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リルアルドの騎士学校  作者: シロ吉
第一部
14/43

第三章(6)

 本というのは世界共通の娯楽だ。特にリルアルドでは思想や宗教に対して制限がほとんどなく、特殊な輸出品の都合上、土産物代わりに様々な国の本が手に入る。そのため、貿易でもあまり制限されることはない。

 書店に並べられている本は思想や宗教に関するものも多いが、娯楽小説が一番売れる。エリスもその系統の本を愛読しており、休みの日は朝から晩まで部屋に閉じこもって読み耽っているらしい。

 キールはその熱心な読書家であるエリスに一度お勧めの本を紹介してもらったことがある。巨人や小人が出てくる冒険小説で、世界中で爆発的に売れ、未だに根強い人気があるとのこと。その小説の中に黒い皮膚をして、とんでもない腕力で地面を軽々と割る存在が登場する。

『魔人』。本の中ではそう呼称されていた。それを思い出させる光景が眼前に広がっていた。

「……あれって魔人?」

 キールよりも読書家であるエリスも同じことを考えたようで、その単語が聞こえた。

 まさしく眼前の光景はそれだった。先ほどまで蹲っていた青年はゆっくりと立ち上がり、キールを見た。その姿にキールは戸惑いを隠せなかった。

 左腕を切り落としたため、血に染まったシャツ。それは白いままだが、その下に覗く皮膚は真っ黒に染め上げられている。顔もだ。元から黒髪なので、顔の全てが黒に飲み込まれているような状態だ。ズボンを履いているので確認はできないが、下半身も同じだろう。

 黒く染まっていないのは、右目と動き回って左目の部分に戻ったサソリの紋章だけ。視界が確保できる街灯からの明かりの中で、それらは赤く不気味に輝いていた。

 その赤い目がじっとキールを見つめている。今までも殺意は感じられたが、そこには何かしらの人間らしい感情があったように思えた。だが、今のその右目からは殺意以外の何も感じられない。実戦経験が豊富なキールには、目に入ったものは全て壊すという意思が感じられた。

「何……あれ……?」

 キールでさえも戸惑いを覚える状況だ。まだほとんど実践を経験していないエリスが声が恐怖で震えるのも仕方がない。腰を抜かさないだけマシだ。

 しかし、声を出したのはいい判断ではなかった。黒い化け物の赤い目が声を出したエリスに向けられる。その視線にエリスは怯えたように肩を震わせるが、動こうとしない。恐怖で体が硬直してしまっているのだ。

「エリスっ!!」

 キールが彼女の名前を呼んで紋章術を使用するのと、青年だった化け物が動くのは同時だった。無論、距離を潰せる特性を持つキールの方がエリスのいるところに到着するのは早い。

 だが、相手の移動速度も尋常ではなかった。エリスを小脇に抱え上げた時にはすでに黒い化け物は眼前にまで迫っていた。剣はどこかに投げ捨てたのか、持っておらず固めた拳を振り上げてきた。型も何もない。ただの暴力を体現したような殴り方。

 キールはとっさにその場から紋章術で、エリスと共に怪物から離れた場所に移動した。

 直後、地響きが足に伝わってきた。あの青年だった怪物が地面を殴り付けて起きた地震だ。

 あの青年の紋章の特性は驚異的なものだったが、身体能力は大したことがなかった。せいぜい騎士学校の平均的な生徒よりも少しばかりマシという程度。

 そのはずだったのだが、今は明らかに違っていた。エリスまでの距離を一息で潰す移動力。俊敏性には自信があるキールでもあれだけの速力は紋章術なしには望めない。

 キールは彼が先ほどまで立っていた場所を一瞥する。石畳のその部分が割れていた。移動の際に踏み付けて、一息でエリスに殴りかかったのだろう。それは人間業ではないが、あの光景を見ればその芸当も頷ける。

 彼が振り下ろした拳。それが石畳を割って、肘の辺りまで埋まっている。物語に出てくるような魔人と呼ばれる存在でもない限り、あんな腕力発揮できるわけがない。

 埋まった肘を引き抜く怪物。その目でキールたちを睨む。青年の紋章術によってできた白く薄い靄のような煙の中、赤い右目が不気味に輝く。石畳が割れる音が聞こえ、怪物の体が消失した。キールの鍛え上げられた動体視力でも見失うほどの速度で青年は空中に跳び上がって、襲いかかってきた。

