第四章(2)
「エリス、キールに付いて行ってあげてくれない?」
唐突にそんなことを言われ、エリスは「え?」と首を傾げた。今しがた出て行ったばかりなので、キールに追い付くのは容易だろうが、そんなことをフィーネに頼まれたのは正直意外だった。エリスがその真意を訊ねる前にフィーネが答えた。
「あいつ、ちょっと様子がおかしかったでしょ。何が原因かは知らないけど、どこか思い詰めてたみたいだから……」
「うん。たぶん、それは間違いじゃないよ。凍り付くような冷たい感情が心を支配してた」
一級の彫り師であるイヴの感情を見抜くという能力が、フィーネの観察眼が正しいことを証明する。彼女の観察眼が鋭いことはよく知っているので、今さら驚くことではないのだが、前々から気になっていた点がある。そのエリスの疑問を新参者のイヴが代弁した。
「フィーネってキールのこと、よく見てるね」
イヴの指摘。「へっ!?」とフィーネはあからさまにうろたえ、忙しなく目を泳がせる。
「べ、別によく見てるってわけじゃ……! ただいつもと様子が違ったから心配で――いや、もちろん、騎士学校の仲間としてね!」
フィーネは最後にそう言い訳して、エリスとイヴの視線から逃れるように窓の外を見た。
「わかりました。それじゃあ、キールさんを追いかけますね」
そんな姉貴分の姿が微笑ましくて、エリスは口元を綻ばせながらキールの後を追った。
小走りで病院内を移動し、外に出たところでキールの後ろ姿を捉える。朝の少し冷えた空気を肌で感じつつ、エリスはキールに追い付いた。
「エリス、どうした?」
キールは振り返ると不思議そうに眉を持ち上げる。フィーネに言われてきたので、それに対する答えを用意していなかったエリスは、「あの……その……」としばらく言葉に詰まった。そんなエリスを見て悟ったのか、キールはエリスの髪を優しく撫でる。
「ありがとな、心配してくれて」
厳密にはいつもと様子が違うことに気付いたのはエリスではなくフィーネであり、その言葉は彼女に向けられるべきだと思う。だが、こういうことに未だに慣れていないエリスはにやけて、「えへへ……」と笑い声を漏らしてしまう。
まだ人通りの少ない大通りを二人並んで歩く。
「キールさん、どこに行こうとしてたんですか?」
「ん? ラッセルのところ」
一昨日の騎士祭でよくわからないことを大声で喚き散らしていた大柄の男性の姿を思い出した。キールが贔屓にしている鍛冶屋の友人で、騎士学校に通う女子の間では評判が悪いことで有名だったりする。
「刃こぼれでもしたんですか?」
あの爆破の特性を持つ男、くすんだ金髪の長剣使いと激しい戦いを繰り広げているのだ。刃こぼれの一つや二つしていても何の不思議もない。しかし、キールは首を横に振った。
「いや、そういうわけじゃない。ほとんど残ってないから、飛び道具とかも仕入れておこうと思ってな。もちろん、軽く研いでもらいはするけど」
キールの剣術は変則的で投擲術も用いることをエリスはよく知っている。牽制に使うだけではなく、敵の急所を貫けるほど正確な技。それを仕入れるのは別におかしなことではないが、エリスは疑問に思った。
「でも、キールさんが戦うとは限らないんじゃないですか? むしろ……」
あの『銀』と呼ばれる連中――特にくすんだ金髪の青年は半端な実力ではなかった。キールの実力は騎士学校の中でもかなり高い方で一般的な騎士と遜色ないが、それでも肩書は『騎士見習い』。彼らの討伐には少なくとも騎士、もしくはアインのような上位騎士で構成された特別部隊が投入されると思われる。なので、キールに命令が下される可能性は極めて低い。
それでもキールは自信に満ち溢れた、しかし妙に底冷えのする声で言った。
「ああ。けど、俺はあいつと戦う。それは間違いないさ。あいつにとって俺は絶対に認められない相手だろうからな」
キールの言う『あいつ』とはくすんだ金髪の青年のことだろう。どういう間柄なのかはいまいちわからないが、ただならぬ関係なのは容易に想像できた。
