悪役皇女マリア・ブランの生誕
「ええ、残念ながらマリアンヌ様は……その、出産の際に脳へ異常な魔力が流れ込んだ影響で……感情を司る神経が、通常とは異なる働きをしているのかと……」
皇室専属の魔法使いが、お母様へそう説明していた。
七歳の私は、椅子に座って足を揺らしていた。
お母様が泣いていた。
なぜ泣いているのか、分からなかった。
だって、私の身体は健康だから。それだけで十分じゃないのかな?
「じゃあ……この子は……どうすれば……」
自室で絵を描いていると、時間が早く過ぎる。他のことをしている時より、ずっと楽だった。
「お母様。なんで泣いているのですか?」
お母様は私の顔を見て、もっと泣いてしまった。そんなお母様の背中を叩いているお父様。
「やはりそうか。ふんっ、頭が弱かろうが、いくらでも使い道はある」
怒っているお父様。
悲しんでいるお母様。
私はそれを見て――何の感情も浮かばなかった。
ただ、このままでは部屋へ戻れない。確かこういう場合は――。
「……ごめんなさい」
と、言えばいいって知っている。
私はお母様を抱きしめた。
でも、何に対して謝ったのかはよく分からない。本を読んで、喜怒哀楽が表れる状況を知っているだけだった。
お母様が悲しんだ時に、謝って抱きしめると、笑ってくれる。
みんな笑ってる。きっと正しい返事だったのだろう。
***
「あら、ヴァニラ様。今日も素敵な制服ですわね」
婚約者のヴァニラ・ブルー様は、服を褒めると喜ぶ。
「おう、マリアも綺麗な髪してるぞ。ははっ、褒めるなら俺の顔を褒めろよ」
顔の美醜はよく分からない。整っていると言われているヴァニラ様の顔と、そこら辺のおじさんの顔に、優劣があるとは思えない。
高等部の私は、そんなことを口に出さない。書物で読んだ形式的な返答をする。
「ええ、もちろんですわ! 世界で一番ステキですわ!」
「ははっ、そういうことは二人の時に言えよ。君もとてもキレイだよ」
ヴァニラ様が笑った。
私も口元を緩める。少し首を傾けると、彼は満足そうに頷いた。
帝国第九皇女、マリアンヌ・ブラン――私のことだ。
今は、貴族学園の高等部へ通っている。
ごく一部の皇室の人間だけが知っている秘密。私は生まれた時から、頭の中が壊れていた。
普通の人が感じる、感情というものが理解できなかった。
喜びも怒りも、悲しみも、楽しさも、まったく共感できなかった。
きっと、私が皇女じゃなかったら、罪に問われていたのかもしれない。何が良くて何が悪いか、自分の感覚だけでは分からなかったから。
だから、私は書物を読んだ。幸い、見たものをすべて記憶できる脳があったから、なんでも覚えている。
人と話す時は、参考書物を頭の中で検索して、適切なページから場面を抜き出し、その人物の言葉を参考にして話す。
頭の中の参考文献が少ない時は、色々な問題を起こした。
『あんたっておバカなんでしょ? ふんっ、この公爵令嬢ショコラ様の下僕になりなさいよ!』
そう言われ、冗談で頬を叩かれた時、私は本気で叩き返したことがあった。ショコラの顎の骨が砕け、大変な事態になった……みたいだった。
けれど、何の感情も浮かばなかった。謝り方を教えられるまで、何をすればいいのか分からなかった。
どうやら、笑って受け流せばよかったらしい。そんなこと、言われないと分からない。
でもね、書物と絵物語を見て、表情も台詞も覚えた。蓄積された。
今でもたまに失敗するけど、問題なく過ごせるようになった、と思う。
自分の評価は当てにならないから……。
お母様は私が笑うと、安心する。そんなお母様を見て、お父様も満足そうにしている。
だから、それでいい。これからもずっとそうだと思う。
私が校舎を歩くと、生徒たちが道を空けてくれる。そして、小声で噂話をするんだ。
きっと聞こえないと思っているけど、私は耳が良かった。それこそ、廊下のすべての生徒の会話が聞こえる。頭の中で、それを分析して、整理して、生徒の言葉リストを作る。他の生徒と話す時に役立つ。
「きょ、今日は冷徹皇女が出席してるぞ……」
「……ヴァニラめ……あいつだけは絶対に許せねえ……」
「目を合わせるな。殺されるぞ」
「笑いながら死刑囚を殺したって聞きましたわ」
「ブラン皇族の恥ですわね……」
「最低最悪のやつらだ。悪魔だってもう少しマシだろ」
「お顔はとてもキレイなのに……」
噂というものは、真偽が定かではない。だから、いちいち訂正する必要もない。労力の無駄だ。
死刑については、命令書に署名をしたことがある。幼い頃から、お父様に命じられて。
