ろを着いていく。

やがて、彼女らは木々の終わりへ辿り着き、漆黒の森から暗い夜へと躍り出た。

「あ…やった!やったよ!」

曇天の空を見て、激しい雨を受けて、

助かった!

という言葉が身体を満たした。

「お堂に入ろう」

「うん……良かった」

この辺りでは神社に狐が遊びに来るという伝承があり、お堂に鍵は掛かっていなかった。小さな騎士はそんな風習に感謝する暇もなく、女の子の手を引いてお堂に転がり込んだ。

木で出来たお堂は簡素なモノで、暖房器具など置いていなかった。それでも、生きている木ではなく木の死骸に囲まれている安心感のおかげで、随分と温かく感じる事が出来た。

ただ、お堂には不気味な物が沢山転がっており、奇妙な雰囲気が醸し出されていた。

「不気味だね、沢山ある」

「鈴は…嫌い……」

女の子は不気味な物体を避けて進み、壁際に座った。

「これからどうしよう?」

小さな騎士も壁際に座り、独り言の様に呟いた。

先程は避難場所を見付けて歓喜が沸き起こったが、よく考えてみれば現状は依然変わらず、絶望的であると言わざるを得ない。

まず、ここは立ち寄っただけの見知らぬ地であり、土地勘が無く、知り合いも居ない。

また、既に冷たい雨と風に体力を奪われて、小さな体は極限に近い所まで来ていた。

そして、小さな騎士は親に繋がる通信手段なんて持ち合わせていなかったし、ついでに言えばこの神社は管理者の居ない無人の神社なのである。

どうにかして事態の改善を図らねばと思うのだが、五歳の子供に上手い方法なんて思い浮かぶべくもなかった。ただ、女の子の方は森での不安そうな雰囲気が嘘だったかの様に落ち着いており、既に眠りに着こうとさえしていた。

「大人達が来る筈だから……大丈夫だよ」

「でも、いつ来るの?」

「もうすぐ……すぅ……」

「もうすぐって、いつ……」

「すぅ……」

「もう…」

小さな騎士の不安は其処なのだが。大人達が自分を発見してくれるのは大歓迎だが、それが一年後だったら無事とは言えない訳だ。

その確認がしたくて女の子を揺すったが、女の子はもう喋るのを止めたらしく、いくら尋ねても言葉は返って来なかった。

「もう……気が早いんだから…」

喋る相手が居なくなり、いきなり静かになってしまった。

お堂の中に音は無く、外の雨音ばかりが耳朶を打つ。風が一際大きく吹くと、獣の声みたいに聞こえて、思わず女の子の手を握ってしまった。

「……はぁ…いっか」

この嵐の中、外に出るのは得策ではない。少なくとも夜が明け、嵐が過ぎ去るまで打つ手はないだろう。現状では無駄に足掻かず、漫然と過ごすのが一番だという事だ。

「仕方ないか……雨が止まないのなら、大丈夫って事だし」

小さな騎士は壁に背を預け、女の子の影に並んで座った。

「……おはよう。ソウちゃん。そして、おやすみだね」

女の子の頭を優しく撫で、空いたスペースに寝転んだ。

疲労困憊の身体は驚く程速く眠りを受け入れ、意識は粘度の高い夢に沈み込んでいった。


第一章『サイカイ』一

其れは見えない雨の降りしきる、夏の日の影。

暑き季節に再会し、共に過ごした小さな町での日々。

ほろ苦く酸っぱい、不思議な彼女といた物語である。

「うん。暑い」

千沢町という田舎の町が有った。盆地に作られた小さな町で、小学校が二つ、中学と高校は一つずつという規模の町である。二十年前に出来た比較的新しい町で、『千の沢を集めて千沢町』という名の通り、周辺の限界集落を集めて成り立っている。

そういうややこしい成り立ちをしている為、町の裏側に張り付いた面倒事は数多く、二十年経った今でも出身の村々による対立が絶えていなかった。

そんな田舎の山沿いの道を、少年が一人歩いていた。

彼の名前は祇蔵奏。この千沢町に暮らす中学三年生である。

まだ大人達の庇護下にある彼には町の裏事情は教えられておらず、大人達の様に水面下の足の引っ張り合いに日々頭を悩ませる必要は無かった。だから、幸いにも彼は平和を謳歌し、目下、関心は町に取り付いた高い気温のみに向けられていた。

簡単に言うと、盆地に作られた千沢町は暑いのである。

しかも、目の前に広がる景色がまた『暑い』のである。

道路に敷き詰められたアスファルトは、溜め込んだ熱さをゆっくりと吐き出し続け、道の脇の涼し気な木陰は逆に太陽の光を浮き立たせる。山沿いの緩やかな坂道は蜃気楼でゆらゆらとくねり、セミの声は耳にうるさい。

なんとも絵に描いた様な田舎の夏の景色である。体感する気温以上に、蒸し蒸しする暑さを肌に張り付けられている様だった。

それに今年の夏は猛暑だと、この前コメンテーターが涼しそうなスタジオで言っていた。

「今年は暑いって言われても、去年もその前の年も、どれだけ暑かったか覚えてないけどね」

寄り道しないでバスで帰れば良かったと後悔しながら、奏は制服のシャツをパタパタさせて当面の熱を逃がした。

「まあ、暑いだの、疲れるだの。寂しい事ばかりに、目がいく季節でもないけどね」

盆地最悪だの、風景暑苦しいだの、この町田舎過ぎるだの。

散々文句ばかり思ってから、奏は誰に向けての言い訳か分からないが、反省を示した。

夏は割かし好きな季節なのだ。去年の夏とか、その前の夏とかの記憶は定かでないが、逆に子供の頃の夏は酷く鮮明に覚えていたりする。

千沢町に越す前の千鶴沢で、駆け回った夏の野山の美しさ。共に過ごしたあいつとの事。川遊びでやんちゃをして擦り傷を作ってみたり、妙に美味しいかき氷を食べたりした。

他にも楽しい記憶の詰まった季節だ。そんな季節を厭世気分から楽しめないのは……まして、自らの愚痴で感情を誤帰属させてしまうのは間違っている気がしたのだ。

「ま、記憶は美しく。なんだろうけどね」

記憶の夏に寝苦しさはない。虫刺されの鬱陶しさも存在しない。

ただ陰影だけが綺麗で、匂いだけが懐かしい。

だから、記憶の中の過去は死人の様に美化は免れず、生き苦しさが付き纏う現在を比べるのは端から無謀なのかも知れなかった。

そして、過去に比べれば色褪せる現在も、いつか来る未来と並べれば光り輝く記憶となってしまうのだろうか?

「まあ、その理屈じゃ、過去程楽しくて、未来に行くほど無為に成るんだけどね」

それは是非とも否定したい考えだった。

そして、そうならない為にも楽しい思い出を作ろう!なんて考えてはみるのだが、自分の置かれた状況を考えるとそうも言ってられなくなる。

要するに彼は中学三年生であり、受験生であり、既に時は夏休み間近なのである。

遊び回る訳にもいかず、かといって勉強に青春を燃やすのも躊躇われる。

不真面目ではなく、どちらかというと真面目。しかし、何かに情熱を傾けるのは得意ではなく、寧ろ皆と同じ道に進みたい付和雷同。だけれども、自分は皆より出来る筈という、若者らしい根拠も輪郭も曖昧な自信を持ち合わせ、かといって自尊心を満たすための具体的な方法もまだ知らない思春期真っただ中な少年。

自信家ではなく、野心家ではなく、かと言って謙虚さは備わっていない。

所謂何処にでも居る、悩める若者の祇蔵奏くんであった。

「お?」

いつの間にか立ち止まっていた奏は、顔を上げた所で気になる物を発見した。

見上げたそれは、ひっそりと木々に隠れる石造りの階段だった。石の階段は曲がりくねって山の中を進み、山の頂上付近まで続いていた。

その石段の先の方を見ると、僅かに鳥居が見え隠れしていた。町唯一の神社である敦賀神社の入り口であった。

敦賀神社と言えば、十年前に『あいつ』と保護された場所だ。

ザ―

保護されるに至った経緯……何をしに行ったとか、いつ行ったとかは覚えていなかった。

ザ―

とは言え、敦賀神社が嵐から身を守ってくれた場所だという事は心に強く残っていた。

「ん~……なんで懐かしいんだろ?千鶴沢に在った敦賀神社を移したんだっけ?いや、違うね。違った筈だよ」

奏は階段を昇りながら、曖昧な記憶に首を傾げた。

うろ覚えの全ては正しくない気がしたが、覚えていない事をいつまでも考えていても仕方がないだろう。懐かしむには正確な記憶など不必要で、寧ろ、曖昧な記憶を手繰り寄せながら、思い出を拾い上げるのこそが楽しいのだから。

受験生の癖にそんな適当な記憶論をぶち立てながら、奏は思い出の地へ向かっていった。

思ったより急で長い石段を上がりながら、『あ、これまた暑くなるやつだ』と、躊躇いを感じたものの、夏の神社という良さ気な空気に誘われては足を止める訳にもいかなかった。

理由は無性に。自由は無為に。

嵐の夜の右腕の傷を、誰かに触られた気がした。


神社とは常世と隔絶した異界の様を言う。

木々によって神を囲み、閉じ込め、崇め奉る社を神社というのだ。

その異界を作るのは、神でも悪魔でもなく人間である。

この国の神は強大で、絶大で、そしてどこか間抜けである。いや、本質的に間抜けというよりは、せめてどこか弱く在ってくれという人間の希望に寄り添い、精神や肉体のどこかしらに弱点を持ってくれているといえようか。

無論、神と人との対峙に於いて一対一では人間側に勝機もないし、一対無数の状況ですら、人間の勝利というモノはあり得ない。

しかし、人間の用意した祭の場に於いては、神様が空気を読んで負けてくれたりする訳だ。

その形式的に倒れた神を封じ込め、牢獄とするのがこの辺りの神社の在り方なのである。

「感慨深い人間のつもりはないけど、神社に来たら、流石に情緒は感じてしまうね」

ただ、そんな神の監獄の醜さを論ずるまでもなく、石と緑で構成された境内は清廉な暗さを持ち、古い木々と夏の光が織り成す光陰は心に響く原風景を作り出す。

神社の景色は理屈抜きに特別で、理由なく人の感性を打つものなのである。

「誰も居ないか。さすがに、こんな時間に神社に来る物好きは居ないね」

こんな時間に神社に来る自分を棚に上げつつ、奏は広くない境内を進んでいく。

この神社には誰も住んでいないと聞いていたが、参道の石畳などに汚れが溜まっておらず、手入れがされているのが見て取れた。

けれど、誰も常駐していないのは確からしく、神社は非常に簡素な造りをしていた。社務所も神門も本殿もなく、鳥居を潜り、脇に石灯篭と狛犬を見ながら進むと、直ぐに寂れた拝殿に到着する。その拝殿の隣には物置の様なお堂が並んでいるだけである。

拝殿もお堂も手入れはされていたが、どこか錆びている雰囲気が有った。どちらも潮に晒された様な痛み方をしており、確かに鼻を利かせると海の香りがする気がした。

「そんな訳ないよね。海が広がっているのは町の南側で、ここは町の北側だ。でも錆びっぽいのは本当なんだよね」

奏は『今度掃除道具でも持って来ようかな』なんて心にもない事を考えながら、お賽銭も入れずに拝殿に掛かっている鈴の紐に触った。

鈴は錆びていて鳴らなかったが、紐自体はひんやりとしていて手触りが良かった。

(子供の頃は敦賀神社の鈴が好きで、意味もなく鳴らしたっけ……)

奏は懐かしく思い、もう一度紐を揺すった。

チリン―

チリン―

もう一つ揺らし、もう一つ無音。

――奏の意識がグラリと揺らいだ。

「う……」

瞬間、自分としての色彩を失っていく。足下が傾ぎ、頭の辺りが揺らぐ。身体の内側が回転して、外側と入れ替わっていく。浮遊感が腹に絡み付き、息の仕方を奪われる。

何かが壊れる音がした。

いや、壊れていた事に気が付いた。

軋みを上げる欠陥に気付いた刹那、剥き出しになった神経に周りが接続されていく。空間に這い出て行く神経のせいで感覚が嫌に鋭くなるが、繋がれていく空間其の物が歪んでいるらしく、意識が澄むに連れて歪みが拡大していく矛盾に狂いそうになる。

猛烈な吐き気を催し、内臓が口から飛び出そうになる。顔がぐにゃりと曲がり、体が置いて行かれる。足下は消えゆき、何者かに掴まれて宙に投げ出された気がした。

そして――

「……なんだ?どうしたんだ?」

勿論、奏は何事もなく鈴の前に立っていた。

境内には子供達の声が聞こえ、夏の暮れが満ち始めたばかり。

夕涼み、シオカラトンボ、セミの悲鳴。

ここは何も変わらない、いつもの敦賀神社だった。

「キツネにでも化かされたかな……あれ?」

しかし、いつもと変わらない昔の中に、奏は一つの異質を見付けてしまった。耳を澄ませると、子供達の遊ぶ声の中に混じって、女の子の泣き声が聞こえてきたのである。

最初は子供達が喧嘩をして、誰かが泣いたのかなと思った。けれど、子供達を見るにそんな様子は覗えなかった。

一般的に、子供達は喧嘩がいけない事だと教えられている。だから、喧嘩をして誰かが泣いてしまった場合、その泣いた者を何とかして泣き止まそうとするのが常である。

そうでなければ喧嘩をした事が大人にバレ、怒られてしまうからだ。

若しくはもっとワザとらしくはしゃぎ、泣いている者に仲間外れを強く認識させようとするだろう。この場合は、喧嘩……というか、虐めは絶賛継続中だと判断できる。

しかし、子供達は泣き声を気にする様子はなく、わざとらしさも感じられなかった。

だから、二つの事柄は乖離しており、混線するラジオの様な気味悪さを感じさせた。

「ったく…子供が泣いてるの、放っておくってのも気分悪いしね」

奏は面倒だと溜め息を吐きつつ、泣き声の主を探す事にした。

どうも泣き声は、お堂の裏から聞こえてくるらしかった。声の主を探してお堂の裏に回ると、神社の雰囲気が随分と変わって驚いた。

神社の表側は、『しっとり』という表現が合う場だったが、裏に回ると『ジメッ』という表現が近くなった。深い森が迫る様に鎮座し、黒々とした口腔を覗かせているのが理由だろう。

そんな陰が密度を上げた悲しさの中で、赤と黒の着物を着た子が蹲っていた。

「あの娘かな?」

年齢は5,6才だろうか?雰囲気的には女の子で、泣き声も女の子のモノだったが、顔は伏せられているので性別の断定はできなかった。

ただ、何故だか奏はその子を女の子だと決め付けて、声を掛けた。

「君、どうしたの?皆と喧嘩でもした」

「……」

「あのさ?怪我とかしてない?」

「……」

「お父さん、お母さんは、近くにいる?」

「……」

「え~……と……」

脇に座って出来るだけ優しく話し掛けたが、女の子は反応を示してくれなかった。

奏は、『怖がらせてしまったかな?』と心配になったが、女の子に怯えている感じはなかった。『気付いてないのかな?』とも考えたが、肩を揺さぶって気付かない事は無いだろう。

となると、無視だろうか?それとも、お腹でも痛くて反応する余裕が無いのだろうか?

(小さい子の扱いなんて分からないよ。村では、自分達が一番小さかったし)

奏は良く考えもせず泣いている子に関わってしまった自分のお節介を後悔した。

こんな事なら自分で声を掛けず、大人でも呼んで来ればよかったと思ったが、既に声を掛けてしまった手前、今更誰かを呼びに行くのも恥ずかしかった。

『泣き止ませる事は出来なくても、せめて名前位は確認できないかな』『境内で遊んでた子達が変わってくれないかな』なんて、どうでもいい事を考えながら奏はただ悶々としていた。

だが、奏はここである事に気が付いた。

(あれ?この子……泣いてなんかないぞ?)

泣きじゃくっている筈の背中は揺れていないし、声や嗚咽を絞り出す動きもないのだ。

そもそも奏は知っていた。

『この子の泣き声は、あれじゃない』と。

奏は首を傾げ、他に泣いている子は居ないかと辺りを見回した。

しかし、目に入るのは神社を囲う木々と、まだ木目の綺麗なお堂だけ。泣き声は建物の中から聞こえる響きではないし、神社を囲う森の中から聞こえてくる様子でもない。

ならば、近辺から発されているのだろうが、目に付く所にはこの女の子しかいない。

だとすると、泣き声は森の中から聞こえてくるのだろうか?

「いやいや、迷い茨の森に、子供が入ってる筈ないって」

奏は大慌てで首を振り、自分の思い付きを否定した。

そう。この森に子供が入っているとは考え難いのである……というか、考えたくなかった。

神社を囲うこの森は、『迷い茨の森』と呼ばれ、禁忌の場所とされている。狐が住むと言われるこの森は、入ったら二度と出られないと言われる迷いの森なのだ。

言い伝えによれば、

一、行きと帰りは別の道。

一、一度通った道は通れるが、初めて通る道は森の奥と誘う。

一、正しき道は正しくなく、道を違えば二度と戻れない。

一、森を護るはキツネ。彼女だけが森を抜ける術を知っている。

とのことだ。

幾ら子供だからって…いや、子供だからこそ、禁を破って中に入らないと奏は考えた。

「この子も放っておけないし、泣き声は止まないし、どうしろと?」

奏は溜め息を吐き、女の子に視線を戻した。

ギョロリ

「うわ!!?」

女の子に視線を戻した時、奏は自分を見る、凄く巨大な目に会った気がした。

奏は思わず後退りし、盛大に尻餅を付いてしまった。

「いたた……なんなの、今のは?」

しかし、冷静になってみれば巨大な目など何処にもなかった。

「ジーーー」

「う……何だよ、やっぱり泣いてないじゃないか」

代わりに出会ったのは、奏を覗き込む可愛らしい目だった。

蹲っていた女の子はいつの間にか顔を上げ、奏の瞳を覗き込んでいたのだ。

「で、どうしてこんな所に居るの?家はどこ?」

「ジーーーーーー」

「いや、あのね……」

「ジ――――」

「……まぁ、いいや」

冷静を装って問い掛けるが、やはり反応がなくてへこんでしまう。相互理解は全く図れず、表情の読めない硝子の瞳だけが奏を見詰め続ける。

改めて見ても女の子の瞼は腫れてないし、頬も濡れていなかった。そもそもこの子には口が無く、泣き声など出せる筈もないのである。

(なら、泣いていたのは誰なんだ?)

誰かが泣いているは確実なのだ。

それが正しい昔なのだから。

だから、探してあげなくてはならない。

誰かと話す耳口を持たず、曖昧な目しか持たないのこの子の代わりに。

「この子の代わりに?」

奏は思い掛けず浮かんできた使命感に、はてと首を傾げた。何の事かと自分に問い掛け、その意味を思い出そうとした。

しかし、奏が自問自答をし、気を抜いた瞬間である。

「なっ!!」

女の子が立ち上がり、暗い森の中へ駆け出したのだ。

奏は呆気に取られ、女の子の背中を目で追う事しか出来なかった。

「バカ!何してるんだよ!」

慌てて立ち上がった時、既に女の子の姿は森の中に消えてしまっていた。

枝葉を掻き分けて進む音だけが実に耳障りに辺りに響く。

何が起きた?

何が起きるんだ?

頭は混乱してしまい、即座に対応すべきだったのに、すべき事を脳が紡ぎ出せなかった。

スベキコト?ナンダソレハ?

いや、すべき事なんて、どうやったって分からない。分かる筈もない、分かりたくない。なんなら境内に戻っておみくじでも引いてくればいいのか?それともお賽銭を入れて神託を待とうか?そうだ、神頼みだ。すべきことなら神様に聞いてくればいいだろう。

「どうして子供っていうのは、こうなのさ!死にたいの!?」

気が付いたら大声で怒鳴っていて、怒鳴り声は騒めく木々の間に消えていったのだった。


深い森。木が神経に絡み付き、目を塞ぎ、脳を鈍化させていく。

暗い視界は思いの外心を引っ張り、葉が含む水分が妙に腕に纏わり付く。

蟲の様に森は蠢き、体力も心も蝕んでいく。

もうどれ程奥に進んだか?

もうどれ程道を失ったか?

