第五章(1)
「すご……。妖精なんて初めて見た……」
感嘆の声を上げるソフィア。その視線の先には小さな人の形をした半透明の物体が躍っているかのようにゆらゆらと揺れている。あれは妖精と呼ばれる意思を持つコアだ。未だになぜ視覚化できるのかなどの理由は不明で、古い森のようなあまり人が足を踏み入れない場所でしか見られない非常に珍しく謎の多い存在。
他の面子はすでに見慣れてしまったが、一番体力の消耗の激しい戦いを繰り広げていたソフィアはここに着いてからずっと眠っており、今しがた目を覚ましたばかりだった。
ここはリルアルドの島内にある森の中。王都からそれほど離れた場所ではないが、人はあまりここには寄り付かない。
クリュティオスの森。別名、巨人の森とリルアルドの人間からは呼ばれている場所だ。巨人が住んでいるなんて馬鹿げた話があるためにそんな別称が付いているわけではない。通常の数倍はある木。その木々が森を形成しているので、そんな別名が付いているのである。
小耳に挟んだ話によると、コアがその巨大に成長した木の原因であるとのこと。妖精なんてコアの化身のような存在がいるのだから、その仮説の信憑性は高いのかもしれない。もっとも、こうして世界の不思議の真っ只中に身を置いているフレッドには微塵も興味のない話だが。
『銀』の面々はその森で休憩を取っており、フレッドも苔むした石に腰かけていた。
「あ……」
触ろうとした妖精に逃げられてしまい、ソフィアは落胆した表情を見せた。
ソフィア・コールゼン。『氷結』の紋章術を使う『銀』の構成員。元騎士という『銀』の中では特殊な肩書きを持ち、まだ表の世界の匂いを漂わせる時がある。とはいえ、今は『銀』として申し分ない活躍もしているし、冷徹に汚れ役もこなす。紋章術と同じように心を凍らせて、無理矢理任務に従事しているように見えるのがフレッドとしては気になるが、それでも殺戮こそが全てのゼーレンよりははるかに扱いやすい。そのおかげで今やソフィアは『銀』を支える人物として有望視されている。
そして、彼女と同じように『銀』の中で将来を有望視されている人間がこの場にもう一人。
「もう最悪だよー。『銀』に入った時から愛用してたのに折られたー……」
通常の倍はあるかと思われる木の幹に背中を預けて座っている少年――テオ・ヒューストンはわかりやすく頭を抱える。その小さな手にはゼーレンに折られた剣。
「予備はあるんでしょう?」
ソフィアが訊ねると、テオは「もちろん」と頷き、傍らに置いてあった布袋から似たような剣を二本取り出した。そのうちの一本の柄を確かめるように握り締めるテオ。それから、困ったように頬を掻いた。
「うーん。いまいち感触がわからないなー。ねえ、フレッド。このままだとまずいから、ちょっと剣を交えてみない? 実戦形式で」
「断る。ここは敵地だぞ。おまえのお遊びに付き合う気はない」
これがテオの欠点だ。『銀』にはかつてのフレッドやキールのような子供たちが何人もいる。その中でテオの実力は一際飛び抜けている。ただし、テオは戦闘に快楽を見出してしまうことがある。敵が強ければ強いほど楽しいらしく、今回の任務でもソフィアと立場が逆だったら、任務そっちのけで『血風』との戦闘を楽しんでいた可能性が高い。
フレッドがにべもなく断ると、テオは年相応の子供らしく頬を膨らませる。
「ぶー。なんだよー。フレッドだって強い奴と戦うと楽しそうにしてるじゃんか。感情をほとんど見せないあんたが、本当に微かに頬を緩めるらしいって噂されてるぞ。僕も楽しめてフレッドも楽しめる。ほら、お互い好都合じゃん」
テオの言うことは当たっている。フレッドも剣を振るう人間として強者と戦うのは決して嫌いではない。だが、フレッドはテオとは違う。自分の剣技をぶつけ合い、さらなる高みに上がることに喜びを見出しているのだ。
それは騎士には必要なことでも、『銀』には必要のないことなのでそれを前面に押し出すことはあり得ないが。
唇を尖らせるテオをソフィアが諌める。
「あんただって怪我してるんだから、少しは養生しなさいよ」
ソフィアがこつんとテオの頭を軽く叩く。こうして見ると姉と弟のようだ。任務の時とは明らかに違うソフィアの態度。おそらくは彼女の本質はこちらなのだろう。
ソフィアに言われて、テオは怪我した原因を思い出したように口にした。
「ってか、あのゼーレンの変化って何だったの? あいつ、身体能力は大したことなかったじゃん。フレッドと同等の地位にいれたのは一級の紋章師だったからでしょ。それなのに反応できなかったんだけど、僕。それにあの姿はもう人間じゃなかったし」
「俺も詳しく知ってるわけじゃない。ただああいう風になるのは一級の紋章師だけのようだ。念じるだけで紋章術を発現できるからな。その代償のようなものだろう」
自分には関係ないとわかったためか、テオは興味も示さずに「ふーん」と流した。
本当は他にも知っていることはあるのだが、この場にいる二人に教える意味はない。それは一級の紋章師だけに課せられたものであり、ゼーレンはそれを守り切れずに自分の人生を食い尽くされた。それだけのことだ。
「で、これからどうするの? ゼーレンが死んだ今、私たちだけで続行するつもり?」
