あきらとベスパとネガティブ禄ちゃん
「あきらちゃん、いい加減起きてよお……」
教室の窓から温かい日差しが降り注ぐなか、聞きなれた甘ったるい声があたしの鼓膜に届いてきた。
「う、うーん、あと5分だけ……」
「あと5分って、これでもう3回目だよ。ねえ、お昼ごはん行かなくていいの?」
えっ、もう昼? ずっしりと重い瞼を開くと、目の前には幼馴染の萌理が呆れ顔を浮かべていた。眠気眼で教室の時計に目を向けると、確かに時刻は正午を示している。
「ああ、また寝過ぎた……って言うか変な体勢で寝てたから超体痛てえー」
あくびをしながら凝り固まった体を伸ばしていると、萌理が溜め息まじりで見つめてきた。
「……なんなの、その人を憐れむような眼差しは」
「憐れみたくもなるよ、幼馴染としては……」
「どう言う意味よ」
「あきらちゃん、ヨダレ全開」
「えっ、ヨダレ?」
慌てて口元に手を当てると、幼馴染のご指摘通りとても残念なことになっていた。いや、それどころか机に目をむけると小さな水たまりが出来ている……。
木ノ内あきら 性別女。初風市内の大学に通う一九歳。あきらと言う男っぽい名前と身長175センチの恵まれたガタイ、加えて講義中にヨダレ全開で爆睡出来るガサツな性格。要するにあたしはこの年になっても相変わらず女子力ゼロであった。
「あきらちゃんも一応はお年頃の女子なんだからさあ、もう少し気を使った方がいいと思うよ。はい、これ使って」
萌理はそう言ってハンカチを差し出してきた。純白のフリルレース。流石はゴスロリ系ミニマム女子、この辺もぬかりがないな……って言うか一応は余計だっ!
「いらねえ、そんなもん」
あたしは幼馴染の優しさをやんわり断ると、リュックサックに放り込んでおいたポケットティッシュで口元と机に出来た小さな水たまりを拭いた。
「よっしゃ、これでOK。さてと、今日の昼めしはどうする?」
「あきらちゃんと一緒なら、あたしはなんでもいいよー」
「あんた、またそれ?」
萌理は昔から ”なにを食べる” よりも ”誰と食べる” に重きをおく子だった。あきらちゃんと一緒なら、あたしはその辺に生えてる雑草にマヨネーズでも充分イケるよ、と以前に言ってほどだ。そんなことを思いつつ本日のランチメニューを考えていると、ジーンズのポケットに入れてあったスマホが振動を始めた。
時刻は12時ジャスト。この時間の着信といえば……液晶画面に目を向けると予想通り公衆電話と表示されている。あんにゃろう、やっと掛けてきやがったか……あたしは心の中で呟くと、ほくそ笑みながら耳元にスマホを運んでいった。
「もしもし」
「先生に折り入ってご相談があります」
受話器からは予想通りの言葉が返ってきた。しかも声の調子からして今日はかなり焦ってるようだ。
「OK、いますぐ行く」
「ありがとうございます。では一五分後にいつもの場所で」
「いや、一五分じゃちょっと――」
「ブチッ、ツーツーツー」
あ、あのさあ、人の話は最後まで聞こうよ……あたしは小さく溜め息を漏らしながら萌理に顔を向けた。
「悪い、今日の昼めしはパスで」
「えー、なんで? なんで?」
「ちょっとした野暮用が出来たの」
「えー、どんな? どんな?」
「秘密」
「えー、気になる、気になるー、今夜眠れなくなるー」
萌理は頬を膨らませながら、あたしのTシャツをグイグイと引っ張ってきた。ったく、相変わらずしつけえなあ……しょうがない、素直に白状すっか
「元教え子からの緊急招集よ。多分、今日が最終ミッションになると思う」
「ああ、それなら仕方がないか……でもさあ、元家庭教師さんもほんと大変だねー」
萌理はからかうように言うと、悪戯っぽく小首をかしげた。このロリーでキュートな仕草を見せられたら、並みの男ならいちころだろう。
だが同性でしかもこいつの本性を知ってるあたしにとっては、ただイラッとくるだけでしかない。と言うわけで、あたしはいつものように幼馴染の鼻の穴にトゥーフィンガーを突っ込んでやった。
「ってなわけだから、午後からの講義の代返よろしく」
「ええ、またあ?」
「なによ、文句あんの? 言っとくけどもし断ったら前みたいに第二関節まで突っ込むわよ」
「……そ、それだけはやめて」
「んじゃ、あとは頼んだわよ」
「はーい、行ってらっしゃいー」
「行ってきますっ!」
あたしは親友の頭を軽く撫でると、駆け足で教室をあとにした。突然だが、現在あたしはとある奥手な少年の恋を成就させるため孤軍奮闘している。
正直言って他人の恋路なんてどうでもいい。男と女なんて、くっつくときは黙っててもくっつくものだ。じゃあどうして、あんたはそんな面倒事を背負い込んだわけ?