 その怪物の体が不意に後ろに流れた。竜巻のような突風が一直線に怪物にぶつかったのだ。並外れた身体能力を持っていたとしても、翼でも持っていない限りは空中で体を制御する術はない。風が流れ、キールたちの周囲の煙が吹き飛ばされた。

 キールはエリスを抱えたまま、その風が飛んできた方向を見る。確認するまでもない。案の定、そこにはフィーネが立っており、手をかざして立っていた。

「なんだよ、あれ……? あんなのが出てくるなんて報告は受けてないぞ……」

 戦っていたと思われる少年もその予想外の事態に戦意を喪失したのか、着地した黒い怪物を茫然とした表情で眺めている。だが、相手も訓練を受けた人間だ。いつ、戦闘が再開されるかわからない。

 その少年は怪物の顔を見て驚愕の声を上げた。

「サソリの紋章……!? じゃあ、あれってゼーレンなのか!?」

 その声に反応するように黒い怪物は敵意以外何も感じさせない目を向けた。少年はとっさに右手で剣を構え、フィーネは近くにいたイヴをかばうように彼女の前に立つ。どういうわけかイヴの綺麗な髪が半分ほどの長さになっていたが、それを追求している場合ではなかった。

 声を出した方を狙う習性でもあるのか、黒い怪物は先ほどと同じように石畳が割れるほど強く地面を蹴って、移動する。その人間離れした動きに少年は虚を突かれたように目を見開く。

 仲間であったはずの少年はその黒い怪物の腕に殴られ、大きく飛ばされる。拳がぶつかる瞬間、右手に持った剣で防いだために少しは衝撃を削いだようだが、剣は容易く折られ、後方に投げ出された少年は背中から街路灯にぶつかった。死んではいないようだが、気を失い、動かなくなった。

 それで興味を失ったようで、怪物はそれ以上は追撃しようとしない。そんな黒い怪物を目にして、いつの間にか髪が短くなったイヴが口を開いた。

「もしかして、あれが墨に食われたってことなの……?」

 その言葉の意味を誰かが訊ねる前に、怪物の赤い瞳がイヴに向けられた。本能だけで動いているようで、声を出したりすればその攻撃対象になってしまうらしい。

「イヴっ!!」

 フィーネがイヴを突き飛ばすと同時に、怪物が彼女たちの前に現れた。彼らにとってイヴはあくまでも捕獲対象だったはずだが、殺意以外には感じられない蹴りを放つ。

 イヴを庇ったフィーネは槍の柄でその蹴りを止めた。しかし、相手の蹴りの威力はそんなものでは止まるものではない。それにフィーネの槍は折り畳めるようにしている分、普通の槍よりも脆い。

「あ……ぐっ!!」

 フィーネの槍が折られ、脇腹に強烈な一撃を食らって地面を転がる。蹴りが当たる寸前、攻撃に合わせて横に跳んでいるので多少は衝撃を逃がしたようだが、そのダメージは大きい。フィーネは少年と同じく動かなくなってしまった。

 戦闘不能に追い込んだ人間はやはり興味がないようで、怪物はその顔を一番近くにいたイヴに向けた。ここで声を出せば、彼が標的をキールに変える可能性は充分にあるが、そうならなかった場合のリスクが大き過ぎる。

 なので、キールは舌打ちをすると、エリスを地面に下ろして紋章術で移動した。移動先は怪物の真横。その怪物の顔面に蹴りをぶち込む。さすがにいきなり横から蹴りが飛んでくるとは思っていなかったようで黒い怪物はキールのその蹴りを食らって倒れた。

 フィーネに代わってイヴの前に立つと、キールは左手の剣を腰の鞘に戻して、懐から投擲用の短剣を取り出した。それを黒い化け物に向かって投げ付ける。肌の色は違っても強度は変わらないのか、その短剣は怪物の体に埋まった。

 しかし、これは所詮、足止め用の武器だ。急所にでも当たらない限りは致命傷にはなり得ない。しかも、痛覚が麻痺しているようで怯む素振りも見せずに怪物は立ち上がって、目にも止まらぬ速度でキールに殴りかかってきた。