必死になって走る内に、時間の感覚も、距離の観念も、疲れの概念さえも綻んでしまった。

『ソウちゃん、大丈夫?重くない?』

「待てって!待ってよ!」

奏は前を走る女の子を呼ぶ。

けれど、叫び続けても女の子は止まっちゃくれない。

「痛っ!?」

枝が額を打った。何度目かになる傷に顔を顰めつつ、僅かに緩まった速度を戻す。

しかし、全速力は出せない。枝、葉、根、地面。森の全てが意地悪く絡み、行く先の邪魔をしてくるのだ。

森はそこに在るだけで、命ある動物ではない。けれど、やけにざわつく木々のせいで、奏を女の子に追い付かせまいとする意思を感じずにはいられなかった。

何故なら、奏とは対照的に、女の子は木々を苦にせず駆けていくのだ。

黒緑に埋め尽くされた此処で、木を避ける動作、枝を潜る挙動、根を飛び越える所作、茨を引き千切る挙動、それら全てがないのである。

動作が速いとか巧いとかの話ではなく、動作其の物がないのだ。木々をすり抜ける事はないのだが、『偶然にも』女の子の進む先に全く障害物がないときた。

『ううん。大丈夫、ソウくん。私も持たないと。お祭りだもん』

「どうなってるんだ?あれ。絶対おかしいよ」

思えば、奏はここで引き返すべきだっただろう。

女の子はあれ程森に依怙贔屓されているのだから、奏が助ける必要など全く無いのだ。

「うく……眠…い……?」

だが、奏は既に正常な判断を下せる状態ではなくなっていた。

疲れたとか嫌気が差したとかの話ではなく、ふと強烈な眠気に襲われた。

夢の中を上下するような感覚に、地面を蹴る足裏だけが妙に重い現実に残される。

輪郭すら解けてしまいそうな程、頭は働かず。

存在すら解けてしまいそうな程、悪夢に惑う。

引き返す事も立ち止まる事も思い付けず、無駄と理解した事象を繰り返す。

夢の中にいる様に行動が虚ろで、何一つとして意思が感じられない。

『そうじゃないと、一緒に居られない』

俺は今、どこら辺に居るんだ?

俺の知ってる場所なのか?

俺は一体、何をしているんだ?

そんな事ばかりが心配として廻り廻る。

とことん突き詰め、とんと無力。

グルグル回る堂々巡り。

矛盾直線先行き見えず。

家を失って寂しいとか、

迷子になって不安とか。

そんな真っすぐな感情とは違う。

かと言って複雑でもなければ怪奇でもない。

虚実の狭間で苛まれている訳でもなく。

虚偽の幕間で蔑まれてる訳でもなく。

同じ景色、同じ心配が続くこの森に飽きたのだ。

淡々とした人生の中では燃え上がる様に逢瀬する事は無く。

連綿と続く生死の中では灰として腐り落ちる事も出来ない。

火は火で塵は塵で。

夢は夢で現実は現実で。

そんな綺麗はこの世界には存在せず。

一生を掛けて死んでいく大層な悲壮でもなく。

延命以外の生存方法を忘れてしまいそうだった。

『うん。一緒に……ソウちゃん』

いつまでも同じ繰り返し。

いつまでも同じ。

繰り返し。

同じ歩幅。

変わらぬ足音、繰り返す。

今の景色を何度でも。

今の気持で何度でも。

いつ間、何年、幾星霜こうして歩いているのか?

『一緒に……』

一緒に?

誰と?

分からない。

ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ

ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ

ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ

ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ

だから、限界なのだろう。

だから、ここまでなのだろう。

言葉を知らない女の子は、何もない顔で奏を振り返る。

目も耳も口も鼻もない以上、女の子の感情を読み取る事はできなかった。

しかし、奏には女の子の様子から諦念や失望を感じられ、ついムッとしてしまう。

ガサガサガサガサガサ

ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ

「うっ!!?」

意識が狭間から弾き出され、奏は知らぬ内に闇の中に出ていた。

女の子の姿は既になく、奏が転び出たそこは風の丘だった。

真っ黒な海を臨む高台で、森が途切れて小さい広場になっている。

広場の中心付近には、大きな木が生えていた。

それはそれは大きな木で、天も突けと言わんばかり。ビルの様に高い姿も、天を覆う程に枝を広げる造形も、人の理解を超えた光景で、息を呑んでしまう。

大木より先は断崖絶壁になっており、遠く、遥か下に海を臨んでいた。

「………どうして此処に?」

おとぎ話の舞台みたいなこの場所で、割と強く吹く風に現実の匂いがした。

ここは森と海の境界なのだ。

そして今と昔を繋ぐ不知火。

この場所は記憶となんら遜色なく、潮風と森風を綯い交ぜにし、今と昔を曖昧にした。

此処は奏にとって大切な場所だった。

重要な、とても大事な約束をした所。

「ソウちゃん……」

だから――奏の心臓がトクンと鳴った。

奏以外の誰かが、大きな木を見上げていたのだ。背の低い、恐らくは女の子。月に照らされる横顔は美しく、浮かび上がる表情は幼くもどこか大人っぽい。

それが誰か分からなかった。だが、心はそれが誰かを決めていた。

何故なら、此処を大切に思っている人は奏を除いて一人しかいないのだから。

――それは夏の月が見守る夜。

寒さとは無縁で、しかし、燃え上がる様な情動とも関係なく。

言うなれば茹る様な暑さを持ち、汗に塗れる気怠い日々。

炭の様に炎は見せず、けれど確かに燃え続ける。

――だからそれが……

大木を見上げていた人影が奏に気が付いたらしい。

ミディの黒い髪、整った顔立ち、奏より頭一つ低い背。

ともすれば神様の悪戯ではないかと嫉妬してしまう程に見目麗しく、下手をすれば人間ではないのではないかと疑ってしまう程に秀麗眉目。

途轍もなく可愛い女の子で、全く以て見た事もない子だった。

けれどもきっと、奏はその子を知っているのだろう。

「え……君……奏くんなの?」

相手も同じ思考を辿ったのだろう。奏と似た表情の変遷を見せてから、形のいい唇からそんな驚きを生み出した。

それが彼女の声なのかは分からない。なんせ十年も前に別れたのだから。しかし、彼女は自分を知っているらしいのだから、奏も彼女を知っているのがフェアってものだろう。

「……うん」

高鳴る胸の鼓動を悟られない様に。

不意打ちで腰が抜けそうなのを気取られない様に。

奏はゆっくりと彼女に近付き、会ったらすると決めていた挨拶を投げ掛けた。

「やぁ、双樹。『おはよう』。久しぶりだね」

その言葉に彼女はハッとした様子だった。

そして、怨みがましい顔で奏を見た。

――だから、それが再会。

「奏くんなんだ……十年ぶり?」

「ああ。久しぶり。戻って来てたんだね、双樹」

祇蔵奏はこの夏にて、再び守上双樹と出合ったのだ。

それが彼女と過ごす、不思議な季節の始まりだった。


第二章『受験生の夏』一

「くふぁ……」

双樹と再会した次の日の朝、奏は眠い目を擦りつつ学校に向かっていた。

現在七時半過ぎ。普段の登校時間を考えると少々早目の時間だった。

誰に隠す事なく大欠伸をする奏が思い出すのは、昨日の十年ぶりの幼馴染との再会だった。

再会した幼馴染の名前は守上双樹。奏と同じ年の生まれで、奏と同じく千鶴沢最後の子供である。千鶴沢に於いて『森神』という特別な姓を受け継ぐ双樹は、家としても特別に扱われていた。だが、血筋が凄いとか以上に、彼女は個人として特別とされていた。

やれ、キツネの娘だとか。

やれ、現人神だとか。

常に色んな人に囲まれて、担ぎ上げられていたものだ。

で、昨日はその幼馴染と十年ぶりの再会を果たした訳である。

しかも、再会の地は二人の思い出の場所。そして、夏の月が二人を照らすシチュエーションときた。この上無い再会と思えるだろう。思えるだろう?

しかし、現実は非情だった。

何故なら二人が顔を合わせた場所は迷い茨の森を抜けた先に有る訳で、しかも、月が出る位夜が更けてしまっていたのである。

行きは良い良い帰りは恐い…というか、行きも帰りも散々な行程。二人は語らう暇もなく、大急ぎで森に戻り、神社までの道のりを逆戻りした。

と言っても、急いだ所で相手は人智を超えた迷いの森である。一筋縄でいく筈もない。

二人は森の中を嫌になる程彷徨い歩き神社に到着した時には満身創痍であった。なんとかかんとか家に辿り着いた時には、既に夜明けも近くなってしまっていた。

せめて体を休めようとベッドには入ったが、案の定眠りにつくことは出来ず、うとうとしたまま朝を迎えてしまった。

結局、昨日の間に二人で交わした会話は殆どなく、大体は罵倒というか、てんで其々でガナリ合っていただけだった気がする。

それもこれも、『迷い茨の森』のせいである。

「引っ越ししたばっかの時は、絶対迷い茨の森に入るなって言われたし、何人も入ったまま帰らなかった人がいるって言われたんだけどね。昨日は割りに、簡単に抜けられたね」

奏は眠気にやられたまま、自分がヒーローだと言わんばかりに表現してみた。しかし、直ぐに自分の言葉に薄ら寒くなり、こんなモノは妄言でしかないと反省した。

これでも奏は田舎育ちの山育ちである。山の危険は身に染みて分かっている。

地図もなく、太陽も見えず、行きに印も付けなかった昨日の森への侵入。しかも、誰かを追い掛けて、道も確認せずにあの場所に迷い出たのである。

双樹が道を分かってなかったら、奏はきっと未だに森の中を彷徨っていた事だろう。そうでなければ獣に襲われていたか、足を踏み外して崖から落ちていたか。

いずれにせよ笑えない末路を辿っていたに違いない。

「本当、今思い出しても足が震えるよ。よくあんな装備で帰って来れたね。ま、再会の奇跡の余分に起きた小さな奇跡だと信じたい」

そして、多分奇跡は二度と起きないから、もっと慎重に生きようと思った。

「もしくは、双樹の不思議な力かな?」

奏は、そんなものは存在しないとでも言いた気に呟いた。

絵に描いた様なド田舎の千鶴沢では、『守上』も『祇蔵』も祭を取り仕切る家柄として、相応の地位を与えられていた。

特に双樹は『キツネの子』と、村の大人達から随分と崇められていたものだ。

本当に双樹にキツネの子と言われる程に不思議な力が有ったのか無かったのかは分からないが、双樹は祭事の中心に据えられていた。

子供ながらに、幼い双樹を崇拝する大人の姿は気色が悪く感じられたもので、あの光景が奏の田舎嫌いの原因の一つになっているのは確かであった。

「ま、それはド田舎の村の話。一応都会っぽい千沢町で、不可思議は有りえないよ」

そんな古い因習に従い、幼子に首を垂れることすら疑問に思わない千鶴沢の人々。そんな彼らが何故先祖代々の土地を捨て、千沢町に移り住んだのか?

簡単に言えば、過疎である。

妖の伝承すら深く根付くこの辺りは、生きていく環境としてはとても厳しい所であった。切り立つ崖や、大穴、迷いの森、人喰いの獣等が数多く存在する山々では、古くから人の行き来は殆どなく、其々の村で完結した生活を送っていた。

故に法律も知らず、独自勝手な伝統を発達させてきたのである。

法も知らず、確信的に人を犠殺し。

外も知らず、内のみに神を求める。

一般的に言えば、悪の蔓延する絶楽孤島と見えるだろう。

しかし、それはある種必要に迫られた進化でもあった。

食料が足りぬから口減らしをし、収穫量を上げる方法が分からぬから生贄を捧げる。

間違っているが、間違いではない道理。

誤っているが、過ちではない有理。

理論ではなく法則によって人理は作られてきた。

しかし、それらのガラパゴスも、近代という別の病気によって死期を齎された。

外から情報が流入したのである。すると村の体制に疑問を持つ者も現れ始め、しかし、保守派は依然として変わろうとしなかった。病魔の様に村に巣食い出した『最新』は、古き人々を頑なにし、新しい命を外に吐き出させる事となったのだ。

そうやって人を失っていった千鶴沢だったが、実は千鶴沢以外の村々も似たような経緯で過疎に陥り始めていた。

で、消え行くそれらの集落を統合して作られたのが、二十年前の千沢町なのである。

その千沢町が軌道に乗り、また千鶴沢の存続が本格的に立ちいかなくなるのを目の当たりにした千鶴沢の者達は、散々に揉めた後、全員で千沢町に移り住む事を決定した訳である。

それが十年前、奏が五才の時だった。

多くの人が行きかい、食うに困らず、中心街は道も整備されている千沢町。ここでは確かに常識的な文明が根付いており、血生臭い田舎の匂いは薄れていた。

奏も五歳までの世界とそれ以降の世界が全く違うと日々実感している。

ただ、双樹が引っ越しをしたのもその十年前なのである。双樹の父親は移住のいざこざでほとほと千鶴沢の人々に愛想が尽きたらしく、守上の一家だけは千沢町に移らず、もっと大きな都会の町に移り住む事を選んだのだ。

そして、双樹を有名な私立小学校に入れたらしい事は伝え聞いていたが、それ以降の情報は全く以て入ってこなかった。

そして十年が経ち、なんだか知らないが再会してしまった次第である。

奏は現在中学三年生。記憶違いでなければ、同級生である双樹も受験生の筈である。

「む……こいつは困ったね」

だが、十年ぶりに幼馴染が帰って来たとか、その幼馴染が随分美人になっていたとか、そんな事は今の奏にとっては大した問題ではなかった。

だって、幼馴染さんは完璧が服を着ている様な奴なのである。そいつがどれだけ完璧に完璧を重ねていても不思議ではないし、自分を置き去りに遥か遠くに行ってしまったとしても驚愕に値しない。目の覚める美人になっていても、それは双樹だからの一言で片付いてしまう。

だから、奏にとっての目下の命題は、お気に入りの腕時計が壊れてしまった事であった。

恐らくは昨日の行軍で壊れたのであろう。正直、時計一つ壊れるだけであの森から生還できたのなら、文句の言い様もない程大儲けである。だが、だからと言って文句が無いかと言われれば、そんな事はないと言わざるを得ないのが人間であろう。

「ないと不便だよね……でも、お小遣いないし……」

お小遣いが潤沢でない奏は、そうそう腕時計なんて買えない訳である。

かといって携帯も持っていない奏に腕時計の代価品になるものはないし、千沢町ではコンビニで時間を確認するという手も取れない。

どうにか壊れた時計の活動が再開しないものかと振ってみたり叩いてみたりする奏だったが、そんなこんなをしても回復の兆しがある筈もなかった。


時計を上に放り投げてみたり、振り回してみたり、投げるふりをしてみたり。意味の無い事を繰り返している内に時間は過ぎてしまった。

あれだけ早くに家を出たのに、遅刻してしまっては意味が分からないと全力で走り、なんとか遅刻だけは免れる時間に学校に着いた。

教室の扉の前で息を整えながら、奏は、『二度と悩むふりをして時間を浪費するものか!』と、人類が何度も挫けた在り来たりな決意の炎を胸に滾らせたのだった。

「よう。奏」

「ああ……おはよう、京成」

「ギリギリじゃねーか!息も絶え絶えだし」

「運動してきたんだよ」

「運動とは珍しいな!どんな心境の変化が有ったんだ?」

「ちょっと格好付ける必要が出てきたからね。まずは体を鍛えようかと」

「何言ってやがる!いつも斜に構えて格好付けてるじゃねーか」

「そう?そんなつもりはないんだけど」

「うわ~!自覚無いのが怖えー」

席に着くと、隣の席から声が掛った。見なくても分かる声の主は、悪友の相場京成だ。

この教室では男女が順繰りに座る席順なので、実は男の京成が隣に座っているのはおかしいのである。だが、田舎ゆえに子供が少なく、座席数に対して生徒の数が足りていない。なので、皆自由に空席に移動してたりするのである。

「つーか、奏!遅刻なんてしてる場合じゃないんだって」

「遅刻なんてしてないよ。ギリギリなだけだよ」

「どっちでもいい!なんかさ、転校生が来るらしいぜ」

「転校生?あ~……この時期に大変だよね」

京成はワクワクが隠せないという表情で、取って置きの情報を教えてくれた。

だが、奏にとって、その情報はサプライズではなかった。まあ、転校生は双樹だ。それよりも、『こんな時期に転校』してきた事が改めて気になった。

双樹も受験生なのだ。三年の夏休み直前に学校を変えるなんて、ただ事ではない。

一体双樹は何をしでかしたというのだろう?

非行に走ったのだろうか?

虐められたのだろうか?

どれも違うだろうなと思いつつ、奏は相変わらず考えるふりをして時間を浪費した。

「夏休み前テストのこの時期に来るなんて可哀想だよな!備える時間がない」

「……そうだね、京成」

「なんだよ、奏!その『夏休み前テストより、受験の方が大事だろ』的な感じは」

「まさしくその感じを出してるんだよ」

「でも、受験なんてどこで勉強しても同じだろ!それより実力テストの夏休み前テストの方が難しいだろ。クラス内の序列の決まる大事なテストだし!」

「どこで勉強しても同じなんて思ってるのは、田舎育ちの京成だけだよ」

「いや!奏も田舎育ちだし」

「田舎以外には、飲むと頭がよくなる薬とかあるんだ。それは都会で勉強してないと手に入らないんだよ」

「マジか!だったら、俺も欲しいぜ」

「ごめん、京成。誠に申し訳ないんだけど、嘘なんだ。心からお詫び申し上げるよ」

「分かってるよ!嘘なのは、分かってるんだよ」

「それと、テストで序列なんて決まったっけ?」

「下の方はな!最低点かどうかってのは、かなり大きいぜ」

「ああ……そういう…」

「なんだ、その目は!どうせ最下位なんて、奏には関係ない話だもんな!」

京成は朝からテンションが高過ぎた。時計が壊れてしょ気ている奏が、塩対応でやり過ごそうとしているのに気にせず畳みかけてくる程に。

まあ、ハイテンションの理由は、奏も分からなくもなかったが。

「でもな、転校生は都会から来たらしいんだ!絶対可愛いって」

「都会=可愛い、は理論的に繋がる事なの?」

「転校生×都会×都会=可愛い!だぜ」

「なにそのエネルギーみたいな公式!」

京成の言ってる事は無茶苦茶だが、奏にも理解できる言い分ではあった。

いや、京成だけではない。今朝は教室全体が色めき立っており、その理由を雑にまとめてしまうと、皆が京成と似た思考を持っているからなのだろう。

都会から田舎に来た転校生。きっとその子は女の子で、美少女で、勉強も出来て、どこか取っつき難くて、でも可愛い所もあって!もしくは性別逆バージョンで。

なんて事を思い描くのは、他愛なく、常軌を逸さず、実に安直な妄想と言えた。

当然、そんな理想は往々にして打ち破られる。

転校生が見目麗しい訳がないという事ではない。美人でなくとも、平均以上の子は沢山いるだろうし、何か特別な事情を抱えた奴もいるだろう。

だが、平均程度の子や在り来たりな事情を持つそれらの転校生は、あくまで『現実』の範疇に生きているのだ。人々は転入という波紋にドラマを求めているのであり、通常考えられる転校生が来ても日常を打ち壊す楔にはなってはくれないのである。

だが、この時ばかりは別だった。

「京成、期待が破られるかもって、ドキドキしてるとこ悪いんだけどさ?」

「おう!どうした?」

「妄想それ、その通りだと思うよ。来るのは可愛い子だよ。それもとびっきりね」

「マジか!ていうか、知ってるのか?」

「昔の知り合いなんだよ。で、昨日会った」

けれど、こうも付け加えなければならない。

「でも、性格もドラマチックなままだったから、京成は止めた方が良いよ。正直こんな時期に転入して来るもの、それが原因だろうし」

「ドラマチックな性格ってどういう評価なんだ!それ……」

奏の物言いに京成が怪訝な顔をした。京成は詳しい説明をしろという顔を見せたが、奏はこれ以上説明する気は無いという目で拒絶した。

二人がそんな無言の攻防を始めた時、チャイムが鳴り、教室に担任が入って来た。

「よーし、皆席に着け」

「席に着けってさ、京成」

「はいはい!分かったよ」

京成は促され、奏の隣に座る。

普段なら担任が来ると教室は直ぐに静かになるのだが、今日は勝手が違うご様子。皆のざわつきは、いつまで経っても収まる気配が無かった。

「先生~、転校生が来るって本当ですか?」

「もう情報が回っているのか?いいから、全員座れって」

「は~い」

「来るのって女?男?」

「何でこの時期に来るの?」

「謎だな!親の転勤と見た」

「それじゃ謎じゃねーよ」

「その子私より背低い?一番前は嫌なんだけど」

「アンタより背の低い子なんてそう居ないわよ」

「どっから来たの?」

「それより可愛いのかよ!!?」

「おいおい、静かにって言っただろ?」

騒ぐ生徒達を、担任は手で制した。

「転校生の名前は守上双樹さん。女の子だ」

担任が黒板に名前を書くと、教室からお~という声が上がった。

担任はその反応をひとしきり楽しんでから、ドアに向かって呼びかけた。

「ほら、守上さん、入って来て」

途端、全員の視線がドアに注がれた。

恐らくドア越しでも教室全体が息を呑んだ雰囲気は伝わっているだろう。このプレッシャーは、さぞ入り辛かろうと思われた。

普通の精神の持ち主ならば、だが。

「失礼します」

思った通り、重圧など何のその。直ぐにドアが開き、双樹が入ってきた。

注目される空気をものともせず、眉一つ動かさない姿はさすがのモノだった。

「「お~~」」

「「すげ~」」

双樹の姿を見て、男女問わず歓声が上がった。

感動とも、驚嘆とも取れる無意味な賛辞。

理由なき喝采の集う双樹の足場に、奏は軽い嫌悪感を覚えた。

「マジかよ……!」

頬杖を突く奏の隣で、京成も溜め息を漏らしていた。

古来、人は美人を表現する時に『彫刻の様な』と表わす事がある。人の理想として描かれる芸術作品に、人が追い付いてしまったという事を言いたいのだろう。その表現の中には彫刻に至るなど不可能という諦念と、人の域を出た癖に神に至れぬ侮蔑が含まれる。

そして、双樹はあらゆる意味でその表現がしっくりときてしまう人間なのである。

憧憬も、寂寥も、諦観も、確執も、妄言も、超越も、超常も、卑下も、羨望も。

彼女を見て沸いたあらゆる感情は正しいし、同時に言葉足らずでしかない。

整った顔立ちに、多少低いが可愛さと綺麗さを損なわない身長、美しく軽いウェーブ掛ったミディの髪、まだ女性を強調していないがスレンダーな体。指の長さも、絹の様な肌も、瞳の大きさも嫌になる位完璧で、切れ長の目は猫目とアーモンドの中間ぐらいで涼しく温かい。

まさに人の理想の現身だった。(奏談)

感心に包まれる教室の中。しかし、奏だけは祝福の空間の中でケチをつける。

双樹はこれだけ礼参を浴びているのに愛想笑い一つせず、おすまし顔を見せている。慣れない中で堅くなっていると夢想すれば可愛い反応だが、あれはそういう類の不機嫌ではない。

ザックリ言えば、双樹は社会不適合者である。

だから、『場を荒立てない表情を作っておこう』なんて発想がある筈もなく、ただ単に素の顔を見せているだけなのだ。

「初めまして、守上双樹です」

双樹は教室の前に立ち、自己紹介をしている。それに対してまた良く分からない歓声が上がり、過剰な拍手が起こった。

簡潔な挨拶を済ませた双樹は起きた狂騒に『うるさい』とでもいいそうな口元をしていた。

「ああ、もう……面倒だよ」

双樹の表情も仕草も、どうにも昔と変わらない。

そして、昔と変わらないのならば、彼女はきっと問題を起こすだろう。

「守上さん。席は祇蔵の隣だ。祇蔵!手を上げろ」

「はいはい」

「やる気なく手を挙げてるの奴が祇蔵だ。あいつの隣の席に座ってくれ」

「分かりました」

担任は双樹の座る場所を示し、双樹は席に向かって歩き始めた。しかし、双樹は直ぐに立ち止まる。何事かと見ると、双樹は京成を凄く睨んでいらっしゃった。

担任はそう言えばと思い至り、京成に注意をした。

「相場、お前の席はそこじゃないだろ。自分の席に戻れ」

「え~!連れないな~」

担任に注意されても京成は動く素振りを見せず、代わりに双樹に笑い掛けた。

「いいじゃん!どっちに座ろうと、俺の隣なんだし。双樹ちゃん、よろしくね♪」

ああ、火種がこんな直ぐ傍にあったね!