まあ、そこにはかなりややこしい事情と、浮世の義理人情と言うものがあるのだよ。と言うわけで、今日もあたしは相棒のベスパにまたがり、彼との待ち合わせ場所へと向かうのだ。
ああ、腹減った……ったく恋のキューピッドもらくじゃないぜ。
☆
待ち合わせ場所の院内カフェに到着すると、彼はいつもの指定席で優雅に紅茶を啜っていた。一之瀬禄 15歳。ここ初風市にどっしりと根を張った大地主の一人息子。いわゆる超金持ちのボンボンと言うやつだ。
あたしは数か月前まで彼の家庭教師をしていた。友達付き合いが大の苦手でいつも一人ぼっちなお坊ちゃまは、未だになにか理由をつけてはあたしを呼び付けるのだ。まあ、と言ってもこれは情報提供者からの受け売りなのだが。
「おっすー! お待たせっ、禄ちゃん」
「先生、8分と20秒遅刻です」
腕時計に目を落としながら、彼はぼそりと呟いた。この辺の細かさが大雑把なあたしとは実に対照的だ。
「まあ、そう言ってくれるなよ。これでもきみの為に、スロットル全開でかっ飛ばして来たんだからさ」
あたしはヘルメットを脱ぎながら彼の向かいに腰を下ろすと、丁度よく現れたウェイトレスにアイスコーヒーを注文した。
「スロットル全開? もしかして、まだあのベスパに乗ってるんですか?」
「当たり前だのクラッカーっ!」
あたしは親指を立てながら満面の笑みを彼に向けた。
「……なんですかそれ?」
「知らないの? 昔流行ったギャグよ」
「ギャグ? 相変わらず先生には悩みが無さそうですねえ」
いまのところ唯一の悩みの種はあんたよ……あたしは心の中で呟くと、溜め息まじりで髪の毛をかき上げた。
「あのベスパって随分と古いものなんですよね?」
「うん、そうみたいね」
「因みにどれくらい」
「詳しい年式は知らんけど、あたしが生まれるよりずーっと前の代物だってことは確かだね」
「それって危険じゃないんですか?」
彼は眉をひそめながら尋ねてきた。
「危険ってなにが?」
「だってそんなに古いものなら、いたる所にガタがきててもおかしくないじゃないですか」
「大丈夫、大丈夫。いつも愛情かけてメンテしてるから」
「いや、でも――」
「なによ、そんなにあたしのことが心配なわけ?」
「当然じゃないですか」
「あら、今日は随分と素直じゃん。一体どう言う風の吹き回し?」
「たかが元家庭教師とは言え、先生に交通事故死でもされたら流石に気分はよくないですから」
「なるほど、相変わらず禄ちゃんは可愛らしいこと言ってくれるねえ」
あたしは満面の笑みを作って見せた。だがおそらく額にはくっきりと青筋が浮かんでることだろう。
「前から聞きたかったんですけど、どうしてそんなにあのベスパにこだわるんですか? もう相当古いんだから、いい加減買い替えたほうがいいと思いますけど」
おいおい、あんたがそれを言うか?……あたしは苦笑いを浮かべながら小さく溜め息を漏らした。
「あのベスパは大切な人から譲り受けた、あたしの宝物なの。だから買い替えるなんて出来ない」
「……因みにその大切な人と言うのは男性ですか?」
「うん」
「へえ……そうですか」
彼は少し落胆するように呟いた。
「んなことより、相談ってなんなの? まさかこんな世間話をするために、わざわざ呼び出したわけじゃないでしょ? って言うか、もしそうだったらグーでブン殴るわよ」
