050 草原の王者と奪った者
前回のあらすじ
Q 黒粘土をゲットしました。それとセシルを見ていると、色々と考えさせられます
A 気を揉んでしまうのは仕方ないと思います
「『ステップ』様々だな。こんなに楽だとは思わなかった」
「す、凄いねエイル……僕はちょっと疲れてきたんだけど……」
森の出口付近まで差し掛かった所で、俺達はそんな会話をしていた。
俺の方はまだまだ余裕があったのだが、セシルは少し息が荒くなっている。おそらく、まだ『ステップ』に慣れていないのだろう。体格と元の体力ではセシルの方が優れていると思われるので、彼の疲れはどちらかというと精神的な部分が大きいのかもしれない。
スキルを使えば、どうしても魔力の操作で精神的な疲労が出てきてしまう。どうして忘れていたのか、どうやら俺は自分を基準にして考えてしまう癖があるらしい。
精神の強度で考えてみれば、俺よりセシルの方が先に疲れてしまうのは当然だ。
それに、俺は『ガード』が使える。いくらセシルの方が体のスペックでは上でも、スキル込みだと俺の方が色々な面で楽なのは考えるまでもない。
「そうだな……ちょっと休憩にしようか。ついでにセシルの鞄から1,2個黒粘土をこっちに移そう。まだバッタが帰ってくる時間には余裕があるけど、この分だと王都に帰るのは日が暮れそうだから」
「駄目だ! それだけは駄目だ! これくらい、僕が運んでみせるから!」
どうしたことか、急にセシルの態度が豹変した。自分の鞄を庇うようにして背後に隠すと、眉根を寄せて威嚇らしき表情をしている。……といっても8歳の子供の威嚇なので、可愛らしいものと言ってしまえばそれまでなのだが。
(これはもしかして……)
プライドを傷付けてしまったのではなかろうか。
セシルから見れば、俺は2歳年下の子供だ。子供にとって2つという歳の差は大きいだろう。俺は全く気にしていないのだが、セシルにとっては大事なことなのかもしれない。
そも、彼は誰かを守れる様な騎士になりたいと言っていた。それを前提に考えてみれば、俺が放った一言はあまりに無粋だったのだろう。さっきの言葉は、セシルが守られる存在であると告げたのに等しい。
実際はその通りだとも思うのだが、それと彼自身の感情は別だ。おそらく、俺がそうであるように、セシルもまた俺を守るつもりでいるのだろう。年上の心意気というヤツだ。
(嬉しいような、困ったような……)
上手く言い聞かせる方法とかはないのだろうか。
母上様や親父はどうしていただろう。
セシルの願いを叶えれば、王都へ辿り着くのが日暮れになってしまうかもしれない。そうなれば、セシルはリーデさんから怒られるだろう。もちろん俺も母上様からゲンコツを頂戴する羽目になる。
かといって、ここでセシルを傷付けてまで先を急ぐのも気が引ける。
「分かった。けど、どっちかが辛そうなら助け合おう。ちょっと休憩したらまた歩き出すから……とにかく、俺もちょっと休憩する」
「う、うん……ごめん、エイル……」
結局、折衷案でいくことにした。
考えてみれば、俺も俺で疲れる可能性はあるのだ。それならば、どちらかが本当に辛そうにしている時にそうすればいい。
セシルは騎士になりたいと言っている訳で、この運搬作業は良いトレーニングになっている部分もあるのだし。
まあ、あれやこれやと気を揉んでも仕方がない。
セシルも下手をすればタンコブを作られるかもしれないが、それもセシルにとって良い教訓になる。……その場合、俺はすぐに回復魔法で治すとしよう。母上様のゲンコツは硬いので、そうしなければ子供の涙腺だと泣きそうになるのだ。
互いに倒木の上へと腰を下ろし、一息を吐く。
