獣の強襲
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男は不意に立ち止まった。
(見られているな……)
血に飢えた兵士が敵に向ける、独自の視線に似ている。辺りを見回すが、木々が邪魔をして視界が遮られており、見つけられない。
腰にある剣の柄に手を添える。少しばかり刀身を見せ、盾で上半身を隠す。今にも耐えられないとばかりの視線に、もうそろそろ襲ってくるだろうと判断したからである。
ゆっくりと、体を回す。四方八方を見渡し、敵を探す。敵の影すら見えないこの状況に、男は焦りを感じていた。敵は己の情報を持っているのに対し、己は敵の情報を持っていない。この差は大きい。知っていれば、多少は対策を立てられるが、知らなければ対策を立てることすらままならない。
男の得物は長剣。等身には曇りなく、細く、通常の剣よりも多少長い。それがこの戦場では仇となる。これから起こる戦闘を思い浮かべても、木々で剣筋が邪魔をされる光景しか見えない。ならば横へ薙ぐ剣は言わずもがな、上から下へ振る剣すら注意しなくてはならない。出来るのは、突きくらいだろう。最悪剣を使わず、盾で殴る戦闘になるやもしれない。
チリチリと感じる違和感。殺気。そして焦燥。きっと敵は飢えている。ならば精神的な面ではこちらに利がある。
すぅ、と息を吐く。
風が木々のあいだを通り抜け、止んだ。
それが合図だった。
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後方から音がした。振り向けば、何かがこちらへ飛んできている。直様盾を突き出す。
「ぐぅ……!」
衝突。衝撃で腕が痺れる。皮肉なことに、横へ弾かれた盾によって視界が広がり、敵の正体が分かった。
獣。狼である。
大きさは人間よりも大きい、体長は目測2メートルほどで、口からは鋭く大きい牙が見れてとれる。
少しばかり離れたところにおり、喉を鳴らして威嚇をしている。口端から唾液が溢れる程垂れて、毛を濡らしている。
成る程、男は納得する。畜生染みた気配がしたと思えば、やはり獣であったか、と。
しかし、これでさらに苦戦であることを理解した。元から厄介ではあったが、敵が獣である以上、この森は敵の味方だり、男の敵へとなる。
獣が動く。彼を中心に回りだす。しかし、決して走ってはいない。威嚇をしながら歩いている。視線は決して外さず、隙を探すように。
男も視線は外さず、盾によって隙は決して見せない。畜生だからと、油断は出来ない。
またもや狼が動き出す。獅子の如き咆哮が森に響き渡り、男の耳に劈く。男が痛みを耐えているのを構わずに、襲いかかる。
牙をむき出しにし、その肌に突き刺そうとする。が、盾がまたもや邪魔をする。
盾にぶつかり、狼は蹌踉めくが、それは男も同じことであった。男も我慢できずに、一歩後ろに退いてしまう。
好機であった。狼はその一瞬の隙を見逃さず、まだダメージが残る体を無理やり動かし、跳ぶ。
男は狼の行動を見て、横へとなんとか避けようとする。
二人が交差した。
狼は男に避けられ、憎々し気に男を見る。しかし、男は無傷で済まなかった。盾を持っていた腕が、変な方向に曲がっている。骨が折れてしまったのである。
「ッ……!」
苦痛に顔を歪め、冷や汗が体中で流れている。もはやこの腕は使い物にはならない。ならば盾は行動を遅くする重りでしかなく、邪魔なだけである。そうして、盾を外した。
いち早く折れた腕を治療したいが、飢えた狼はそれを許しはしないだろう。
プラプラと揺れる腕を無視しながら、狼を睨みつける。狼はといえば、身を低くし、今にも走り出そうとしている。
「来いよ、畜生風情が」
声は張り上げない。だが、これは宣誓。この狼を殺すという、ただ一つの目的に向けて。
無論、狼には分かりはしないだろう。しかし、伝わった。己を殺さんとする、改めて強まった殺気を。
――例え逃げようとも、迷い無く、間違いなく、お前を殺す。
元より、狼はこの男を逃すつもりはなく、また、死に体になろうが逃げるつもりはない。
逃せば飢え死、逃げても飢え死。後はなく、まさに背水の陣。
