12.激昂
ペタン、ペタン…ゆっくりとパンツ一丁の男が顔を伏せたまま歩み寄る。
その異様さに、ルシアの頬を汗が流れる。パン一の男が近寄って来るからなのか、その場の張り詰めた空気からなのかはルシアにもわからない。
だが、確実に今の紅葉はいつもと違った。
「……!?精霊回路解錠!遮れ、風壁!」
咄嗟の判断だった。
ぼそりと呟くと同時に振るわれた鍵から、水球が飛び出した。それを微かに聞き取ったルシアが、反射的に精霊魔法を放ったのだ。
“パァン”
紅葉とルシアを隔てる風による壁にぶち当たり、水球が弾けた。タイミングはギリギリだった。
ルシアが安堵したのも束の間。
「火弾」
ルシアを目指し、無数の火の弾丸が飛来する。大きさこそ野球ボール程度だが数が多く、前方に張った風壁が火の弾幕により塞がれた。
「く…やってくれる!」
いつもは自分から仕掛けていた。しかも、今は完全に押されている。ルシアから冷静さを失わさせるのには十分だった。
弾幕が止んだので、風壁を勢いよく霧散させることで一気に弾き飛ばした。
「今度は此方かはっ!?」
視界が開けた先に鍵を向けた瞬間に、横合いから強打の一撃。身体の軽いルシアは、その威力に吹き飛ばされる。だがそこはルシア、飛ばされながらも体を捻りキレイに着地する。
「けほっけほっ」
不意をついた紅葉の掌底は、ルシアから強制的に空気を吐き出させた。呼吸しづらいルシアは、涙目で紅葉を睨む。
視線があった。
紅葉もルシアを見ていた。怒りを伴ったその瞳で、大きく叫んだ。
「グロリアさん謝れ!!」
「え?」
理解が追い付かないルシアにもう一度。
「グロリアさんに謝れ!!」
「……へ?」
首を傾げるルシア。紅葉がそこまで怒っている理由が、ルシアには理解出来ていなかった。
「だあぁぁぁぁ!」
理解していないルシアに、更に怒る紅葉はその場で地団駄を踏む。
繰り返される力任せの足踏みに、地面が悲鳴を上げる。紅葉を中心にひび割れ、捲れていく地面。激昂の感情により、制御を失った精霊力が漏れ出る。
その時、紅葉の体内で異変が起こった。
どちらの表現も適切であり、適切ではない。精霊力が体内を巡る感覚は、とても表現しづらい。しかし、敢えて表現するならば、
“ポンッ…………………スゥー”
詰まっていた何かが取れた、絡まっていた糸が解けた。そんな感覚だった。
それは、ほんの些細な感覚。故に怒れる紅葉には、気にする余地もなかった。
しかし、変化は激的だった。漏れ出る精霊力の量が徐々に上がっていた。その量は、エルフのルシアの一般常識を遥かに越えていく。
当然ルシアは焦った。しかし、ルシアは引かなかった。紅葉等に…人間等に負けられない、負けたくなかった。
今だ一人で暴れている紅葉を横目に、何もない空間に鍵を向け唱える。
「ボックス」
そして、手首を捻る。
すると、何もなかった空間に鍵を中心に黒い穴が広がる。その中に手を差し入れ掴み、引き抜いた。手には翠緑玉色のナイフが握られていた。
緑花風月、それがそのナイフの名前だった。
刃と柄のすべてが翠緑玉色。刃側には美麗な装飾が施されている。
緑花風月は精霊武器と総称される武器である。精霊武器は使用されている鉱石の性質上、精霊力との親和性が非常に高い。親和性だけならば、他にも似たような武器はある。しかし、鍵師と言われる者達は、こぞって精霊武器をその手に取る。
その理由は、鍵との結合が可能だからだ。
ルシアは緑花風月の柄頭に鍵をあてがった。
「調和結合」
鍵に力を入れると、抵抗なく鍵が沈んで行く。
これにより、緑花風月を精霊魔法の媒介に使用出来るようになる。
身体に精霊力を纏い身体能力を向上させると、ルシアは駆けた。
瞬く間に紅葉との距離を積め、背後に回り込み左後ろからの一閃。
“ガキン”
緑花風月による一閃は不意を突いたにも関わらず、紅葉の鍵により受け止められた。
「っ!?」
受け止められるとは、ましてや鍵でなどでと驚き、ルシアは一旦後退を選択する。
退くルシアに声がかかる。
「やっぱりお前、反省してないな!」
紅葉の怒りの叫びが広場に響き、草木を震わせた。
体勢を立て直したルシアが、攻撃に転じようとした時には紅葉の姿が消えた。
ルシアが気付いた時には、紅葉は既に真横にいた。
緑花風月を首筋目掛け振りかざすがまたも鍵で受け止められ、今度は力任せに弾かれ体勢を崩した。
「水球!」
精霊力が渦をなし、うねり集まり出来上がった水球。今までの水球に比べ、その質や大きさは桁違いだった。
「遮れ、風壁!」
くずれた体勢の中、緑花風月に精霊力を送り何とか張った防衛策。しかし、勢いを殺しきれずに着弾した威力がルシアを襲った。至近距離で放たれた高密度の水球は、石のように硬く、巨大なハンマーで殴られた如くルシアを軽々と飛ばした。
「がはっ!」
受け身も取れず、地を転がるルシアに更なる追撃を掛けるべく紅葉が動く。
「火だ──」
『二人とも、そこまでにしておけ!』
初めてだっただろう。紅葉がサージのあんな大きな声を聞いたのは。そのお陰か、冷静さを少し取り戻した紅葉は上げていた腕を降ろした。
『ルシア、私は止めろと言った』
「…っ………すいません」
サージの警告があったにも関わらず、動きだそうとしたルシア。
二度目で俯き動きを止めたが、手に持つ緑花風月がカタカタと震えている。
『モミジ、食べ物の事となると見境がなくなり過ぎる』
「…ちっ、悪かった」
『ルシア、最後の一太刀…本気だったな』
「…………」
何も答えず、微動だにしないルシア。サージはその様子に嘆息すると、きり出した。
『今日は帰りなさい』
短く、そして端的な言葉を聞くや否やルシアは森へ向かい駆け出した。その頬には滴が伝っていた。
その様子をパンツ一丁の紅葉が、呆然と見送る。
「…泣いてたぞ」
『そうだな』
「…やーい、いじめっ子」
『お前がな』
「いや、泣かしたのサー」
『お前だな』
「……………」
二人のやり取り、声にはいつもの元気はない。
『知り合いだから無意識でも、手加減していたのは分かる。だが、やりすぎなのは確かだ』
棘のない、普段通りの口調でサージは言い含める。頭をがしがしと掻いた紅葉はぼそりと呟いた。
「…わかってるよ」
その日を境に、広場にルシアは姿を見せなくなった。