何をした人なのかを尋ねたら、知らなくていいと言われた。なら、それ以上は尋ねない。署名した書面の内容だけ、覚えておく。
「ふっ、マリアはそのままでいい。俺の言うことを聞いていれば」
書物904、ページ8、段落4行目。
「ええ、もちろんですわ。あなたは私のスウィーティーよ」
ヴァニラ様が大声で笑った。
特別な色を持つ、ヴァニラ・ブルー様。
自己肯定感が強く、わがままで、自尊心が強く、ナルシストで、暴力で人を屈服させるのが好きな男の子。
私も身体を強く触られたことがある。その時は、防衛として平手打ちをした。それ以来、私の身体にそういう触り方はしなくなった。
お母様から、結婚するまで身体は絶対に触らせるな、と言われていたからだ。
この帝国では、色を名に持つ家が国を動かしている。
三大公爵家である、青のブルー、赤のルージュ、黒のノアール。
公爵家の令息令嬢の周りには、いつも人が集まる。
ビオレやジョンヌなど、ほかの色を持つ侯爵家。その下にくすんだ色の伯爵家。子爵以下は、色のない家だ。
白い名を持つブラン――皇族だけの特別な色。
でも、第九皇女である私は……頭が壊れている私は、ただのお荷物だった。
公爵家の誰かと結婚する。それが生まれた時からの命令。
命令なら、従えばいい。私には、それを嫌だと思う感情もないから。
教室に入ると、公爵家の一つ、フレーズ・ルージュ様が手を振った。
背の小さな男の子。魔法は強いけど、物理が苦手。弱くて小さな子をいたぶり、いじめるのが好き。見た目はとても可愛らしいけど、ルージュ家の中で一番残忍な性格をしている。
「マリア、昨日の処分の件、ありがとう。助かったよ!」
「ええ、窃盗犯の処分でしたね。問題ありませんわ」
フレーズ様はニコニコ笑いながら、ぴょんと飛び跳ねる。
「そうそう。あのチビったら、この僕にまで逆らうんだもの。皇女様から言ってもらうのが一番だよね、ははっ」
私は鞄から書面を取り出した。私がサインした正式な書面。学園では、これが彼女を窃盗犯とする証になった。
その時、廊下から女子生徒が駆け寄ってきた。
「殿下、お願いします! 私は盗んでなんか……あれは家から持ってきた道具で……!」
泣いていた。フレーズ様が笑顔になっていた。
あれが嬉しいっていう感情なんだろうね。自分では知らない感情だけど、そういう顔だと書物で覚えている。
そして――。
「はっ? あんた何様よ? 私たちは、公、爵、家よ! このショコラ様に文句あんの? ていうか、マリアに至っては皇女なのよ……一応ね」
フレーズ様の隣にいた、ショコラ・ノアール様。いつも強気な姿勢を崩さず、自分が全て正しいとおっしゃるご令嬢。
そして、私を下げたり、嫌味を言ったりする人。私とお友達らしいけど……敵意というものがあるのは、客観的によく分かる。
どうやらフレネミーという存在みたいだ。
「あんた、この書類があるのよ。この皇女が書いた正式な書類ね。あんた犯罪者なの! だから、学園に来んなってのよ」
私には、正義という感覚がよく分からない。ただ、書物と照らし合わせれば、ショコラ様とフレーズ様の行為が正当ではないことは分かった。
ヴァニラ様に言われたとおり、私は書面に署名した。
その後の処理も、私の仕事だった。
「マ、マリアンヌ様……ど、どうか、お慈悲を……」
私は、いつもの笑顔で答えた。
「決まったことですので、もうお帰りください」
崩れ落ちた令嬢は、先生に連れられていった。
フレーズ様とショコラ様が、手を合わせて笑っていた。
ヴァニラ様は興味なさそうな顔だった。ヴァニラ様は強そうな生徒を陥れるのが好きだから、趣味に合わないみたいだ。
「本当、マリアがいると楽だわ」
「な。あいつ、泣きながら謝ってやがった」
「マリアは気にしてないんだろ?」
私は、いつものように頷く。
「ええ、問題ありませんわ。こちらは私が処理しておきます」
書面の写しを鞄へしまう。
そして、私たちは席へ着くのであった。
これが私の日常。これが普通だった。
でも、一つだけ、私にはやりたいことがあった。
席に座っている時は、ただずっと絵を描いている。あの頃のように、絵を描いていると時間が経つのが早いんだ。
「また絵かよ。お前の絵、暗いんだよな」
ヴァニラ様が紙を引き抜いた。
ひっくり返して、裏へ何かを書き始める。紙を返してくれない。
私は頭の中で絵を描くことにした。
それは、空に浮かぶ、青い雲だった――。
***
昼休み、皆様は私を残して特別食堂へ向かった。いつものことだ。私は会話がうまくない。つまらないらしい。
