神狩 秀遥:弐
私は、研究所で無線機の前に座っていた。
研究員がこれ以上減っても困るので、今回草薙邸への派遣は被検体でも優秀な者に無線機を持たせた。
「もう少しで到着です」
「感度は良好だ」
これで何が起こっているのか解る。
「着きました」
無線に繋いだ録音機のスイッチを押す。
扉をノックする音が続いたが、誰かが開く様子は無い。
「誰か居ませんか?」
呼び掛けにも無反応。
無線機からは、しばらくの静寂が流れた。
「何か御用でしょうか?」
数分の後、扉が開かれる音と低い女性の声が聞こえてくる。
「失礼、私は神狩博士の使いで参りました」
「……御上がり下さい」
草薙大佐の遺産である屋敷に、特佐と召使で二人暮らしの筈だ。
「キャハハハ!」
「また来たよ」
「どうしようか?」
だが、これは何だ?
無線機を通じて、小さいが複数の声が聞こえたような気がした。
「外からも見ましたが、いざ中に入ると広いお屋敷ですね。こちらには、お二人だけでお住まいですか?」
「はい」
「嘘つき」
「みんな居るよ」
今度は、はっきりと聞こえた。
「失礼かと存じますが、未だ所用が御座います……御用件は?」
「邪魔だ」
「疾く去ね」
二人の会話に入り混じり、老若男女様々な声が被さっている。
何人か判別出来ないくらい多い。まるでパーティ会場だ。
「お時間を取らせてすいません。草薙特佐は、神崩博士から、何か研究記録のような物を受け取っていらっしゃいませんか?」
「……当方に、そのような物は御座いません」
「しかし今まででも、何人かの研究員が聞きに伺ったかと……」
「来ましたな」
「アイツら、どうしたんだっけ?」
「ああ……」
「御座いません」
抑えた口調で答えてはいるが、声には低さが増している。
まずいな。
怒気が膨れ上がっているようだ。
「しかし」
「御座いません」
「ねえ、どうしたんだっけ?」
「確か……」
――みんなで喰べちゃった――。
駄目だ!
「おい! 何をしている!」
無線の声が相手に聞こえる危険を無視し、被検体に叫んだ。
「聞こえてないのか! 逃げろ! 囲まれてるぞ!」
「えっ? なんだ、これ……さっきまで……ギャ!」
「どうした! 何が有った!」
「もういいよ」
「コイツも喰べちゃえ」
「ひ……ひいぃ!……あぐ……ぐ……」
無線機からは、生きながら腑分けされる嫌な音が聞こえてくる。
「ははははははははははははは!」
交信が途絶えた。
何だ、今のは……。
念の為、録音した音声を保存しておこうと、セットしておいたレコーダを巻き戻す。
静かな室内に、キュルキュルとした音が鳴り続けた。
――これほど長く録音しただろうか?
私がスイッチを押した時間より、明らかに長く巻き戻っている。
いや待て、先ほどスイッチを押そうとした時、違和感が無かったか?
スイッチは、既に押されていなかったか?
その時、始まりまで巻き戻ったレコーダが再生された。
「無能な男が、自ら深淵に足を踏み入れるとは愚の骨頂」
召使の声が冒頭に録音されている。
「感度は良好……」
「私が手助けしているからだ。己が器を知れ」
「……あぐ……ぐ……」
「……おい、貴様」
最後まで声は連なっている。
「土足で他人の家に入り浸るなら、そろそろ殺すぞ」
「な……に?」
「下痢にも等しい肉の滓に変えてくれる」
「何者なんだ!」
声が返ってくる筈も無いレコーダに叫ぶ。
「深淵を覗くならば、自分も深淵に覗かれている事を自覚すべきだ。それとも、それすら理解出来ぬ程の阿呆か?」
止めようと何度もスイッチを押すが、再生が止まる気配は無い。
「私は深淵の王――今後一切、私と零に手出しするな」
「二つ名!? 深淵の王か!」
オリジナルでは、私の被検体が敵う筈も無い。
「解ったか? 糞尿の詰まった肥溜が」
「……う……」
今の声は、直ぐ後ろで聞こえた。
「解ったのか?」
後ろに、居る。
先に録音スイッチを押していたのは、この女だったのだ。
「私は何処にでも居る」
女の言っている事は嘘ではない。草薙邸に居ながら、この場所にも初めから居たのだ。
「う、あ。」
「逃げようとして、すんなり逃げ切れると思うなよ? ただ歩いているだけの木偶め」
どれほどの時間が経ったか判らない。
振り返ると、そこには誰も居なかった。