幹部二人とその候補二人を実行部隊にして構成された今回の部隊。指揮権を与えられている二人のうち、片方が死亡したので指揮系統は現在フレッドに一任されている。ゼーレンは敵を殺すことにしか興味のない男だったので、元々から指揮権はフレッドに丸投げされており、それほど問題はない。従って、フレッドがこう答えるのは当然だった。
「続行だ。撤退命令が出てない以上はやり続ける」
「まあ、そうだよね」とテオは剣を鞘から抜いて刃を確かめながら同意した。
命令は『銀』にとって絶対だ。それさえあれば誰だろうと殺すし、生存が絶望的な戦場にだって躊躇わずに足を踏み入れる。人間らしい感情は一切挟まずに。
それはまともな生き方ではないとフレッド自身も気付いてはいるが、この生き方以外に知らないし、この道以外には生きられない。子供の頃から『銀』にいて夥しい量の血を浴び続けたフレッドは誰よりもそれを理解していた。
「ってかさ、ソフィアが『血風』の相手をするのは間違いだったでしょ。これで撤退命令が早まるのは確実なんだし、僕らは任務失敗ってことで叱責を受けることになるんだから」
テオは愚痴っぽく言った。自分たちの素性がバレているのは確実なので、リルアルドからクロムガルドにどういう処置が取られるのか予想できているのだろう。
とはいえ、 存在自体がほとんど規格外である『血風』。純粋に剣で勝負をすれば、フレッドでさえも勝てる自信がないほどの使い手。彼女が戦列に加われば、どんな不測の事態が起きるかわからない。足止め役は必要不可欠だった。
テオの言うことは間違いではないが、フレッドは反論する。
「俺は実行部隊の隊長だから目的を果たす義務がある。おまえはあの『血風』と戦い始めたら見境が付かなくなる可能性がある。こう言ったら悪いが、紋章術に頼り切りのゼーレンなら瞬殺されてる」
ソフィアと『血風』の関係性はもちろん知っていた。彼女が強い希望を出したというのも決定理由の一つに数えられるが、それ以上にソフィア以外に適任者がいなかったことが最大の理由として挙げられる。
「それにソフィアはしっかりと役割を果たしてくれた。むしろ、最初の接触で『花彫』を確保できなかった俺たちの責任だ」
「むー。だけど、あんなイレギュラー、起きるなんて考えないだろー」
テオは再び唇を尖らせた。確かにゼーレンの変貌はフレッドとしても予想外ではあったが、予想外だったのはそれだけではない。
「それにソフィアが『血風』と戦わなくても素性はバレてたさ。俺の知り合いがここにいたんだからな」
「ああ。報告は受けてるわ。テオと似たような二刀使いだって? あんたと切り結ぶなんてちょっと信じられないんだけど。しかも、『花彫』が作った一級の紋章師だって話でしょ」
「ソフィア、驚くところはそこじゃない。『銀』の人間とだって任務以外はほとんど接点を持たないフレッドに知り合いがいたってことだろ。しかも、表舞台の人間だよ」
テオはそう言うが、フレッドは二点ほど間違いを指摘したかった。まずその二刀使い――キール・カウンティとフレッドは知り合いではない。そんな生温い関係ではない。とても一言では言い表せないような不思議な関係。兄弟、親友、戦友、自分の心に秘める願望を話したことのある唯一の人物。
そして、もう一点。あれはフレッドたちと同じ種類の人間だということ。決してテオの言う『表舞台』には立てない存在だ。
フレッドは討伐隊には加わらなかったが、『銀』から脱走し、死亡したとされていたキール。まさかこんな場所で再会を果たすとは思わなかった。
しかし、そこに懐かしさや喜びなどは一切なかった。代わりにフレッドの胸に飛来するのは正体の掴めない感情。強いて言えば、それは底知れない憎悪に近い。キールの姿を思い浮かべると、その感情に支配されてしまう。
そんなフレッドを現実に引き戻したのは、テオの声だった。
「まあ、そんな意外過ぎる話はどうでもいいか。けど、これからどうするんだよ、フレッド」
「そうね。早めに仕掛けるなら、今日にでも夜襲をもう一度かけてみる? それとも、間を置いて撤退命令が出る直前に仕掛けるのもアリだと思うけど」
ソフィアの意見はどちらも悪くない。しかし、フレッドの意見はそのどちらにも当てはまらなかった。おもむろに立ち上がり、フレッドは長剣の柄を握る。テオとソフィアもその行動の意味を理解して顔つきを変えた。
その時、こちらに近付く気配を感じ取り目を向ける。今回の作戦に参加している『銀』の構成員が極力音を立てないようにして、フレッドたちのところにやってきた。
「こちらに数名の騎士たちがやってきています。どうやら我々の居場所を捕捉したようです」
「方針は昨日と同じだ。極力戦闘は避けろ。森の奥に誘い込めば撒くのは難しくない」
「了解です」と敬礼をすると部下はその場を離れた。その姿を見送ってから、片方の剣を抜いたテオが好戦的な笑みを浮かべて言う。
「あっちも殺そうとしてるんでしょ。なら、部下を助けるために援護してもいい? 何しろ戦争屋と謳われるリルアルドの騎士なんだから。ちょっとぐらい味見してもいいんじゃない?」
「テオ、あっちは任せておけばいい。おまえの欲求は今から満たされる。――来るぞ」
フレッドは木々に覆われた空を見上げ、長剣を素早く抜いて振るった。金属音が鳴り響き、テオとソフィアが揃って息を呑んだ気配が伝わってくる。『銀』で訓練を積んだ二人が気付けないほど殺気を消した見事な暗殺術。頭上から真っ逆さまに飛び降りてくる銀髪のその使い手とフレッドは視線を交差させた。