なんて思いで京成を眺める奏は、頑張ってくれと心の中でエールを送ってみた。

「ねぇ」

「双樹ちゃん、初めまして!俺は相場京成。よろしくね」

双樹に声を掛けられた京成は、座ったままニコニコ顔で双樹を見上げた。

対する双樹は予想通りに不機嫌顔で、事務的な単語を京成に投げ掛ける。

「退いてちょうだい」

「いや~、都会から来たんだって!千沢町は田舎でびっくりしたでしょ」

「言ってる事が分からない?」

「分からない!まあ、席順なんていいからさ、お話ししようよ」

京成は、少々無遠慮に話し掛ける。本人はいつも通りフレンドリーに話し掛けようとしているらしいのだが、どこか意固地になっている感じもした。

恐らくは、本人でも気付かない内に前のめりになっている部分があるのだろう。理由は分からなかったが。

「話なんて良いから、席を譲りなさいよ」

「え~!あ、座りたいなら俺の膝に座る?」

「そういうの嫌いなの」

「嫌いってさ~!直球だね~」

「どう曲げれば、伝わる表現になるのよ」

「電話番号でも教えてもらえれば、伝わるかな!あ、住所でもいいよ?」

「……そういう返しも止めて欲しいわ」

「それはズルい言い方だね!でも、俺は双樹ちゃんの気の強い所、気にしないぜ」

「鬱陶しい…」

「うっと……まあ!無関心よりは、心を曝け出して話し合った方が良いもんだって」

「何を言っても、聞く気無いのね。初めて見たわ、こういう暑苦しい生物」

「そんな熱くないぜ!ほら、膝に乗ってみ、分かるから」

「……呼吸を止めて冷たくなればいいのに」

「死ねってか!それはちょっと酷くない?」

「酷いかしら?」

「あ~…………いやいや!俺はこう、場を馴染ませようとしてだな~…分かってくれよ」

「言葉が理解できないの?退いてっていったの。それ以外しなくていいわ」

「出来てるよ!理解は」

「ならして。即座にして。考える余地もなく行動に移して」

「ちょっとさ!その言い様は、酷いんじゃないか?」

「口を開いてじゃなくて『退いて』。貴方がするのはそれだけでいいのよ。難しい?」

「たしかに、随分ドラマチックな性格だな……!」

京成は、双樹の態度に顔を引き攣らせた。

そして、勢いよく立ち上がると、双樹を睨み付けた。

「双樹ちゃんさ、ちょっと酷くね?和ませようとしてじゃん!」

立ち上がった勢いで椅子が倒れ、大きな音が鳴った。京成と双樹以外は静かだった教室にざわめきが広がる。

奏より少し背の高い京成に対し、双樹は真上を向く様な角度で睨み返した。

「和む気配はなかったし、嫌な気分になっただけだわ。早く座りたいから、退いて」

『早く座りたいなら、京成の席に座ったら良いじゃないか』という言葉を、奏は呑み込んだ。

「この!調子に乗りやがって」

「何よ?」

京成は更に睨みを利かせ、双樹も京成の目を真っ直ぐに見返す。

二人が作るは一触即発の雰囲気。教室内に重い煙の様な不快なムードが流れる。

いや、流れる筈だと多くの人が思った。しかし、実際には煙で済む程教室の温度は低くなく、特異な事に炎の風は京成に方にだけ吹いていた。

「相場!何で女の子脅してるんだよ!」

「そうだ!守上さんは転校初日だぞ。気を使えよ」

「お前、馴れ馴れしくし過ぎ」

「あんた、いい加減にしなさいよ!」

「寧ろ焦って失敗したな。ザマァ見ろって」

「な!?」

男女入り混じる誹謗は、全て京成に向かったのだ。

思った以上におかしな教室の反発に驚き、京成の顔に焦りが浮かんだ。

「ちょ!俺、悪くないだろ!」

「「お前が悪い」」

「お、お前ら!どっちの味方だよ!」

「「守上さんの味方に決まってるだろ!」」

「即答かよ!?」

双樹の味方をせんと立ち上がる男子諸君。双樹の援護をせんと声を上げる女子諸君。

その反応は、別に有りえない現象ではなかったが、起きる確率としては大分特異に寄っていただろう。

双樹との小競り合いに関して、京成は教室全体が自分の味方にならずとも、敵にはならないと高を括っていた。勿論、それが正常な予想だろう。

が、現実はこの有様である。思い掛けなかった展開に、京成はタジタジになってしまった。

「勘弁してよ……」

流れる特殊な風向きに、奏の脳裏に千鶴沢の嫌な大人達の表情が浮かんだ。

小さな子供を双樹様だのなんだの言って全肯定する大人達の顔は子供心におぞましく、今思い出しても吐き気がした。

その顔に近い表情を、教室の皆がしていたのだ。

「あのな!俺は別に常識外れた事は言ってないぞ!」

「知るか、相場!守上さんが嫌がってるんだから、お前が間違ってるんだろ」

「はあ?マジで言ってるのかよ?」

「相場こそ、普通に考えろよ!」

奏が顔を伏せる隣で、京成達の言い合いはヒートアップしていった。

一方双樹は京成達の喧嘩を他所に、京成の机から京成の物を抜き出しに掛かっていた。不機嫌な表情で教科書類を取り出し、机に押し込まれていたプリント類も伸ばして整理していく。

その作業に若干わざとらしさを感じたのは、奏の勘違いではないだろう。

この状況が京成にとって理不尽なのは違いないのだが、実は双樹にとっても受け入れがたい動向であるのだ。

双樹だって京成のノリは分かった上で、うざいと思っただけなのだ。その気持ちを少しばかり態度に示したのだが、それが周りに過剰な擁護をさせてしまった訳だ。

「はい。貴方の。椅子は直してね」

「え……あ……態々どうも」

双樹は取り出した教材や綺麗に折り直したプリントを京成に渡した。男子諸君と口論していた京成は、無意識に荷物を受け取り、礼まで言ってしまった。

そして、倒れた椅子を直した所で正気に戻ったらしく、悔しそうに拳を震わせた。

「く!……これで勝ったと思うなよ」

「ド三流の捨て台詞ね」

「絶対!戻って来るからな」

「私は退く気ないけど」

「守上さんは退く気無いって言ってるぞ!相場!」

「うるせえよ!お前らは」

京成の悔しそうな顔に笑いが起こり、変な空気は解決したようだ。

京成も含めて半分以上ワザとやっている騒ぎではあったが、京成の立場……ついでに双樹の立場に立つと、結構胃に来るモノである。

「……悪いね、京成。上手く助けられなかったよ」

「奏!ぜってー助ける気なかったろ」

喧騒が収まったのを見計らって、奏は適当に謝った。

怒りを吐く京成の隣で、双樹も『全くよ』と呟いたが奏は気が付かなかった。


時は下って、昼休み。京成は奏と並んで廊下を歩きながら、双樹への不満をぶち撒けていた。

朝程の大きな衝突は起きなかったが、授業中や休み時間に京成と双樹はひたすら小競り合いをしていた。というより、止せばいいのに京成は変わらず双樹に話し掛け続け、双樹も双樹で終始変わらぬ態度で接し続けた故に、お互いに細かい傷に塗れたと言った所だ。

「ったく!何なんだよ、ありゃ!」

「二人とも、本当に飽きずに同じ言い合い続けてたね」

「飽きる飽きないの問題じゃねえ!俺の進む道に双樹ちゃんがいるって話だ」

「話し合いで道を譲り合いなよ」

「その話し合いが、あっちの喧嘩腰で始まるんだよ!こっちは歩み寄ろうとしているのに」

「道を譲る話し合いで、歩み寄っちゃ駄目でしょ」

「言葉の綾だよ!俺は、お互いにいい結果を得ようとしたの」

「双樹は大体あんな感じだし、許してやってよ」

「大体あんなってなんだよ!十年ぶりに再会したんだろ?」

「双樹は何も変わってないんだよ、本当に」

「ふん!気に入らない物言いだな」

正直、奏も京成の側か双樹の側かと問われれば、迷いなく双樹の味方だと答える。

だから、京成は愚痴るにしても、相談するにしても、人選を間違えているという話だ。

「ま、双樹もあれでも苦労してるんだよ。会ってない十年はともかく、村では苦労してた。性格が全く変わっていないなら、会ってない十年も苦労しているだろうね」

村での双樹。覚えている光景は、――いる双樹の周りを沢山の人が囲い、口々に褒め、方々に称え、延々と崇め奉る異形。

村の人々は笑顔を張り付けて、腹の内ですら頼り切って、双樹を自分の上に位置付ける。五歳の子を恥もなく神と呼び、重責を押し付け、何が為か分からぬが供物を奉じる。

その姿。その異様。その絵面のなんと悍ましき事か。

「う……」

クラリと、奏の足元が粘土になった。窓枠に腕をぶつけて鈍い音が鳴ったのを聞いた。

遠くで京成の慌てる声がしたが、手で制して無事を伝えた。

「俺の村も色々あってさ…幸か不幸か、それでも双樹は常識を持って育ってしまったんだよ」

「常識……ねえ」

「あ、世間一般的な常識って意味だよ。決して村の常識を知っていた訳じゃない」

「……想像でしかないけど、言いたい事は分かる」

「村の子供とは、まず折り合い付かなかったね」

「何かあったのか?」

「それは普通に双樹が我儘だったからだけど?」

「我儘なんじゃねーか!何か事情がある様な言い方しやがって」

「事情はあったよ。大人達が酷かった。何が起きても悪いのは『双樹じゃない方』だ。それじゃ、まともに子供出来ないでしょ」

「あ~!…そういう系か」

「ま、双樹は何をしても褒め奉られる意味が分からず、不条理に怯えていたんだよ。村の人間が双樹にする対応ってさ、まともじゃなかったよ。まともな人間がまともな人間にする表情じゃなかったし、まともな人間がまともな人間に吐く言葉じゃなかった。あれは双樹を神様として閉じ込める呪詛の類だ。それでも双樹が『異常な風習の形』に押し込められずに育って、今普通の人間に見える事は奇跡みたいな事だと思う。俺はそれだけで嬉しいんだ」

「なんでお父さんみたいな目線なんだよ!」

「まあ、村が悪いんだよ。大目に見てやってよ」

「村の事を言われると、こっちも身に覚えはあるんだけどな……」

京成は遣り難そうに頭を掻いた。

しかし、やっぱり腑に落ちない部分も多いらしい。

「奏はそう言うけどさ!あれだけ女王様やってりゃ、苦労はないだろ」

「そりゃ、双樹も悪いよ。でも双樹だってさ、皆を味方につけて京成と対峙したかった訳じゃないんだしさ」

「ただ巻き込まれて、俺は吊し上げられた訳か!そりゃ、不幸な女王様だこと」

「だから、双樹も悪いって言ってるでしょ。でも、事情が有るんだよ。頭の悪い俺達には奇異に見えても、双樹には双樹なりの正義が有るんだって」

奏は、ね?と同意を求めた。京成は難しい顔で押し黙り、しばし思案顔をした。

立ち止まり、窓の外に視線をやった。

そこから見えるのは、青い空、白い雲。校庭からは楽しそうな声が入ってくる。

これが今の日常の風景だ。『まとも』と呼べる新しい景色。

京成だって山深く、隔絶された村の出身だ。古い因習が時には人を壊し、捻じ曲げ、殺してしまう事を知っていた。

いや、『時には』というのはおかしいか。京成の村はとっくに壊れていた。

「……」

京成は自分の掌を見た。

汚れていない綺麗な掌。血に濡れずに済んだ、この掌。

けれど、13才になる前に村から逃げていなければ、どうなっていたかは分からない。

「ち……嫌な事を思い出させやがって……」

「どうしたの?京成」

「何でもない!つか、双樹ちゃんの昔とか関係有るか!自分が苦しかろうと、人を傷付けて良いって事にはならないんだよ」

「……違いないね」

「……ムカつく笑い方すんなよ!分かってるよ」

「そっか」

「ま……傷付けて良いって事にはならないけど、許すきっかけにはなるかね!」

京成は苦虫を噛み潰しまくった様な顔で、言葉を吐き出した。

奏はほっとした表情で、数年を一緒に過ごした悪友を見た。

「そっか。ありがとう、京成」

「礼を言われる意味が分からないって!『自分は双樹の事良く分かってる』って態度が気に入らねー」

「そりゃ、京成より分かってるしね」

「く……見てろ!絶対俺の方が、双樹ちゃん理解してやるからな」

「楽しみにしてるよ」

「なんだよ!その余裕は」

京成は実に悔しそうに拳を握った。

そして、直ぐに肩を落とすと、大きな溜息と共に吐き出した。

「だいたい、双樹ちゃん綺麗だからな~!綺麗で嫌いになれないってのが、苛立ちに拍車を掛けるというか…さぁ?」

「あれで可愛くなければ、ただ生き辛いだけで済んだんだろうけどね」

「ずるいよな!俺だって教室の野郎どもの立場だったら、双樹ちゃん全肯定だぜ、たぶん」

「ずるい…のかな?いや、ずるいとは感じるけど、双樹的には損なんじゃない?」

「損なのか?本当にそう思うか、奏?」

「損……ではないかなぁ?」

「聞いといてくれよ!双樹ちゃんに直接さ」

「京成が聞いてよ。下手したら、殴られるから」

「殴られるのか……ま、双樹ちゃんなら良いか!」

「いや、だから、直ぐに双樹を許すの止めてよ。なんで既にそこまで双樹側になってるのさ」


千沢町には、たった一つだけ図書館がある。学校に併設された四階建ての建物だ。

外部側の入り口は一階に作られ、学校側の入り口は校舎二階に設えられている。構造としては一階スペースが一般用、二階スペース半分が学生用、もう半分が吹き抜け、三、四階部分は専門書や資料が置いてある場所になっている。

学生は極力二階スペースを使うように言われているし、一般の人も妄りに二階スペースに入らない様に決められている。

そんな制限を付けるくらいなら併設しなければいいのにと思うが、校舎も図書館もどっかの富豪が私財で作ったらしいので、誰一人として文句を言えないのであった。

そんな立派な図書館の二階部分で、奏と京成は昼休みを過ごしていた。

「ところで奏!どうさ?調子は」

「夏休み前テストの事?いけると思うよ」

京成に尋ねられた奏は教科書を捲りながら応えた。

「違うって!夏休み前テストも大事だけど、受験だって。受ける所決めたのか?」

「ん……ああ、まだだよ」

受験、進路、友人の行く先。程度の差こそあれ、中学三年生の殆どが悩める問題だろう。

その重要ではないが重大である京成の質問に、奏は未決定であると答えた。

千沢町には公立の高校は存在せず、私立の高校が1つだけ存在する。合格人数に対して受験人数の方が少ないので、そこを受ければほぼ合格となる訳である。

ただ、甘んじてその流れに乗り、受験勉強を放棄する輩は少ない。

別に教育環境は中学とさして変わらないので、進学自体に問題がある訳ではない。だが、町で唯一の中学から町で唯一の高校に繰り上がる道を進んでしまうと、待っているのは今までと変わらぬ人間関係と地元への就職率のアップである。

田舎に生まれ、田舎に育ち、そのまま田舎に就職するというレールは学生達に受けが良くないのだ。なので、大体の学生達はバスで一時間弱離れた吉沢町にある公立高校や、二時間程離れた樹茨町の私立を目指すのである。