「勿論です。僕もそこまで暇じゃありません」
「だったら勿体ぶってないで、さっさと用件を話なさいよ」
「言わずもがなですが、先日も話した謎の美少女の件です」
まあ、わざわざ聞かなくても分ってたけどね……あたしは心の中で呟いた。彼があたしを呼び出した理由、それはある一人の少女が原因だった。
初めて出会ったのはいまから二週間ほど前らしい。その少女は一切面識がないにも関わらず、彼の前に現れてはなにかと世話をやいていくそうだ。例えば頼んでもないのに紅茶を煎れてきたり、お手製の弁当を作ってくることもよくあるらしい。
「こないだも言ったけどさあ、一体それのなにが問題なわけ? 可愛い女の子とお知り合いになれたんだから、めちゃめちゃハッピーじゃんよ」
あたしは鼻をほじりながら大欠伸を漏らした。
「先生、これはそんな単純な話じゃないんです」
「どう言うことよ」
「僕が思うにですね、あの謎の美少女は一之瀬家の財産をつけ狙うために雇われた刺客です」
彼はきょろきょろと辺りを見回したあと、口元を覆いながら小声で答えた。あ、あいたー……正直、ここまでイタいとは流石に思ってなかったわ。
一体どういう思考回路を辿れば、そんなアホ丸出しな回答が導き出されるわけ? あたしは軽い眩暈に襲われると同時に、素早く額に手を当てた。
「あ、あのさあ、一つ質問していいかな?」
「なんなりと、どうぞ」
「その謎の少女が――」
「謎の美少女です」
食い気味で訂正……どうやら、そこにはかなりのこだわりがあるみたいね。
「ごめん、ごめん。じゃあ、あらためて聞くけど、きみがその美少女とやらを疑う根拠はなんなの?」
「簡単ですよ、彼女は僕に親切過ぎます。これはどう考えても怪しいですよ」
彼はテレビドラマの探偵役のように、ニヒルな笑みを浮かべながら顎をさすった。アホだ、ガチのアホがここにいる……。
「格好つけてるところ悪いんだけどさ、彼女がきみに好意を持っている、って言う普通の考えには至らないわけ?」
「僕に好意?」
「財産狙いなんて言う突飛な考えよりも、そっちのほうがよっぽど現実的でしょ」
「ありえませんね」
きっぱりと否定。
「どうして?」
「こんな冴えない男に誰が好意を抱くって言うんですか……」
うわっ出たー、太宰級のネガティブ発言。それさあ、こっちのテンションまで下がるから、マジで止めてくんないかな……。
あたしは小さく溜め息を漏らすと、自嘲した笑みを浮かべたまま固まっているミスターネガティブ少年に視線を合わせた。
「ちょっと禄ちゃん、一人で勝手にいじけないでよ。きみにだって良いところは沢山あると思うなあ、先生は」
「ふっ、慰めの言葉なんていりませんよ……」
「いやいや、慰めなんかじゃないって」
「じゃあ、いますぐ僕の良いところを言ってください。最初に断っておきますけど、一つや二つじゃ納得しませんよ。最低でも五つはお願いしますっ!」
臆病で繊細な少年は珍しく語気を強めた。正直きみの良いとこだったら百でも二百でも、なんなら天文学的な数だって言ってやるよ。
でも残念ながら、それはあたしの役目じゃないんだなあ。それをきみに伝える人はね、ずーっと前から決まってるの。どうやら、あたしの役目はここまでのようだ……んじゃ、あとは頼んだぜ、謎の美少女っ!