見れば、セシルの表情はそれだけで幾分か和らいでいる。肩の荷を下ろすという、そのままの意味で楽になったのだろう。
やはり、この荷物の重さも大概おかしかったようだ。スキル込みで考えなければ、俺達の体格では凶悪な重さであるのは間違いない。
明日はリアカー的な何かをオッチャンに作ってもらうのが良いだろうか。帰りはそのまま店にクロスライムを届ける予定なので、それとなく相談してみよう。
「スキルかぁ……。僕も早く全部を覚えたいな……」
誰に言うでもなく、セシルはそう呟く。
彼が騎士になるには、一体どれだけの努力を積まねばならないのだろうか。もし才能が無ければ、どれだけ努力を積み重ねても無駄になってしまう可能性だってある。
できれば、セシルの夢が叶ってほしい。その夢は彼自身の為だけではなく、リーデさんを想う優しさでもあるのだから。
俺はセシルの独り言が聞こえなかった振りをして、枯れ枝をブンブンと振り回す。
道中の枝葉を払っている内に、随分と短くなってしまった。もう森から抜けるのはすぐなのだが、杖代わりにもなるので新しい物に取り替えた方が良いだろう。
そう思い、役目を果たした枝を遠くに放り投げた。無意味に『チャージ』まで使って。
真っ直ぐに森の出口まで飛んでいく枯れ枝。それが向かう先で、何かが動いた気がした。
「キィ?」
パキリと硬い物同士がぶつかる音が響く。
突然の攻撃を受けたそれは、大きな瞳で正確に俺を見据えている。
「あ……」
間抜けな声を上げる俺に対し、それはゆっくりと体をこちらへと向けた。
真っ直ぐその複眼を俺へと向けながら、ピクピクと触覚を揺らす。
「えっと、あの……怒ってないですよね?」
「え……? べつに怒ってないけど、なんで?」
セシルはまだなにが起こったのか分かっていないらしく、小首を傾げている。
だが、俺の視線の先に居るご立腹中の一匹――ニジイロバッタに気付くと、その顔を一瞬にして強張らせた。
「キィィイイイイイ!!!」
「ごめんなさいぃぃいいいい!!!」
それと同時に、ニジイロバッタがこちらへと突進してくる。
超重量の昆虫。それは、おそらく俺が最も苦手とする相手。
バキバキと小枝をへし折りながら、バッタはその跳躍力で俺達との距離を詰めてくる。その速度は凄まじく、先ほどまでの200メートルの距離は瞬く間に半分となっていた。
「短気すぎますよバッタさん! もっと落ち着いて……セシル、荷物を放り投げろ! こんなの背負ってたら逃げられない!」
「わ、分かった! なんであのバッタ怒ってるの? 僕の方もチラチラ見てはいるみたいだけど……アイツ、もしかしてエイルのことを狙ってない?」
「絶賛狙われ中です! ひぃいいいいい! ごめんなさいぃぃぃいいいい!!!」
おそらく、森に入る前に見た奴だろう。あのマダライヌの死骸を貪っていたバッタ様だ。まだ森の前に居たとは、予想外だった。
俺達はリュックをその場に投げ出すと、同時に走り始める。
それに応じるようにして、バッタは木を蹴って突進する角度を変えた。
「本当に狙われてる!? エイル、一体なにがあったの!?」
「投げた枝が当たっちゃいました! だからって子供相手に怒らないで下さいバッタさん!」
いや、子供相手だから向かってきているのかもしれない。
自然界において、弱い者が狙われるのは当然の事だ。おそらく、あのバッタは俺達を格下の存在だと思って仕返しするつもりなのだろう。なんとも短気なバッタである。
しかし、その迫力は絶大だ。現に、俺はビビリまくっている。セシルも冷や汗を掻いているので、やはり怖いのだろう。
複眼が木漏れ日を反射し、バッタが逐一何かを目で追っているのが分かる。
その視線の先に居るのは、俺だった。間違いなく、俺に怒ってらっしゃるのだ。