 その速度は先ほどまでの動きよりも速い。キールは自分のうかつさを呪った。背後にはイヴがいる。しかも、手を取って紋章術で移動しようにも、その手を届かせるには距離――たった一歩分移動しなければならなかった。つまりはイヴを連れて紋章術を発動させるには二歩分の移動が必要ということ。その分の時間はどこにもない。

 ここでやるしかない。キールは刹那の時間にそれを分析し、覚悟を決めた時だった。

 黒い怪物の進行方向に空から何かが飛来し、石畳を割って地面に突き刺さった。それに驚いたのか、黒い化け物は足を止める。

「――ちっ。まさかこんな場所で再会するとはな」

 地面に刺さったものは片刃の長剣。次いで背後から聞こえたのはそんな言葉だった。キールは、その異様なほど長い剣と声に聞き覚えがあった。

 思わず息を呑む。目の前に立つ飾り気のない無骨な長剣。あれは常にキールの傍らにあったもので、幾度となくその危機を助けてくれたもの。

 そして剣の持ち主が背後から駆け抜け、その柄を握った。地面から引き抜くと同時に剣を切り上げる。それを何とかかわした怪物は、その一撃に怯んだかのように初めて距離を取った。

 記憶よりも一撃は鋭くなり、背も高くなったように思えるが、くすんだ金髪は昔と変わらない。

「……フレッド、か?」

 答えはない。それは余計な情報を部外者に与えないための癖のようなものだ。旅行者風の格好ではあるが、任務に忠実なその在り様も、髪の色と同様に少しも変わりなかった。

 その問いかけの代わりに旅行者風の青年――フレッド・シーカーはキールを微かに一瞥し、地面に刺さった剣を引き抜いた。それから、その切っ先を怪物に向けて構える。

 これでこの連中の素性がはっきりした。

「ここにおまえがいるってことは、こいつらは『銀』か」

 当然、フレッドはそれに答えない。真っ直ぐに怪物と睨み合う。

 不意にその形のいい鼻を鳴らした。

「ふん。やはりそうなったか、ゼーレン。いずれは飲み込まれる。予測された通りではあったな。おまえは俺のことを嫌っていたが、数分前までは仲間だったからな。引導を渡してやる」

 フレッドはそう言って剣の柄を握る手に力を込める。攻撃に移る寸前、フレッドはキールと目を合わせた。それだけで彼がキールに求めているものがわかってしまう。苦々しい話だが。

 フレッドと黒い怪物が地を蹴ったのは同時だった。軽々と地面に手を埋没させるほどの腕力にどうしても目が行きがちだが、その速度も相当なものだ。蹴りを交えたその手数はキールと同等、あるいはそれ以上かもしれない。

 それをフレッドは長剣一つで防ぎ切る。正面からぶつけるのではなく、蹴りと拳の軌道をずらすように戦っている。鋭いようで柔らかい太刀筋。どのような武器であっても、あの剣をかいくぐって攻撃を当てるのは難しい。『結界』とまで評される彼の剣技は未だに衰えていない。

 その猛攻を防ぎながら、フレッドは再びキールを見る。口元が小さく、そして冷酷に動いた。

「――やれ」

 考える前にキールの体は怪物に向かって走り出していた。

 フレッドが一際強く踏み込み、黒い怪物の片足を斬り飛ばした。しかし、相手は痛覚が遮断されている。バランスは崩したが、怪物は意に介さずにフレッドを例の腕力で殴ろうとする。フレッドは大きく剣を振ったために防御できる体勢ではない。

「――ふっ」

 その黒い腕がフレッドの顔面を貫く前に、キールがすれ違いざまにその首筋を切り裂いた。

 フレッドが敵の体勢を崩して攻撃の機会を作り、キールが止めを刺す。血らしきものは一切流れでなかったが、弱点は普通の人間と同じだったようで首筋を切り裂かれた怪物は、わずかに立ち尽くした後、地面に崩れ落ちた。赤く輝いていた紋章もゆっくりと光を失っていき、やがて消えた。