あたしは心の中でそう呟くと、指をパチンと弾いた。すると彼の背後に座っていた和服を着た女性がすっと立ち上がった。そして一瞬あたしに目を向けながら小さく頷くと、すぐさまその視線をミスターネガティブ少年に移した。
「とある日のことです。地元の人たちで賑わう商店街で、一人の幼女が貰ったばかりの風船を手から離してしまいました。空高く飛んでゆく風船、途端に泣きじゃくる幼女……可哀そうだけど、あれはもう諦めるしかないな。皆がそう思いました。ですがその場にたまたま居合わせた少年が、その風船を追いかけはじめたのです。誰もが無理だと思いました。ですが彼はなんと半日以上かけてその風船を捕まえたのです。とは言え、彼に幼女の連絡先など知る由もありません。彼は風船を手にしながら幾日も商店街を徘徊しました。また幼女と再開できるのを待っていたのです。そして数日が経ったころ、やっと幼女と出会うことができました。彼は照れくさそうに微笑むと、すでに空気の抜けてしまった風船を幼女に差し出しました。と同時に幼女の傍らにいた母親が、咄嗟に娘を庇いました。恐らく少年のことを変質者とでも思ったのでしょう。その後、彼はたまたま巡回していた警官に人生初の職務質問を受けることとなりました……いくら幼女の為だからって、風船一つに普通そこまでします?」
謎の美少女は、冷めた瞳のまま溜め息まじりでミスターネガティブ少年を見下ろした。あらあら、相変わらずお優しいことで……あたしは心の中でほくそ笑んだ。
「あ、あの時はたまたま暇だったから……」
「たまたま暇? 年中暇の間違いじゃなくって?」
謎の美少女は鼻で笑うと、次々と彼のエピソードを語り始めた。そのちょっと間の抜けた心温まる数々の逸話は、あたしにとってあの日に貰ったベスパと同様、とても大切な宝物になった。
そしていつの間にか二人はあたしの存在を忘れて、まるで夫婦漫才のような会話を繰り広げていた。口が達者なツッコミ役の婆ちゃんと、天然丸出しでゆるーいボケをかます爺ちゃん……そこにはあたしが幼い頃から見慣れた二人の姿があった。
事の発端はこうだ。数年前から爺ちゃんが徐々にボケ始めた。勿論、漫才でのボケと言う意味ではなく痴呆症のほうだ。まあ、年齢的にはそろそろ始まってもおかしくない頃だったから、あたしたち家族はたいして驚きはしなかった。
幸いなことに性格のほうも温厚な爺ちゃんのままだったし、日常生活にはたいして困らなかった。だがここ数か月前から自体は急変した。見過ごせない厄介な症状が三点ほど現れたのだ。
厄介な症状その一。自分を一五歳の少年だと思い込んでいる。いわゆる思春期真っただ中と言うやつだ。八二歳の爺がなんとも厚かましい話ね、と婆ちゃんは溜め息まじりで微笑んだ。
厄介な症状その二。孫のあたしを中学生の頃に雇っていた家庭教師だと思い込んでいる。その女性はあたしと同じ、あきらと言う名前だったそうだ。面倒見がよく、とても頼りになる女性だったらしい。
因みにあたしの名付け親は爺ちゃんだ。どういう意図でその人と同じ名前を付けたかは、あたし自身ここ最近までは知らなかった。昔から幾度となく聞いたが、爺ちゃんは絶対に教えてくれなかったのだ。
でもつい先日、今回の情報提供者がこっそり教えてくれた。 ”お爺ちゃんの初恋相手はね、実はあきらさんだったのよ” と。なるほど、そういうことか。って言うか初恋相手の名前をふつう、孫娘につけるか?
因みにあのベスパの最初の持ち主もあきらさんだったらしい。彼女は結婚を機にベスパを爺ちゃんに譲ったそうだ。愛情をかけてメンテをしながら、爺ちゃんは大切に乗ってきたらしい。
それから数十年の時を経て、いまはあたしの大切な相棒になっている。ほらね禄ちゃん、簡単に新車に買い替えるなんて出来ないでしょ?
