未来視の水晶5
それから、数日が経つ。
ファシニアはいつも通り、裏通りにて仕事を続け、収入を得ては昼間に劇団へ赴くという、いつも通りの日常を送っていた。
収入はそれなり。仕事も順調。水晶目的で襲いかかってきた男は駐在所に突き出したし、それ以降は襲撃紛いの事件も起こっていない。
平穏、である。
ファシニアは充実した日々の工程に微笑み、そんな言葉を思い浮かべた。
何気ない日常の繰り返し。様々な人々との触れ合い。出会いと別れ。
人並みの食事に、人並みの娯楽。それを咎める者は、この街に居ない。
「ここに、住もうかしら」
思い出すのは、閉塞的な故郷での日々。
格式張った旧貴族の礼儀作法、作業的な理学の学習、絶えることのない見合いの予定。
ファシニアは、家での生活の全てに誠意をもって臨み、最大限の努力を注ぎ込んできた。
物心ついた頃には既に語学や数学のために小さな頭が酷使され、遊びと称される交流会は、同じ境遇の子どもたちとの顔合わせでしかない。
厳しい毎日だとは自覚していたが、しかしそれでもファシニアは毎日を懸命に生き、両親とその家系から与えられる課題を、根気よく効率よく消化していった。幼くして聡明な彼女は、それが自分の役割であるとわかっていたし、それが唯一、親からの愛情を受ける術だと知っていたからだ。
しかし、家族はファシニアの努力に対し、十分な愛情を与えることはなかった。
ファシニアは、旧貴族として誇るべき魔術の技能を、一定の水準まで修めることができなかったのである。
厳しい父は、研鑽が足りないと言う。母は、恥ずかしい子だと言う。
幼いファシニアは一日たりとも怠けたことはなかったし、また、社交会に出れば誰よりも毅然とした態度で臨んでいた。
教育係に全てを任せた両親は、ファシニアの血の滲むような頑張りを知らない。
結果だけを見る、冷淡な評価を、両親は下したのだ。
ところがそれだけならば、驚くべきことに、聡明なファシニアは受け入れることができた。
いかに両親が厳しくとも、仕方がない。両親は自分がどれほど苦しいのかを知らないのだから。
論理的に考えることで、ファシニアは両親の厳しさを受け入れるだけの器をなんとか保っていたのだ。
しかし、それでも、いつの日にか母がこぼした一言は。
“才能がない”という、努力と忍耐ではどうしようもない一言は、ファシニアの精神を折るには、十分すぎたのである。
それから、幾年も経った。
家では様々なことがあったし、自分にも様々な変化が訪れた。
それでも、今のファシニアを形作っているものは、幼少期の辛い日々と、その反動だ。
あの日々があったからこそ、旧貴族としての立場を捨てた、今のファシニアがいる。
貧しき人々のために占い、金も受け取る。大衆が好む劇場に足を運び、笑い、人並みの涙を流す。
かけがえのない今は、過去の苦しい因果があったからこその美しきものなのだと、聡明なファシニアは理解していた。
だからファシニアは今更過去の因縁を掘り返そうとも思っていないし、旧貴族に返り咲こうとも考えていない。
ただ平穏で幸せな今が続くようにと、胸の中で願い続けるばかりなのである。
故に――
「魔女会なんて、冗談じゃない」
「ん? 何か言ったかい、ファシニアちゃん」
「あ、いいえ、なんでもありません」
ファシニアは口から漏れだしていた思念を、頭を振って否定した。
「そうかい、なんだか思いつめていたような顔をしていたからね。何でもないなら良いんだけど」
「大丈夫ですよ、ミスタ」
ファシニアは、隣のテーブルで宿の軽食を摂る男に、模範的な微笑みで返した。
男は“ならいいんだ”と笑い、また目の前の食事に戻ってゆく。
彼はここ最近、宿の飯場で居合わせることが多くなった、旅人の男である。
ギルドから仕事を請け負ってはそれをこなしてゆく典型的な傭兵の一人で、大きな仕事が落ち着いた今、サナドルに居着いて骨を休めているのだという。
数年前のファシニアからしてみれば、傭兵やギルドの人間といえば、粗野で信用ならない者ばかりというイメージが強く根付いていたが、こうして彼らと話してみれば、なんということはない。
旧貴族と比べればずっと愛想も良く、気のいい人間ばかりである。
彼らのような人々と出会い、話すことも、ファシニアにとっては大切な幸せの一要素だった。
「クローアさんは、今日もサナドルに滞在を?」
「ああ、そのつもりだ。宿にはまだ三日分の代金を支払っているしね。それが消化されるまでは、この街で適当にやってくさ」
「なるほど」
傭兵クローア。それが、数日前に知り合った彼の名前だ。
