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「どうかされましたか?」
すぐに高坂弘美が顔を出した。
「いえ、ちょっとみんなで表出ようかと思うてな。お天気も良さそうやし…」
ハルは両手を広げてみんなを見渡しながら弘美に笑顔を向けた。
「そうですか。それはいいですね。ちょっと待っててください。車いす準備しますね」
弘美も微笑みながら、部屋の片隅に折り畳んで置いてある車いすをセットすると、ハルを抱き起して座らせる。
「じゃあ、行きましょうか」
弘美はハルを乗せた車いすを押して、みんなに付いてくるよう促した。
施設の屋上はちょっとした展望台になっていて、六甲山麓の山々はもちろん、今日は天気が良いので大阪湾の海まで望むことができた。
「それでは、あとよろしくお願いします。部屋に戻られるときはこのボタンを押して呼んでください」
弘美は携帯型のナースコールを康彦に渡して戻っていった。
「へーっ!きれいなんやね」
真理子はこの施設にこのような場所があることを初めて知った。
「お義母さんはこれが気に入って、この施設に決めたんやから」
芳江は車いすのハルに眼を向けて微笑んだ。
ハルもうんうんと頷きながら思い出したように訊ねた。
「ほんで、どうしたんや、今日は。みんな揃うて」
「うん、また、あのピアノから記憶が飛び出たっていうか…何ていうか…」
康彦が景色を見渡しながらハルに答えた。
「えっ!ほんまにっ?」
ハルは一瞬驚きの顔になってすぐに続けた。
「誰か何かしたんか?」
「あたし…みたいやねん。彩夏のこと叩いてしもうた」
真理子が申し訳なさそうな顔をして、車いすのハルに目線を合わせるように腰を折った。
真理子が昨日体験した若い芳江と子供の自分の会話と情景をすべて話し終えると、それまで時折頷きながら黙って聞いていたハルはポツンと呟いた。
「そうか…、子供叱るな来た道…。やな」
「えっ?なにそれ?」
「まりちゃんにも子供のときあったやろ?みんなおんなじことしてきたんやから、手なんか上げたらあかんってことや」
ハルは膝を折って目線を合わせてくれている真理子に眼を合わせた。
「あのピアノはな、和音を通して自分自身の大切な記憶を呼び覚ますことができるんや」
「記憶を呼び覚ますって?どういうこと?」
「せやから、あのピアノは記憶を呼び覚ましてくれる特別な力を持ってるって言うてるんや」
ハルは懐かしむように目を細めて周りの山あいを見渡しながら、言葉を選ぶように話し始めた。