 手応えはあった。その証拠に青年だったものは体中を黒くしたまま、動き出す気配はない。

 この現象が何だったのかわらかない。わからないが、それを考えたところで仕方がない。今は脅威を一つ取り除いたことを幸いとするべきだ。

 それに注意を割くべきことは別にある。

 キールは黒い怪物の死体を挟んで、フレッドを改めて見つめる。その視線に対する返答は長剣の一振りだった。キールは身を反らして、それをかわした。それを見て、エリスとイヴがそれぞれ駆け寄ろうとしたが、目線で止める。

 二人の足が止まったことを確認すると、キールは剣を逆手に持ち替えてフレッドと睨み合う。

「一応言っておくが、おまえを助けたなんて思うなよ、キール」

「わかってるさ。俺の力を利用した方があの化け物と倒しやすいと思ったんだろ? そうしなければイヴを確保するって任務が果たせなくなるからな」

「さすがだな。俺と似た思考をする」

 皮肉そうに笑うフレッド。仮面のような表情の変化。相変わらずなのはそこも同じだった。

 フレッドの剣が今度は縦に振られる。キールはそれを体勢を変えて避けると、右手の剣をフレッドの心臓に向けて伸ばす。それは剣の柄で防がれた。

 籠手調べではあったが、決して手を抜いたわけではない。それを容易く阻まれた。先ほどの黒い怪物との攻防でも見せた動き。あれは速さではない。単純な手数の勝負ならば、小回りの利く剣を持つキールが負けるはずがない。

 フレッドの剣の恐ろしさは巧さにある。剣の技術だけならば、あの『血風』にも劣らないと評されるほどの腕前。それがキールに襲いかかる。それを何とか防ぎながらキールは言う。

「かつての仲間だろうと何だろうと容赦しないな。『銀』そのものだ」

「当然だろう。俺はここで生きる術しか知らない。おまえもそのはずだったんだがな、キール。ここでこうして剣を振るっているということは、リルアルドの騎士になったのか?」

「まだ成人して一年しか経ってないから見習いだけどな」

 その答えを聞いたフレッドはキールと剣を交えたまま、蹴りを食らわせてきた。後方に投げ出されながらもキールは懐から短刀を取り出して、フレッドに投擲する。それは当たり前のように、フレッドに当たることなく全て落とされるが構わない。フレッドの追撃を阻止することには成功したのだから。

 キールが着地したのを見つめながら、意外にも切っ先を下げるフレッド。それから散らばった短剣の一つを軽く蹴って言う。

「見事だな。足止めのつもりで投げたのだろうが、全て急所に投げられていた。鋭さは前よりも落ちたようだが、及第点だろう」

 フレッドは「これなら一応訊く価値はあるな」と呟き、キールを真っ直ぐに見据えた。

「キール、こちら側に戻ってくる気はないか? おまえの本質は騎士なんかじゃないだろ」

 射抜くような視線と言葉。予想外の問いかけに沈黙するキールにフレッドは続ける。

「おまえの剣や体捌きは王道ではない。このリルアルドだからこそ何の疑問も持たれなかっただろうが、おまえの動きは闇に潜む人間のものだ」

「……だったら何だって言うんだ?」

 抉られる心の痛みを誤魔化すようにキールはフレッドを睨んだ。そんなキールを見て、フレッドは呆れたようにため息を吐き出した。

「その答えは戻るつもりはないと言いたいようだな。だが、おまえでは俺に勝てない。おまえはあの頃よりも確実に弱くなった。あの頃は殺すことに躊躇いなんて覚えもしなかったのに、今のおまえは普通の生活に触れたことで動きに淀みが生まれている。自覚はあるんだろう?」

 フレッドの言うことは正しい。普通に生きたいと願う自分と暗殺者としての自分。その相反する二つがキールの動きを鈍くしていた。

 そこで息絶えている黒い化け物だってそうだ。本来ならば、腕を落とした時点で決着がついていたのだ。一瞬だけ呆けた瞬間に急所に剣を突き立てれば、それで終わっていた。だが、キールは殺すことを迷った。ずっとまともな世界に憧れていて、ようやく手に入れたのだから。

 そのまともな世界に身を浸らせていたキールに古巣の住人が斬りかかる。まさに縦横無尽。あらゆる方向から剣が迫り、キールはそれを何とか防いでいくが、元々剣技はあちらの方が上だ。キールの首筋に剣が向かってくる。