もっとも、吉沢町ならいざ知れず、樹茨町の高校に行くとなれば色々と問題も出てくる。

入試難度も高いし、通う事自体も難しい。そもそも千沢町の大人達が『都会は危険だ』という思想を持っているので、理解のある親でないとこの選択肢は取り辛いのだ。

「まだか!ま、俺は公立受けて、私立滑り止めだから、奏の苦労は分からないけどな」

「そうか」

「そうか!じゃなくて、大事なのは奏の話だって」

「俺のって……だから、決めてないんだよ」

「決めてない!で話し終わると思うなよ~」

京成は奏にやる気がないのだと捉えているらしく、きつい物言いになっている。

だが、奏だって自分の進路に投げ槍になっている訳でもないのだ。ただ、自分が受験勉強をして、受験を経て、その後生きていくという事がイメージできないのである。

つまりは想像力の欠如か、モチベーションの皆無。こればっかりは心の問題なので、どれだけ頭で考えたって事態は好転しやしない。

ただ実の所、奏の成績なら公立高校に受かるのは別段難しくはないので、レールを進むだけなら特に難しい問題ではないのだ。

つまり、話を複雑にしているのは成績が低い事ではなく、ある程度の水準を満たしてしまっている事なのである。

「俺と奏で、どっちが進路を決めてないかって言ったら、俺の方が決めてないんだよ!そこのところ理解してくれよ」

「訳が分からないよ。俺は決めてない、京成は決めてる。違いは一目瞭然だって」

「決めてないって事が決めてるって事だろ?ああ、羨ましい」

京成の言葉に熱が籠り始め、京成はボールペンの先を奏に向けた。

「ペンで指さないでよ」

「奏なら、難関私立受けれるだろ!それも樹茨町にあるのより難しいの!」

つまりは、奏は受験を成功させれば、本当の都会に出れるのだ。

それは千沢町の若者にとって、途轍もない憧れとなっている。

しかし、そこには困難も多いし、それこそ死ぬ気で勉強しなければ辿り着けない。モチベーションがどうこう言っている今の状態では、どうにもなりはしないのである。

「かあさんが許してくれるかな…そうなったら、引っ越ししなきゃいけないでしょ?」

「一人暮らしすればいいだろ!無理なら家出しちゃえよ」

「無茶言わないでよ」

「無茶じゃねえ!県外に出れるんだぞ?都会に行けるんだぞ?どんな難しいハードルだって、俺なら超えちゃうね!」

「なら、京成が難関私立受ければいいじゃないか」

「アホか!俺は奏みたいに頭良くないんだよ」

「どんなハードルだって超えるんじゃなかったの?」

「いいか!この国において学力の開きっていうのはハードルじゃなくて壁なんだよ。だから、こればっかりは無理だ」

「そんな事ないと思うけど」

「そんな事あるんだよ!」

京成だけでなく此処に住む若者にとって、都会とは憧れの地、そして届かぬ異境だ。

進学という理由でもなければ外に出られない閉鎖的な地に住む者にとって、受験とは夢を現実にするための最初にして最後かもしれないチャンスなのだ。

奏だって、田舎住まいの少年としていっぱしに都会に憧れてはいる。双樹が都会に引っ越した時には、どうして自分は一緒に行けないのかと大泣きした記憶がある位だ。

けれど、『一生懸命勉強して、目的へ向かって邁進する自分』というのが想像も付かないのだ。現在地点と未来の間にお花畑があり、道を塞いでしまっている感じ。

そんな気持ちで困難を選んだって達成できないだろうと思う。しかし、だからと言って諦められるかと言われれば首を縦に振る事はできなかった。

まあ、そんな宙ぶらりんな気持ちを京成に晒すのが恥ずかしいので、この話題になると毎回はぐらかしてる訳である。

「大体、明日の事だって計画立てられないのに、来年の事なんて考えられないよ」

「いや、もう半年もない話だぞ!というか……

ザワザワザワ

……って何だ?」

尚も説教続けようとする京成だったが、図書館に似つかわしくない騒めきに話を止めた。

いつの間にか図書館に入り口直ぐに双樹を中心とした女子の軍団来訪していたのだ。

「女子がいっぱい来たな!あれって双樹ちゃん達か?」

「だね。双樹の学校案内だと思う」

奏も気になり、パーテーションの上から覗いた。

奏達が居るのは図書館の入口を右に曲がった所にある勉強スペースだ。長いテーブルが並べられていて、それらを仕切りで仕切って個々で使えるようにしている。

「(おお~い!双樹ちゃーん)」

京成は、精一杯大きな小声で双樹を呼んだ。

しかし、双樹は一団にひっきりなしに話し掛けられており、京成に気付く様子はなかった。

「俺も双樹みたいに、一回都会に行ってからここに転校で戻ってきたら、女子に囲んでもらえるかな?」

「あ、行っちまった……止めとけ!同性に囲まれるだけだぜ」

「そりゃ、勘弁だね」

結局一団は司書と話をしただけで図書館から出て行ってしまった。

京成は双樹が自分に気付かすに行ってしまった事が心底残念な様子である。

つい先程まで双樹に文句を言っていたのに、既にこの変わり身とは恐れ入る。

「たまに京成が凄いのか、無遠慮なのか分からなくなるね。双樹に対して思うところは、もう無いの?」

「根性が有ると言ってくれ!あの可愛さを前にすれば、雑念なんて吹っ飛ぶって!」

京成は何故か胸を張った。何が雑念で何が正念なのか分からない言い様だが、別に重要な話でもないので奏は流す事にした。

「でだ!奏?」

「どうしたの?」

「俺達、大事な話をしてなかったか?」

「あ~……『Fly me to the moon』の意味が分からないから、教えてくれって話だったよね?」

「ああ~、それそれ」

教えて貰った京成は笑顔で頷いた。

そして、直ぐに呆れ顔に変わると、どこか怨みの籠った息を吐き出したのだった。

「その一節の意味を思い出したぜ!『お前も良い根性してるな』だ」


時は流れて放課後。現在は夕方。

七月終わりの暑さは日が傾いても和らかず、寧ろ八月に向けて一時も休まず気温を上げ続けているているかと思う程だった。

こんな蒸し暑い日は早く帰って家で涼みたい所であったが、奏、京成、京成の幼馴染の真夜の三人は、予期していなかったお仕事で街を歩き回る羽目になった。

と言っても、クラスを代表して双樹に町案内をしているだけだったが。

「そういえば、ああいう押し付けは勘弁してよ、双樹」

町案内も終わりに近付き、四人は千沢町の外れに来ていた。

周りは田園風景、剥き出しで舗装されていない道を歩きながら、奏は双樹に苦言を呈した。

「おしつけ?」

「親衛隊の皆さんの対応を、こっちにブン投げたよね」

「あれは奏くんが、一切助けてくれなかったからでしょ」

「助けるも何も、良好な関係作りは大いに結構じゃないか」

お人形さんみたいな見た目で、かつ男子(主に京成)にも物怖じしない双樹は、女子の人気も高かった。ずっと十人近い女の子達に囲まれており、傍から見れば羨ましい限りだったのだが、双樹にはそれが面倒に感じられたらしい。

授業時間内は彼女達に付き合っていた双樹だったが、放課後になると町案内をしたがっているその子らを放って、とっとと奏達に着いてきてしまったのである。

更に双樹は奏を盾にして身を隠してしまったので、奏が女子達を説得する事になった。

「十年ぶりに再会して、しかも同年代では唯一の知り合いの幼馴染に放っておかれた苛立ちのせいで、周りとの関係形成なんて考える余裕も無かったわよ」

「そんなひどい奴居るんだね」

「どの口が言うのよ」

「その仕返しにしたって、あれは酷過ぎるよ」

「ふん!」

奏の物言いに双樹はツンとしてしまい、奏の愚痴に答えたのは真夜だった。

「そうは言っても、あれだけの人数にずっと囲まれていては大変だろう。ソウに厄介事を押しつけて逃げ出したくもなるというものだ」

「そう?俺はあれだけ女の子に囲まれれば嬉しいけどね。勿論、抗議目的じゃなくて、好意を持ってる場合だけど」

「奏くんのバカ……」

「はっはっは。ソウとソウジュくんでは性別が違うからな。私も思ったが、ソウはもっと早い段階で、ソウジュくんを助けられなかったのかい?」

真夜は京成の幼馴染の女の子で、背が高く、性格も大人びている。

双樹が世話焼き達から逃げられたのは、実の所奏の説得の結果では決してなく、真夜が彼女達をいなしてくれたからであった。

「はいはい、俺が悪うござんしたよ。真夜」

「ふむ、よろしく頼むよ、ソウ。以降は、私もソウジュくんを気に掛けるとするがな」

「以降は俺が双樹ちゃんをガードするから、大丈夫だって!ずっと一緒に居るからね」

「よし、京成。早めに警察行こうよ。ストーカーは許さないからね」

「こえーよ、奏!目が笑ってねーじゃん」

「京成、俺も一男子であり、一双樹のファンだという事を忘れない方がいいよ」

「うるっせえよ!何が一男子だ!超アドバンテージ持ってるじゃねーか!」

京成は、不公平だ!と吠え付いた。

そんな京成を適当にあしらいながら、奏はお姫様に視線を戻した。

「久しぶりの帰郷な訳だけど、懐かしい?双樹」

「へ?」

「だから、この町は懐かしいかって聞いてるんだよ」

「む……」

作り物っぽい奏の表情を見て、双樹はこれが嫌味なのだと気が付いたらしい。

「あのね、私は此処に住んでた事ないでしょ」

「あ~、そりゃそうだね!」

「わざとらしい……」

「いや、一回来たんじゃなかったっけ?」

「……そうだっけ?」

「知らないけど?」

「適当だよね!奏くん脳味噌使わずに喋ってるよね!」

「脊髄は使ってるよ」

「反射だよね!それ!」

「で、初の町案内はどうだった?」

「案内って、ただ歩いてただけじゃない。場所の説明もないし、感想もないわよ」

「だって、説明出来る様な建物ないしさ。仕方ないでしょ?都会じゃないんだから」

奏はほら、と回りを示した。

辺りにあるのは田んぼばかりで、確かに説明の必要な造形物は存在していなかった。さすがに、今、田んぼでは何の作業の時期で、どんな虫に気を付けないといけないか、なんて説明をされても双樹は困るだろう。知っているのだし。

「だから、こういう所じゃなくて、もっと人の集まる所を通ってよ」

「おお!そんな手が有ったね。次に転校してきた時には、そんな町案内を企画しておくよ」

「…何?喧嘩売ってるの?棘の有る言い方して」

「喧嘩?いくらでも売るよ?いくらで買うの?」

「なによ?何か怒ってるなら、直で言いなさいよ。ロマンチストでもない癖に」

「そうかい。じゃあ、言うよ。帰って来るなら、来るって言えば良いでしょ?連絡も無しにいきなり帰ってくるってどういう事だよ」

「そんな事を怒ってたの?」

「いや、キョトンとしないでよ」

「連絡したら迎えに来てくれるくらい、紳士に成長したの?知らなかったわ。こんな回りくどい喧嘩の売り方する紳士がいるなんて」

「俺は紳士だよ。でも、紳士だって優しくすべき相手を選ぶよ」

「なら、紳士だとしても変態という名の紳士ね」

「言い様からして、双樹は俺が変態の方が良いのか。双樹が本物の変態さんだって事だね」

「そう言い切る根拠と具体例を示してよ」

「双樹の表情と物言いで分かるよ」

「何そのストーカー準備万端な発言。奏くんとの接触は、これから気を付けるわ」

「犯罪者ってのは、捕まって初めて犯罪者なんだ。だから、俺がストーカーかどうかなんて、訴える双樹の胸三寸じゃないか。ストーカーじゃなくて、情熱的って評価にしといてよ」

「い~や。言葉より実態を優先して、奏くんを警戒するって決めたの」

「実態がヤバいエビデンスをくれよ」

「目を見れば分かるわ」

「この曇りなき眼のどこが、不審者なのさ」

「ほら、その瞳が私を見てくるわ。それこそが証拠よ」

「見ただけじゃないか」

「都会では、それだけで事案なのよ」

「マジか…」

「マジよ」

「都会怖いね……」

双樹の指摘通り脳味噌を使ってない会話で、喧嘩という認識すらない応酬。奏はどこか懐かしさを感じながら言葉をぶつけあっていた。

ただ、二人にはどうという事もない言い合いでも、傍から聞いている分には、殴り合い一歩手前の衝突に思えたらしく、二人を仲裁しようと京成が割って入った。

「まぁまぁ、待て待て!奏も双樹ちゃんも」

双樹はそんな京成の様子を見て『どうしたのこの人?』という目線を奏に送ったが、奏は『全然分からない』というアイコンタクトで返した。

「ぐ…なんだよ、奏!その二人だけの世界感は」

「京成がごくごくごく偶に真夜と作ってる世界感を、再現してみたんだよ」

「作れてねーよ!つか、『ごくごく偶に』を強調すんじゃねーよ!」

「はっはっは。ソウ、正確にはごくごくごくごく偶にだぞ。むしろ私と君で作っている方が多いらしいと、京成が漏らしていたよ」

「真夜はごくを増やし過ぎだろ!後、人の愚痴をバラすなよ!」

京成は今日も今日とて元気に突っ込みまくっている。

そんな京成の様子を、双樹は『ああ、この人はこういう人なのか』と、特に受け入れるでもなく眺めていた。

「つか、奏!お前はあっちの道曲がらないと、帰れないだろ?早く行け」

「いや、別に急がないし、もっと回り道してから帰ってもいいんだけど…」

「今すぐ帰れ!双樹ちゃんを置いて」

「京成は大魔王かなんかなの……?」

奏の家は、ここから更に町を外れた場所にある。

他の三人の家は中心部に近い場所にあるので、奏はここでお別れである。

「じゃあね、皆」

「ああ、ソウ。また明日だな」

「あばよ!双樹ちゃんを送るのは任せとけ」

だが、

「……なんで双樹はこっちに着いてくるの?」

何故か双樹は奏に付いてきた。

「悪い?」

「今、良い悪いの話してないよ。双樹の家って、こっちだっけ?」

「いいえ?多分違うけど」

「多分?」

「というか私、自分の家がどっちかなんて知らないわよ?」

「何で?」

「何でも何もないわよ。適当に案内して『はい帰れ』なんて無理に決まってるでしょ?」

「だから、京成達と帰ってよ」

「は?」

「え、いや……怖いよ、双樹?」

「は?」

「わ、分かったから。俺が送るよ。別に遅くなっても構わないし。家の自転車取って来るよ」

「何で?」

「何でって!?二人きりは嫌なの!?」

「パパもママも奏くんの家に行ってるから、奏くん家に連れてってくれたら良いんだよ?」

「何それ、聞いてないよ?」

「……嘘でしょ?」

「拗ねないでよ。双樹が帰ってくるっていうのと同じくらい初耳だよ」

「え?滅茶苦茶初耳じゃない」

「そこは自覚有ったの!」

「本当に知らない?」

「本当に知らない」

「本当かー。奏くんの家には、ママが伝えてる筈なんだけど…これは私のせいじゃないわよ」

「そうか…俺の親の問題かな」

「ちゃんと喋らないと駄目よ?」

「ま~、仲悪い訳じゃないんだけどね」

「おばさん、まだ強烈なままなの?」

「相変わらず。てか、『これは私のせいじゃない』って、サプライズ帰郷は双樹のせい?」

「え?だって、恥ずかしいじゃない。十年ぶりに話すの」

「ちょっと。理由それ?」

「それに奏くんがキモクなってたら、喋るの嫌だったし。先に確認したかったし」

「うわ~、こいつやべえやつだよ。とかいにそまりやがってるよ」

奏は双樹にそんな文句を垂れ合いつつ、何かを忘れて道を曲がって行くのだった。

残された二人は顔を見合わせ、呆れるやら、微笑ましいやら、悔しいやら。

「……アイツらは、本当に十年振りに会ったばっかなのか!仲良過ぎない?」

「ははは。いいコンビだ。見事に置いてけ堀を食らったな、京成」


双樹が転校して来た次の日の昼休み。奏は独り、図書館で考え事をしていた。

図書館とは、ある種特殊な空間と言えるかもしれない。

同じ空間に人は沢山居るものの関係し合う人は少なく、其々にすべき事に没頭している。他人なんて我関せずというスタンスでありながら、皆同じ場所に集っているのだという淡い仲間意識も感じてしまう奇妙な集団孤独。

この場所は、適度な静けさとさざめきがあり、物事を見詰め直すのにはもってこいなのだ。

で、そんな思索の庵で奏が何をしてるかと言うと、割と真剣に昨日京成に言われた事を考えていた。

「受ける学校……か」

このまま宙ぶらりんな気持ちで夏休みに入っては流石にマズイと感じ、足しになればと学校案内なんやを読み漁っている次第。

学校案内には様々な事が書いてある。学校が大切にしている理念、年間を通して何を行っているか、学業や課外活動のどこに力を入れているか、どんなクラス編成がされているか、進学率はどうか、進む道はどこが多いのか。

カラフルで綺麗な冊子には為になりそうな言葉や写真が沢山載っており、奏はその冊子にいつもより深刻に目を通していった。

だが、問題を深刻にしたからといって、命題が解決する事はないのである。

「駄目だ…別に何かになりたい訳じゃないし、なりたくない訳じゃない。将来に斜に構えてるんじゃないんだけど……寧ろ、希望に満ち溢れて何にでも成りたいお年頃?でも、どれも本気を掛けられる気がしないんだよな……」

奏は冊子を放り出して、天井を見上げた。

考える程に一歩が踏み出せなくなってくる。

思考を組み立てる程に心と思いが乖離していく。

精神がぶよぶよした膜に包まれている様で、あらゆる思いも感覚も鈍く濁ってしまうのだ。

「都会には行きたい。かあさんにそんな希望を打ち明けるのは怖い。難関私立に行きたいって決めてしまうと、出来なかった時ばかり想像して気が滅入る。勉強は嫌いじゃない。今だって頑張ってる。でも、本当に勉強する道に進むなら今の勉強では足りない筈だし、これ以上の勉強っていうのがどんなものなのか良く分からない。皆と離れて別の環境に行くのが恐ろしい……いや、皆とは別の道を『目指す』のが、恐怖なのかな。俺は」

頭の中を整理する意図で悩みを口にしてみると、成程自分は我が儘な人間だと嫌になる。

「こりゃ…メンドクサイ奴だね、俺。良く京成が愛想を尽かさないよ」

泣きたい様な、寧ろ笑いたい様な曖昧な気分に落ち込む。

こんな自分を自覚しても本気になれないのかと、自身を呪いたくなってきた。

「まあ、呪う為に呪いを勉強したり、そう言う世界に浸かったりするのは、エネルギーを使うだろうし、皆とは別の道を進むみたいで、きっと嫌になるんだろうけどね」

なんて、自虐的に口にしてみた。

要するに全部一緒なのだ。受験だの、呪いだの。とにかく皆とは別の事をするのが怖い。いや、自分一人で進むと決めるのが恐ろしいのだ、自分は。

ああ、つまらない人生になりそうだ。

そんな風に口角を釣り上げ、最悪な気分に浸ってみた。

そんな風に自身を厭い、深海に沈み込んだ奏だったが、意外な声が彼を引き上げた。

「確かに奏くんはメンドクサイよね」

綺麗な声だが起伏のない声。澄んでいるが不機嫌さが滲む言葉。

そんな変わった体温の持ち主を、奏は一人しか知らなかった。

「双樹?どうしたの、お友達は?」

「他人行儀で意地悪な反応ね。昨日も泊まりたいって言ったのに無視したし」

双樹は奏の隣に座ると鞄から参考書を取り出し、平坦な調子で何か口にした。

「うん。言ってない。確実に言ってないよ。誤解を招くから止めて」

「そうだっけ」

趣味の悪い冗談に、クラスの奴に聞かれてやしないかとドキドキした。

「あの人達には『私達の邪魔をしないで』って言って来た。追い掛けて来ないと思うわ」

「やっぱり、喧嘩したの?」

今日も双樹は色んな人に囲まれていた。しかも、双樹を囲む輪は拡大していて、女子だけでなく男子も加入していてかなりの大所帯になっていた。

それをブッチギッて一人で図書館に来るという事は、それなりの事があったと考えられる。

「やっぱりって何よ?」

「知らない?国語辞典貸すよ」

「……喧嘩はしてない。それは奏くんが嫌なんでしょ?」

「まあ、嫌だね。皆仲良く世界平和が俺の人生の目標だから」

「仲良くしてくれてるのは分かっているわ。でも、私は勉強に集中する為に引っ越して来たの。放っておいて欲しいわ」

「ちょっと聞き捨てならないかもしれないんだけど、『ここに』って、図書館の事?それとも千沢町の事を言ってるの?」

「千沢町よ」

「なんだそれ……それ、そのまま言ったんじゃないだろうね?」

「言ってない。私が誰かと衝突したら、奏くんが困るしょ?円満に済ませたわよ」

「………双樹、クラスの連中に何言ったの?」

双樹の言い廻しに違和感を覚え、奏は声のトーンを落とした。

奏の第六感が、『双樹は何かをやらかした!』と警鐘を鳴らしていたのである。

そういえば、今日の双樹は厭世的な雰囲気になっている気がした。昨晩夕食の席で双樹と双樹の母の沙羅さんが言い争いになった事が原因だろうか?

それ以外にも何かありそうだったが、とにかく双樹は嫌な空気を纏っていた。そういう時の双樹は自傷行為のように何かをしでかすのである。

「何をしたんだい?双樹」

「子供に諭すみたいな声色止めてちょうだい」

「じゃあ、子供みたいな事しないでよ」

「してないわよ。ただ、『愛しの奏くんに会いに行くから、空気読んでね、着いて来ないでね、二人きりにしてね♪』って言ったら、普通に解放してくれたってだけよ」

「ハ?」

「大人でしょ?」

――ピシリと空間が割れた気がした。

寒くもないのに体が震え、体中の脂肪が捻り出されるかの如き痛みを感じた。

ジワジワと体の芯が解けていくと錯覚したら、奥の方がかぁっと熱くなった。

「ちょっと!え?マジなの?え、ウソウソ」

奏は、思わず双樹の肩を掴んでいた。

「止めてよ、皆が見てるわ」

「いや、おふざけじゃなくてね?分かる?ソウちゃん」

「マジ。でなければ、奏くんの隣には座ってないわよ」

双樹に嘘や冗談を言っている様子はない。ただ、ジッと奏の目を覗き込んで来る。

奏は何も言葉が思い浮かばず、双樹は目を逸らさない。そうして、傍から見れば恋人よろしく見つめ合った後、もういい?と、唇だけで示して双樹は視線を外した。

(これはマジだ)

奏はドッと疲れて、双樹の肩から手を離した。双樹の口を塞げば事態が停止しないかなとバカげた事を思いながら、倒れ込むように椅子に座った。

教室に戻った後の苦労を想像しすると笑えてきた。いや、笑えない!無情に砕かれた穏やかな学生生活が口に入って、ジャリジャリとした感触を生み出している気がした。

「いいじゃない、役得よ」

「良く言えるよね、そういう事」

「……嫌なの?」

「はいはい、そうだね、役得だよ。いや、役不足かな……」

「あら、ちゃんとした使い分けを知ってるのね」

「うるさいなあ」

奏がぶつくさ言いながらも観念し、天井を見上げていた視線を戻す。

双樹はというと、早くも問題集に取り組んでいた。

「ねえ、双樹ちゃんよ?」

「他人行儀ね、ハニーって呼んでくれても良いのよ」

「……それはもう良いよ」

しかし、双樹は何のために転校して来たのだ?