そんで、厄介な症状その三。正直言って、あたしたち家族にとってはこれが一番きつかった。何故なら大好きだったはずの婆ちゃんのことを、爺ちゃんはすっかり忘れてしまっていたのだから……まあ、当然と言えば当然だろう。
爺ちゃんが一五歳の時点では、二人はまだ出会っていない。彼らの出会いはそれから数年後のことだからだ。二人は互いの親同士が決めた政略結婚だった。
当時、両親からいち早くその事実を知らされた婆ちゃんは、自分の許嫁がどんな男か気になったそうだ。ってなわけで翌日から一人で調べ始めたらしい。いわゆる未来の旦那様候補の査定というやつだ。ほんと、昔から婆ちゃんは機動力抜群だ。
爺ちゃんを調べ始めてからひと月ほどが経過した。婆ちゃんが得た情報は以下の通りだ。
その一、取りあえず馬鹿。
その二、かなりのネガティブ思考。
その三、なにをやってもいつも空回り。
その四、友人ゼロ。
その五、紅茶をこよなく愛してる。
その六、とにかく時間に細かい。
その七、雨の日には近所のお地蔵さんに傘を差してあげてる(誰にもバレないように)
その八、音楽は意外にもジャズが好き。(マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーンが特に好き)
その九、唯一の相談相手は元家庭教師のあきらさん。
その十、困ってる人がいたら見て見ぬ振りが出来ない。でも結局はあまり役に立ってはいないけど……。
もし調べてくだらない男だったら、家出でもなんでもして結婚を回避するつもりだった。だけどいまはそんな決心など、どこか遠くに吹き飛んでしまっていた。
だってあんな馬鹿で不器用な天然記念物は中々いないからねえ……こないだ婆ちゃんが少し照れながら言ってた。要するに婆ちゃんは、あの日から爺ちゃんにベタ惚れなのだ。
だがいまとなっては、その大好きな人は自分のことをすっかり忘れてしまっている。この事実には気の強い婆ちゃんも、流石にかなりへこんだようだ。
あたしや母ちゃんに見せる笑顔も、最近はどこかぎこちない……孫としてはこのまま何もしないわけにはいかない。と言うわけで、あたしは婆ちゃんの笑顔を取り戻すべく、一肌脱ぐ決意をした。
それがいまから二か月ほど前のことだ。ここ最近は大学の講義もサボりがちだったから、これからは結構大変だろうなあ……でも、婆ちゃんのマジ笑顔を久々に見れたんだから、今回はよしとしますか……。
あたしは二人の楽しげな様子を見つめながら、小さく微笑みを浮かべた。んじゃ、お邪魔虫はそろそろドロンします。あたしは二人に気付かれぬようアイスコーヒー代をテーブルに置くと、静かに院内カフェをあとにした。
☆
「あきらさん」
一ノ瀬総合病院を出ると、聞きなれたおしとやかな声があたしの鼓膜に届いてきた。振り返るとそこには、予想通りシャネルのスーツをパリコレモデル並みに着こなした今回の情報提供者がいた。
「相変わらず金が掛かった普段着だこと……」
「あなたもそろそろパンツルック一辺倒は卒業して、こういう服を着てみたら? 絶対に似合うわよ」
「余計なお世話。あたしはこれがいいの」
苦笑いを浮かべながら言うと、情報提供者は不機嫌そうに口をすぼめた。若い子がやれば可愛げもあるのだろうが、年齢的にはかなり厳しいものがある。
「そんなことより、今回のミッションは無事成功したのかしら?」
「勿論。って言うか、わざわざ聞かなくても一部始終見てたんだから知ってんでしょ」
「あら……バレてたの?」
「あのねえ母ちゃん、病院でそんなド派手な格好してたらめちゃくちゃ目立つって……ったく、ほんと天然なんだから」
あたしがため息交じりでツッコミを入れると、一ノ瀬家の一人娘は頬に両手を当てながら顔を赤らめた。このおっとりした天然ぶりはほんと爺ちゃんにそっくりだ。
「それよりミッションも無事コンプリートした事だし、取りあえずなんか奢ってよ。あたし昼飯抜きだったから、超腹減ってんの」
「もう、また男の子みたいな口をきいて……」
「まあ、まあ。そんな硬いこと言いなさんなって」
あたしはそう言って、母親想いの母ちゃんの肩に手を回した。
☆
あの日から早いもので二週間が経った。いまではすっかり元気を取り戻した婆ちゃんは、十五歳の爺ちゃんと結構いい感じらしい。因みにたったいま、こんなメールが届いた。
”まだラブラブとまではいかないけど、これから二人でゆっくりと失った思い出を作っていくわ。それじゃ、あなたも青春真っ只中なんだから、そろそろ良い人を見つけないさいね……まあ、無理だと思うけど(笑い) お婆ちゃんより”
なにが(笑い)だっ、クソ婆っ! いま時流行んねえんだよっ! あたしは講義中の教室でスマホをきつく握りしめた。言っとくけどねえ、あたしはこう見えても昔から結構モテるんだからっ!