古典落語を披露したこともあるけど、そういうのとは違うみたいだ。
『マリアったら、何考えてるか分かんないのよね』
『うん、同感〜。また変なこと言い出したら、ヴァニラが相手してよ』
『ははっ、顔はいいんだけどな。まあ、言うこと聞くから嫁にするには楽だろ』
教室の扉の外で、そんな話をしていた。小さな声だけど、よく聞こえる。
嫁になるなら、私は楽な人間らしい。それなら、悪いことではないのだろう。
食事は何を食べても、美味しいと感じたことがない。感情と味覚は違うと思うけど、もしかしたら繋がっているのかもしれない。
「……絵を描きましょう」
私は立ち上がる。生徒たちから、押し殺した小さな悲鳴が聞こえる。
特に気にせず、私は別の描きかけの紙を持って、図書室へ向かおうとした。
が、気分を変えて文芸室へ向かった。
図書室の本は、すべて読んでしまった。
文芸室は先日、その存在を知った。まだ知らない書物があるかもしれない。
私は文芸室へと向かった。
小さな部屋だった。ざっと室内へ目を通す。
確かに本が多かったが、半分以上は読んだことがある本だった。
「……この書きかけの文は……?」
机の上には、タイプライターで打たれた用紙が重ねられていた。
誰かの書きかけの書物。
私はそれを手に取った。一枚目へ目を通す――一瞬で内容を記憶できるはずの私が、もう一度目を通す。
文が、文字が、私の中に染み込むような感覚だった。
他の書物を読んでも起きなかった感覚。
これは……?
一体?
なに?
気がついたら、そこにあったものをすべて読んでいた。
そして、もう一度周りを見渡す。
……私が読んだことのない本。それも、同じタイプライターで打たれていた。
何か妙なものが湧き出た。それが何か理解できない。
いつの間にか、拳を強く握っていた。
と、その時、文芸室の扉が開かれた。
背の高い男子生徒と目が合った。
切れ長の目が、私の手に持っている用紙を見つめていた。
「おい――貴様、何してるんだ!! それは俺の命よりも大事な……。――第九皇女!? ……いや、関係ない。それから手を離せ」
頭の中で、彼の容姿と、彼の言動のリストを検索しても出てこなかった。
彼は私の目の前へ来て、私が持っていた用紙をひったくった。
「いいか、これは芸術なんだ。たとえ、俺が理不尽な罪で罰せられようと――な、なんだ、何をしているんだ?」
奪われたのなら仕方ない。なら、違う書物を読めばいい。
また、あの感覚が得られるかもしれない。何かが引っかかったんだ。
私は棚の本を手に取る。
「……読んでいるのか、俺の本を……?」
私は本を閉じた。
「これらは、あなたが書いたんですね。教えてください。121ページのロザリンドの感情を。151ページのエミヤの言葉の真意も気になります」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。ごほんっ、いや、ちょっと待ってください、殿下。あなたは、何かを罰するためにここへ来たのでは?」
私は首を傾げた。
「意味が分かりませんわ。それより、質問に答えてくださいませ。あなたが書いたんですか?」
思わずだった。
頭の中を何も検索せずに、自分の言葉が出ていた。
「は、はい。俺が書きました……。これは書きかけですが――ん? あの、ちょっと待ってください。こ……こ、この絵は、どこで手に入れたんですか……?」
彼が、私の描いた絵を見ていた。
そこで私たちは、初めて見つめ合った。
彼は強い目をしていた。何が強いのか分からない。
ただ、書物の常識と照らし合わせても、皇女に歯向かう生徒は稀なはず。ヴァニラ様でさえ、正面から敵対しようとはしない。
「それは、私が描きましてよ。ちょっと待ってくださいね。あっ、ペンを忘れていたわ。拝借します」
ペンを借りて、用紙に描いた絵の続きを描く。
彼が、動く私のペン先を目で追っていた。
「はい。これで完成ですわ。差し上げましょうか? 自室に沢山ありますわ」
彼がそれを受け取り――なぜか、泣いていた。
私は、なぜ彼が泣いたかまったく理解できなかった。
「や、やっと、巡り会えた……。俺が、子供の頃、皇室で見たスケッチ。魂が震えた絵。あれを見て、俺は……書物を書きたくなって」
「あら、私も、この書物を読んでいたら、色々描きたくなりましたわ。ここ、いいかしら?」
「ああ、もちろん……いえ、もちろんです。で、殿下、大変申し訳ございません。無礼な態度を……」
「構いませんわ。だって、『良い気分』ですもの」
自分の思考にエラーが発生した。
私は今、なんて言ったの?