昨日沙羅さん達と話した感じでは、確かに受験を控えたこの時期に勉強に集中する為、誘惑の多い都会から田舎に引っ越してきたというニュアンスを受け取れた。

(それが本当に目的?そんな訳ないでしょ)

沙羅さん達は奏に対して『よろしくね』と、殊更に言っていた気がする。それが『双樹を娯楽や誘惑から遠ざけてね』という言葉だったとは到底思えなかった。

「双樹だって折角転校して来たんだから、皆と仲良くした方が良いでしょ?」

「なんで?」

「いや、そこ質問になる?」

「なるわね」

「なるか~」

こいつは重傷だと、奏は頭を抱えた。

「勉強しに田舎に来たって言うけど、参考書も手に入らない所に、勉強目的で来る筈ないでしょ?というか、あっちの学校の方が競争相手も居てモチベーション上がるでしょ?」

これを突っ込んで聞けば喧嘩になるのは分かっていた。

しかし、聞き流せる問題ではなく、奏は歯を食い縛って先に進む。

「向こうで喧嘩とかして、こっちに来たんでしょ?なら、こっちに来てまで全部の人を遠ざける事なんてないんだよ?」

「男遊びが酷かったのよ」

「嘘吐き……嘘って言わないと泣くよ」

「嘘にしとこうか?」

「うん。ありがとう」

「まあ、嘘だけど」

「…どっちに対しての?」

「奏くんは、私のどこを見て遊んでると思える訳?」

「美人な所!」

「………もう」

双樹は声の淡泊さとは裏腹に、頬っぺたを膨らませてそっぽを向いてしまった。

そんなやり取りにもぎこちなさを感じて、奏は滅入ってしまう。

「無理をしないでよ」

「してない」

「してる」

「何に対してよ?」

「自分の気持ちに対してだよ」

「……なによ!」

しかし、奏は読み違えていたらしい。

これは喧嘩になるとか、関係が悪くなるとか、そういうレベルの問題ではなかったらしい。

「無理をするな…ですって?分かった様な事言うのね」

「…双樹?」

「何様のつもりなの?」

双樹は恐ろしく感情のない顔で笑った。双樹が震える手でペンを置くのを見て、

ああ、これはマズった。

と、奏は思った。

「ダーリン様に決まってるだろ?ハニー♪……あいた!?」

双樹は手首のスナップだけでペンを奏に投げ付ける。

「………いいわね、奏くんは幸せそうな顔して」

「なんでだよ!十年ぶりに再会した幼馴染にペンをぶつけられた顔してるよ!」

「可哀想に。いい事あるわよ」

「慰めるんじゃなくて謝ろうよ!」

そんな小さな暴力行為で毒気が抜けたらしく、双樹は緊張を吐き出した。

「いいのよ、仲良くしなくて。そのために来たんだから」

「良いってなんなのさ……」

奏は、双樹の何かを飲み込んだような仕草にカチンと来た。

「言いたい事があるなら、ちゃんと言ってよ。言わなくて分かる訳ないじゃないか!」

「……止めてよ。皆が見てるわ」

肩を掴む奏に対し、双樹は下らない冗談で逃げようとした。

だから分かった。これは大事な事らしい。

「……ったく」

奏は双樹の肩から手を離し、椅子に座り直した。

安っぽい椅子はギシリと軋み、やけに神経を引っ掻いた。

「とにかくさ、どういう事なのか聞かせてよ、それ位はしてもらえるんでしょ?」

「……」

「双樹…」

奏は変わった表情のまま何も言わない双樹に凹みつつも、その横顔を見続ける。

双樹は膝の上でギュッと拳を握ると、零すように吐き出した。

「だから、そのままの意味よ。私は本当に勉強に集中する為に転校したのよ。知り合いも娯楽もない田舎に来て勉強しようって言われて」

それは……………………………………………………………

……………………………一体どういう意味なんだ?

双樹の言葉は先程と同じだった。

けれど、さっきより頑なで『これが理由だ』と本気で思っている温度が奏をおかしくする。

「もう!これ以上の理由はないの。大事な夏の時期を、集中出来るこっちで過ごそうって事になったのよ。本当は千鶴沢にでもしようってなったけど、それじゃ塾も通えないから」

そんな取り乱した声を聞いて、奏は平静を失った。

Q、千沢町にも塾はないけど。

「隣町の塾に夏の間は行くわ。バス一本だから」

Q、じゃあ、双樹は受験に備えて友達も娯楽も、今までの十年も捨てて此処に来たの?

「そうよ。何もない此処で集中させたかったんでしょうね」

Q、有り得ない。

「…有り得ないって何よ。有り得るから私が此処に居るの!」

Q、他人事みたいに言わないでよ。

「私だって!!」

意識が怒りだけに絞られていた奏は、突然の音に目を覚ました。

赤くなった双樹の手を見て、今の音は双樹が机を力一杯叩いた音だと理解した。

「他人事じゃないわよ!私だって、嫌だった!あっちに友達だって居るし!遊びたいし!でも、引っ越すって!言うん…だもん…私だって!自分で決めた事だし、私が決めた事なのよ!!簡単な事じゃなかった!!」

「……そっか」

転校一つを表すのに、『友達も生活も全部捨てた』というのは、大袈裟な表現かもしれない。

だが、大袈裟だと思えるのは人生を俯瞰で見られる大人だけだ。自立を許されない中学生にとって引っ越しはそれ位の大事だ。

大人ならば新天地に行っても、元の場所に戻れるのは理解できる。離れた友人は、数年経っても変わらず接してくれることも識っている。

だが、子供ではそうはいかない。金銭的にも精神的にも新たな地と古き地の行き来は難しいし、離れた友達との関係が変わらないとは信じられない。事実、出会いと別れに溢れている彼らの友情は、実際問題として時間で変化してしまうモノだから。

双樹はそんな一大事を必死に飲み下したのだと思う。

『親に決められた』引っ越しではなく、自分で決めた転校なのだと言い聞かせ、自身を納得させたのだろう。

だからこそ、心の奥底に仕舞って不機嫌で蓋をしていた。

だからこそ、無遠慮に感情を呼び覚まさす奏が許せなかった。

だからこそ、堰を切った激情は瀑布となって奏にぶつけられる。

「そうよ!自分で決めたの!全部捨てるって!」

双樹は赤くなった目で奏を睨み付けた。

決意を踏み躙る奏に、不機嫌を脱ぎ捨てて、本気の怒りをぶつけた。

彼女は泣きそうで…崩れそうで…奏が良く知る小さな女の子であった。

奏は言葉を発さず、双樹の震える手の下に目を落とした。

双樹の手元に広げられている参考書は、随分と使い込まれていた。参考書の端はよれて黒ずんでおり、ページは色分けされたペンとポストイットでカラフルだ。表紙は何度も開いた影響だろうか、カバーは外され、表紙の厚紙は折れて白くなっていた。ページの余白には様々な書き込みがあり、この参考書が手に入れば、奏でも途端に優等生に成れるのではないかと錯覚してしまう。

双樹が行ったのは有名な私立の小学校だったという。学校の厳しさは千差万別というが、きっと厳しい所なのだと思う。

とは言え、双樹がその厳しさに着いて行けない訳は無いだろう。

双樹の能力なら勉強もスポーツも滞りなく行える筈だし、学生生活だって大きな下降は避けて過ごせる筈だ。

では何故、双樹は転校しなければいけなかったのか?

奏が思うに、双樹は何でも『こなして』しまったのではないか?沙羅さん達は、それを本気で心配したのだと思う。

友達がいようが、ライバルがいようが、恋人がいたとしても、きっと双樹は変わらず独りだったのだ。今は意図しない環境の変化に取り乱しているが、平静を取り戻せばまた人生を『こなして』しまうだろう。

それではダメだと、双樹の両親は、大事な時期に双樹を此処に連れてきたのだ。

双樹を『普通』にするために村から連れ出した両親は、都会で得られなかった普通を、奏に求めたのだ。だからこそ、奏に『よろしく』なんて言ったのだ。

無責任だと怒りも沸いたが、キツネの子と呼ばれた双樹の教育など、親の手に余るのだろう。

――双樹は沙羅さんがキツネに攫われた時の子との噂まである。

それを受け入れ、見ぬ振りをして育てる事のなんと辛き事か。大人になる一歩手前のこの時期に騒動を決断し、双樹に恨まれようが、泣かれようが、変化を強行した。

それだけでも、きっとニンゲンの親としては上出来なのだろう。

「うん……そうだよね」

確信はあったが確証はない。けれど、奏には間違いのない事の気がした。

ならば十分。

奏がすべき事、悩んでいる事。それらは妙な符合で合致した。

「分かった。分かったよ、双樹、京成」

「は?どうしたの、奏くん。急に」

罵詈雑言を浴びせている間に、突然静かに燃え出した奏。

双樹は気味悪そうな顔で奏を眺めた。口をへの字に歪めている所から察するに、奏が罵声を浴びて興奮するタイプのドMだとでも判断したのだろうか。非常に無礼である。

「あのね、双樹。笑わないで聞いてくれ、俺の決心を」

「決し……うん?」

奏は、自分が笑われてもおかしくない事をしようとしているのか分かっていた。

それでもせずにはいられなかった。

笑うなら笑ってくれとすら言えず。

人生を今決める事に手足も震えた。

それでも口さえ動けばいい。

瞳が双樹の方を向けばいい。

腹に力を入れて飛べばいい。

肺が空気を押し出し、喉が偶然にも今の気持ちに近い音を出せばそれで済むのだ。

「俺も行く。俺も双樹が通う塾に行って、それで双樹と同じ高校に行くよ」

「………は?」

奏の決断を聞いた双樹は、暫くぽかーんと口を開けていた。

まぁそうだろう。奏にとって進路は長らく間誤付いていた問題であり、今やっと一歩進んだというだけの事だ。如何に困難な道であっても白紙の用紙に解答を書くのは難しくない。

だが、双樹にとっては唐突に奏が進路変更したように見えただろう。奏は『そこまでの決断じゃないよ』と弁明したい気もしたが、双樹の顔を見ると口にするのは憚られた。

この時期に、進路を変えるのが『そこまでの決断』じゃない時点でおかしいのだ。

憧れの女の子を前に恥をかきたくなかったし、格好付けたって罰は当たらないと思った。

「……はぃい!?奏くん、本気で言ってるの?!」

「あ……ああ!本気さ!当たり前じゃないか」

突然の告白に混乱していた双樹だったのだが、奏がそういう事をする馬鹿だったと思い出したらしい。顔を真っ赤にして、何か聞くに堪えないような事を叫び出した。

何故そこで出てくるのが罵倒なのだろう?

妙に冷静な気分で思ったが、そのチョイスが双樹らしくていいや、なんてバカな感想すら浮かんできた。

「―――――――――――――――――――!!」

「―――――――――――っ――――――――――――――?―――――――――――!」

以降、双樹は辛辣な批判を続けていたらしいのだが、奏は良く覚えていなかった。

だってとっくに体は灼熱し、脳味噌は熱にやられ、機能の大半がダウンしていた。止めろ止めとけと大合唱するブレーキを無視して突っ走った事で心すらコントロールを離れ、いくらペダルを踏んでもエンジンは空回り。視界の中から現実感が欠如してしまい、自分が呼吸をし、心臓を動かせているだけで奇跡の様に思った。

でも、なんにせよ、だ。

涙を溜めて罵倒する双樹の表情が不機嫌以外の何かだった事だけは思い出せたし。

それだけで奏には十分だった。


「という訳で、夏期講習なる物に行く事にしたよ。進路も大まかに決まった」

その日の学校の帰りがてら、奏は早速京成に決定事項を報告した。

京成は自分の進路を心配してくれていたのだから、今回の決定を応援してくれるさ!なんて思ったのだが、予想に反して京成の反応は悪かった。

「この野郎……人の心配を女を口説く口実にしやがって!しかも、双樹ちゃんとだと」

京成の耳は腐っていたらしく、奏の説明とは別の何かがが聞こえていた模様である。

「んと…話聞いてた?俺マジなんだけど」

「分かってら!だから真剣なんだろ?マジなんだろ?やってられっか、畜生め」

「いやいや、真面目な進路の話」

「ああ、そうさ!双樹ちゃんとの真面目な進路の話だ!」

「なんで京成が『そうさ!』とか言うのさ!俺が言うよ」

「結局言うんだろ!許されねえ」

「俺の進む道に、偶々双樹が居ただけだよ」

「嘘吐け!完全に双樹ちゃんに着いて行ってるだろ!」

「バレたか…」

「バレるも何も、自分で言ってたわ!俺なんて、夏休みで双樹ちゃんに会えないんだぞ…」

「代わりに会っとくよ」

「それが嫌だって言ってるんだろ!そうだ!奏も会わなければフェアじゃね?」

「今から『講習行きません』なんて撤回掛けると、双樹はきっと拗ねて学期明けでも学校来なくなるよ」

「マジか!マジか……」

「京成も講習来ればいいじゃないか」

「俺の学力舐めんな!絶対に行けねえから!」

「毎日建物の前で待ってればいいじゃないか。講習も受けずに」

「…成程!」

「その手が有ったか!みたいな反応止めてよ!冗談だから」

「俺の双樹ちゃんに関する決定に遊びはない!全部シリアスだぜ」

「遊びを入れてよ!双樹が常時しかめっ面なのに、周りも遊びが無かったら、空気がおかしくなるよ!」

「難しいな!結局殆ど話せてないし、双樹ちゃんにどう接すればいいのか分からん」

「双樹は結構お茶目な奴だよ」

「嘘だろ!?嘘だろ?」

「嘘を教えてどうなるのさ?」

「俺と双樹ちゃんを仲違いさせて、自分だけ抜け駆けする気だろう!そうはさせないぜ」

「もう仲違いしてるよね!会話全部間違ってたよね!これ以上拗れさせる訳ないでしょ」

「う……そんな風に指摘されると、そんな気もしてくるな!ちょっと改めてみる」

「うん、それは良かった。で、話は戻るけど京成は俺の進路、心配してくれてたよね?」

「ああ!友達だからな」

「ありがとう。そして、俺はその心配を打ち消すべく進路を決めたんだよ。感想は?」

「奏なんて友達じゃねえ!この裏切り者!」

「なんでさ!こっちが裏切られた気分だよ!」

「双樹ちゃん絡みで何か決める時は、俺と相談しろって言っただろ!どんな些細な事でもだ」

「してないよね、そんな約束!てゆーか、それだと俺は四六時中京成と相談しないといけなくなるじゃないか」

「うが~!なにおう!」

「おかしいな。俺の進路決定の暁には、感動して讃えてくれると思ったんだけど……」

「は?勘当して叩いて良いって?んじゃ、遠慮なく!」

「そんな事言ってないよ!」

むがー、と襲い掛かってくる京成を、奏はとりゃあと迎え撃つ。

僅かな会話の内に分かった事は、自分達は分かり合えないというただ一つの事だった。


「あ!そういえば、奏」

「なにさ?馬鹿野郎」

散々奏を追いかけ回した後、京成は何か思い出したらしく足を止めた。

先行して逃げていた奏は、その停止が京成の罠ではないかと警戒して距離を取る。

「そんな遠くちゃ話が出来ねえよ!戻ってこい、奏」

「やだね!俺の安全が確保されるまでは近付かないよ」

「慎重な奴だな!具体的にはどうすりゃいいんだよ」

「服の裾を上げて、敵意が無いと示してくれ!」

「ほらよ!拳銃は無いって」

「あと、財布を渡すんだ」

「ほらよ!……って渡すか!」

「バレたか」

奏はファイティングポーズを解き、京成が奏に近寄っていく。

京成の『叩いてやる』という冗談はどこか迫真する物があり、奏を本気で遁走させた。京成も京成でそれを全力で追い立てるので、二人は街中を走り回る羽目になった。

で、冷静になって辺りを見回すと、町外れの敦賀神社の入口まで来てしまっていた。

「まあ、聞いてくれよ、奏!この神社で夏祭りが有るじゃん?」

「あったっけ?」

「あるよ!夏祭りって言うか、色んな所が出店を出すだけだけど」

「あ~、縁日ね…有った様な無かった様な。行ったことないや」

「まあ、しょぼいヤツだったしな!そんなに盛り上がるモノでもなかったし」

「そのしょぼい出店がどうしたの?」

「今年は、いつもより豪華にするらしいぜ!だから、行く価値はあるって訳だ」

「豪華ねぇ……」

この辺りの集落群には、嘗て様々な祭りが存在した。千鶴沢の祭り然り、他の集落の祭り然り。その集落毎の種々雑多な祭りが執り行われていた。

集落から移り住んで来た人達は、本当は千沢町でもそんな祭を執り行いたいのである。

だが、千沢町は集落の集合体で、これから纏まり、大きくなっていかねばならない。

ギリギリまともと呼べる祭から生贄を使う祭まで、様々にある集落の祭りを各々執り行っていては、問題が起きるのは目に見えていた。実際、伝統や守り神の話は非常にデリケートな話で、二十年前は神様の名前一つで流血事件が起きていたという程だった。

それで千沢町では、長い事祭が禁止されていたのだ。けれど、町も大きくなってきて、何もしないのも寂しいという事で最近夏祭りが行われ出したのである。

と言っても、角が立たない様に何処かの祭りの色を出す事は避けているのし、神社の敷地を使わない取り決めなので、道に出店が出ているだけの慎ましい物ではあるが。

「ん?」

と、京成が何かを熱弁している時、奏はある物に気が付いた。

神社への入口の石段に、双樹と再会した晩に泣いていた子が立っていたのだ。

その子は木々の暗がりから奏をじっと見ていた。

「なあ、奏!聞いてるか?」

「え!?あ?おお」

肩を叩かれ、びっくりして京成の方を向く。

直ぐに視線を戻したが、女の子の姿はもう無くなっていた。

「あれ?京成、さっきそこに女の子居たよね?」

「双樹ちゃんという者が在りながら、もうそれか!やっぱり許せねーな」

「そんなんじゃないよ……」

京成は機嫌が悪く、論理的な話が出来る風ではなかった。

「で?夏祭りが、どうしたの?」

「まあ……さ!双樹ちゃん来たばっかじゃん?」

「ばっかだね」

「親交を深めるために、皆で夏祭りに行かないかなって……思った訳だ!」

提案する京成は、いつもと比べると歯切れの悪かった。歯切れの悪い理由は置いといて、奏もそんな提案をされては困ってしまう。

何故なら、双樹に対して、今日あれだけ大仰に『一緒に勉強しよう!』と言ってしまったのだ。その昨日の今日で『遊びに行こう!』というのは気が引けた。

それに双樹を誘って、『私は友達を作りに来たんじゃないの!』なんて答えられた日には、また一悶着起こしてしまいそうだった。

「どうだろうね?来ないと思うよ」

「そこを何とか!奏ならなんとかできるって」

「え?俺が言うの?」

「いや!……クラスで噂聞いた後だとな、俺からは言い難い……」

「あ~~…」

京成が言っている噂というのは双樹の『愛しの奏くん』宣言の事だろう。

思い出したくなかったが、昼休みの後教室に帰ると散々だった。

昼休み終了のチャイムが鳴った後に教室に入り、休み時間になる直前に教室を飛び出していたので何かを言われた訳ではない。しかし、教室中から好奇の視線というか無言の非難というか、目に見えない圧力を感じて過ごし難い思いをした。

6限目の授業中、先生が教室を出た合間に真夜が空気を解してくれなければ、もしかしたら明日は学校をサボっていたかもしれい程だ。

「あれ、嘘だよ」

「嘘かどうかは正直どうでもいいんだよ!双樹ちゃんの口からそういう事が出たってのが辛いだけで」

「だから、双樹はお茶目なんだって」

「お茶目…お茶目かぁ……都会ではああいう冗談が流行っているのか?」

「超流行ってるんだよ」

「奏が知ってる訳ないだろ!同じ田舎者なのに」

「バレたか。つか、京成。やっぱ根性あるね」

「言わないでくれ!ギリギリなんだよ」

奏が逆の立場で双樹の出まかせを聞かされたら、確実に諦めていただろうと思う。

それでも双樹に言い寄っていくというのは、京成は相当にやられてしまっているからなのだろう。最初の衝突からどうしてこうなるのか理解できなかったし、理解できたとしても応援する気も起きなかっただろう。