でもね、やつが近くにいるから彼氏どころじゃないのよ……あたしは小さく溜め息を漏らすと、教壇で仏教哲学を語る初老講師をぼんやりと眺めた。
すると数分後、ふと頭にこんな疑問が浮かんできた。 ”愛とはなんぞや?” 世界中の人々は皆一応に愛してほしい、そして愛したいと思っている。勿論、私もその中の一人だ。
因みに仏教では ”愛” という観念は捨てるべきだ、と説いている。なぜなら愛すなわち、それは執着と言い換えることが出来るからだ。
あらゆる執着を捨ててはじめて、如来に至る道が開けるらしい。どうやら、仏様は随分と冷めたお考えの持ち主のようだ。まあ、情熱的な仏様というのも、それはそれで嫌だけどね。
私はこのように、愛というものについて深く考えを巡らせてみた。そして様々な角度からアプローチを試みた結果、ある一つの結論に到達したのだ。
その結論とは――この講義が驚くほどに、つまらないと言うことです。退屈すぎて無意味に ”愛” などというものについて考えてしまうほどだ。
危ない、危ない。もう少しでイータい妄想女子になるところだった。一九歳の小娘が愛などという不確定なものを、深く考える必要などないのだ。
若者は若者らしく、糸井重里よろしくの ”食う・寝る・遊ぶ” の三拍子でいいのだ。つまらん講義は体に毒です。と言うわけで、私は初老講師の講義を子守唄代わりにして、惰眠を貪ることにした。
☆
「ねえ、あきらちゃんいい加減起きてえ。もうお昼だよー」
教室の窓から温かい日差しが降り注ぐなか、聞きなれた甘ったるい声が鼓膜に届いてきた。ずっしりと重い瞼を開くと、目の前にはいつものように萌理が呆れ顔を浮かべていた。
ああ、また寝過ぎたか……まあ、いつものことだけど。とは言え、今日はヨダレの心配はない。何故なら、おやすみ前に近所の電気屋から粗品で貰ったタオルを敷いたからだ。
木ノ内あきら、同じ失敗は二度としない。とは言うものの、今日も映画『バックトゥザフューチャー』のマーティ並みに変な体勢で寝てたから超体痛てえー……あたしはいつものように凝り固まった体を解しながら、萌理に顔を向けた。
「んで、今日の昼めしはどうする?」
「あきらちゃんが一緒なら、あたしは雑草でも木の枝でもOKだよー」
萌理は親指を立てながら、満面の笑みを浮かべた。百歩譲って雑草はいいけど、木の枝は流石に無理じゃねえ? そんなことを思いつつ本日のランチメニューを考えていると、背後から ”木ノ内さん” と声をかけられた。
振り返ると見知らぬ男が一人佇んでいた。色白で中性的な顔立ちと、あたしよりも頭一つ分デカい高身長。恐らく185cm以上はある。その辺の女ならワーキャー言うタイプのルックスだ。
えーと、誰だっけこいつ……あたしは頭の中で検索をかけてみたが、ヒット件数はゼロだった。と言うわけで――。
「あんた誰?」
「法学部二年の池波です」
あら、あたしの大好きな正太郎先生と同じ苗字じゃん。二年ってことはあたしとタメか……。
「でっ、あたしになんか用?」
「あ、あのう、大事な話があるんですが……」
「大事な話? あたしに?」
「は、はい。出来れば二人きりで……」
目の前の男はかなりのモジモジっぷりで答えた。こういった場合は大きく分けて二つの解釈が出来る。前者は萌理を紹介してくれという打診。後者はあたしに好意を持っている、かだ。前者であればなんの問題もない。でも後者であった場合は……という訳で――。
「悪いけどあたしらこれからランチだから、用があるなら悪いけど今度にして――」
「木ノ内さん、好きですっ! 友達からでもいいので、どうか僕と付き合ってください」
あちゃ、言ってもうた……あたしがおでこに手を当ながらため息を漏らした瞬間、彼の顔面に萌理のドロップキックが炸裂した。いやあ、相変わらずアントニオさんもビックリの見事な打点の高さだわ。
あたしに彼氏が出来ない理由、それはこのロリロリな幼馴染が原因だった。簡単に言うと萌理はあたし惚れている。しかも初めて出会った幼稚園の頃から、全く変わらずゾッコンなのだ。