「ああクソ! セシルは森の中へ逃げろ! 俺は森の外の方へ逃げる!」
「なに言ってるんだよ! 二人で逃げないと、戦うことになったら!」
「秘策があるんだよ! とにかくそうしてくれ!」
実際は秘策もクソもない。ノープランもいいところだ。
だが、セシルの言う通り、戦うことになるかもしれないのだ。
バッタは猛烈に怒っているらしく、執拗に俺を追ってきている。ならば、ここで二手に分かれれば、俺の方を追ってくるだろう。
セシルは俺の依頼を手伝ってくれている立場なので、冒険者である俺が守らなければならない。だからこそ、戦いなんて場に立たせるのは駄目だ。
「分かった! 森の中で武器に使えそうな物を探すから、エイルは時間稼ぎを!」
「助かる。じゃあ、すぐ後で!」
互いに頷き、二手に分かれる。
やはり、バッタは俺の方を追ってくるつもりらしい。
セシルが聞き分けの良い子で助かった。もしここでゴネられていたら、追いつかれていたかもしれない。
そう思わずにいられないほど、バッタは森の木を巧みに使って俺達との距離を詰めていた。
セシルと別れたこと、そしてバッタが俺だけに執着してくれているらしいので、ようやくこちらも本気で逃げることができる。
「触りたくない触りたくない触りたくない! 『ステップ』全開ぃぃいいいいい!」
先程よりも魔力密度を上げ、体内での限界にまで洗練。それをエンジンのピストンの如く高速で足の動きと連動させる。
「キィイイイイ!」
だが、バッタはやはりバッタだった。
グラスホッパーという名前の意地なのか、こちらの速度が上がったというのに、平気で距離を詰めてきている。
太い木の幹を避け、隙間を正確に縫うように、その強固な外骨格で軌道上の枝葉を薙ぎ払いながら、背後で進撃の音を撒き散らしていた。
「出鱈目なヤツ……」
バッタの異常なまでの3次元機動は、この豊かな森のおかげだ。太い幹から次の物へと、鋭い跳躍から間を置かず、次の跳躍へと移るのを可能にしている。
対するこちらは、バッタの動きと足元の凹凸を確認しながら逃げなければならない。地形のおかげで完全に不利になっている。
ならば、森の外ではどうか。だがそうすれば、セシルとはぐれてしまう。怒りの矛先がセシルに向く可能性がゼロではない以上、それも気が咎める。
そんな葛藤をしている間に、もう俺とバッタの距離は数メートルにまでなっていた。
「ああ、チクショウが! やってやるよ!」
もうウダウダ考えるのは無しだ。このまま森の中を逃走をしていれば、いつか追いつかれる。森の外で逃げ回れば、セシルとはぐれてしまう。
ならば、もういっそ戦ってやろうではないか。
相手は1つ星の魔物。クロスライムと同じレベルでしかないのだから、やってやれないはずがない。
「風の刃よ 『風刃』!」
極薄の層のみの空気を高速で動かし、それに含まれる微粒子で対象に裂傷を負わせる下級風魔法。
狙うのはバッタご自慢の後肢だ。あれさえ使えないようにすれば、こちらの勝率は格段に上がるはず。
「キィ!」
「え……?」
だがどうしたことか、不可視であるはずの風の刃をバッタはいとも簡単に避けた。その回避は神掛かっており、見事に空中一回転なんぞを決めている。
一瞬見えた腹のプニプニ具合に、俺の首筋が粟立っていく。
どうやらあのバッタ、風の動きが分かるらしい。そうでなければ、魔力が見えているという話になってしまう。
今まで出会った人達は、誰も魔力が見えている様子がなかった。だから俺の魔力が見えるという力は、一種の特異体質なのだと思う。
あのバッタにそんな能力があるとは思えないので、やはり風の動きが分かると見て間違いないだろう。