良い気分?
良い気分って、一体なに?
この胸がわくわくしている感じですの?
それに、なんで検索しなくても会話が成立しているのか分からない。
「……あの、あなたの名前は? 私はマリアンヌ・ブラン。第九皇女ですわ。あと、エラーが出るから、あなたは素の喋り方をしてください」
「……そ、それは、なんとも不敬な……いえ……いや、分かった。俺はカインだ。ナイトハルト子爵家の三男だ」
「それではカインさん、あなたの本を全部見せてください」
と、そこで鐘が鳴り響いた。
帰らなくてはいけない。でも、動きたくない。
「……ふぅぅぅぅぅぅ。カインさんは放課後も、こちらにいらっしゃいますか?」
気がついたら、大きなため息をついていた。
***
放課後、文芸室へ行くと、カインさんが本を並べて待っていてくれた。
「……マリアンヌ様」
「マリアです」
「それは無理だ……他の人に見られたら、俺は処刑されるぞ? というか、こんな言葉を使っている時点で……」
「なら、二人きりの時だけにしましょう。いいですか。あなたは、私の頭の中をクリアにしてくれる鍵を握っている人です」
「……??? あの、よく分かりません」
「また敬語。それよりも、早く本を――」
「えっと、じゃあ、マリア……嬢?」
「それならいいでしょう。では、私はカインさんと」
「いや、同好の士なら、カイン氏と呼んでほしいな」
本の話になると、彼は早口になった。
『いいか。これは俺が初等部の頃に書いたもので、異世界に転生する、今までにない最先端の書物だ! なんといっても主人公が――』
『こちらは、魔法ではなく、蒸気という力が発達した架空の世界で、特殊な力の持ち主たちが――』
『転移魔法によって、島に集められた貴族たちが殺し合いを――』
私も本を読みながら、気に入った場面を想像で描く。
それは、今までとは違う絵だった。何か、生きているような絵に変わっていった。
その絵を描いている時、私が生きている実感が湧いた。
私がこの世界にいる存在意義を感じた――。
「……マリア嬢。なあ、なんだろうな。その絵を見ていると、どんどん書きたくなる」
彼から感じたのは――熱気だった。
情熱というものを、知識として知っている。
それを初めて目の当たりにして、私はむせ返りそうなほど息を大きく吸っていた。
心臓が跳ねる。初めての感覚。
知らない物語が綴られる。わくわくが止まらない。
熱を、自分の胸の内から感じていた。
――がたんっ、と音が聞こえた。
私は気にせず絵を描いていたが――カイン氏が「あ……」とかすかな声を上げていた。
「ちっ、マリア。探したじゃねえか。……また絵を描いてるのか? はぁ、くだらねえな。ていうか、その男……誰だ?」
ヴァニラ様が入ってきた。
後ろにはフレーズ様とショコラ様もいた。
「今日は一緒に帰るって言っただろ? なんだ、浮気か?」
「絵を描いています」
ヴァニラ様が、私の隣へ来た。
これは命令だ。なら、言うことを聞かないといけない。
なのに、身体が言うことを聞かなかった。
「……マリアァ。なんで言うことを聞かないんだ? はっ、なんだ、この男。ふーん、いいね、強そうだね。俺は分かるぞ。意志が強い、身体も強い、大抵の才能はある。そんな男どもは腐るほど見てきたからな」
「ヴァニラ様?」
ヴァニラ様が私の頬を叩いた。
痛みは感じない。そもそも、叩かれた時は、私が間違った時。
だから、きっと私が悪いんだ。
ヴァニラ様が、もう一度手を振り上げた。
だけど、衝撃は来なかった。
「……てめえ。女性の顔を殴ってんじゃねえぞ、くそ公爵様よ」
カイン氏が私の前に立っていた。
「はっ!!! いいね、いいね、いいね! 色なしが逆らいやがって! その顔だよ。その顔が俺は好きなんだよ。ははっ、今すぐ土下座しろ。そうすれば、不敬は許してやる。ん――なんだ。お前は書物を書いているのか」
「ヴァニラ様、カイン氏に罪はありませんわ」
「いーや、そんなことねえ。こいつは皇女をたぶらかしやがった。……なあ、マリア。俺の言うことは絶対だろ? なにせ婚約者だからな」