とは言え、一人の人間として無下にするのは気が引ける真剣具合だった。

「分かったよ。言っては、おく」

奏は普段の京成なら、適当に誤魔化すな!とでも怒りそうな受け答えをした。

「おお!じゃあ任すよ」

「本当にやられちゃってるんだね」

「うるせーよ!どうもしてねーよ」

「はいはい」

「く……!いや、みじめになるから止めとく」

京成は今の自分は全てで負け戦だと感じているらしく、さっさと口を噤んだ。

そして、話題を変えるためにこんな話をした。

「そうだ、奏!知ってるか?」

「知ってるって、何を?」

「この神社に祀られている神様の話だよ」

「そう言えば、知らないね」

「なら、教えてやろう!笑うなよ?」

京成は語るのも惜しそうに勿体付けながら、とある間抜けな神様の話をしてくれた。


曰く、天上に好奇心旺盛な神が居たらしい。

神様は旅をしていて、ある時不思議な形の山に興味を持ったら。

何でもその山にはずっと雨が降り続いていたとか。

とてもとても高い山で、美しい山。

山肌を洗い続ける雨はベールみたいで、磨かれた地面はやわ肌の様だったという。

興味も旅の疲れも有った神様は、山に腰掛けて手を洗い、休息を取った。

じゃあじゃあじゃあと鳴る雨は楽器みたいで、大層神様の心を楽しませたとか。

不思議な雨の連綿はずっと続き、山を光らせた。

山と雨しかないこの場所で、音も、空気も。輝きさえも悲しく寂しく。

しかし凄絶な光景の中で、山は優しい顔も持っていたらしい。

それで神様は喜び、暫く此処に居ようと思った。

降り続く雲の上に登り、山を眺めていた。

神様も孤独だったのだ。

だから、旅をしており、優しい顔を持つ山に出会ったことが嬉しかったのだ。

と、そこで神様は有る事に気が着いた。

雲の下、山の麓に沢山の人間が居る事に。

この雨の中、何を熱心にやっているのかと神様は気になった。

そして、其れが運の尽き。

神様は雲の縁から身を乗り出して下を覗いたが、降り続く雨で雲は濡れており、とても滑り易くなっていた。

だから神様は――

――つるんと、

山の下へと落っこちた。

ヒュウヒュウ音を立てて落下し、ドカンと音を立てて山を砕いた。

それで地面は窪んでしまい、千沢の地には雨が溜まった。

それで湖の様になり、人々は恐れてしまった。

この地から離れてしまったのだ。

これはいけないと神様は一本の木を植えた。

その木は成長し、水を吸い上げ、雲まで吸って、雨は降らなくなった。

だから水は消え、千沢は盆地としてその姿を残す事になったという。

因みにその木は今も千沢の地の何処かに在り、神様を天上に帰す為に目下成長中との事。

その根っこや枝葉の一部が、迷いの森として姿を現しているそうだ。


「ああ、それちょっと違うわよ」

「え~、マジ?というか、神話に違うとかあるの?」

次の日の昼休み。

京成に聞いた神様の話をしたら、双樹ににべもなく否定された。

「違うの。って、今はそんな話をしている場合じゃないでしょ」

「はいはい。ちぇ、笑うと思ったんだけどな」

奏は双樹に怒られ、参考書に目を戻した。

今現在二人は図書館で勉強中である。いや、勉強中であると言うと二人並んで其々勉強している様な印象だが、それでは語弊を与えてしまうだろう。二人の学力には大きな開きがある。当然双樹の方が断然上であり、自然と奏が双樹に勉強を見て貰う形になっていた。

双樹の為に双樹と同じ学校に行くと決めた手前、奏も双樹の負担になる形での勉強会はしたくなかったのだが、その件に関して差し迫った問題が出来てしまったのだ。

『かあさん、頼みが有るんだ』

『頼み?言ってみな』

『やりたい事が出来たんだ。だから夏期講習に通わせてくれよ』

『夏期講習ね…双樹ちゃん関連ね』

『う……違う訳じゃないけど』

『よし分かった。ただし条件が有るよ』

『条件?』

昨日の奏が母親に進路の話をしたら、条件付きだが応諾はあっさり出た。応諾が出たのは喜ばしいのだが、その条件が、『夏休み前テストで納得できる点を取って来な』という物であった。

だが、その夏休み前テストまではもう三日しかないのである。

「勉強で見返りを求めるなんて、不純だよ~」

夏休み前テストまで本当に時間が無い。

そもそも奏はずっと家で自主学習を行っている。午後5時から7時、晩ご飯を挟んで8時から11時の5時間の勉強を毎日してきたのだ。今からそこに足せる勉強時間は精々1日2、3時間であり、試験前日は早めに寝ると考えれば総計で6、7時間にしかならないのである。

正直、今から本腰を入れた所で、テスト結果が大きく変わるとは思えなかった。

「受験は、勉強に見返りを求めるその究極でしょ。システムに浸かって良い思いしようって人が、文句を言わない」

「くぅ~」

「だいたい何かを得る為に努力をするのなんて、当たり前じゃない。それにケチを付けるなんて、暇な老害のする事よ」

「俺は暇が貰えるなら老害でいい」

「老害だって暇じゃないのよ。何かにつけて口を挟まないといけないんだから」

「暇故に、暇潰しで忙しいのか」

「そうよ。でも奏くんが今のまま老人になったって、語彙が少なすぎて暇潰しも不自由よ」

「む!それは辛そうだな」

「分かったら、さっさと問題を解く」

「だから、心構えは分かったけど、この問題は分からないんだってば」

「分かる。だからやりなさい」

「う~……」

双樹の教えるスタイルはスパルタだった。

解く前に問題の解き方を教えてくれることは無く、解いた後も教えてくれるとは限らない。

簡単に言うと問題を何度も解き直し、正解するまでヒントすらくれない形態である。そして、問題を大きく間違うと地獄の暗記が待っている。

「つまり、こういう事だね!」

数学の問題の解答と睨めっこしていた奏が、解き直した回答を自慢げに双樹に見せた。

しかし、その内容を確認する前に双樹は怒った。

「理解なんていいから、取り敢えず問題と解答を丸暗記してって言ってるじゃない」

「え~、そんなので勉強になるのか?」

「新しい事を覚えるのが、勉強でしょーが」

「でも、解答を丸暗記したってしょうがなくない?同じ問題が出る訳じゃないでしょ?」

「しょうがなくない。出題パターンなんて限られてるし、解答の書き方を身に着けるためには、その雛形をいくつも頭に入れないとダメなのよ」

「それは分かるけど、時間が無いでしょ?汎用性の高い解き方を習得した方がいいよ」

「汎用性の高い解き方を習得するために解答を暗記して貰ってるのよ」

「え~…そうなのかなあ?」

「それに3日って事は、後72時間もあるでしょ。週4回の授業を3時間として、1年を52週としても156時間なの。1年で受ける授業の約半分の時間が残ってる。ほら、時間はない訳じゃないのよ」

「寝る時間と移動時間と授業時間と双樹と風呂入る時間は計算に入ってないじゃないか!?」

「……それはまぁ…短くしなさいよ……ん?」

「まず双樹と風呂入る時間削るか」

「……ふんだ!」

「痛い!怒らないでよ…ごめんって」

双樹はいじけてしまい、暫く口を利いてくれそうになかった。

双樹とお風呂に入る時間なんて元々存在しないが、『双樹を宥める時間』というのは計算に入れるべきじゃないかな、なんて思う奏だった。

勿論、奏がちょっかいを出さなければいいのだが、双樹と一緒だとつい話してしまうし、双樹の拗ねるポイントは日々微妙に違うのでスイッチを押さないのも至難の業なのである。

どうやって会話を再開しようかな、などと暗記の邪魔でしかない思いを頭の片隅に置きつつ、それなりに勉強に没頭していく奏であった。


時刻が午後の十時を過ぎた頃。奏は自室で一人、勉強していた。

勉強する資料は奏の授業ノートに、双樹が補足説明を書き加えたモノ。綺麗な字で書かれた双樹の説明は分かり易く、いつも以上にノートの内容は頭に入ってきた。

しかし、勉強が順調なのにも関わらず、奏の気分は晴れないでいた。

「…凄いよ。双樹、うちの授業、殆ど受けてないのに」

双樹の補足説明があまりに的確だったからである。

転校して間もないのに、僅かな授業と奏のノートを読んだだけで先生の説明の癖や、どこを出しそうかまで分析して、奏のためのノートに書いてくれていた。

女の子っぽく軽くイラスト付きな所にすら、余裕を感じて嫉妬してしまう。

「……なんなんだろう、俺。双樹のためとか言いながら、双樹を悪く思って」

双樹への羨望と、双樹を妬む自分への反省。

ごちゃごちゃしたもので頭が占められて、心ががちゃがちゃと音を立てていた。

「ん?」

と、突然部屋の電気が消えて暗くなった。

停電か?それとも電気が切れたのか?

確かめるために窓の外を見ると、向かいの家の電気は……良く分からなかった。

外は晴れている筈なのにモヤモヤしていて、景色が上手く認識できなかったのだ。

「電球が原因かな?変えたばっかりなのに」

外はイジョウナシと判断して、奏は電球を変えるために腰を上げた。

ギョロリ

「うわ!?」

しかし、視線を横に向けた途端、目の前に迫る大きな瞳に出会った。驚いて尻餅を付き、学習机の椅子を倒してしまった。

大きな瞳の消えた後に居たのは、双樹と出会った時に居た女の子だった。彼女は相変わらず黙ったままで、目のない顔で奏の事を見ていた。

――ナツナキ

僅かにそんな無音が聞こえた気がした。

それはどんな意味を持つ言葉なのか?

何故女の子はこんな時間に、こんな場所に居るのか?

沸き上がった恐怖が疑問に変換される前に、部屋の電気が元に戻った。

「……なんなのさ、あの子は?」

電気が付くと、女の子の姿は既になくなっていた。奏は女の子の居た空間を見詰めたまま、立ち上がりもせず、暫く固まってしまった。

ふと自分の荒い息に気が付いて、顔に手をやった。顔には滝のような汗が噴き出ており、心臓も早鐘の様に打っていた。

さっきのは何か?

幻覚だろうか?疲れが見せた幻だろうか?

――それとも。

「妖怪……なの?」

馬鹿にしたような、恐れるような声が自分の耳に届く。

床に着いた手はぐしょりと音を立て、体の芯は氷の様に冷えてしまっていた。

「なんなのさ……」

奏はそのまま床に仰向けに倒れた。意味の分からぬ超常現象にまいってしまう。

今の出来事を幻だと断定できないのには、理由が有った。奏の嫌いな千鶴沢では、妖怪がさも居るかの様に会話がなされ、実際に存在するかの様に儀式が行われていたのだ。

いや、日常にすら妖怪は入り込んでいた、妖怪にお供え物をしてより良い明日を願い、何か悪い事が起きれば起きれば妖怪のせいとして改善を望んだ。

その窓口にされていたのが人ならざる森神、双樹の一家であったのだ。

「妖怪なんて居るもんか。キツネの子だなんてあるもんか」

奏は思いの他強く言葉を吐き捨てる自分に気付き、口を噤んだ。

目を閉じて、思考を緩める。

これは夢だと言い聞かせる訳でもなく、超常現象に大慌てするのでもなく。

ただ曖昧なまま、記憶を心に刻まずに押し流していく。

認めない。認めない。認めない。

人を誑かす妖怪も、人を助ける神様も。

認めてしまっては人生の意味が薄まってしまう。

悪い事を全て引き受けてくれる妖怪という概念も。

良い事を全て引き受けてくれる神様という観念も。

確かに便利かもしれないが、それは確実に人生を壊す猛毒だ。

だって、良い事と悪い事の二つを除いたモノだけが人の手にあると言われてしまえば、一体何を励みに生きていけばいいのだろう?

「ないのさ。嘘なのさ」

目を開けたものの、奏はこれ以上勉強する気も起きず、ただ天井を眺めていた。

いつしか微睡み、現実と夢の狭間。

気が付いたら夜が明けていて、慌てて机に向かうのだった。


家の中に不思議な女の子が出現してから、奏の心は乱れたままだった。

あの現象は何だったのか?

あの女の子は誰だったのか?

どうして自分の前に姿を現したのか?

もやもやしたまま光陰は過ぎ去り、奏は仮初めの本番を迎えた。

つまり今日は、夏休み前テストの日である。

「あ~!緊張する」

さっきから京成が落ち着きなく、教室内をうろうろしているのが目に入る。

奏は、あれほど素直に動揺を外に出せたら楽だろうなと思う反面、許可されたところで自分ではああは出来ないだろうなと何とも言えない気分になっていた。

高鳴る鼓動、乾く口、眠いのか冴えているのか分からない頭がもどかしい。奏は、動き回る京成とは逆に、内側に溜まっていく緊張と不安、浮遊感にも似た重さに体を縛られ、ノートすら机に出せずに時間を過ごしていた。

七月の終わり、朝の日差しが香る教室。騒がしいさざめきはいつも通りに聞こえるが、やはりそこに含まれる機微は甘い緊張が支配していた。

「どうしよう、奏!テストが始まる前に、単語が全部抜ける」

夏休み前テストは午前中にテストがあり、昼休みを挟んで午後に返却と解説がある。

真面目な生徒は長期休暇前の節目のテストとして、不真面目な生徒は夏休みが補習で潰れる事の無いようにと気合いを入れていた。

「うるさいよ、京成。席に戻りなよ」

「そう言わずに話そうぜ!緊張も解れるってもんだ」

「話していい結果になるなら、入試の会場なんて滅茶苦茶うるさくなるでしょ。そうなってないんだから、試験前に話すのは良くないんだよ」

「ちぇ~!連れないの」

そんな中、京成は誰彼構わず話し掛け、その度に追い払われていた。

最後にと頼った奏にもあしらわれ、渋々席に戻っていった。

「~~♪」

「余裕だね、双樹」

京成の相手をする余裕すらない奏を傍目に、奏のお師匠さんは余裕綽々だった。

試験なんて慣れたモノという空気感で、鼻歌を歌いながらノートを眺めていた。

「ええ。余裕ですもの」

「……」

「何?」

ただ、かっこいいなと思っただけで、何?と聞かれれば答えようがなかった。

「……別に。お互い頑張ろう」

「本当、奏くんは駄目なままね」

「……うるさいよ」

「『It`s a fine day』貴方に贈るわ。頑張って」

奏の子供っぽい反応に双樹は嫌味で返した。そして、話はお終いとばかりに鼻歌を再開する。

双樹が歌っているのは遠い昔に聞いた何かのCMソングで、好きじゃなかった子供時代に繋がる思い出だ。双樹が泣くのを我慢する時に歌っていた歌だと記憶している。

「お姫様はいい気なもんだよ。こっちは勝手に百面相してるっていうのに」

『どの教科でも良いから双樹に勝つ』

それがもやもやした三日間で出した、奏の秘かなる野望だった。

双樹の介添えのついたノートで勉強し、分からない箇所は双樹に教えてもらい、そもそも双樹の受ける高校を受けるという主体性のなさっぷり。

そんな奏が、双樹と肩を並べたいという言い訳で出した、免罪符の形がそれだった。

「『死ぬには良い日だ』ね。良いね、皮肉が効いてる」

何とも拗れたまま奏は緊張を結び、ここに覚悟とした。

そして、今日1日の始まりを告げるチャイムが学校中に鳴り響く。

それが奏の短いけれども大切な、人生を決めるための一日の始まりだった。


……そして終わりだった。

古来、最も人を殺し、大衆を滅ぼして来たのは何だっただろうか。

畜生だろうか?

戦争だろうか?

病気だろうか?

寿命だろうか?

否、どれも強力な殺人鬼だが、第一殺人者には当てはまらない。

どんな優秀なキリングより、最も親和的なマーダーは『約束』なのである。

古来より数えれば動物の被害は数限りないだろう。

厄災は確かに多くの人を殺しているに違いない。

生命の限りは確実なる死を齎し、一人一殺の恐怖を与える。

しかし、約束は結ばれ、守れなかったその度に人間を殺す。

人は一生の内で何度も何度も約束を破り破られ、殺し殺されているのである。

その点で約束が最も凶悪であり、生命の輝きを緩慢にさせる恐ろしき刃といえた。

約束とは人の世に於いて最も不明瞭で、しかし欠かす事の出来ない信頼の形だ。

憲法や法律を持ち出すまでもなく、細かな約束が折り重なって人の世を作り出している。

時に力と成り、

憂慮と成り、

配慮と成り、

慈悲と成り、

暴力と成り、

鎖と成り、

鎌と成る。

積み重ねてきた人類の形。

オーソドックスな運命の相。

奏も人類の歴史に違えず道半ばで足折れて。

約束に殺され、気の抜けた顔で自分の死体を眺めていた。

「ああ……」

テストの返却も解説もとっくに済み、既に二人しか残っていない夕刻の教室。奏は動く気力を失い、自分の席で長い事突っ伏していた。

つまりは『夏休み前テストで結果を出す』という約束が、手元の紙では果たせそうにない状態なのである。

「……どうしよう……」

テストの最中から然したる手応えを感じられなかった奏が、返却されたテスト結果を確認するのにはかなり時間が掛った。

そして、落胆の声を出すのには、もっと多くの時間が空費された。

その呟きは絞り出したように悲痛で、誰に向けた物でもなかった。

基本的に、奏は主体性の少ない人間だ。村では双樹が表に立ち過ぎて、自分はその助けをする人間だと心の何処かで理解していたし、千沢町に移った後も同じ空の下に居るであろう双樹に負けまいとする気持ちだけが強かった。

勉強を頑張っていたのも双樹がそうしているであろうと思ったからだし、その他に何か決める時も双樹ならどうするか?という意識が有った。

だから、曲がりなりにも自分で意思決定をしたのは、この約束が初めてだった。

当然、約束の結果が芳しくなかったのも、同じく初めての事である。

落ち込んだり、自責したりするより前に、戸惑いが大きく心を占め、反省をするにももう少しの時間が必要だった。

だから、結果を聞いてあげるのが酷というもだろう。

「で?どうだったの?」

けれども、双樹は容赦がない。

やっと動き出した奏の息の根を、即座に止めに掛かる。

「そんなに聞く気のない声なんだから、言わなくても分かっているよね?」

「分かっていても聞いてあげるのが、優しさでしょう」

「沈黙が金だよ?双樹が優しいなんて初めて知ったけど、聞かない優しさも覚えよう」

「難しい言葉を知ってるのね。でも、上方では銀の方が使い勝手が良かったのよ。それに『姉さん女房は鉄下駄を履いてでも探せ』って言うでしょ。小さい男には口うるさいのが一番よ」

「小さくてすいませんね~…はぁ……」

「そんなに悪かったの?」

「思う通りには行かなかった」

「そう……」

双樹は難しい顔で何かを飲み込む。

「でも、テスト一つにそれだけ落ち込めるのなら、勉強した成果はあるんじゃない?」

「……なるほど」

双樹の言葉は、ぽっかり空いた穴に自然に入り込んで来た。

すると、ふと戸惑いが溶けて、目の前に現実が落ち込んできた。

(そうか…俺は、結果云々に落ち込んでいるんじゃなくて、思う通りに出来なかったのが悔しかったのか)

「双樹は…銀だなぁ……」

「何よ、それ?」

双樹の指摘で状況が体に馴染んできた。

テストが出来なくて悔しい。約束を果たせなくて心を苛まれる。今まで感じた事のないそんな気持ちになる理由は考えるまでもなく一つだろう。

自分はなんと、真剣になっているらしいのだ。

今まで自分に散々言い訳をして本気を出せなかったというのに、失敗して初めて気付いたこの気持ち。感情の誤帰属かも知れなかったが、これを忘れなければ未来に向けて悔しがることだってできるだろうと、誇らしい気持ちもした。

しかし、心が僅かばかり軽くなっただけで、現実は変わらない。

「でも…結果出ちゃった事だし……手遅れか……」

自分で決めて自分で歩いたのに、無様にこけた事が情けなかった。

後悔は沢山ある。

ゴミの様な自尊心のせいで双樹の補足説明を隅々まで読めていなかった事。

僅かばかりのめんどくささで、理解が中途半端なまま次々と範囲を進んでしまった事。

テストに備えるなんて名目で早めに寝てしまった事。

あの女の子に会った日に一晩を無駄にしてしまった事。

その他にも数え上げれば切りがない。

その全てが克明に覆い出され、そんな事を覚えている暇があったらスペルの一つでも覚えておけよと自己嫌悪に陥った。

「間違い直しをしなさい。テストは、直しをして初めて次に繋がるんだから」

「次……ねぇ」

そんな物があったらいいなと、奏は破滅的な気分で手元の答案用紙を眺めた。

英語74、数学86、国語80。

因みに期末は英語82、数学84、国語76である。

夏休み前テストは期末より難しく作られているので、平均点を加味すれば前より良くなっているのだが、点数だけを見ると印象が良くない。

それ以上に本当ならもっといい点がだった筈だと言う算用が、奏の気持ちを沈めていた。

「だってさ……もうちょっと取れると思ったんだよ」

奏はパラパラと問題と間違いを照らし合わせながら、小さく呟く。

「何だよ…小さなミスばかり…スペルミスとかさ……」

「それは奏くんのせいね」

「この問題は、もうちょっと読んでたら解けたかなぁ」

「その問題は奏くんには無理よ」

「なんでさ?」

「解けない問題だから」

「なんだよ、それ」

「学校のテストなんて、想定した平均を取らすための物だもの。習った範囲では絶対に解けない問題だってあるし、そもそも文脈判断出来ない穴抜き問題だって有るのよ。ちゃんと作られてない物は、ちゃんとは解けないの。問題製作者の癖を見抜かないと」

「でも、双樹は解けてるだろ?」

「これは、私の実力です」

双樹はワザとらしく胸を張った。その仕草にいつもの奏ならつっかかる所だったが、今ばかりは純粋にカッコいいと思ってしまう。

「くそ、やったのに…いや、出来た筈なのに!もうちょっと、頑張ってればさ!」

奏の声は、段々と大きな物になっていった。

親に夏期講習に通わせて貰えないであろう事よりも、

これでは双樹に追い付くことなどできない事よりも、

結果を出すと決めたのに結果を出せない自分が情けなかった。

何故血を吐くまで頑張れなかったのかと、頑張っていれば歩めた道に申し訳なく思った。

「なんなら、私の答案の名前を書き替えて、奏くんのにする?」

「さらっと凄い事言うね!?」

奏は双樹の下手な慰めだと思ったが、顔を上げた先で出合った目は真剣だった。

「私は本気だよ?」

「……双樹。無理だよ。バレるよ」

「バレない方法を考えましょうよ」

「双樹……」

その強いのか泣きそうなのか分からない目で見詰められて。

透明なのに大いに曇る不思議な目に自分を映して。

奏は、大切な事を忘れていた事を思い出した。

(馬鹿か俺は。同じ高校に行くっていうのは、双樹を泣かさない為に選んだ道だろ?なのに、双樹にこんなに心配されてどうするのさ?)