傷つくのを恐れやしない。最も忌避すべきは死――それをこの獣は理解し、それを避けようとしていた。
――逃げやしない、逃がしやしない、この千載一遇の好機を獲る。
そして、初めて男から動き出す。
全速の前進で、間合いを確かに詰める。森は足場が悪い。故に通常よりも行動が遅くなるが、それはあの巨体を持つ狼とて同じことである。
「ハァァァァァ!」
腹のそこから出した叫び声。気当りは確かに狼の行動に支障を取らせていた。1テンポ遅い。これなら斬撃の1つは当てられる。
空を切る音を立て、刃を狼へと走らせる。素早いその動きには、殺意。頭骨を割り砕かんとする一撃は、果たして避けられた。泥濘んだ足場に足を滑らせ、運良く必殺のそれを避けることができたのである。
しかし、無事ではない。片足に、傷を負った。切り落とされてはいなかったが、浅いとは言えない傷を刻んでいる。
狼は退かず、寧ろ無事であった前足を使い、薙ぐ。それによって男は足に傷を負う。苦痛に顔を歪めながらも、返し刃で脇腹を深く抉る。
応酬が続く。体中に傷ができ、血を流し合う。
切る、抉る、切る、抉る、切る、抉る……無限に続くかと思った攻撃は、不意に両者ともに止まる。
「――ッ!」
「ッ……!」
男は腕の痛みに苛まれ、視界が薄らいでいく。苦痛が、腕から体中に襲い掛かる。攻撃する度に揺れる腕が痛い。カチカチと長剣は震えている。故に、狼は死なずにいた。狙いが上手く定まらず、急所を決めることができない。
狼は痛みよりも飢えが酷かった。腹の中には三日三晩となにも入っておらず、もはや気力の限界である。故に、その一撃一撃が弱まっていたのだ。でなければ今頃、男は死んでいる。
ならば。
――決着はすぐに付けなければならない。そう思ったのである。
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一閃が宙を走る。
殺すと、死ねと、そう想いが込められたその煌きは歪で醜悪であるものの、儚くて純粋。
その終は、五の爪撃であった。それは生存の意。生きとし生けるもの全てが持つ当然の因子。
男は一撃が止められ、一瞬硬直する。それを狼が見逃すはずがなく、剣を押しのけ、飛びかからずに潜り込んでいった。狙うは両の足。ここから逃がしはしない。糧となれ――だが、男は拒絶する。
逆手に持ち直した剣を勢いよく地へ突き刺す。剣に阻まれ、狼はその一撃が叶わず、剣の胴へ当たり、止まる。そこに男は蹴りを決める。男はそれなりの筋力は有している。その一撃が決まり、狼は飛ばされる。男は直様剣を引き抜き、飛びかかる。
上段からの一撃。腕を鞭の如くしならせ、空を切り裂き、そのまま狼へ向かう。
まごう事なき必殺の剣は、果たして狼には届かなかった。
狼が、横へ転がった。
剣は地へと突き刺さる。深い。
引き抜くよりも先に、狼が行動に移す。牙を剥き、男の足へ噛み付いた。
だが、それこそ狼の失態。即座に終わらせんと気を急がせたが故の間違い。腹を満たしたいと願う、生き物であったが為の過ち。
男は剣を既に引き抜いていた。噛み付かれる、一瞬前に。
切っ先を下にして、振り下ろした。瑞々しい音と共に、宙に血が舞う。
刃は脳を掻き分け、顎から突き出て、血を滴らせる。長剣であったが故に、それは深く、深く、突き刺さる。
ずずずずと音を立て、血以外の体液も剣から見て取れるが、それは即殺の証。止まる鼓動。命の終わり。そして、男の勝利。
終わったと、一息吐く。それと同時に、剣から音がした。見れば、剣が根元から折れている。無理もない。酷使した上に、狼の体当たりやらなにやらと、壊れても仕方がない状態であったのだ。
男はありがとう、と呟いて、再び視線が向けられているのに気がついた。
邪気はなく、訴えるかのような、そんな視線。その方向には、十の瞳があった。小さい瞳の持ち主は、小さな狼であった。きっと、この狼の子供なのだろう。
鳴きはせずとも、父、もしくは母の亡骸を見ている。無邪気に、餌を求めている。
その姿を見て、男は立ち上がった。柄だけになった剣を鞘に収め、盾を拾う。傷ついた足を引きずって、森の出口を求め、歩き出した。生を紡いだ勝者として。生き延びた者の宿命のために。