「……はい」
私は頷いた。
でも、なぜか、いつものようにはっきりと言葉が出なかった。
そこへフレーズ様が突然カイン氏に体当たりをして、身体を押さえる。
「ねえねえ、僕より大きい子は嫌いだな〜。ていうかさ、書物を書くならさ、手を怪我させちゃえば?」
ショコラ様が懐からハンマーを取り出した。
いつも持っている道具。生徒をからかうためのものだと言っていた。
「おいおい、お前らは下がってろよ。俺は心をへし折りたいんだよ。……まあ、手が壊れて使い物にならなくなってもいいかもな。――マリア、動くな」
私は固まってしまった。
動くなと命令された。
ヴァニラ様が、机の上にあった書きかけの書物を手に取った――。
声が出そうになった。
さっきとは違う感覚に襲われた。
暗く、深く、鈍い何かが芽生える。
「ははっ、なんだこれ? 超笑えるな。俺が燃やしてやるよ」
言葉と行動が同時だった。
ヴァニラ様が、彼の書物を燃やしてしまった。
カイン氏は目を見開いた。
悲しんでいる。
そういう顔だと、書物で知っていた。
でも、今は、それだけではなかった。
灰が私の目の前で吹き飛んでいく。
胸が苦しい。
さっきまで、あんなに熱く語っていたカイン氏が、何も言えなくなっていた。
「ショコラ、早くやっ――」
「え? な、なに? こ、れ?」
「おい、マリア。なんで動いてる???」
私は、わけが分からなかった。
でも、この感情が何か、少しだけ分かった。
悲しみだ。
カイン氏が悲しんでいる。
私も、悲しかった。
あなたに、そんな顔をしてほしくなかった。
その悲しみが、身体を動かしたんだ――。
カイン氏を押さえているフレーズ様の頭を踏みつける。
カエルみたいな悲鳴が聞こえた。
ショコラ様の髪を掴んで、窓の外へ投げ捨てた。
「な、なんだ、お前! なんで、俺たちに逆らうんだ!? ははっ、冗談だろ? 本気に――」
そう言いながら、魔法の準備をするヴァニラ様の顔面を平手打ちして、魔法をキャンセリングする。
色付きのヴァニラ様の魔法は強力だ。
耳から血を流し、倒れようとするヴァニラ様の喉を蹴り飛ばす。
詠唱不可能の状態にして――目を抉れば――。
「……マリア嬢、やめるんだ。……これ以上は、君の手が汚れてしまう……」
カイン氏が、私の手を掴んでいた。
ゴツゴツした、温かい手だった。
彼の身体から、圧のようなものが伝わってくる。
「悲しいの……あなたの書物が……」
のたうち回っている音が聞こえる。
痛いのかな? 私には、痛みが分からない。
灰になった書物と――床に落ちて、ボロボロになってしまった私の絵。
「……壊されたくない」
私の中で、『願望』というものが、はっきりと形になった。
***
「ナイトハルト家の子息が、皇女を唆した。そういうことだな」
皇宮の会議室。
お父様が机をドンッと叩きながら、そう言った。
お母様と、公爵家の方々が座っている。
当事者であるヴァニラ様たちは、現在治療中だった。
カイン氏は私の隣に立っている。
両手に、魔力を封じる枷をつけられていた。
「いいえ。私が、自分でやりました」
「マリア。あなたは黙っていればいいのよ。いつものようにね……。だって、こんなこと初めてじゃない……。きっと、あの子爵の息子が悪いのよね?」
お母様が、私の肩へ手を置いた。
私は頷かなかった。
「まあまあ、マリアンヌちゃんも悪気がなかったんだよね。じゃあさ、ほら、そいつがたぶらかしたんだろ? この色男が」
誰かが、場の空気を和ませるために笑っていた。
私は笑う気さえも起きなかった。
「陛下。ナイトハルト家には相応の責任を。息子が元どおりになる保証もないのですぞ……」
ブルー公爵が言った。
お父様は頷く。
「まずは退学。作品は調査のため全て押収する。妙な魔法でも仕込まれているのだろう。その後、子爵家は追放だ。……マリア。お前の絵も全部捨てる。あれのせいで――」
私は顔を上げた。
私の絵と、彼の書物を捨てる?