 通常ならば、そして当時のキールならば絶対に避けられない攻撃。

 しかし、今のキールにはこれがある。

 一歩後退するだけで、まったく違う場所に出現できる移動の紋章術。それを使用して、キールは長剣から逃れるだけではなく、フレッドの背後に回り込む。殺らなければ殺られる。そのことを熟知しているキールは心を凍らせて剣を振るった。

 その際に漏れ出た殺気。それを察知したのか、フレッドは左腕を顔の辺りまで持ってきた。それは首筋を断ちにいった剣の軌道上。だが、そんなものは障害物になり得ない。日頃の手入れは怠っていないし、ラッセルに研いでもらったばかりだ。その腕ごとフレッドの首を体から切り離せる。

 そう思っていたキールの耳に届いたのはあり得ない金属音だった。

 フレッドの長剣は右手に持たれたままだし、左手には籠手らしきものは装着されていなかったはずだ。それなのに聞こえたのは確かな金属音。そして、手に響くのは間違いなく鉄のぶつかる感触だった。

 キールは眉をひそめて、フレッドの左腕を見る。そこには鎖が巻き付いており、その鎖がキールの剣を止めていた。

 乱雑に長剣が振るわれ、キールは一旦距離を取る。改めてフレッドの左腕を見ると、鎖などどこにも巻き付いていなかった。だが、手の中の痺れがあれが幻ではなかった証拠になる。

「ふん。予想はしていたが、やはり一級の紋章か。自分自身を好きな場所に移動させることができる特性」

 たった一度紋章術を使用しただけで特性を見抜かれてしまった。しかし、意外にもその特性を見抜いたフレッドの方が奥歯をギリッと噛み締めた音が聞こえた。それは本当に意外なことだ。フレッドが任務時に素の顔を見せるなんて、キールが知る限り一度もなかった。

 そんな嫌悪感をむき出しにした顔でフレッドは言った。

「――醜いんだよ、おまえは」

 フレッドが何を言いたいのかはわからなかったが、強い殺意ははっきりと感じ取れた。

 その殺意と頭上から音が聞こえて、キールはとっさに身を引いた。そのキールの足下、石畳を割って突き刺さったのは太い鎖だった。それで終わりではない何本もの鎖が雨のようにキールに降ってくる。

 それを避けながらキールは分析する。突如として現れる鎖は地面に突き刺さり、その身を張り詰めさせていく。これは間違いなく紋章術だ。天から伸びる鎖が何本も張り巡らされ、キールの行く手と視界を狭める。

 困惑するキールの隙を突くように、フレッドが死角から斬りかかった。振り下ろされた長剣をとっさに自分の剣を交差させて頭上で受け止めるキール。

 一見すると痩せているようだが、フレッドの筋力はキールよりも上だ。この均衡は長くは続かない。早めに切り上げるべきだ。

 キールは足でフレッドの胸を蹴り付けた。ダメージを与えるためではない。その胸板を足場にするための行為。それを利用してキールは宙返りをし、距離を作り出す。

 それを読んでいたかのように一本の鎖が、今度は地面から生えてきてキールの首筋に伸びてくる。その鎖の攻撃は遅いわけではないが、キールの敏捷性や動体視力を持ってすれば避けるのは容易い。キールは左手の剣でそれを弾いた。

「――っ!?」

 突如、キールの剣に鎖が巻き付き、その自由を奪った。もちろん、弾く方向などは計算していた。なので、こんなヘマはとても考えられない。

 遅れて理解する。これがフレッドの紋章の特性。この鎖はぶつかったものに巻き付き、動きを封じることができる。

 だが、最悪なのはその特性ではない。鎖を出現させる際、予備動作らしきものが一切見受けられない。つまり、これは一級の紋章による特性というわけだ。

 風を切る音。キールが身をかがめると、その銀髪を鎖が掠めた。フレッドが右手に鎖を巻き付けて、それを鞭のように振ったのである。このように攻撃にも転じさせることができるのだから、応用力の高い紋章術だ。

 その鎖をやり過ごし、キールが止めていた息を吐き出す。その時にはもうフレッドがすぐ側にまで迫っていた。

「やっべ……っ!」

 下から切り上げられようとするフレッドの長剣。キールは封じられた左手の剣から手を放して、後ろに跳ぼうとする。そんなものではフレッドの剣からは逃げられないかもしれないが、幸いキールには紋章がある。