フィーネの言ったとおりだ。今のキールはどこかおかしい。うまくは言えないが、いつもの親しみやすさがほとんど感じられない。代わりに感じられるのは殺意に似た氷のように冷たい覚悟。もしかすると、これこそが『銀』の頃のキールなのかもしれない。
エリスは悟る。命令に関係なく、あの青年と殺し合うつもりなのだと。刺し違えたとしても。
彼らの関係性も知らないエリスには止められない。止めれば嫌われるかもしれない。そんな相変わらず過去に捕らわれた思考回路。
それを自覚しながらもエリスは彼の服の袖を摘むようにして掴んだ。
「どうした?」
エリスがこんなことをしたので、キールは困惑していた。それをわかっていながらも、エリスはその手を離そうとはしない。
その手が微かに震えていることに気付いたようで、今度は神妙な様子で「どうした?」と訊き直した。エリスはその手と同じように震える声で言う。
「このままだとキールさんが帰ってこないような気がして……」
涙を溜めた目でキールを見つめるエリス。優しく微笑んだキールにその涙が拭われる。
「その泣き虫っぷりは相変わらずだな。そんな目で見つめられると、おまえに最初に会った時のことを思い出すよ。あの時は怯えられてるのかと思ってちょっと傷付いたぞ」
「そうだったんですか? でも、それは正しいです。キールさんが本当は怖かったんです、私。あの時の私にとって自分以外の人は全員、私を傷付けるための存在だったんですから」
『紋章には魔が宿る』。エリスが生まれ育った村にある伝承だ。国防や様々な分野で有効活用されている紋章だが、そういう言い伝えを信じられているところもある。サソリの紋章を持つ青年があのようになったことを考えれば、その伝承は正しかったのかもしれない。
しかし、それのおかげでエリスは迫害を受けて育った。何しろそんな伝承のある村で紋章を宿して生まれてきたのだ。忌み子として扱われるのは当然だった。
そんなエリスに友達などできるはずもないし、実の両親からでさえも邪険にされてきた。その狭い世界でずっと生きてきたのだから、自分以外の人間はエリスを苦しめるだけの存在だった。精神的にも、時には肉体的にも。
エリスの告白にキールは軽く肩をすくめた。
「それはお互い様だな。夜の散歩に出たら、川で女の子が自分の額を洗ってたんだからな。しかも、その当ててるタオルは血に染まってる。怖ぇよ」
あの日は酒に酔った父に側にあった皿を投げ付けられたのだ。もしかすると、左目の紋章を狙ったのかもしれないが、それは額に当たってしまった。その怪我の手当てを行っていたところで、キールがやってきたのである。
「一瞬、酒に酔った教官がいたいけな少女を斬り付けたのかと本気で想像しちまったからな」
「教官はそんなことしませんよ」
「そうかもしれないけど、魔獣退治を全部俺とフィーネに押し付けて戻ってきたら地酒で酔っ払ってんだからな。酔いが回ると人間何をするかわからないし。それにしても、よくあんな居心地の悪い村であれだけ酔っ払えると感心したよ。……っと悪い」
一応はエリスの故郷だ。悪く言ったことをキールは謝ったが、エリスは首を横に振った。
キールが不快に思うのも無理はない。森に住み着いた魔獣を退治するように依頼したのは村側――正確には要請された国がリルアルドに頼んだ仕事だったのだが、やってきたキールたちは全員紋章を宿している。古いしがらみに囚われている村としては彼らを心の底から受け入れることはできなかった。あくまでも仕事上の関係というだけで、応対は非常に悪い。キールたちが悪い印象を抱くのは当たり前だった。
「でも、私はそんな飲んだくれの教官に感謝してるんです。あの時、教官が出来上がってなかったら、私はキールさんに出会えてないんですから」
エリスはその時のことを思い出し、クスッと幸せそうに笑った。初めて自分に敵意も嫌悪感も何も持たずに話しかけてくれた『他人』。エリスにとってそれは驚天動地の出来事だった。
