第73話 飛退
――⁉
モイは驚いて後ろへと飛び退り、ノーマンの後へと隠れる。
「お前といい、エイガといい、俺は防波堤か」
ノーマンはそう言って怯えるモイを横目に見た。
モイはノーマンの後ろでブルブルと手を震わせながら、視点の定まらない目の奥でぐるぐると思考が巡る。
日本出身の一般家庭で育ったモイが手の甲にキスを落とされる経験などあるわけがない。照れというよりも混乱が先に来て思わず手の甲を無意識にゴシゴシと擦った。
「な、何か失礼を⁉すみません、すみません!わたくし最近女性と関わったことといえばアレーシア様ぐらいで!」
ヴァルカンも慌てた様子で、猫のようにその場から飛び退った。思わず拒絶の反応を取ってしまったモイ、相手の意図が分からないまま拒否されたヴァルカン、二人の間になんとも言えぬ沈黙が流れる。
ヴァルカンはキュッと唇を引き結びながらモイの顔色を伺い、モイはノーマンのローブをギュッと握りながら片目だけをノーマンの後ろから出し様子を伺っている。
ノーマンが見かねたように後ろに隠れたモイに声をかけた。
「ほらモイ。大丈夫だ。ただの挨拶だよあれは」
ノーマンはそう言って落ち着かない様子で目を回しているモイの頭を撫でた。
ノーマンが頭を撫でると自然とそちらにモイの意識が逸れる。モイの中で張り詰めていたものが緩み、目の奥でぐちゃぐちゃしていた思考もなんとか落ち着きを取り戻し始めた。
モイが顔をあげればノーマンは、またポンポンと軽くモイの頭を叩いた。
モイは別に手の甲にキスをされたのが嫌だった訳では無い。
ただ本当に驚いただけだったのだ。こういう挨拶の仕方だって元の世界にもなかった訳では無い文化ではあったし、理解はできる。ただ突然当たり前のようにキスをされたことに脊髄反射で反応してしまっただけなのだ。
次にノーマンは顔を真っ青にしているヴァルカンを見た。
モイと同じくブルブルと震えながら、血の気が引いているヴァルカンの顔は被害?を被ったモイよりも酷いものだった。
ノーマンはクスリと笑いながらモイを庇うようにヴァルカンとモイの間に挟まるように体を動かす。
「ヴァルカン、こいつは異世界出身だ。挨拶の仕方も変わるっていうのはわかるだろう?」
ノーマンの言葉でヴァルカンは合点がいったらしい。
あぁと言った顔をしてノーマンの後ろに隠れていたモイを怯えさせないためなのか、立膝のまま、小動物でも捕まえるような挙動でじりじり近づいてくる。
巨体でのっぽなその姿で小鳥のようにちまちま歩いてくる姿はなんとも滑稽な姿だった。
しかしモイはそんなヴァルカンの姿を違う目線でじっとノーマンの後ろから凝視していた。
膝をついているというのにまるで上から糸でつられているようにシャンと伸びた背筋、、ずれない体幹。本人はなんの意識もせずに行っているのだろうが、その姿はおかしくありながらも美しく、一番弟子という称号に相応しい人物だということを語らずとも証明していた。
「し、失礼しました。えっと、モイ様」
ヴァルカンがまるで寝ている赤ん坊を起こさないようにするような声でモイに声をかけた。
モイはピクリと肩を一瞬動かし、ずっとこっそり見ていた後ろめたさから目線をそらす。
「先ほどは失礼を。わたくしの故郷のあいさつなのです。お許しいただけると非常にうれしいんですが……」
そう言って眉を下げながらまるで壊れ物でも扱うような声を出すヴァルカン。
許すもなにも、失礼をしたのはこっちの方なのに。モイはそう思ったが、中々その簡単な意思が言葉にならない。モイが戸惑っているとそれに気づいたのかノーマンが横からモイに告げ口をしてきた。
「モイ、こんな悪人面の奴だが根は悪い奴じゃない。許してやるって言わんとずっと謝ってくるから今のうちに許した方がいい」
そんなことを言われてヴァルカンがノーマンの方にバッと勢いよく首を回した。こんなことを言われて大の大人が何も思わないわけがない。
モイは何を言っているんだと言わんばかりに目を見開いてノーマンの顔を振り返ったが、それに対してのヴァルカンの反応はモイの想定外のものだった。
「そんなひどい!ノーマン様!」
ガーンと効果音がつきそうなくらい、大粒の涙を目から垂らしだすヴァルカン。モイの目の前で大の大人が泣き出した。
「本当のことだろう、一回お前が俺の治癒魔法薬を割ったこと許さなかったら1か月謝り続けてきたのはどこのどいつだ」
「え、えーっと私です……」
「だな。モイ、だから返事しとけ。許したくないなら強制はせんがな」
ノーマンがそう言って小突いてきたが、モイは目の前の光景にただ唖然としていた。
目の前で顔を覆いながらおいおいと泣いているヴァルカン。
こんなにしっかりとした執事服を着ているというのにモイから見たヴァルカンはさっきから言動がどことなく頼りなかった。こんな巨体だが案外心は小心者なのかもしれない。そう思うと糸目で涙を浮かべるヴァルカンの姿が可愛らしく思えてきて、モイはおもむろに黒板を手に取る。
黒板に文字を書き込む。
この国の言葉で書いたかを確認してからくるりとヴァルカンの方に黒板を見せた。
――許します。びっくりしただけなので。
それを見るとヴァルカンの顔がぱぁっと明るくなった。その顔はまさに犬そのものである。
モイはこの瞬間にこの男の器をなんとなく計れた気がした。
「あ、ありがとうございます!私が聞き逃さぬよう黒板にまで書いてくださるとはなんとお優しい方!」
「い、いやこいつの黒板は事情が――」
ノーマンの言葉は届かず、ヴァルカンは少し興奮した様子で話し続ける。
「モイ様は素敵な方ですね。ぜひもっと明るい時間にまたお越しください。夜のこの場所は血生臭くて、汗臭いのでモイ様には少々刺激が強いかと」
そう言ってヴァルカンは手を胸に添えながら執事さながらのお辞儀をしてみせる。
モイにお辞儀したあと、ノーマンに目線を移すヴァルカン。少し乱れた髪をその長い指で一梳きし、スーツを軽く整えてノーマンの前でシャンと姿勢を伸ばした。
「話がそれましたね、それでノーマン様。当屋敷にはなんの御用でしょうか?」
先ほどの様子とは打って代わり、ヴァルカンの一言でパンと手を打ったようにその場の空気の流れが変わった。メリハリをはっきりとつける人なのだろう。
「あぁ。実は俺のもう一人の弟子が帰ってきていなくてな。お前のところにいる眼鏡の召喚者と一緒のはずなんだが。確か勇者の紋章持ちの」
するとヴァルカンは不思議そうに首を傾げた。
「勇者の紋章?勇者の紋章ということはヒデキのことでしょうがもう彼は帰りましたよ?夕方くらいに」
それを聞いた瞬間、鳴りを潜めていたモイの中の嫌な予感がまた大きく鼓動を打ちながら胸で揺れ動いた。




