未来視の水晶6
緩やかな薄い意識の中に、ファシニアは漂っていた。
波に身を任せるように、時折揺られながらも、しかしそれはどこか心地よくて、深く、深くに沈んでゆく。
湯気と霧を混ぜたような、朧気な世界に、ひとつの像が浮かび上がる。
それは、ファシニアに初めて理学を教えてくれた、そこそこの腕を持つ魔導師の男。
男は口髭を笑みに釣り上げて、背の低いファシニアの手を取り、優しく揺すった。
「今日から君の導師を務める、ナザレです。よろしく頼みますよ、ファシニアさん」
『こんな低級魔道家の教師役になるとは……私も堕ちたものだな』
二つの声が、重なって響く。
ファシニアは表情筋を努めて一種類に固めながら、微笑み返した。
男の姿が崩れ、霧が渦巻き、今度は別の姿に変わる。
次に現れた像は、メイドの姿。細まった髪を後ろで団子に束ね、釣り目を黒縁眼鏡で強調する、いかにも気の強そうな女だった。
女もまた、背の低いファシニアに手を差し伸べて、初対面の礼を交わす。
「ファシニアお嬢様。私は、今日よりお嬢様の身の回りのお世話をさせていただきます、フロウラと申します。以後、どうぞよろしくお願いします」
『旧貴族だからって、どうして私がこんな、何も知らない小娘のために……』
声が重なり、響きあう。
上辺と本音。外側と内側。ファシニアはやはり、崩れない表情を構築し、微笑んだ。
自分は、ただの子供なのだと。自分は、何もわかっていない子供なのだと。
頭に手を置かれる度に、手を握る度に、ダンスのレッスンをする度に。
相手の心が、透けて見えてしまう。相手の求めることが、直に伝わってしまう。
切迫した旧貴族家の事情。
親が口で言っても伝わらないようなことであっても、しかし、聡明なファシニアには、その全てが、理由が、純粋に伝わってしまう。
だからこそ、ファシニアは聡明であった。子供の感情を踏み越えてしまうからこそ、ファシニアは期待に答えるしかなかった。
両親も、家族も、身の回りの人々も、自分が打ち出した結果でしか評価してくれないのだから。
「ん……」
ファシニアの手のひらに、暖かな温度が触れる。
それと共に、触れた面積分の、微かな心が伝わってきた。
――随分、ゆっくり眠っていらっしゃる
「……んあ……?」
聞きなれない声に目を醒ます。同時に、様々な感覚を通じて、現状を示す断片が脳に飛び込んできた。
食事の香り。食器の音。往来から聞こえる、人々の話し声。
「はっ!?」
座ったままの姿勢で机に突っ伏していた身体が、びくりと跳ね起きた。
テーブル。そして、宿の食堂。外はまだ明るいが、手元にはワイングラスが握られている。
「おや、お目覚めのようですね。おはようございます、ファシニアさん」
――おはようといっても、三時くらいですが
そして、テーブルの目の前には、ファシニアの手に触れる、トンガリ帽子を被った子供。
ファシニアは目を開いたまま、口だけで微笑む少女の前で沈黙した。
寝ぼけた頭で思考を巡らせること数秒間。自分の今置かれているよくわからない状況と、それまで何をしていたのかを、必死に思い出す。
目の前の魔女は、ひとまずどうでもいい。
重要なのは、その前、眠ってしまえ前の出来事であった。
思い起こすのは簡単であった。
この食堂からイメージできるものはそう多くない。すっかり顔なじみになった男の朗らかに微笑む顔さえ脳裏を掠めれば、あとは一瞬のことであった。
「クローアさん……!?」
「どなたですか」
少女の声をよそに、辺りをリスのように見回す。求める顔は、どこにもない。
あるのは、自らの手の中にある飲みかけのワイングラスと、そして……。
「……あっ!?」
視界の隅に見えた、自分の鞄。
そこから見慣れない、いや、一度だけ見せてもらったワインボトルの頭が伸びている。
「嘘……」
鞄を開き、中身を検めて見れば、異変はすぐに見つかった。
本来あるべきものがなくなり、別のものが入っているのだ。
増えたワインボトルに、消えた水晶球。
そして、突然にやってきた眠りと、消えた彼。
例えファシニアが聡明でなくとも、何があったのかはすぐにわかってしまった。
「……そんなぁ……」
柄にもなく、弱々しく、女々しい声が漏れ出てくる。
だが気付いてしまえば、それ以上は疑いようもなかった。
高い酒だと油断させられ、薬を盛られ、まんまと騙されたのだ。
「……酷い……」
ファシニアは両手で口を覆い、俯いた。
目元は歪み、今にも涙を零してしまいそうである。
「商売道具、盗まれてしまいましたか」
テーブルの正面席に居座る少女、アリアネが、気易く踏み込んで問いかける。
ファシニアはしばらくの間、それに答えることはなかった。
「……私にも、人並みに……友人や恋人が出来ると思っていたのに」
顔を手で覆ったまま、ファシニアが呟く。
「人並みとは、難しいことだと思いますよ。なにせ、その幅はとても狭いものですからね」
少女の言葉に、ファシニアは“知った口で”と一言悪態をつきたかったのだが、その言葉が自分にもひどく響くような気がして、口を噤む。
食堂には、アリアネとファシニアの二人きり。黙り込めば、すかさず重い雰囲気が辺りを包んだ。
「……世間というものを知らないまま……育ち過ぎてしまったのでしょうね」