肌は日に焼けて老けたように浅黒いが、歳はファシニアと同じくらいだろう。
常に腰に荷物を括りつけ、傭兵らしく一本の剣を斜向きに背負っている。
魔道士で都会育ちのファシニアとは対極に位置するような男だったが、しかしファシニアは、彼に対して不快感を覚えることはないし、むしろ毎日顔を合わせて言葉を交わす度に、強い親しみを覚えていった。
それは、よそよそしい敬称を付けない程にまで。
――もし、自分が五つほど若ければ、恋にでも落ちていたのかしら。
そんなことを考えるくらいには、彼女は彼に惹かれていたのである。
「ああ、そうだ! ファシニアさん。こんな昼間からでなんだけど、仕事までまだ時間があるでしょう」
「え、ええ」
――仕事までは、確かに時間があるけれども。
ファシニアは空白の予定を問われた事に若干胸を高鳴らせつつも、表面上は至って平静に受け答える。
「それは良かった」
だがこうして、朗らかな笑みを浮かべながら隣の席へと近寄られては、歳不相応の緊張もしてしまう。
「実はこの前、仕事のツテでペルソナのワインが手に入ってね」
「えっ、ペルソナって、あの」
「ああ、偽物じゃないぜ? 正真正銘、本物のやつ」
庶民どころか旧貴族ですらなかなかお目にかかることのできない高級嗜好品の名が出てきたことにもファシニアは驚いたが、男が脇にひっそりと抱えた側の鞄の中から一本の瓶を引き抜こうとした瞬間には、その感情を顔にも出してしまった。
目の前の男はそんなファシニアの反応を見て楽しんでいるようで、にやにやと悪戯の成功を楽しむように笑っている。
「……一人で楽しんでも良いんだが、この名品を独り占めってのは無いだろう?」
「も、もしかして、これを?」
「いや、もちろん全部ってわけじゃなくてな」
「わ、わかっていますよ、それは。しかし……これほどの品は」
「良いから良いから。俺の仲間なんて貧乏舌ばかりでさ、正直ファシニアさんしか誘える相手がいねーんだ」
クローアは恥ずかしそうに笑いながら、ファシニアのグラスにワインを注ぐ。
とぽとぽと満たされてゆく芳醇な香りは、確かに、そこら辺のワインとは違うもののように、ファシニアには思えた。
彼女はワインへの造詣が深いわけではなかったが、幼いころには一級の品とやらの見分け方を学問として修めていたので、目の前の酒の質は間違いないだろうとアタリをつける。
「……まぁ、確かに、私は……少しくらいなら、わかるつもりでは、ありますけど……」
「もちろん、それだけじゃないよ。ファシニアだから、一緒に居たいのさ」
クローアは真剣な目で、ファシニアを見つめた。
そのまま自分のグラスにもワインを注ぎ、ファシニアのグラスを軽く弾いて、か細い音を響かせる。
「乾杯」
食堂の奥では、主人の男がやけに微笑ましそうに皿を乾拭きしている姿が伺えた。
「……!」
ファシニアは、顔付近の血液が激しくうごめいたのを悟った。
このままではいられないと、顔の赤みを酒のせいにするために、ファシニアは急いでグラスに口をつける。
高級品の味も混乱でわかっていなさそうなファシニアを見て、クローアはそれでも茶化す風でもなく、優しい笑みを浮かべている。
「……でさ、今日、仕事あるなら……それまでの予定、一緒にどうだろう」
「一緒に、ですか」
「ああ、まぁ、なんだ……雰囲気の良い新緑庭園があるらしいんだけどさ、俺みたいな男と一緒でも構わないなら……」
「……」
ファシニアが耳を真っ赤に染めたまま、こくりとテーブルに項垂れる。
「……おーい、ファシニアさーん?」
クローアは何度か彼女の肩を揺するものの、動きはない。
「はは、なんだよ、強いのが駄目なら言ってくれればいいのになぁ」
彼が苦笑交じりにそう呟くと、店の奥ではこらえきれずに吹き出したような笑いが聞こえてくる。
クローアはその声の距離を耳で確認すると、ファシニアの鞄から目当ての物を手早く、かつ自然な動作で抜き取った。
艶やかな布で包まれた、大きな水晶球。
布を捲って中身を確認し、クローアは先ほどまでとは違う種類の笑みを浮かべ、自分の皮鞄に仕舞い込む。
代わりに机の上に置くのは、古びた新聞紙に包んだワインボトル。
高級といえば高級だが、至高の名品かといえば二歩も三歩も劣ると評せざるを得ない、いわば香りだけのワインである。
「……マスター、後ででいいから、水だけでも置いてやってくれないかー?」
「はいよー、残念だったなぁー」
「はは、ほーんと、な」
クローアは人懐こい笑みを浮かべ、席を立ち、そして、通りに出ると、すぐに見えなくなった。
ファシニアは、深い眠りの中に漂っている。