「……それは、誰が決めたのですか?」
「マリア……言うことを聞きなさい。この私の足を引っ張るのか?」
ガシンッという音が隣から聞こえた。
テーブルを足で蹴った音だ。カイン氏だ。
「揃いも揃って、目が節穴ですか? はっ、帝都は芸術の都と聞きましたが? あの絵の才能が分からないんですか? ……ちゃんと、マリア嬢の才能と向き合ってください。じゃないと――」
騎士が、彼の口を押さえた。
ああ、嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
私が言うことを聞けば、元どおりになる。
でも、そこにカイン氏がいない。
お母様は安心する。
お父様も、余計な手間が減る。
笑って、褒めて、頷いて。
『一人』で絵を描いて――。
ああ。
もう、一人は、嫌なんだ。
「……カイン氏を、放してください」
お父様が、私を見る。
「聞こえなかったのか? これは決定だ」
「聞こえています。だから、取り消してください」
騎士がカイン氏を引いた。私は、その腕を掴んだ。魔力が溢れれ、騎士の鎧が軋み、膝が床へ落ちた。
そして私は、窓の向こうの空に向かって――自動詠唱による国家級の魔法を放った。
強大な魔力が太い光へ変わり、全てを薙ぎ払う力となる。
空に飛び上がったそれは、雲をかき消し、天候をも変える。
「マリア……」
「お、お前……その力は……原初の力を……」
私はカイン氏の手を取った。
自分の頭をトントンと叩く。
「私、全部記録しています。お父様やお母様、公爵家やヴァニラ様にお願いされた、悪いことを。……公開しましょうか? もちろん証人もいます。あの冤罪の彼女とか――」
善悪の区別は、書物で学んだ。
処世術も、書物で学んだ。
だから、ヴァニラ様たちの後始末は、私の仕事だった。
冤罪を着せられた人が元の生活へ戻れるように手配し、証拠になる書類は保管しておく。
そうしているうちに、私の頼みを聞いてくれる人が増えた。
保険は必要だと、本に書いてあったから。
「命令書の写しもあります。皆様のお言葉と、どちらが正しいのでしょうね」
ブルー公爵が口を開きかけた。お父様が、それを手で止めた。
「……仕方ない、その枷を外せ」
騎士が動かなかった。いや、混乱してどうしていいかわからなかったんだ。昔の私にみたいに。
お父様の声が、もう一度響く。
「聞こえなかったのか。外せと言っている」
カイン氏の枷が外される。そして――
「カイン氏の退学も、子爵家の追放も、作品の押収も。私の絵を捨てるというお話も、すべて取り消してください」
お父様は、私を見つめていた。私は、その目を見返した。
「……ああ、取り消す取り消す。だから、俺に歯向かうな」
皆様が黙っていた。
静寂の中、私は初めての『笑顔』を浮かべて。
――今度は私が作り出す。
人に感情を与えられるような、『モノ』を作るために――。
「では、お後がよろしいようで。失礼いたしますわ」
私とカイン氏は手を繋いだままお辞儀をして、部屋出るのであった。
「……カイン氏。続きを書けますか?」
カイン氏が「面倒になったな……」と自分のことじゃないような口調でつぶやいていた。口元が笑っている。
「もちろん書くさ。君は?」
「……私も描きたいものがありますわ
「なら、文芸室へ戻ろう」
早く戻りたかった。彼が何を書くのか知りたい。
カイン氏が笑った。私はうまく笑えているでしょうか?
……この日常が壊れるなら――
私は、皆に嫌われる皇女になりましょう。
だって、私は守りたかった。
カイン氏と会って、初めて『色づいた』世界を――。
ありがとうございました!楽しく書けました!