独りで歩いている訳ではなく、双樹に寄り添うと決めたこの道程。

ヒロイックに泣いている場合じゃないし、思考を止めて良い時じゃない。

「……俺、駄目なのかな?」

「駄目じゃないわ。不真面目なのよ」

双樹は、いつの間にかパクッていた奏の答案を総評する。

「不真面目って…あのね~、一応真面目に勉強して、真面目に解いたんだよ?まぁ、自分でも言ってて情けないけど、不真面目という事はないと思う」

そうだ。ちゃんと勉強した。後悔や遣り残しはあるけど、それも含めて出来る限りの事をした筈なのだ。

それで点数が伸びないのだから、それこそ才能の違いなのではないか?

若しくは、スタートが遅い自分は、既に他の受験生達に絶対に追い付けない差を付けられているのではないだろうか?

そんな風に思った。

「自分がこの世で一番馬鹿、みたいな顔してるわね。一番舐めるんじゃないわよ」

「う……そこまでは思ってないよ」

「じゃあ、何処まで?」

「何処までって……平均レベルじゃないか?」

「じゃあ、平均馬鹿って事ね」

「変な言い方しないでよ。俺が平均馬鹿みたいだろ」

「平均馬鹿ってなによ?」

「知らぬ、存ぜぬ。双樹が言ったんだよ」

「馬鹿ね、奏くんは」

「のやろ!縦横無尽に人を貶めてさ」

「大体三日勉強した位で、どうにかなると思う方がおかしいのよ」

「それは…まぁ…」

「受験戦争って言葉は聞いたことあるわよね?あれは本当だから」

「本当って?」

「皆一人で戦って、死に物狂いで上を目指してる。他人を蹴落とそうだなんて思っていないけど、その道にはこれが戦いだと気付かなかった者の死体が転がってるわ。そんな道を、皆一人で歩いているの」

「お…おう?双樹?」

「そう……一人で」

双樹は言って、奏の服の裾を掴んだ。

「覚えておいて、上を見たらいっぱい居るわ。それで自信を無くすのは愚かよ。下には上が居るの。でも下を見たらもっといっぱい居る。勿論それで安心したら、破滅するけど」

「どこを見ろっていうのさ?」

「上も下も見ないで」

双樹は良く分からない瞳を見せ、自分自身を指さした。

「……ね?奏くんは、私だけ見てたらいいのよ」

本気なのか冗談なのか良く分からない。

その声は平坦で、双樹の心の置き場所が分からなかった。

「………見直しをして現状把握をしろって事?」

「斜め上の結論ね。ビックリだわ」

「……間違い直しをしろって、言ったじゃないか?」

なんだか双樹は怒っているようで、しかし燃え上がる程の気力もないご様子。

奏に憐みの視線さえ向け始め、非常に失礼であると感じた。

「まぁいいわ。このテストを見て」

「見るのか!間違い直ししろってことで、合ってるんじゃないか!」

「勝手に見るんじゃなくて、私が見てって言ったら見なさいよ」

「……お、おう。見ました」

双樹の理不尽さに奏はイラッとしたが、双樹はいつも以上に分かりやすい不機嫌顔。

その原因は恐らく自分なので、刺激せずに従う事を選んだ。

「この問題を見て」

「これ?シャンプーの匂いのする問題だね」

「それは私の髪から!」

「……いや、恥ずかしいから、そういう発言止めてくれない?」

「う~!どっちがよ……」

「いや、双樹が頭近付けてきたんじゃんか」

「う~……!!」

双樹はぶつぶつ文句を言いながら、無かった事にして先を続けた。

「この英作。『何か食べる物があればそれを恵んで欲しいです』。解けない?」

「いや、解けと言われても『恵んで』、とか分からなかったんだよ」

「じゃあ、この英訳問題。『You, give me a something to eat.』。これは?解けてるけど」

「『食い物くれ』でしょ?そりゃ流石に分かるよ」

「ん。なら『食い物くれ』を英作すると?ついでに丁寧に」

「そりゃ同じでしょ。『You~~』って、そうか」

奏は納得半分、悔しさ半分の顔で双樹を見る。

要するに、この英作と英訳は同じ問題なのだ。

こうして冷静に考えれば分かったが、テスト中には気付けなかった。

「確かに不真面目と言われても、仕方がないか……」

「そうよ。奏くんは勉強を頑張ってはいたけど、問題の解き方とか、勉強方法の研鑽はしてこなかった。野球で言ったら、素振りはするけど、正しい振り方や目安の回数なんて学ぶつもりもないという事よ。不真面目以外の何物でもない」

「その通りです」

「技術を磨いて、本筋を知らない人なんて、本当に役に立たないんだから」

「そ、そこまで言う?技術とかも大事でしょ?」

「言う。奏くんは世界で一番注射の打ち方がうまいけど、病気の事なんて分からないお医者さんと、何もかもが平均程度のお医者さん、どっちに見て貰いたい?」

「平均の医者。というか、注射さんには見て欲しくないかな」

「でしょ!なら、問題の解き方だのだけじゃなくて、それも含めた英語とは何か、数学とは何かを考えて勉強しないと。その上で、その習得に至る道筋を本気で考えるの。そうじゃないと、まともに勉強なんてできないわよ」

「そうかな……」

「そうなの!奏くんが行くのは、生半可な高校じゃないでしょ?じゃあ、生半可なことしてたらダメなのよ」

「イエス、サー」

「本来なら、楽に勉強する方法は、自分で見つけて欲しいんだけどね。とにかく受験勉強なんてトライ&エラーよ。在り来たりな言い方だけど、暗記に因る理解と統合よ」

「暗記好きだね、双樹」

「IQ300って言われたノイマンは、子供の頃遊びで電話帳の内容を全部暗記したそうよ。で、6歳で7桁の掛け算を行い、8歳で微積をマスターした。44巻の歴史書『世界史』やゲーテの詩なんかを一字一句間違わずに暗唱できたのも子供の頃らしいわ」

「まず暗記在りき?」

「暗記で頭を鍛えたのよ。彼がコンピューター以上に思考が早かったり、暗算が得意だったのは、自分の思考すら覚えてたからだと思うの。つまり、紙に書かなくても完璧な思考整理が出来た。それは、まずいろんなことを覚えて、ツールを増やしたり、脳味噌のキャンパスを広げないと話に成らない証明だと思うの」

「いえすまいろーど」

奏は自身の片手落ちを突き付けられ、すっかり落ち込んでしまった。

いや、天才の話は特に参考にはならなかったけれど、自分がそれだけ頭が良かったら、双樹に格好を付けられただろうにな、程度には影響を受けた。

後、天才と自分の頭の出来の違いを考えるのではなく、天才に『鍛えた』なんて表現を使えてしまう双樹が怖くもあったが。

「……」

しかし、今回の不振が、才能とか実力とか以前の問題だと言われたのは救われた気もした。この不出来が不勉強に起因するなら、改善も可能だろうからだ。

勿論、母親との約束を守れなかったのだから、今その道は閉ざされてしまっているのだが。

だが、双樹となら、閉ざされた道を抉じ開けられるのではないかと思ったのだ。

「実はさ、双樹こういうのを頼「オーケーよ。任せなさい」

「へ?」

「だからオーケーだって」

頼み事をする前に、双樹は首を縦に振っていた。

即座過ぎる反応に奏は目を白黒させたが、双樹は元々そのつもりだったらしい。

「『俺の親を説得してくれ』ってのならお断りだけど、今の顔は割と恰好良かったからいいわ」

「お……おう?」

「むしろ、おばさんもそのつもりなのよ」

「どのつもり?」

「奏くんがたった三日で成績が上げれるとは思ってないのよ。だから、その後どれだけ足掻けるか見てるんでしょ」

「マジかよ!」

「いや、普通にマジでしょ…」

双樹の『え?本当に成績上がると思ってたの?』という顔に、奏は割かしショックを受けた。

「べ、別に思ってなんか、な、ないぜ!」

「ふ~ん……」

「止めて!そんな目で見ないでよ!」

奏は大げさに顔を隠した。

それを見て、双樹の顔が僅かばかり優しくなった気がした。

「奏くんは頑張った。だから、後は私が頑張るね」

双樹は任せろ、と胸を叩いた。

「『塾は行かさない』っていう分かり易い挑発をされてる訳だから、『受験だけはさせてくれる』って落とし所目指して頑張ってみるわ」

「…あれだね。双樹、あっさり黒い事言うね」

「これは女の戦いだから、手段は選べないのよ」

「女って怖いね……」

頼りになるけども、という言葉を奏は呑み込んだ。


奏の母、祇蔵かなはどこか人を惹き付ける魅力が有り、昔は村の若い者のリーダー的な存在だったらしい。しかし、理由は明確ではないが他者を圧倒する重圧を持っており、奏と双樹は、かなを評して魂が恐ろしい形をしているなんて話していた。

そんな彼女は、千鶴沢ではかなり問題視されていたらしい。

地位を無視して意見をする。入ってはいけない場所に入る。千鶴沢の因習に育ちつつも、伝統に生きる気は余りない。

曰く、奏の父親と結婚して祇蔵の苗字を冠さなければ、村八分になっていたとの事だ。

今もお転婆の一端は変わらず。奏の講習会行きをあっさりOKした代わりに、結果如何で即切ると約束をした程である。ある種一番現実的で、同時に残酷な性格をしていた。

「……」

「……」

その人を前に、奏と双樹は長い事正座したまま、無言で時を過ごしていた。

「どうしたの?食べなよ」

と言っても、かなに正座しろと言われた訳ではないし、黙っていろと強制された訳でもない。

現在時刻は六時半。奏が双樹を伴って帰宅すると、かなは待ってましたと双樹を歓迎した。

双樹の来訪を伝えていないのに双樹の分の食事が用意されており、二人はそれだけで先制攻撃をされた気分になってしまったのだ。

「まさか仙人になって、ご飯見るだけで栄養取れる様になった訳じゃないよね?」

動かない二人を見て、かなはからからと笑った。

竹を割った様な気持ちの良い笑い声だが、この時ばかりは二人の居心地を悪くする悪音にしか聞こえなかった。

(あ~……やばい、こええよ。かあさん)

奏も双樹とどうかなを説得するか話し合い、準備はしてきた。

そんな話し合いの中で、二人が一番有用な案だと結論付けたのが『奇襲』だった。かなが口を開く前に捲し立て、一気に流れを掴んでしまおうなんて物であった。

甘かったと後悔した。

双樹の来訪を予想するだけでなく、ご飯の準備をしておくことで物的な証左を見せる。それによって奏と双樹は『自分達の考えは読まれている』と感じてしまい、迂闊に口を開けなくされてしまった。

そして、口を開かない事で逆に自分達で自分達を追い詰め、自分達が取ろうとしている全ての手に対して対抗策が講じられている気になってしまっていた。

奏に至っては、かながこのままテストの事を言い出さないでくれないかな~、なんて期待まで抱いてしまっている無様である。

「お…おいしそうだね。食べよう、双樹」

「う、うん……頂きます」

「味わって食べなさいよ」

「おう。おいしいよ」

「で?テストは?」

「ぐふっ!?」

ご飯を嚥下するタイミングで本題を切り出され、奏はせき込んでしまった。

咽る奏の様子には気に留めず、かなは、ほれ、と手を差し出した。

「けは…こふ…」

「奏くん、汚らわしいよ…」

「いや、双樹。その言い方止めて?」

「止めて、そんな目で私を見ないで」

「普通の目だから!」

「仲が良いのは分かったから、テスト」

「……今出すから、ちょっと待ってて」

奏は落とした箸を拾ってから、席を立った。

「ほら、早くしなよ。奏」

「待ってよ、かあさん。ジッパーが噛んじゃって……あれ?」

「どんくさいねえ」

「黙っててよ、直ぐ開けるから」

双樹の不安そうな目と、かなの見透かした視線が背中に刺さり、手が震えてしまう。

やっとのことでテストを取り出すが、既に掌に汗を掻いてしまっていた。

「…くそ、気が小さいな」

奏は自分に八つ当たりをしてから、かなにテストを渡した。

「……はい。あんまり悪くない筈だよ」

「それは私が決めるよ。ん~……」

奏からテストを受け取ると、かなはパラパラと内容を確認していく。その時間がやたら長く感じて、奏は座る事を忘れて審判の時を待っていた。

ここでかながあっさりOKを出してくれれば全ては杞憂に終わってくれるな、なんて現実感のない考えが奏の頭の中を浮遊していた。

「悪くはないけど、あまり変わらないね」

「悪くないなら、いいでしょ?かあさん」

「変わらないって所に、言葉の重点を置いたつもりだけどね。態々塾に行って、勉強する意味あるのかい?」

「ある……と、思うんだけど」

「私はないと思うわね」

「むしろ、勉強できないから、塾に通うんでしょ?」

「塾は勉強する機会を得るために行くんだよ。出来ない奴が行ったってしょうがない」

「そうかな?」

「そうじゃないと、入塾テストなんて行われないでしょ?」

「それは……」

「それは?」

なんというかさ…と、奏は口籠ってしまう。

正直な所、今回の奏の成績は、悪いものではなかった。平均を照らせば十分な点であったし、発表はないがクラスの中でも成績は二位か三位の筈である。

しかし、奏自身が『思っていたよりできなかった』という後悔を持っている事が、奏の言葉を濁らせてしまっていた。

そんな奏の様子を見て、双樹は自分が頑張らねばと声を上げる。

「おばさん!」

「おばさんじゃなくて、かなさんって呼んでね♪」

「ひゃい!?ごめんなさい」

だが、双樹もかなの猫撫で声で出鼻を挫かれる。

双樹はこの遣り取りでかなが苦手だった事を細胞レベルで思い出してしまい、僅かに腰が引けてしまった。

「あの、聞いて下さい」

「なあに?」

「かなさん。奏くんの学力は上がっていると思います」

「学力ね。曖昧だね」

「かなさんは奏くんの学力が上がらなかったら、奏くんを講習に行かさないと言っていた様ですが、奏くんの学力は上がっています。点としては分かり辛いですが、内容を見ていただければ分かる筈です」

「寂しいね。折角双樹ちゃんが来てくれて、楽しく食卓を囲めると思ったら、そんなしょうもない話をしにきたのかね」

かなは全然寂しくなさそうに言って、双樹にテスト用紙を突き付けた。

「言っておくけど、双樹ちゃん。説明が必要だったり、詳細を確認しないといけない様な物は『出来た』とは言えないよ」

「詳細の確認はして下さい。じゃないと話になりません」

「あら?双樹ちゃんは、かなさんが確認もせずに話してると思ってるの?」

「それは…してるでしょうけど…」

「内容は把握したし、過程も評価した。それでの判断よ。今回、初めて奏が自分で何かをやりたいっていうのを聞いたね。情けないなりに、何かを決めたんでしょ。こっちとしては、奏が生まれて初めて『本気を出す』っていう事を聞いたのよ。やっと奏がどんな子なのかの判別をできる事になった。本物なのか、そうじゃないのかね」

「だから、私は本物だと判断しました」

「双樹ちゃんは奏を本物だと判断した。私はそうじゃないと判断した。そういう事ね?」

「そうなんでしょうね」

「でもね、私と双樹ちゃんの奏への評価は一緒なの」

「一緒?」

「評価点は同じ、それに対して貼り付けるラベルが違ったってだけよ」

「その根拠は何ですか?」

「双樹ちゃんは、奏の成績の結果の補足を私にしようとしたでしょ?私は説明不要なそれだけを本物だと思ってる。つまりどちらも奏の成績は『説明が必要』と判断したの」

「言いたい事は分かります。でも、世間に対峙して生きていくなら、大事なのはラベルです。それも世間一般の評価に即したラベルが大事です。かなさんの言う『本物』である事が大事かは疑問が有りますが、とにかくかなさんの評価は厳し過ぎます」

「というのは?」

「世間一般に見ても、奏くんは十分な点を取ったと思います。学年の中でもトップに近い成績だった事がその証明です」

「このテストは成績発表がされない筈だけど、奏の位置が分かるの?」

「学年の人達に点数や上位者を聞いて回りました。沢山の人の話だったので、正確性は高い筈です。メモもありますよ」

「メモはいいよ。成程、一般的にときたね。でも、双樹ちゃんが奏を評価するなら、やっぱり甘い結論になってると思うのよ」

「何でですか?」

「だって、奏が進もうとしてる道は険しいからね。及第点に成れる人なんて、そうそう居ない。だから、及第点に迫りそうな人が居たら、ついOK出しちゃうわよね」

「なぜですか?たかが受験です。いえ、私の受ける高校は難しい所ですが、それ程構える道じゃない筈です。全国にどれだけ目指す人がいると思っていますか?その一人になるくらい構わないじゃないですか」

「いいや、違うわ。そんな甘い道じゃないの。その道を進むのは精々5人って所ね」

「はい?」

「奏の進もうとしてる道は『受験戦争』じゃない。『双樹ちゃんの歩く道』だよ。ね?地獄よりも辛いでしょ?」

「な!」

「そこを一緒に歩いて欲しいから、双樹ちゃんの評価は甘くなる。双樹ちゃんも奏を見て思ったわよね。『ソウクン、ニンゲンノワリニガンバッテルネ』って」

「な……」

――グラリト

双樹の腹で何かが煮えたぎった。

何か反論しようとして口を開いたが、言葉が出てこない。

自らの内に沸いた感情が、怒りなのか、悲しみなのか、それとも虚無感だったのか。

それすら判別できないまま、双樹は体が傾くのを感じた。

双樹が前後不覚に陥っている間に、かなは双樹を追い詰める。

「もしこれがさ、全部満点だったら誰が文句を言う?答案が全部合ってたら、双樹ちゃんは私に何か説明しようと思った?」

「思わないです…けど……」

全て満点を求めるなんて滅茶苦茶だ。

なんて抗議しようとして、双樹ははっとした。

「あ…う…」

「双樹ちゃんが此処に来た時点で、『そういう事』でしょ?」

双樹の鞄にはその『ほぼ満点ばかり』の答案が入っているのだ。

それを指摘されれば、このテストは満点を取ることが可能だと持っていかれる。そうであれば、双樹はこの点数は『自分の長年の努力の結果だ』と言わされる。

『なら短い時間で長年の努力に追い付かなきゃいけない奏こそ、一回一回のテストで細かく結果を出し続けなければならない』。

そう言われてしまえば、上手く返せる自信がなかった。

それに厭味ったらしく奏と双樹が違うという事を認めさせられるだろう。

「……でも」

言葉を間違えて耐え切れない事態になるのは嫌だ。

でも、黙っていても結果は同じだ。

ならば何処でもいいから切り裂けと、双樹は滅茶苦茶に歯を立てる。

「でも、かなさんの言い方は乱暴だと思います」

「へえ?」

「『本物』?ですか。そういうのは大事だと思います。けど、学生時分に、それ程完成された本物が必要だとは思えません」

「未完成のまま突き進む…ね。私はあまり好きじゃないね」

「『本物』になる過程が在るじゃないですか。奏くんはゆっくり進んでいますが、きっと本物になれます。今は伸び悩んで見えても、いずれ結果は出ます」

「双樹ちゃん。いつか、じゃないの。私はこのテストで結果を出せって言ったのよ」

「時間が無さ過ぎます。元々奏くんは勉強をするタイプですから、プラスアルファの部分をいきなり多くするのは難しいです」

「それでも私はこれで結果を出せって言って、奏は了解したんだよ」

「言葉の綾って言ったら変ですけど、一種のコミュニケーションで、挨拶みたいなものじゃないですか。その約束は」

「努力目標って言いたい訳ね。でも、何度繰り返したって結果は一緒。一回目で結果が出せなかった奴は、その後結果が出たって全てが遅過ぎるの。全てが後手に回ったら、短い人生を浪費に回してしまう。そんな人生の中でも青春時代なんてもっと短い。大切な時期を、無駄に過ごさせるのは母親として胸が詰まるのよ」