と言うわけで、あたしに近づいてくる男はもれなくいまのような酷い目にあう。でも今日のドロップキックなんかはまだマシなほうだ。萌理が本気を出せば、流血沙汰は免れないだろう。
「おいっ、てめえっ! 今度あたしのあきらちゃんにちょっかい出してみろ、寝てる間にチ○ポちょん切ってやるからなっ! おいっ、分ったのか、コラッ!」
あたしの残念な幼馴染は、イケメン池波の胸倉をつかみながら叫び続けた。どうやら怒りに任せ、すっかり我を忘れてるようだ。ナウシカの王蟲で例えると、目玉が真赤と言ったところだろう。それしにても公衆の面前でチ○ポはねえだろ……せめてオチンチンくらいにしとこうぜ、親友。
「萌理、もうやめな。気絶してるみたいだから、そいつには聞こえないよ」
あたしは怒り狂う王蟲の背中にそっと手を添えると、ナウシカのように優しく声をかけた。すると萌理はまるで憑き物でも落ちたかのようにすぐに池波から手を離した。
「あ、あたしまたやっちゃった……」
萌理は涙を溜めながら呟くと、口を真一文字にしながら俯いた。ほんとは暴力なんか大っ嫌いな優しい子なんだけど、あたしのことが絡むといつもこうなるんだから……ったく、ほんと昔っから手のかかるやつだよ、あんたは……あたしはそう思いつつ、涙と鼻水で非常に残念なことになった幼馴染の顔を、ポケットティッシュで優しく拭いてやった。
「あんたねえ、ちょっとは学習しなさいよ」
「ご、ごめんなさい……」
萌理はそう呟くと、泣きべそをかきながら抱きついてきた。ああ、買ったばかりのTシャツがまた鼻水まみれに……でもまあ、しゃあないか。たった一人の親友だからね。
その後、あたしたちは気絶したままの池波青年を保健室に運ぶと、なに事もなかったように学食へと向かった。ほんのさっきまで泣きべそをかいていた萌理は、いまではあたしの隣で天真爛漫に笑っている。
こいつ、今度一回医者に診せたたほうがいいかもなあ……幼馴染の笑顔を見ながらそんなことを考えていると、ジーンズのポケットに入れてあったスマホが振動を始めた。
時刻は12時ジャスト。あれ、なにこのデジャビュ感……途端に嫌な予感が頭をかすめてきた。恐る恐る液晶画面に目を向けると、予想通りの公衆電話と表示されている……おいおい、もしかしてまた? あたしは心の中で溜め息を一つ漏らすと、恐る恐る耳元にスマホを運んでいった。
「もし――」
「先生、折り入ってご相談があります」
はい、来た。ビンゴっ! 受話器からは予想通りの言葉が返ってきた。しかも今回はかなりの食い気味だ。
「悪いんだけどさあ、あたしいまから友達とランチだから――」
「では15分後にいつもの場所で待ってます。ブチッ、ツーツーツー」
おい、クソ爺っ! 人の話は最後まで聞けって言ってんだろうがっ! いや、正確には言ってないけど……あたしは小さく溜め息を漏らしながら萌理に顔を向けた。
「ごめん、今日の昼めしはパス」
「えー、またー? 嫌だ、嫌だー」
「そうごねるなって、今度ちゃんと埋め合わせするからさ」
頬を膨らませながらすねる萌理の頭をあたしは優しく撫でた。するとやつはいつものように、まるで子猫みたくゴロゴロと喉を鳴らすのだ。
爺ちゃんと言い婆ちゃんと言い、そんでこの可愛らしい小動物と言い、あたしの周りはほんと手のかかる奴ばっかりだ……さてと、そんじゃ今日もいっちょ頑張っていきますかっ! あたしは心の中で自分自身にげきを飛ばすと、駐車場で待機していた相棒にまたがった。
キーを回しエンジンをかけると、小気味よいマフラー音と共に今日もボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』が頭の中で鳴り響いてきた。
今頃あの院内カフェでは、八二歳のミスターネガティブ少年が、いまや遅しとあたしの到着を待ってることだろう。と言うわけで今日もあたしの昼めし抜きは確定と言うことだ……ったく、恋のキューピッドもほんと楽くじゃないぜ。あたしは心の中で呟くと、スロットル全開で走り出した。
『あきらとベスパとネガティブ禄ちゃん』おわり