つまり、あのバッタに対して風魔法は有効手段足りえない。
「これで本当に1つ星なの!? 意味わかんない!」
これでクロスライムと同じランクとか、クロスライムさんが泣くぞ。
あの虹色に光るバッタは風魔法への反応手段を有し、リーデさんにやったように人に裂傷を負わせる事さえ可能なのだ。
これで1つ星というカテゴライズ、謙遜のし過ぎなのではなかろうか。彼はもっと上を目指すべきだと思います。
粟立つ首筋を手で摩りながら、森を抜けた。
このまま風魔法で攻めるにしても、森の中では自由自在な動きによって避けられてしまう。
だが、それはあくまで森の中での事情。ただの草原ならば、避けた後に生じる隙も大きくなる。連続で『風刃』を叩き込めば、足の一本くらいは落とせるだろうか。
「追ってこい! 此処で佃煮にしてやる!」
跳躍と跳躍。
俺が森の外へと飛び出した後、すぐにバッタは草原へと飛び降りてきた。互いの距離は10メートルほどだろうか。
実際に対峙してみると、その面構えが想像以上に凶悪だと感じられた。
頭部に短い角が数本あり、全体的に角ばった顔をしている。モロに頭突きを喰らえば、あれが突き刺さったりするのだろう。
図鑑で見た姿とは違い、本物の迫力は笑ってしまうほど段違いだった。
七色に光を反射する外骨格は、見るからに分厚そうだ。もしかすると、『風刃』程度では仕留めきれないかもしれない。
ならば、狙うのは関節部分だ。
バッタが僅かに首を動かした際、その隙間が膜で覆われている程度の物でしかないのを『ステアー』で確認する。
「『風刃』!」
最初の一撃は弱くていい。どうせ避けられてしまうだろう。
予想通り、バッタはその跳躍で『風刃』をかわす。
だが、突然の跳躍は無防備を晒すに等しい。その隙を逃してやるほど、俺も精神的な余裕はなかった。
「火よ焼け」
詠唱するのは下級の火魔法。
風が渦巻き、バッタの周囲に燃料を運ぶ。それと同時に、俺は指先に小さな火を灯した。
「『火玉』! 頼むから燃えて!」
風に運ばれ、指先の炎がバッタへと走る。数瞬の後、あの周辺は炎に包まれるだろう。……そう思った瞬間だった。
バサリ、と何かを広げる音が響くと、地面に薄茶色が広がる。バッタの方を見れば、その影が何倍にも膨らんだように見えた。
それは、飴色の翅。
太陽の光を淡く透かすその薄板は、容易にバッタの体を炎に包まれる空間から逃すことに成功していた。さすがは昆虫、空中で別方向へ加速したのである。
「これも避けるの!?」
「キィイイイ!!!」
心なしか、バッタが誇らしげに見えてきた。
僅かに遅れて発動する『火玉』は、その熱風をもって俺とバッタの距離を離してくれる。
……これは不味いかもしれない。頼みの綱であった『火玉』まで避けられるとは、あの翅は厄介だ。それに、強靭な後肢もある。
魔法による攻撃はかなり厳しいと考えるべきかもしれない。中級闇魔法の『暗月』にしても、発動までにタイムラグがある。あの瞬発力相手では、その隙を突かれかねない。『風刃』を連発するにしても、あの七色の外骨格で関節を防御されてしまっては効果が薄いだろう。
なので、俺の手持ちの魔法で一番殺傷力が高い『氷矢』を使いたいのだが……。
「セシルさん、返ってくるの早いから……」
両手に握り拳程の石を携え、セシルが木陰からこちらの様子を窺っている。誰かが見ている以上、氷魔法は使えない。
セシルはあの石でニジイロバッタを攻撃するつもりらしいが、バッタは『風刃』さえ避けるほどの感知能力を持っている。警戒態勢にある今、おいそれと当たってくれるとは思えない。それに、子供が投げた程度の石で倒せる相手ではなさそうだ。
現に俺は、『チャージ』込みで枯れ枝をバッタに当てた。だが、バッタ様はピンピンしていらっしゃる。
