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遅めの昼食をファミリーレストランで終えて家に戻ったのは既に午後4時を過ぎていた。真理子は何もしていないのにもかかわらず何故か少々疲れ気味で、今から大阪まで運転して帰るのも面倒だったので、もうひと晩泊っていくことにした。明日午前中に戻れば仕事も滞らせることもない。しかし元々1泊するか、しないか程度の気持ちだったので着替えがなくなってしまった。もう1泊したいと芳江に伝えて、洗濯機を借りて今晩の内に洗濯乾燥しておくことにする。
リビングでは相変わらず芳江と彩夏が楽しそうに遊んでいる。
「お母さん、大丈夫?そんなに彩夏の相手して疲れてへんか?」
真理子はちょっと心配そうに首を傾げて芳江に訊ねた。
「ん?平気やで、たいしたことないよ」
芳江は彩夏にあやとりを教えてくれている。
「あたしら帰ってから、普段せえへんことしたいうて、寝込んだりせんといてや」
「大丈夫、大丈夫。それより洗濯するんやったら乾燥したあと掃除モードにしといてや」
「ふーん。なに?それ?どうやんの?あとでええから教えてな」
真理子は自分の部屋に戻って、持って帰るつもりでバッグに詰め込んであった昨日着ていた下着や洋服などを抱えてバスルームの洗濯機へ放り込んだ。洗濯&乾燥終了まで3時間40分の表示。リビングに戻ろうとも思ったが、やはりあのピアノが気になるので2階の自分の部屋に戻った。昨日あの怖い夢を見たのでピアノはクローゼットに戻しておいた。
クローゼットを開けると、それは昨日、真理子が戻した状態のままくまくんの横に突っ込まれている。ピアノを引き出そうとしたとき、くまくんの脇からピンク色のノートが出てきた。
〈ん?なにこれ?母子健康手帳?〉
真理子は脚部が一箇所欠損しているピアノを丁寧にベッドの上に置いてからその手帳を手に取ってみた。
〈誰の?って、これあたしのんやんか〉
真理子の名前と生年月日と保護者名加藤芳江とあるその筆跡は見覚えのある康彦のものだ。〈なんでこんなとこにあるんやろ〉
訝しく思いながらページを捲ってみる。真理子が彩夏出産のときにもらった手帳と自治体が違っても内容はあまり変わりないように思うが、自分のものと大きく違うのは、妊娠時の体調など、自身で記載する欄には几帳面な芳江の小さな文字がびっしりと並んでいることだ。初めて胎動を感じたときの気持ちなどが書き綴られている部分は感涙ものだった。考えてみれば真理子自身が芳江の胎内に宿った様子なのだが…。真理子がウルッとしたとき、ベッドのうえであのピアノがカランと鳴ったような気がして目を向けると、例のベールがまたしても覆い被さってきた。
〈うわっ!〉
思わず叫んでしまったが、今回は冷静な気持ちでそれを右手でゆっくりと取り除いた。
〈病院?かな?〉
真理子はそう呟いてその情景を見つめる。康彦とハルそれにラインの入ったナースキャップを付けた女性と医師らしき男性に囲まれたベッドに芳江が笑顔で横たわっている。その横にはお猿顔の赤ん坊が寝かされていた。
〈これって?あたし?〉
真理子はその情景に見入った。
「無事に生まれてよかったなあ…」
康彦が安堵の顔で芳江を眺めている。
「ほんと、一時はどうなるかと思うたけどな」
ハルも笑顔で芳江を見つめている。
「すみません。ご心配お掛けしました」
ベッドの芳江は申し訳なそうな顔をしながらも微笑んでいる。
「木村先生のおかげや。ほんとありがとうございました」
康彦が隣にいる木村先生と呼ばれた白衣の男性は少々照れたように頭の後ろを右手で摩りながら口角を上げた。
「いやあ、それほどのことではないですよ、逆子の普通分娩って。僕はしょっちゅうやってますから、まあ、得意っていったら変ですけどね」
木村医師はそう言ってまた笑った。
「でも、逆子っていうたらすぐ帝王切開になるって聞いていたもんですから心配でねぇ」
ハルが木村医師の横に立っている【婦長 山本】とあるネームプレートを胸に付けた女性の顔を見た。
「いえ、木村ドクターなら絶対安心ですから、私たちは全然心配していなかったですよ」
山本婦長は微笑みながら木村医師を見た。
「まあ、確かに逆子の経腟分娩って、リスクがあると言えばあるんです。大きな頭が最後になりますのでね。正直言って、やってみないとわからない部分もありますしね。だからみんなやりたがらないだけなんです」
「芳江さんのお腹に傷が残ったら可哀想やし、ほんとにありがとうございました」
ハルも康彦と同じように笑顔で頭を下げた。
〈あたしって逆子やったんや…〉
真理子はそう呟きながら、康彦もハルも芳江のことを気遣ってくれているのが分かって何だか嬉しくなった。今でこそ逆子の出産なんて大したことではないはずだけど、あたしが生まれた30年以上前だと大騒ぎだったのかもしれないなと考えていると目の前のその情景はゆっくり消えていき、脇に置いたはずの芳江の母子手帳も見当たらない。ベッドのうえにはあのピアノだけがポツンと残っていた。真理子の頭のなかでカランというあの音がまた聞こえたように思えた。