水音と目覚め
結局、その日の朝ごはんは非常に胃もたれしそうな脂っこい焼肉になった、レンジでチンで済ませたせいか、まだ少し冷え固まった脂の残っている肉は食べているだけでとても気分が害されていく。
本来なら例え今の気分に合わないようなものだとしても、きちんと料理をしてから味わって食べるのが筋だと思うし流儀でもあるのだけれど、今はゆっくり食っている場合ではないのだ。
いや、そもそも本来なら飯なんて食っている場合じゃないだろう、あまりの突然な出来事に対して身体が元の日常に戻ろうと頑張っているような気がする。
まあ、あまり急いでも今出来ることはなさそうだし、下手に手を出すよりはこうして冷静になれている方がいいのかもしれない。
まだ固まった脂がこびりついている皿を机の上に置きっぱなしにしながら椅子を立つ。
目を瞑って深呼吸、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す、二回三回と繰り返した後ゆっくりと目を開ける。何もおかしなものは見えない、至って正常な視界だ。
試しにテレビを付けてみる、雪の中に狼のような生き物の姿が見つかっただとかいうニュースが先程まで流れていたようだが、相変わらず見栄えのしない大雪に関するニュースのみが流れている。まあこの天気で犯罪を犯しに外に出よう、なんて発想の人間も早々いないだろうし、ある意味では仕方の無いことかもしれない。
とにかく、聴いてる内容と見えている内容が合っているということは自分の目は完全に正常だという事だ、幻覚じゃないし、妄想じゃないはず。
ゆっくりと、先程まで自分が寝ていた部屋のドアに手をかける、音を立てないように、慎重に慎重に俺が今中にいない俺の部屋のドアを開く。
――そこには、女性が眠っていた。
正確には、眠らせたのは自分自身で、驚いているところを状況を知っている第三者が見ればそれこそ驚いてしまうような事なのだけれど。
朝、吹雪の中で倒れていた女性は確かにここにいる、寒さで意識を失っていた彼女を助けようと冷静に動けていたはずの自分はどうやら知らず知らずに相当慌てていたらしい。
(やっぱり、病院とかに連れていくべきなのかなぁ……)
自分の寝室で、自分が先程まで眠っていた布団を被って寝ている女性を見つめながら大きくため息を零す。体温がかなり低かった彼女を暖めてあげなければいけない、という点に即座にたどり着けたまでは良かった、問題はその先で、どうやら朝の布団の温もりが忘れられて無かったらしい、気がついたら意識を失っている女性を家に勝手に連れ込んでベッドに寝かせているという非常に犯罪チックな光景の出来上がり、である。
「……とりあえず、目覚めるまでは何もしない方がいいよな……」
目の前の眠っている彼女に対してではあるものの、事実上の独り言がポロッと零れ落ちる。もし仮に彼女を起こそうとして、手を指し伸ばしたタイミングで彼女が目を覚ましました、なんてことがあれば最悪だ、場合によっては通報されかねない、家に連れてきたのは本当だけども弁明の機会ぐらいはあってくれないと非常に困る。
そこまで考えて、一つ更に困ってしまうような考えに行き着く。
(彼女、日本語通じるのかな……)
すぅ、すぅと規則正しい寝息を立てている彼女をチラリとみやる、目の色は当然寝ているからわからないものの、一瞬で全ての気を引かれるような存在感を放っているのが彼女の髪の毛、別に髪フェチという訳ではなく、むしろ足の方が好きではあるのだけれど、それを考慮しても彼女の髪には目を釘付けにされてしまう。
それは美しい銀だった、流れる水のように細く、サラサラとした銀髪は腰の長さまで伸びていて、まるでウェディングドレスのベールのような神聖さを醸し出している。
彼女をずっと眺めていたい
ぽつり、と胸の中に雫が落ちたような感じがする、会話をしたことも無い、それどころか声すらもまだ聞いていない、なのに彼女にはそこに眠っているだけで引き寄せられてしまう謎の魅力を感じてしまう。
頭の中で警報が響く、今まで働いたことのない第六感みたいなものがここぞとばかりに反応する。
眺めていたい、眺めていてはいけない。
どうせならもっと人生の危機のような場面で第六感が働いてくれれば良かったなと思う、どうしてこう、女性を眺め続けているかそれともここでやめて離れるべきかなんで場面で働くのか、いや、社会的な所で行けば死ぬかどうかの瀬戸際なのかもしれないけれど。
はぁ、とため息を付く。
頭をポリポリと掻きながら彼女から視線を逸らす、理性が勝った、流石に見ず知らずの人の寝顔をじっと眺め続けるのは失礼だろうという考えに遅れて至る、その場で音を立てないように回り、数秒身体が硬直する。
これが恋か、一目惚れというやつか、だとしたら恋愛をしている人は相当大変なんだろうと同情を隠せない。なにしろ目を離しただけで身体が全力で阻止しようとしてくるのだ、本能って凄いんだなとどうにも活かしにくそうなことを覚えながら、動きたくないと言うように震える右腕を強引に動かして部屋から出る。
(1度落ち着こう……)
リビングに戻り、まだ机の上に置きっぱなしだった皿を台所に移しておく、シンクの蛇口をきゅっと回すとそのまま足元の棚を開き、なかからジョウロを取り出す。
基本的に両親の趣味で構成されているこのリビングの中で、唯一自分のわがままで置いてもらっているのが観葉植物だ、この前友人にこのことを離したら「花も咲かないただの緑じゃん」と言われた時は素直に傷ついたが、花が咲く種類もあるしただの緑ではないと強く主張した。
並々水を注いだジョウロを持ち、部屋隅の棚に飾られている観葉植物の植木鉢に近づく、水やりの瞬間は不思議な気分になれる、まるで育て親になっているような……それか、植物と対話しているような。
そして、今日も訪れる対話の瞬間が――
「――ウルドお姉様っ!」
勢いよくドアの開かれる音と、脳へと突き刺さるような声で吹き飛ばされる。
その声は、決して騒音だと思うような音量ではなかった、しかしそれは透き通るように美しく、神託でも授かったのかと体験どころか想像すらしたことの無いことを比較として思い起こさせるほど力強く耳に響き渡る。
声の、した方向へ振り返る。
腰まで伸びた白銀の髪の毛はまるで風になびいているかのように流れていて。
緑色の目はまるで炎を閉じ込めたエメラルドのように光り輝き。
その四肢は少し動くだけで思わず目が引き付けられるほど繊細で美しく。
その全体は、それそのものが絵画の一つであるかのように完成されていた。
――女神が、そこに立っていた