遠距離攻撃は微妙。そうなると……。
「近接攻撃か……触りたくないけど、もうそんなの言ってられない……なっ!」
風を纏って突進してくるバッタを、寸でのところで避ける。待ったは無しなのだろう。高速で流れる風に引っ張られた服がバッタの後ろ足の棘に引っ掛かり、ビリリと嫌な音を立てた。
「キィイ!!!」
回避されたのが悔しいのか、バッタは着地すると、ガリガリとその爪で地面を引っ掻く。恐ろしい勢いで地面が抉られているのですが、もしかしてそれで私を引っ掻くおつもりなのでしょうか。
同時にキチキチと鳴る口は、2本の鋭い牙を覗かせた。
どうやら、あちらも近接戦をお望みらしい。あの口で噛まれれば、多分簡単に骨を砕かれるだろう。バッタに噛まれて複雑骨折とか、嫌過ぎる。いや、複雑骨折くらいで済めば良いのだが……。
ネガティブな想像は一旦頭から排除し、思考を切り替える。
そして、腰の後ろに差したダマスカスのナイフへと手を伸ばした。スラリと抜き放たれたそれは、バッタの外骨格とは違った堅牢さを秘めた輝きを放つ。
(多分、このナイフなら関節部に差し込めるはず。狙うなら首だ。相手は昆虫……。近接戦の場合、手足を切り落としたところで大した意味はないだろうから)
後肢を落とすのも一つの手だが、ゼロ距離での被害考えると、一発で勝負を決めたいところだ。……多少、精神的な意味で。
反射する陽光を前へと翳し、その先端に対象を据える。
「来いよ。お望み通り、ゼロ距離でやってやる!」
「キィイイイイ!!!」
土と青草を巻き上げ、その身を一瞬にして加速させるニジイロバッタ。
その突進は、今まで以上だ。低く、そして鋭い。
昆虫としては破格の巨躯を難なく加速させるその芸当は、おそらく『チャージ』による芸当だ。
対するこちらも、『チャージ』を使って肉薄する。
交錯は一瞬のはず。それをモノにできれば、俺はコイツに致命の一撃を喰らわせてやれる。その為には、バッタの攻撃が届かない所に体を潜り込ませなければならない。
ナイフとは逆の手を眼前へと差し出し、無呼吸運動の中で小さく詠唱を始める。
「揺らぎ喰らう闇よ、彼の者を繋ぎとめよ」
一瞬でいい。その意識が、俺から逸れてくれるなら。
「『暗月』!」
バッタと交錯する直前に現れた、漆黒の球体。
それは、意識を喰う闇だ。全ての肢が地面から離れている今、バッタにはそれを避ける術は無い。翅を広げるのもままならないほどの至近距離で大口を開ける黒に、バッタは全身を飲み込まれていく。
しかし、それも一瞬の出来事。闇魔法に跳んでくる物を止める効果など無い。
バッタはその跳躍の勢いのまま、『暗月』から飛び出してくる。
それは、丁度俺の真下の位置だ。なぜなら、俺はその時点で空に居たのだから。
「キィイ!!!」
「捕まえ……くそ! 反応良すぎだろ!」
手の中にあるのは、1本の触覚。本当は2本とも取ろうとしたのだが、寸でのところで回避された。
そのまま馬乗りになり、巨大バッタを地面へと押し付ける。全身を『ガード』で固め、暴れる6本の肢に耐えた。ビリビリと布が破れる音が響き、俺の一張羅がとんでもない事態になっているのが分かる。
それでも、掴んだ触角は放してやらない。
だが、それは思った以上に脆い物だったようだ。掴んでいる手の中で、パキリと小さな音を立てて折れてしまった。
だが、それでもまだ掴んでいる。それに――
「――――やれ! セシル!!!」
「っらぁあああああああ!!!」
この状態ならば、投石を当てるのも容易い。
セシルの気合の入った声と共に、握り拳大の石が飛んでくる。『ステアー』で見たその軌跡は、違わずバッタに直撃するコースだった。
