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ハルが幼少期に買ってもらったあの玩具のピアノはハルの音楽人生の原点で、本物のピアノを弾くようになってからも捨てることなく大事にしてきた。玩具独特のカランカランと奏でられる乾いた音が面白くて、バイエルの初級練習曲やその頃流行った流行歌などを譜面通りに弾いて楽しんでいたという。いわばハルの音楽人生そのものの記憶がこのピアノに宿っていて、いつの頃からかこの家の血を引く者の心に深く刻まれた記憶もこのピアノの和音を通じて呼び覚まされるようになったとのことだった。
「へえー、何やのんそれっ?何か嘘っぽいなあ…。」
真理子は信じられないというように両手を広げてみんなを見た。
「うん、嘘みたいやけどな…。これがほんまなんやわ…」
康彦は何かを思い出すように谷の向こうに見える海を眺めている。突然あのピアノが現れる理由はわからないが、脚部がひとつ欠損しているのはおそらく家族のひとり克洋が不遇の事故で亡くなったせいだろうという。
「お父さん、あたし…。昨日の夜、それ見てしもうたわ。克ちゃんの事故…」
真理子は誰に言うでもなく呟いた。
「えっ?何やそれ?」
「昨日って?」
ハルと芳江が訊き返した。
「うん、お風呂入った後、彩夏がお母さんと寝るって言うから、あたしは自分の部屋で寝るわってことになって、そのまま2階へ上がったやろ。その後の話なんやけど…」
「そうなんか?事故するの見たんか?」
康彦も訊き返した。
「うん、車が衝突する前に目が覚めたっていうか、気が付いたっていうか、たぶん夢見てたんやと思うけど、ちょっとリアルやった」
それを聞いていた3人はそれ以上の言葉を発することができず、その後しばらく沈黙が続いていたが、真理子にはもうひとつわからないことがあったので、思い切って訊くことにした。克洋の事故の話のせいで途切れてしまった彩夏と祖母の繋がりことである。
「それはそうと、おばあちゃん。なんで彩夏とピアノの練習したことになってるん?」
真理子はハルの肩に手を置いて顔を覗くようにしたとき、襟ぐりが大きめのカットソーを着ているハルの襟足に小さなほくろがあることに気が付いた。
「あれ?おばあちゃん。こんなとこにほくろあんのん?」
「ああ、それな…。生まれたときからあるそうやわ」
「ふーん、知らんかった…。彩夏といっしょやわ。場所もほとんどおんなじとこかもしれんわ」
ハルはそれを聞いて何かを納得したような顔つきになって、転落防止フェンスの隙間から見える遠くの海にはしゃいでいる彩夏を見つめて目を細めながら応えた。
「それ、たぶん彩夏ちゃんの夢のなかに私が出てきたんやと思うわ。ほら、彩夏ちゃんが生まれて、まりちゃんが産後療養でまだウチにおった頃、私が彩夏ちゃんのことをあのピアノをガラガラ代わりにしてあやしてたん覚えてるか?彩夏ちゃん、あのピアノ弾いたらいそれまで愚図ってても泣き止んで、ニコって笑うんやわ」
「そういえば、そうやったね」
真理子も思い出したように呟いた。
「まりちゃんが大阪へ戻ったあと、ウチに来たんは何回もないやろ?たぶん会うたんは5~6回とちがうかな?」
「うん…。そうかもしれんわ…。ごめん…」
真理子は首を垂れて項垂れた様子で謝った。
「いや、それはええねんけどな。私も怪我してしもうて、会いに行くこともでけへんかったからな。せやから彩夏ちゃんが来るたびにあのピアノ弾いて赤ん坊のときの話を聞かせてたせいかもしれんなあ、それ」
「うん…。あたしも大阪戻ってからは、なるべく周りに迷惑かけんようにって、ひとりで頑張ろうと必死やったし…」
「お義母さん、その責任は私にあると思います…」
ふたりの話を聞いていた芳江が申し訳なそうな顔をして割って入ってきた。
「私が真理子の言うことに甘えていました」
「みんな何言うてるんや。そんな終わったことはどうでもええ。これもみんな来た道やし、これから行く道やさかい、先のことをもっとしっかり考えんていかんとあかんで。これから通る道は通り直しがでけへん道やと思わなあかんのやで。そうやな!康彦っ」
ハルは芳江と真理子ににっこり微笑んでから康彦に顔を向けた。
「ああ、そうやな。おふくろが言うてるんは何か変な宗教みたいやけど、まあ当たらずとも遠からずや」
康彦はひとり大笑いした。
みんなもそれに釣られるように笑ったが、真理子の頭の中ではあのピアノの音がひとつカランと鳴った気がした。