2.日常からの転落
「ふはははは!お前では儂には勝てぬ」
両手に竹刀を握った、屈強な体つきのおっさんがはしゃぐ。
「このクソ野郎が…ぶっ殺す」
語気を強めて食って掛かるが、黒髪の少年は満身創痍だった。
「父に向かって何たる…
ジリリリリリリ―――
枕元でけたたましく鳴り出した、5回目の目覚まし時計。もちろんスヌーズ搭載。
「……ん゛」
荒々しく目覚まし時計を叩き、室内に響く騒音を止める。
もぞもぞと寝返りを打つが再び夢の世界へ旅立つ気にはなれず、細川紅葉はだるい身体を起こした。
「…最悪の夢だな」
寝癖のついた頭をがしがしとかき、時刻を確認する。
8時30分
今年で16才になる紅葉は、住まいのマンションより徒歩5分の高校に通っている。
ホームルームが始まるのが8時30分。
しかし、紅葉は慌てることなく浴室へと向かった。
一通り身支度を整えると、朝食の準備に取り掛かる。
今朝の朝食は、トースト3枚に目玉焼きと厚切りベーコン。
皿に盛り付けたそれらを手にテーブルへと運び、リモコンでテレビの電源を付けらながらトーストを一口かじる。
「うまっ!」
家具の少い簡素な1Kの部屋に、今朝のニュース番組に混ざりポツリと漏れる。
訳あって2ヶ月前から一人暮らしを始めたのだが、馴れとは怖いものだ。
食事という一時の至福を存分に味わって、ニュース番組も一区切り入り時刻は10時。
「そろそろ行くかな」
テレビを切り食器を流しに放り込み、無造作に放置されていた制服のブレザーを拾い上げ玄関へ向かった。
学校までは徒歩5分の平坦な道のりなので、体力的には全くもって、これっぽっちも苦にはならないのだが足取りは重い。
道なりの桜は完全に葉桜とかして、見応えはなくなっていた。
学校に着くが昨今の治安悪化の為、平時通りに通学門は閉まっている。
考える余地もなく、こちらもいつも通り門をよじ登り強行突破。授業中ともなれば、咎める役の教員も見張っているほど暇ではない。
ふと、耳鳴りがした。
気にするほど長くは続かず、体育館横を通りすぎ昇降口へ。
昇降口を抜け、授業中の閑散とした廊下をぼーっと歩く。
昼飯は何を食べようか悩んでいるうちに、自分の教室に差し掛かった。
教室後ろ側のドアから入ったのだが、やはり視線が集まる。
生徒からは畏怖と興味が混ざった視線。教員からは異物を見る眼差し。なにも言われぬまま自席に座ると、再開される授業。
この現状に陥ったのは入学式早々の通学時。
紅葉の通う高校は偏差値中の中、お世辞にも頭の良い奴が通うような学校ではない。必然、不良と呼ばれるやからも入学している。
結果的に、彼等にとっては誰でも良かったのだろう。
たまたま朝が弱い癖に入学式の為早起きしてふらふらした、たまたま少し目付きの悪い、たまたま目についた下級生。
不運な事に目を付けられた紅葉は、定石通り肩当ての洗礼を頂戴したのだ。
相手は8人、教員も手を焼く当校随一の不良グループ。
しかし、事件は瞬時に幕を閉じた。数に物を言わせた不良達を、朝一で機嫌の悪い紅葉が八つ当たり気味にボコボコにしてしまったのだ。
あとは簡単。入学式には多くの生徒と父兄の眼があるため、紅葉は絡まれた側だが学校のメンツもあり有無を言わさず停学処分。入学式早々にそんな事件を起こしスタートラインに並び損ない、登校してみれば仲間分け完了済み。
結果、現在の環境が整えられた。
紅葉はため息混じりに机に突っ伏し、ふて寝を開始した。2時間後の昼飯を考えているうちに、意識は眠りに落ちた。
辺りのざわつきで目覚めると、既に昼休みが始まっていた。
「な!?寝過ごした」
紅葉の一挙一動にびくつく生徒諸君を無視し、購買へと駆け出した。目的はこの学校唯一の楽しみと言える、当校限定メロンパンを手にする為だ。
購買に着くと、既に生徒でごった返しになっていた。
しかし、 学校内で恐れられるが故の特権と言うべきものがある。
「ちょっ…」「…あれって」「おい、ヤバイぞ」「ひっ!?」
口々に聞こえる声、割れる人垣。
凱旋よろしく、メロンパンへの道が出来上がる。
「メロンパン5つとコレ」
「は、はい」
購買のおばちゃんにも怯えられるが、コレくらいの役得があってもバチは当たらないと紅葉は思っている。
その場を無言で立ち去り、いつものを場所へと向かう。
体育館横の、勝手口に設けられた段さが毎回の食事場所となっている。
「は~コレ食わなきゃ、やってられねぇ」
メロンパンを頬張りつつ、さっき買った飲み物で喉に流し込む。
黒くてシュワシュワ、赤より断然黒いラベルのゼロ派。
2口目をと思った時、登校時と同じく耳鳴りが生じた。
耳を穿ったり、鼻を摘まみ耳抜きを試みるも収まりそうにない。
「んだこれ?」
耳の不調に顔を歪めていると、そちらに気を取られていたせいか、紅葉の感覚では一瞬で辺りが白い靄に包まれていた。
聴覚に続き、視界も奪われた。
突然の事に驚き、立ち上がった拍子にメロンパンを取り零した。
「あ゛っ!?」
転がったメロンパンは靄の向こうへ飲まれて、見えなくなった。
だか、紅葉は知っていた。3秒ルールと言う鉄則を。
「くそ!ま…へ!?」
メロンパンを追うべく、1歩目を踏み出した途端…踏みしめる筈の地面が、忽然と姿を消していた。
「おわああぁぁぁぁぁぁぁ…メロンパアァァァァァァァ―――」
メロンパン達を取り残し、視界が靄の白からブラックアウトした。
眼が覚めたの、胃が持ち上がる様な浮遊感が襲ったからだ。
眼を開けた紅葉は、落下していた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…あ?」
1度は落下している恐怖から奇声を上げたものの、いつまでたっても続く浮遊感。
チラッと真下を見たが、底が見えない。今度は上を見るが、こちらも光すら差していない。
紅葉は自分を落ち着かせ、状況を確認した。
終わりの見えない真っ暗の空間で、ただひたすらに襲ってくる浮遊感。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――はぁ…」
取り敢えず再度絶叫してみたが、意味はない。ため息がこぼれた。
「…夢だなこれ。白昼夢ってやつ?とんだ悪夢だ…寝よ」
紅葉は現実から匙を投げたのだった。
落ちてからどれ程の時間が立ったのだろうか。
起きては寝てを繰り返しているうちに、時間感覚さえ無くしてしまった。
ただ、浮遊感にはだいぶ慣れた。
今では逆立ちしたり、胡座をかくまで行える。
「……この夢いつ終わるんだよ」
いまだに現実とは受け入れず足掻いているが、怖いので頬はつねれずにいた。
しかし、何事にも終わりは訪れるものである。
何も見えなかった真っ暗闇の中に、米粒ほど白い点が現れた。
それは時を重ねる毎に、大きく近づいていた。
「……………」
凝視していると、近付くにつれ白い点が光だと認識できた。
夢の終わりか、はたまた地獄の入り口か。
もはや光に向かい落ちるしかない紅葉には、選択肢は無かった。
決断してからは早かった。
頭を下にし、ロケット下降。
みるみる内に光へと近付き、ついに光の中へ突入し……………………意識を失った。