「心配されるなんて初めてでしたから、本当にびっくりしました」
「普通は心配するって。村娘があんなところから血を流すなんて考えられな……。――ん」
そこでキールは気まずそうに咳払いをして言葉を切った。普通はないのかもしれないが、エリスがいた環境はとても『普通』とは言い難いものだ。傷付けられるのは日常茶飯事だった。
「衝撃的な出会いではあったけど、あれがエリスをこの道に引き込んだきっかけだったな」
そうだったとエリスも思い出す。あの後、事情を聞いたキールはその境遇に同情したのか、エリスをリルアルドに誘った。移民が多いリルアルド。様々な理由で国を出た人間がいる。
「俺としてはここで普通の町娘として暮らして行けばいいってつもりだったんだけどな。まさか騎士になるつもりだったとは思わなかった」
キールはため息を吐いた。キールは最初からエリスが騎士学校に入ることを反対していた。それはエリスも当然だと思う。エリスは左目の紋章とその育ってきた環境以外、その辺りにいる少女と何も変わらない。いや、喧嘩もまともにしたことがないような気弱さがある分、さらに騎士に向いていないと言える。
それでもエリスは騎士学校に入学することを希望し、アインには血反吐が出るほどしごかれた。そのおかげで騎士学校に入学することができた。もっとも、実技はギリギリでその紋章の特異性による部分が大きかったらしいのだが。
「前から訊きたかったんだけど、なんで騎士学校なんて道を選んだんだよ。もっと女の子らしい生き方だってあっただろうに」
「それはそうかもしれないですけど……」
エリスは少し考える。自分が騎士に向いていないことは百も承知だ。こうして騎士学校に入った今だってそれは変わらない。何しろ人を攻撃する際に躊躇してしまうという悪癖があるのだ。騎士としてはあまりにも致命的過ぎる欠陥だ。
そんなエリスがこの道を選んだ理由。それは人を傷付ける職業を選択するにはあまりにも単純で、利己的なものなのだろう。だが、エリスにとってその理由は死ぬほど大切なものだ。
「私は大好きなキールさんと一緒にいたいんです。私の知らないところで勝手に死んで欲しくない。ただそれだけの理由なんだと思います」
本当にそれだけだ。リルアルドの騎士という職業柄、見知らぬ土地で殉職する場合だってある。エリスはただそれが嫌だっただけだ。エリスが知らない場所で知らない内に死なれるということが。
子供の頃から欲しかった誰かとのつながり。それをエリスは壊されたくなかった。
そこでエリスは自分が『大好きなキール』と口走ったことに気付いた。これではまるで愛の告白だ。慌ててエリスは訂正する。
「い、いえ、別にキールさんだけじゃなくて、フィーネさんもイヴさんも教官も、み、皆さん大好きなんですけども……っ!」
「いや、そこまでムキになって訂正しなくてもわかってるから……」
キールは苦笑するが、エリスの胸はどこか釈然としない思いが渦巻いた。
その正体不明のものを振り払うようにエリスは掴んだままだったキールの袖から手を離した。
「それが騎士学校を選んだ理由です。この欲しかったつながりを与えてくれたのは、あなたです、キールさん。それを忘れないで下さい」
キールとあの青年の殺し合い。それが『銀』の清算のつもりなのか、もっと別の何かがあるのかエリスにはわからない。それを止める資格がなく、また割って入る実力もないエリスにはこれが精一杯の言葉。
自分の非力さを情けなく感じるエリスの頭に温かいものが触れた。一年前から何度かされてきた優しい手のひらの感触。まだ慣れるのには時間がかかりそうで、この感触を味わう度に緊張すると同時に幸福な気持ちにもなる。
「ありがとな、エリス」
言いながらエリスの栗色の髪を撫でるキール。先ほどよりもその表情が穏やかになった。それが気のせいではないと思い込むことしかエリスにはできない。