沈黙を破ったのは、ファシニアの手の隙間から漏れる、自嘲するような言葉だった。
「こんなお酒一杯で騙されて……ふふ、ペルソナだなんて、そんなもの、ただの傭兵が貰えるわけがないのに」
「ペルソナに釣られましたか」
「……いいえ、違いますよ」
ファシニアが眼鏡を外し、目を擦る。
「私は、誰でも見えるような石に躓いてしまっただけ……一人で勝手に、転んだだけなんですよ」
それは涙混じりの、揺れた声だった。
諦念と失意。ほとんどそれだけで塗りつぶされた、悲壮ばかりの嘆き。
彼女の厳しい人生の中では、当然失敗はあったし、挫折も味わった事は多い。
だがそれは、目指す先が用意された“旧貴族の道”だったから耐えてこれた。転んでも辛くとも、まだ道の途中だからと、起き上がることができた。
しかし、ここでは。道のおぼろげな外の世界では。
起き上がっても、同じ道が続いているとは限らない。
「そんな夢の無い話、私は好きじゃないですね」
――お酒を騙しに使うなど、言語道断
涙を拭うファシニアの手を、アリアネの小さな手が握り締めた。
「盗まれたままで良いのですか」
――貴女はそれで良いのですか
混じり気のない黄色い瞳が、真っ直ぐにファシニアの涙目を見つめている。
純粋で、しかし真摯に過ぎた彼女の瞳は、どこか大人びていた。
「……そんな事を、言われても。あの男がどこに行ったのかなんて……私、眠っていたし……」
「難しく考えることはないでしょう。犯人は現場へ帰るものですが、盗人が現場に帰ることなど、早々あったものではありません」
「あ、ちょっと……」
アリアネが手を引き、ファシニアの身体を椅子から立ち上げる。
そのまま強引に店の外へと引っ張り、通りに連れ出した。
――ささ、行きますよ
往来に出ると、人の波。まだ日も高く、そこそこ賑わっているらしい。
ファシニアは濡れた目元を慌てて拭い、眼鏡をかけ直し、傍らに立つ少女を軽く睨む。
「……なんですか、一体」
「犯人を見つけましょう」
アリアネは薄っすらと微笑み、のたまった。
「無理ですよ。そもそも、こんな大きな街でどうやって見つけるつもりですか」
「無理など、そんな夢も希望も無いことを、やたらと魔法使いが仰るものではないですよ」
「……魔法使いって、私は魔道士……」
「いいえ、魔道士ではないです。“魔法使い”です」
訝しむ細めに、不敵な目がウインクを返す。
「特殊な力を“占い”という神秘として、人に振舞っているのです。神秘の啓蒙、それはまさに、魔法使いの所業というものですよ」
「!」
ファシニアは自身の表情の固さに自覚があったが、その瞬間は思わず眉間に皺を作り、頬を引き攣らせてしまった。
「……私の、未来視は……」
「私も最初から気付けていたわけではないのですが、先ほど確信しました。ファシニアさんの占いは、水晶玉によるものではない。貴女は、水晶玉では無い……もっと別の方法で、“未来視”を成していると」
不敵な微笑みを浮かべる少女を前にして、ファシニアは瞑目する。
いくつかの懸念を思い描き、しかしそのどれもが、もはやどうでも良いことを悟ると、“ふう”と小さなため息を吐いた。
「……何故、わかったのですか。私が……私の未来視が、水晶玉によるものではないと」
「簡単です。もしも水晶玉が本物の“未来視の水晶”であるならば、ファシニアさんは盗まれたと気付いた時点で、もっと慌てていたはずですから」
細く小さな指が一本、とんがり帽の広いツバを持ち上げるようにして立てられる。
「それなのにファシニアさんは、むしろ“騙された”ということ自体にショックを感じているようでした。水晶はどうでもいい、けど、信じていた人に裏切られた事は辛い……そうでしょう?」
“いかに?”と見上げる少女の顔は得意げで、可愛らしくはあったが、可愛げはない。
小生意気な小さな魔女の推理を聞いて、それに小さく頷き、ファシニアは二度目のため息を漏らす。
「……その通りです。ショックでしたよ。もはや、後の祭りですけどね」
「やった、正解ですね。ふふふ」
「ですが、そういうことです。あの水晶はただの安物水晶……仲の良い……と思っていた相手に盗まれたことは、些か堪えましたが……それだけで、終わりです。犯人を探す必要は、ありませんよ」
ファシニアは踵を返し、宿に戻ろうとした。
心の中を見透かされ、吐露して、これ以上少女と話すのが億劫だったというのもあるし、薬のせいか、まだ頭の調子が良くないというのもある。
とにかく全て忘れ、もう一度宿で眠りたい気分だったのだ。
「……そして、水晶が盗まれた以上は仕方ありません。また似たようなものを見繕って買い、別の街に拠点を移して……」
「それはいけません」
宿に戻ろうとしたファシニアの手を、アリアネが掴む。
――それだけはやってはいけません
同時に流れこんできた表面上の心の声を聞き、ファシニアが首を傾げる。
「確かに、あの水晶には何の力も宿っていないのかもしれません。力そのものはファシニアさんが持っているし、取り返す必要性は無いのかもしれません。ですが……」
――だけど
アリアネは極々、真面目な顔で、言う。
「この街の人々にとって、貴女は……貴女の水晶は……紛れもなく、本物の“未来視”の象徴なのですよ」