縄結びの神と岩魚
熊は追われている。
冬眠をしない熊は、獰猛で、木の実や茸を食べていたとは、思えないほど、別の生き物になっていた。
足跡が乱れて続く。
風下に回りながら、間合いを詰める。
寝ない熊は、動くもの全てを襲う。
去年からここいらを荒らしているのだ。
暴れものは、寝なかった。
鹿も狙われたが、家畜を、狙われてはどうしようもない。
真っ白く輝く雪の崖下を、我が物顔で歩く。
恐れるものも、襲うものもないと、たかをくくっているのだろう。
それでも油断は出来ない。
黒々した頭の両耳は、アチコチ動き、音を拾ってた。
あの身体で向かってこられたら、人も1発撃つのが、やっとだろう。
最低、2発当てなければ。
熊に、ジリッと近く。
谷間に銃声が響き、滝壺の岩魚は、反響の中で目覚めた。
冷たい水底から、泡立つ水の天井を見上げるが、それだけ。
泡の先には、何もない。
胸ビレで、小砂利をかえし、川底を煙らせ、ほんの少し動く。
そのまま、寝るのだ。
ジッとしてるのが、性に合っている。
そこに、ドーンと、巨体が落ちる。
騒めきと黒い身体が、そこいらを混ぜ、弾け飛ばす。
黒い塊は、血の臭いを水に絡めながら、滝壺の中を三回、四回と回り、グワンと川下へ流れていってしまった。
その後を二頭の犬が、転げるように吠えながら、追っていく。
川は、熊が動かない事を教えたが、追っ手の勢いは止まらず、火と土と燃えかすの臭いを、残しながら、その一団は川の横の岩場を下って行った。
岩魚は、乱れた水を嫌い、ぐるりと回った。
滝壺の裏側の一段と暗い場所に寝ぐらを移す。
泥と雪と熊は、消えた。
川底に岩を渡る犬の足音が、しばらく響き、やがて静寂が、滝に落ちる水音に揺れ出す。
岩魚の微睡みは、続く。
この滝の守護が現れ、岩魚を撫でた。
結びの神は今ひとつ、命を結ぶ。
荒縄で編まれた綱に、どんな願いが込められていたとしても、解ければ又結ぶ。
解けた命は此処には返らない。
次の命が継ぎ足される。
岩魚は、プクリと泡を生む。
綱結びの神と水底から、滝の落ちる水を見る。
水からは静寂と土と眠る笹の葉の匂いがする。
岩魚がぐるりと身体を巡らせ、明るい滝底に頭を上げる。
岩魚を愛でた神は、新しい綱を編み始めていた。
見た物を愛さずにいられないのだ。
滝底に、泡と波に揉まれて、小さな虫が押し流されてくる。
小さな影がクルクル回る。
犬は川下で熊に唸る。
まだ、息があったのだろうか。
銃声が、空と木々を揺らす。
風は遠ざかる足音を、追い立てる。
日は、傾きを強め、木立の影を長く濃くしている。
それも、遠い、滝の下の世界。
結びの神は目を開き、綱を綯う。
岩魚は目を閉じ水底に沈む。
今は、ここまで。