それがバッタの体に当たったとしても、ダメージならないのは分かっている。
だが、それは体以外なら、だ。
「ッ! キィイイイイ!!!」
当たったのは、バッタの大きな複眼。それでもかなりの硬さがあるらしく、目立つほどの傷は負っていない。
この防御力は予想外だったが、それでもセシルには感謝しておかねばならないだろう。何故なら、それによって目的は達せられたのだから。
「今度こそ捕まえたぞ!」
やっと2本の触覚を手の中に入れることに成功した。
ギチギチと抵抗しようとしても、2本の触覚で引っ張られる力には抗えない。バッタはその無防備な首の関節を晒している。
「これで終われ!」
『チャージ』による致命の一撃。
それは、すんなりとダマスカスのナイフをバッタの首の中へと埋めていく。ククク、と外骨格とナイフの腹が擦れ合い、嫌な感触が手に伝わってきた。
「キィィイイイイイイイイイイイイ!!!!!」
「ひぃぃいいいいいいいいい!!!」
俺が気を抜いた瞬間、バッタが断末魔を響き渡らせる。それは酷く怖気を誘う声で、知らず『ガード』が甘くなっていたらしい。
「…………はい?」
気付けば、俺は空に居た。最後の命を振り絞ったバッタから、後ろ蹴りを喰らってしまったらしい。
その時点で大分弱っていたのだろう、体は僅かに痛む程度だ。まあ、それは良かったのだが……。
「へぶし!」
頭から落下するとは、なんともツイていない。『ガード』が無ければ、かなり危ない落ち方だったのではなかろうか。ちょっとクラクラしているので、下手をしなくとも脳震盪を起こしていただろう。
ある意味K点超えの着地を見せた俺に、セシルが青ざめて駆け寄ってくる。
「エイル! あ、あぁあ……最後の最後になって……っ! くそ! 僕が……こんな……」
「いや、そんな大ダメージじゃないから。それにしても、とんでもないバッタだった……これで1つ星かよ」
なにやら猛反省しているセシルを手で制し、仕留めたバッタの方に視線を移す。
やはりというか、まだバッタは動いていた。6本の肢と翅を小さく痙攣させながら、必死に横になってしまった体を起き上がらせようとしている。
その光景は、酷く胸を抉った。
もう声すら出せないのに、消えていこうとしている自分の命を、絶対に手放そうとしない。
だから、その姿を見ていることはできなかった。
「エイル?」
「トドメ刺してくる。あのまま苦しめておくのは……」
「……分かった」
母上様は言っていた。
命を奪うなら、一思いに奪ってやるのが礼儀だ、と。
もう、助けてはやれない。助けてやれても、また戦う羽目になるだろう。ぎこちなくこちらを向くバッタの目は、まだ闘志に燃えているのだから。
「……汝が地に還ることを」
額から大地へ、指を導いていく。このバッタの命が、正しく大地に還るのを祈りながら。
それは殺した者としては傲慢な考えかもしれないが、そう思わずにはいられなかった。
「雷よ走れ 『雷華』」
白い華を咲かせる手で、もう一度その首筋に触れる。
不思議と、嫌悪感は抱かなかった。あれほどまでに怖かった相手が、今この時だけはなんの悪感情も湧いてこない。
バッタは一度だけ全身を硬直させる。でも、それで最後。すぐに肢から力が抜けて、6本の肢を地面へと投げ出した。
「……ごめん」
もの言わぬ躯に、ただそんな言葉を投げかける。返ってくる言葉などあるはずもなく、懺悔にすらなりはしない。ただただ、空虚に感じられる言葉だった。
それでも、言わずにはいられない。俺はこのバッタの命を奪ったのだから。
クロスライムの時よりもずっと強く、言い表せない感情が胸の中で広がっていく。
それは、お世辞にも気分が良くなるものとは呼べなかった。




