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「そうか…、それだけか?それやったらそれでええわ」
康彦は安心したような顔になって首を何度か縦に振った。
「えっ、それでええって?何がええのよ?」
真理子は納得がいかない。
「その子から何にも言われてないんやろ?」
「その子って、あたしの小さいときの姿なんやで」
「ああ、わかってる。せやからそれでええねん。もし、その子から何か言われてたんやったら、すぐに言われた通りにせんとあかんけどな」
「二人とも何言うてるのんっ、訳わからんわ。ちゃんと説明してよ」
真理子は康彦と芳江を交互に訴えるような目で見つめた。
「真理子、おまえ、明日も休みなんやろ?」
康彦が詰将棋の問題集を脇において唐突に訊いた。
「うん、まあ、明日は日曜やから休みやよ」
「そか、ほんなら今日は泊っていけ。明日の朝、ばあさんの見舞いに行こ」
「えっ、なに?急にどうしたん?」
「いま云うてるそのピアノの話を訊きに行くんや」
「えっ?おばあちゃんとあのピアノと何か関係あんのん?」
真理子は康彦が言っていることの意味が分からず眉根を寄せて聞き返した。
「ああ、あれは、元々おふくろの持ちもんやからな…」
康彦が思い浮かべるような顔つきで応えた。
康彦の母ハルは今年90歳になり、兵庫県下では著名な私立高校で音楽教師をして定年まで勤め上げたが、80歳を超えてから骨粗しょう症が原因の腰椎圧迫骨折で立ち上がれなくなり、精神はしっかりして明解なのだが、肉体的にはほぼ寝たきり状態になってしまった。いまは六甲山の中腹にある介護老人ホームに入所している。ハルは物心ついたころからの音楽好きで、芸術大学のピアノ専科に進んだが、ピアノ奏者としては大成できず悩んでいたときに、大学時代の友人から誘いがあって、音楽教師に転身したらしい。元々教師志望だったその友人が履修していた教職課程の単位を興味本位で一緒に履修していたのが幸いしたと聞いている。ハルは幼少期に買ってもらったあの玩具のピアノをピアノの本格的な奏者になってからも何故か大事にしていたようで、もちろん教師になってからも思いのほか大切にしていたとのことだった。云わばハルの音楽人生の原点なのかも知れない。
「おふくろ、まだこっちのほうはしっかりしてるからちょっと話訊きに行こうか。おまえも長いこと会うてへんやろ?」
康彦は人差し指を軽く曲げて、こめかみあたりをトントンと2度当てて笑った。
康彦も久しぶりに娘と孫に会ってかなり上機嫌で、夕食は駅前の「鶴鮨」へ連れて行ってくれることになり、早速芳江が予約電話を入れた。芳江に言わせれば、康彦も最近は家呑みばかりで、たまには自分も表に出たかったのだろうと真理子の耳元で囁いた。夕食を4人で食べるのはいつからだろう。少なくとも彩夏が歩き始めてからは初めてだと思う。