「そんな経験則で、奏くんの人生を決めないで下さい」

「学界で認められる論文書けとか、芥川賞貰えって言ったんじゃないの。たかが学校のテストで結果を出せって言ったのよ。それ位出来るでしょ」

かなは簡単に言うけれど、それが出来れば全員が一番だ。出来ないからこそ競争がある。

いや、全員が出来ることは置き去りにされ、全員が出来ない世界が作られ続ける。それを意味して繁栄という言葉があり、それを生命の主目的とするならば、人間が人間たる所以は争いに求められる。

つまり、かなの言う速さで生き、他の全てが目に入らない位前に居る者など、それこそ世界に五人と居るかどうかだろう。

「……何度繰り返したって?未来が分かる様な言い様ですね」

「分かるよ。双樹ちゃんにはまだ難しいかもしれないけど、奏の底が知れるってことくらい、簡単に分かる」

「奏くんのことを、勝手に言わないで下さい」

「今の積み重ねが未来になるの。未来見るには、今を見ればいい。良いかい?双樹ちゃん。人には結果を出せる人と、そうじゃない人が居る。双樹ちゃんは結果を出せる人。けど、他人を自分と一緒にしちゃいけないよ」

「ずるい言い方は、止めてください!」

「予言者めいた言い方が嫌なら、統計的な言い方にしようか?奏は今結果を出せなかった。だから、次も結果は出ない。これで良い?」

「良い訳ないです。私は頑張っている奏くんを見ていました。それで大丈夫だって思ったから、今此処に居るんです」

「頑張っているのなんて、双樹ちゃんも他の人も一緒でしょ?だから、駄目♪」

「駄目♪って、そんな!一回で結論を出す人が居ますか?早計です!」

「……そうは言うけどね、双樹ちゃん」

双樹の言葉を引き出した途端、かなはぬたりとした表情になった。

その気持ちの悪い人間の様を見て、双樹は自分が何をやらかしたのか理解した。

「私は奏を十六年見てきたんだ。生まれた時から、ずっと。十年見ていない双樹ちゃんよりは、奏の事を知っている筈だけどね」

「っ!!」

だから、突き付けられるは残酷。言われてしまえばお終いだと分かっていたのに、間誤付いている間に鋭い爪に引っ掛けられてしまった。

ズキリと、双樹の右腕に痛みが走った。

思わず古傷を抱き、肩を縮こまらせる。

唇が震える。目頭が熱くなる。喉が痛くて舌が焼けそう。

間違えた、失敗した、喰われた、見透かされた。

怯えた瞳で双樹はかなを見た。迎えるかなの目はどこか無機質で、しかし双樹にはその奥に蟲でも蠢いている様に見えた。

それは双樹の逃避の形。相手の中にそれを見て、双樹は自分が負けたらしい事を知った。

奏を助けられなかった悔しさ……いや、自らの望む道を、自分の欲する形で歩めない事実が灼熱となって喉を焼く。頭の中に思い描く事すらしたくなかった、ただ一人で未来を歩む光景が絶望として胸を焦がしていく。

友もおらず、親もおらず、恋人もおらず、そこに奏も居ないと言う。

耐えられない。耐えられない。耐えたくない。

「それは…私は十年奏くんに会っていません!でも!私は奏くんの一番最近の頑張りを見ていました!一番近くで見ていました!奏くんは十年前と一緒で……何も変わってなくて、頼りないけど…馬鹿だけど!でも、優しくて強い男の子だった!」

「一週間寄り添っただけで、男の全部を知ったつもりかい?甘っちょろいよ!まぁ、可愛い小娘が目にするのは、きっと優しい男ばっかりだろうから、勘違いしても仕方ないね」

「そん…そんな事……」

ただ溢れ出るだけの荒熱は、冷水の一つで消失する。

双樹は言葉を失い、膝の上で握った拳を見詰めた。

(でも…でも…でも……奏くんは頑張ってた。奏くんは一生懸命だった)

傍に居たのは三日だけ、寄り添ったのはたった三日。

だけど、その三日で双樹は分かってしまった。

奏は頼り無くて自主性のない人間である。人生の大切な岐路である中学三年の受験期に、双樹が来るまで進路を決めず、決めたからと言って別の道を失う覚悟した訳でもない。

ただ人と同じ道に、ふらふらと足を踏み出しただけである。

それでも奏は、曖昧な道標でも歩んでいける人間だ。双樹の様に目的をはっきりと見定め、そこに向けて歯を食い縛らねば進めぬ人間ではない。

だから、奏は塾に行かなくたって頑張っていける。一人で受験だって乗り越えられる。双樹と同じ高校と言えなくとも、皆が祝ってくれるような名の知れた所に合格し、そこで充実して過ごしていけるのだろう。

奏が居なければ佇まいも崩せない自分と違い、彼は社会で生きていけるのだ。

だから、今無理をして最難関受験なんて戦争に首を突っ込む必要はない。いや、首を突っ込んで夢破れたとしても、得るモノを得て好きな道に行ける奴だ。

自分にはこの道しかないと他の全てを視界から消し、破滅を内に抱える必要は全くない。

双樹の様に色んなものを犠牲にして、戦い抜くと決める必要なんてないのだ。

「でも…でも…」

双樹は必死に次の言葉を探す。しかし、腹に堕ちた数多の感情は全てが曖昧で、どんな形をさせればいいのかも分からなかった。

そもそも自分は奏を辛い道に引き入れたいのだろうか?

引き入れたいに決まっている。いや、

引き入れたくないのかも分から無くなって。

もう双樹は駄々をこねるしかなくて、でもそれは嫌で。

ただ涙を流すまいと、歯を噛み締める事しか出来なかった。

「話は終わりだね。さ、双樹ちゃん。楽しくご飯でも食べようか」

「え?」

かなの声が思いの外優しくなっている事に驚き、双樹は顔を上げた。

それはつまり、双樹が脅威でなくなった事を意味するのではないか?

それはつまり、双樹が一人で進んで行く事が決定したのではないだろうか?

それはつまり、何を意味するのだろうか?

「ま、待って!待って下さい!!」

嫌だ…もう独りは嫌だ!

「待って……けほっ……っ……」

双樹は慌てて声を上げたが、嗚咽が邪魔をして言葉は生まれない。

言語を生み出そうにも、既に嘆きが喉を独占しており、何を吐き出す事も出来なかった。

(かなさんは意地悪だ……酷い!酷い、酷い…!)

駄目だと分かっていても、不毛な思考ばかりが双樹の頭を駆け巡る。

こうなったら終わり。

思考は廻らず、思索は巡らず、声も操れない。

考論は同じ所を廻る堂々巡者。

推論は闇へ、淵へと誘う亡者の死腕。

かなを解き伏せる筈だった剣は切っ先を見失い。

無間に双樹を傷付ける彷徨える破片となる。

建設的な思考は成されず、論理的な視野は曇り消え去る。

絶えず自壊する砂の様に無意味な守護の城。

自己肯定を失い、殻をなくした海老の様に無駄に苦しむ。

悉くは崩れ、あらゆる過程が意味を成せず、遍く全てが無為に死んでいく。

(皆も酷いよ。いきなり転校させられて、全部変わっちゃって……でも、奏くんは優しくて……やっと帰って来れたと思ったのに!なのに……)

言葉は輪郭を失い、成熟は逆巻に戻り、幼き熱で気持ちが溶解していく。

研鑽は無残と散り、礼賛は無辜となり、常世が無意味に解けていく。

自身を殺傷し、他者を負傷させ、緩やかな自殺を負わせる。

自身の価値など忘れ、世間の評価など捨て去り、ただ幼子の様に涙に耐える。

「うく……ぅ……」

(誰か……誰か助けてよ!)

双樹は嗚咽を漏らし、十把一絡げの神に祈る。

けれど、いつだって、『誰か』が助けてくれる事なんてない。

見知らぬ王子様が、突然目の前に現れて危機を救ってくれる。そんなお伽噺が子供向けの慰みですらなく、子ども騙しの詐欺でしかない事は双樹だって知っている。

だから……そう。

いつだって自分を助けるのは、自分でなければならない。

そうでなくては、人生は無為になってしまうのだから。

「母さん、双樹も。俺喋っていいかな?」

「……奏くん?」

だから、当事者不在の解決をかなが許す訳もなかった。

奏が突っ立っているだけで双樹に助けられるのならば、奏にとって双樹は神様でしかなく、それこそ双樹の望む未来が潰える結果になる事をかなは知っていたから。

「どうしたの?奏。何か言いたい事が有る様ね」

「説明なんてないよ。そのテストが俺の結果だよ」

「それはつまり、きっちり諦めるって事?私立受験も、講習も全部スパッと。約束守れなかったんだから、そうよね。良い子になったわね。奏」

「違う、聞いてくれよ」

奏は首を振る。

そして、姿勢を正すと、地面にめり込まんばかりに頭を下げた。

「ごめんなさい!約束守れなかった!でも、講習に行かせて欲しい!勝手だと思うけど、次頑張ります!お願いします!」

「奏、自分で何言っているのか分かってるのかい?『約束は守れませんでした。でも約束は守って欲しいです』って?そんな道理が通ると思ってるの?」

「申し訳ないです。次頑張るから。講習が始まって直ぐにテストが有るんだ。そのテストで結果を出すってんじゃ、駄目かな?」

「小癪な事を言うね。双樹ちゃんとの作戦会議で決めたの?帰りが随分遅かったものね」

「ごめんなさい。でも!俺必死で頑張るから!双樹に言われたんだよ!俺は、勉強に対して不真面目だった。確かにそう思う、双樹に擁護して貰える様な奴じゃない。でも!だから、このまま終われないんだよ!お願いします!」

言いたいことを全て言ってから、奏はやっと顔を上げた。

「…アンタって子は、つくづくヘタレてるね。人の目も見ずに地面にばかり謝って、許して貰おうだなんてね」

「ん。ごめん」

「全くよ……誰に似たんだか」

かなは奏の顔を眺める。

奏の真剣で、しかし怯えを含む顔。

情けない息子に対して文句か罵声の数百数千もぶつけようと思い、口を開いた。

だが、奏の顔がいつかの誰かの顔に似ている事に気付いてしまった。自分を見詰める目も、硬く結ばれた口元も。先の少し下がった眉毛の形も。

自分を助けるために、嫁に迎えようとしたあのおバカ。

失礼極まりないその面影を息子に見てしまい、かなは思わず吹き出してしまった。

「あははは。まあいいわ。行ってきなさいよ、講習」

「は!?」

「い!?」

思った以上にあっさりと許しが出てしまい、奏も双樹も驚きの声を上げてしまった。

「なに?二人とも。不満そうだね」

「いやいや!」

「滅相もないです!」

奏と双樹は首が千切れる程横に振る。

「でも、なんでなの?かあさん。そんなにあっさり許してくれるなんて」

「もうちょっと粘った方が良かった?」

「そんな事ないです!だから、親の仇を打つ前みたいな、殺意を笑みに浮かべるのは止めてくれよ!」

「双樹ちゃんなら虐めても反論してくるだろうけど、奏の頭じゃ私に太刀打ちするのは無理だからね。何を言ったって、面白くないのよ」

「う……」

「だから、何でもいいから奏が喋れば、許すつもりだったのよ。逆に双樹ちゃんだけが喋ってる限りは、行かすつもりはなかった」

「双樹に説得されたり論破されたりしたら、どうするつもりだったのさ」

「それは有りえない。ね、双樹ちゃん」

「……あ、はい。そうですね」

「うお!双樹の完全敗北な顔、初めて見たよ」

「失礼ね…でも、疲れたから、奏くんに反抗する気力もないわ」

双樹は虚空を見詰め、深い溜息を吐いた。

「これは重傷だね…改めてかあさんはやばいな」

「というか、奏!アンタは馬鹿過ぎる」

「う……」

「謝るにしても、せめてなんか言いなさい。ただ神様に許してもらうだけ、なんて、村の大人と同じ事するんじゃないよ!」

「ごめんなさい……反論できるように、これから頑張るよ」

「ま、村の人と同じような大人になっちゃった私の言えた事じゃないんだけどね。奏、とにかく自分の頭使って、自分の足使って、自分の心臓で頑張って、自分の魂で生きていきなさい」

「かあさん、難しくて何を言っているのか分からないよ」

「だから、自分で考えなさい」

「……分かった。とにかく傾いてみる」

「あはははは。斜め上の解釈だね」

かなは愉快そうに笑って、奏と双樹の頭を撫でた。

「まあ、暫くは馬鹿で許そうじゃないか。出来ない時はドンと構えな。寝ても生きても同じ一秒。必死に生きて何処までも行きな。どんな無様だって、失敗したっていい。結果さえ出せればね。地面這ったって、逃げ出したっていい。プライドを左手に握り締めたままならね」

かなは二人の頭をぽんぽんと叩いてから、手を退けた。

「最後に聞いとくよ。奏、アンタの『結果』は何?」

「だから、ずっと言ってるよ。双樹と同じ道を歩いていく。でも、まず模試で結果出す」

「そうかい。奏まで双樹ちゃんを裏切ったら、承知しないよ。沙羅達がどんな思いで双樹ちゃんを裏切ったのか、汲んでやって頂戴」

「……分かった」

奏はその言葉に全てを込めて、しかし真実にたった一つ吐き出した。

これは本能の赴くままの本物の答えだ。

だから、かなは、奏の額をこんと叩き、にかっと笑って見せたのだった。

「だったらやってみな。その右手、離すんじゃないよ」

「ありがとう、かあさん」

「かなさん……ありがとうございます」

奏はぐっと拳を握り締め、双樹はさっきまでとは違う人の温度をした涙に潤む。

「もういいから、ご飯食べな。二人とも」

「あ、はい。頂きます」

「頂きまーす」

奏は安心して空腹を思い出したのか、元気にご飯を食べ始めた。

一方、双樹は優しい声で耳打ちされる。

「ごめんね、単純な奴で。苦労掛けると思うけど、お願いね。人生どんなに卒なく生きても、いつか奇跡みたいなバランスで走り抜けないといけない時が来る。その時にごちゃごちゃ言い出したら、殴っちゃって」

「ふぇ?か…かなさ……」

「奏は、沙羅の心意気汲んだんだし、双樹ちゃんはかなさんの気持ち、大事にしてね?」

「え?あ……そんな……」

双樹は、何を言われているのかと思って少し赤くなった。

けれど、かなの前でそんな仕草をする方が恥ずかしいと思い直し、顔に不機嫌に似たモノを張り付け直した。

「はい。私の拳と引き換えにしてでも」

「い~心意気だ。奏には勿体ないよ」


「信じられない…本当、こういう事するなんて」

電灯も乏しい暗い夜の道、二人で双樹の家に向かう道すがら。

奏と双樹は火照った体に、夏の夜の涼しさを感じていた。

「仕方ないでしょ。こうするしかなかったんだよ。俺も男さ」

「男だって……ずるい言い訳よ…」

双樹は怒り、熱い息を吐く。

薄明りが二人を照らす宵の入り。

月の光だけが輪郭を強く持ち、夜の帳は曖昧に世界を覆う。

「突然、強引……あんな風にするなんて、聞いてなかった」

「あれ以外なかったんだよ……というか、考える前に体が動いてて、さ」

奏は恥ずかしそうに双樹から顔を背けた。

そんな奏を双樹はムぅと睨む。

「本当、ずるい。そんな風に言われたら怒れないじゃない」

空は深く、星は輝く。

雲は疎らに、二人を隠すほどでもなく。

夜に満ちる空気が気恥かしさを秘めているのは、夏の持つ魔力故だろう。

そんな魔法の夜で双樹は、

「あれって…謝ってただけじゃない。説得しようとか色々話し合ったのは、どうしたのよ」

先程のかなとの遣り取りの時の奏の行動に怒っていた。

いや、怒るというよりは驚くというか、興奮しているというか、多分珍しく自分でも良く分かっていない感情に身を任せていた。

「いや~、だって考える程に、考えた事全部違うなって思っちゃってさ」

「口に出す前に判断するのは止めてって、言ったじゃない」

「そうは言うけどさ、自信の無い意見なんて餌になるだけだよ。相手はかあさんだよ?」

「まあ…それはそうね。かなさんはやっぱり強烈だわ」

「だろ~!あれと密にコミュニケーションを取るとか無理だよ。双樹はああ言ったけどさ」

「言いたいことは分かるけど、かなさんは列記とした母親よ。うちと違って」

「どう違うかは分からないけどさ……母親…まあそうだね」

「あの頭のいいかなさんから、どうして奏くんが育つのかしら…」

「いや、それが嫌味なら…良くないけど、真面目なトーンで質問するの止めて?」

「謎なのよ……」

「そうなのか」

「もっと嫌がってよ」

「ああ、冗談なのか」

「当然でしょ」

軽い奏の態度に、双樹は唇を尖らせた。

一方は楽しそうで、一方は不機嫌。

二人には丁度の収まりの良い距離であった。

「あ、ところでさ」

「うん?」

歩き出す双樹を斜め後ろから見て、あの大木を見上げる双樹の横顔を思い出した。

あまりにもビックリした再会の日。

とても唐突で、しかし、どこか当たり前に感じた再開。

彼女は綺麗で、そして、あまりにも昔のままだった。

だから、あの日はそもそも不思議な日で。

あの日の出来事は全て不可思議で仕方ないと受け止めてしまっていた。

けれど、良く考えれば普通じゃない事がいくつもある。

捨て置いては、いずれ致命傷になるであろう綻びも少なくない。

だから、夢に近付けたこの際だからと、奏は何気なく口にした。

「再会したあの日さ、双樹は何であそこに居たの?」

「ん、あれ…ね?」

尋ねられた双樹は少し考え、やがて奏の方を振り返って逆に質問した。

「奏くんは、なんでなの?」

「俺は……あれだよ、思い付きで」

双樹は歯切れが悪い。だが良く考えればそういう歯切れの悪さに成るしかないだろう。

迷いの森の奥のあの場所には、簡単には行けないのだと思う。進む度に有機的に蠢き、夢の中に引きずり込むような茨の森。幾人かが迷い、帰ってこなかった死の森。

それなのに踏破できたとなると、そこに不思議な力が働いたと思ってしまう。

奏が言えば、

『女の子の泣き声が聞こえて、女の子を探して、女の子を追いかけてたらあの場所に出て、双樹が居た。ちなみにその女の子は消えました』

という、自分で推敲するだけで馬鹿みたいに思える話をしなくてはならない訳だ。

多分、真実を言うとすれば、双樹もそんな馬鹿みたいな話をしないといけないのだろう。

「そう…なら私も思い付き」

「そっか……」

双樹はほんの少し笑いみたいなモノを混ぜて不機嫌な表情を作る。

奏はその表情を見た事がなかったので、それが何を意味するのか聞いてみたいと思った。

けれど、先に嘘を吐いたのが奏である以上、奏にこの夜を続ける権利はなかった。

だから奏は何も聞けず、ただ空を見上げた。

「それとさ――」

ナツナキ

「――って言葉に聞き覚えがあるか?」

奏は口のない女の子が言った言葉を双樹に尋ねてみた。

ザザ――

「え?何か言った?」

「……言ったっけ?」

しかし、双樹は聞こえ辛そうに首を傾げるばかり。奏はもう一度聞き直そうと口を開いたが、何を聞こうとしたのか思い出せなかった。

ただ、堕ちていきそうな空の闇を見るばかりで、開けた口は仕方なくへの字を結んだ。

一瞬、あの闇が夜ではなく黒に見えた。触れてはならない鋭い茨に心が捕らわれた気がしたが、幸いにも傷を残す前に消え去ってくれた。

「帰ろっか、奏くん」

「ああ、帰ろう…というか、俺は送ろう、かな?」

「別に送ってくれなくても、大丈夫だよ」

「送らないと俺が大丈夫じゃないの。主にかあさん辺りからの叱責が強い!」

「やっぱり紳士じゃないじゃない」

奏の言い分に、双樹は不服そうに肩を落とす。

互いの距離も鼓動もいつも通り。次の足音さえも知っている。

歩き出す二人の間に降りて来るのは沈黙だったけれど、それは嫌な物じゃなかった。

十年という月日はどこかに忘れたみたいに。

十年前で時が止まっていたかの様に、二人は慣れ親しんだ顔を見せる。

黙って歩く二人。大切な事を置き去りに、大事な事を忘れたまま。

並んで歩く二人。二人の歩く先には、もう暑い季節が待っていた。

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