 それを発動し、移動しようとするキールの足をフレッドの足が踏み付けた。キールは思わず顔をしかめる。キールの紋章の特性はあくまでも移動だ。それを封じられた。たった一度目の前で使っただけで、そこまで見抜かれてしまっていた。フレッドのその観察眼に舌を巻くが、そんなことを気にして入られる状況ではない。

 キールの体を断とうとする長剣が不意に止まり、振られる向きを変えた。その方向で奏でられる金属のぶつかる音。その隙にキールは踏まれた足を引きずり出して、紋章術でフレッドから離れた。

「花彫。思いの外、鋭い一撃だな」

「こう見えてもリルアルドの騎士見習いだよ。腕に覚えはあるし、まだ数日だけどそれなりに訓練は受けてるんだから」

 肩に長剣を乗せるフレッド。弓を構えたイヴはそう言いながら、次の矢を構える。イヴがあれを放ったとしても、フレッドならばすでに転がっている一本の矢のように簡単に防げる。それを見越しているかのようにフレッドは馬鹿にしたように笑う。だが、馬鹿にしたのはその無駄な攻撃に対してではなかった。

「おまえがいくら弓の腕がよくても関係ないさ。結局のところ、おまえはその血の呪縛からは逃れられない。どう願ったところで、おまえの生きる道は一つしかないんだからな」

 その言葉を否定するようにイヴは矢を放った。長剣で無造作に払うように、フレッドはそれを落とすと、そのままイヴへと駆け出した。そこにキールは紋章術で割り込んで、右手の剣だけで数合打ち合い始めた。

 このまま押し切られると思ったが、フレッドは意外にもその場から身を引いた。間合いの外に出るとその切っ先をキールに突き付けてフレッドは続きを口にする。

「それはおまえにも言えることだぞ、キール。どれほど望んだとしても、おまえの居場所はそこじゃない。ここだ。捨てられなかったその戦い方が何よりの証拠だろう」

 その言葉に反応するようにキールの右肩が疼く。痛みではない。妙な違和感がある。

 それを不思議に思うキールを現実に引き戻したのは、恐ろしいほどの殺気だった。修羅場を幾度もくぐり抜けてきたキールでさえも、この場から逃げ出したくなるほどの殺意。

 今までとは違う殺気をまといながら、フレッドは剣を構える。それに呼応するようにキールは剣を構えたが、完全にその殺気に飲まれてしまっている。今斬り合えば殺される。

 その殺意が不意に薄れ、フレッドは別方向に視線を移した。その方向は王都の中心街がある方向。キールも理解した。そちらの方から複数の人の気配を感じる。それが何なのかフレッドも理解しているようで、長剣を背中の鞘に戻した。

「時間切れか。部下たちが足止めはしていたはずだがな。もう少し時間を稼げるかと思っていたが、さすがはリルアルドの騎士たちだ。これだけの時間があって、目的を果たせなかった俺たちの方が落ち度としては大きいな」

 フレッドは気絶している少年の下に駆け寄ると、その小柄な体を肩に担ぎ上げた。それから一度だけキールを睨む。そこには一片の情も存在しない。親の仇でも見つけたかのような強い敵意に塗れた視線。

 それをほんの数秒だけ向けてから、フレッドは舗装された街道を逸れた。街灯の光すらも届かない闇の中に消えるのを見届け、キールは膝から崩れ落ちる。そんなキールにレベルの違い過ぎる戦闘を見せつけられて動けずにいたエリスが駆け寄ってきた。

 騎士学校に通う見習いとはいえ、キールもリルアルドの騎士だ。他国からの襲撃者を逃すわけにはいかないが、あれを追うにはリスクが高過ぎる。

 残されたものは酷い疲労感と突き刺さる戦友の言葉。

 ――おまえの居場所はそこじゃない。

 かつての戦友と戦ったというのに、キールの体はその事実に硬直することはほとんどなかった。老人だろうと子供だろうと、敵ならば排除するという在り方のおかげだろう。

 それを自覚するとキールの右肩の違和感が強まったように思えた。

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