表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/55

001 悩める理系と獣の出会い

次回から前書きに簡単なあらすじが入ります。

「う~ん……」


 遅々として埋まらないパソコン画面上の白紙を前にして、俺はくぐもった声を上げていた。こんな醜態を晒しているのも、論文発表を間近に控え、ここ一月の研究成果を纏めなくてはいけないからだ。

 しかし、キーボードを叩く指は全く動く気配を見せてくれない。当然と言えば当然だろう、研究自体が殆ど進んでいなかったのだから。


「なんで毎月発表しなきゃならんのかね……」


 溜め息一つ、そんな愚痴が零れてくる。

 教授が研究生達の進捗具合を知るための物だと分かっているものの、させられる方はたまったものではない。

 こんな事ならもっと簡単な研究室を希望するべきだったか、と今更ながら後悔してしまう。

 大学4年になって、俺が配属された研究室は医療機器を研究する所だった。

 工学部だった俺は、就職活動に有利だろうと思い、安直に決めてしまったのだ。

 不景気だろうと需要の安定している医療系。配属されて、その直後は良かった。

 当初は先輩達の的確なアドバイスもあり、任せて貰える部分も簡単。就職活動では医療系の研究室というアドバンテージを全面に押し出し、さも知識豊富な様に振舞う事で面接が楽だった。筆記自体は予習でどうとでもなったし、結果としてそれなりに名の通った企業から内定を貰う事もできたのだ。

大学のランクがそう高くない事もあって、俺がその企業から内定を貰ったと就職科に報告に向かった際には大層喜ばれたのも記憶に新しい。

 しかしながら、就職活動で役に立った医療系の研究生という立場は、後々になって俺に牙を剥いた。

 専門用語の多さも然る事ながら、様々な機材の操作方法、研究発表の頻度、そして参考文献の多さとその表記の殆どが英文であること。

 現在俺の手元にある印刷された論文でさえ英文なのである。

 それを一々翻訳し、必要な部分をピックアップしていく。進まなかった研究部分を補う為、仮定や推論を付け加えようとしたらこれだ。

 まるで真綿で首を絞めるようにして、俺はドツボに嵌っていくのを感じている。

 研究発表の度にその難易度が跳ね上がってきている気がしてならない。

 周りもそう感じている節はある様だが、それでもしっかりとした論文を発表できている辺り、俺の見えない所で努力しているのだろう。

 早々に内定を得た俺は慢心していた事もあって、研究より遊びを優先してしまっていた。

 俺は自身をそこそこ優秀なのだと思い込み、鼻を伸ばし、頑張ったのだから休憩も必要だと内心で言い聞かせて遊び呆けていたのだ。

 なんの事はない、ただの自業自得である。

 英文の参考資料にしても、研究の進捗具合にしてもそうだ。それに取り組む為の準備時間は十分に用意されていたのだから。

 他の研究室より厳しい所だという部分は確かにある。

 しかし、俺の研究室で頑張っているメンツは皆真面目一辺倒とも言える人間だった。本来ならそういった人間しか受け入れられない場所なのだと気付いた時は、もう後の祭りである。

 とにかく、今しなければならない事は論文の早期完成のはずだ。しかし、俺の頭の中ではifが駆け巡っている。

 もし、あの時この研究室を希望していなければ

 もし、あの時遊び呆けていなければ

 もし、あの時もっと努力していれば

 もし、あの時仲良くなれそうだった女子とのフラグを大切にしていれば……

 どんどん無駄な思考が積み重なっていき、更に陰鬱とした気分になってしまう。悪い癖だとは自覚しているものの、その考えはとどまる所を知らない。


「はぁ……」


 妙に重い頭の中をが楽になるかと思い、溜め息など吐いてみる。が、更に重くなってしまった気がした。

 何をどう取り繕うとしても、現在の状況は自分が作り上げてきた物だ。

 幼かった頃の様に誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていても、誰も手を差し伸べてくれない。

 皆自分の事で一杯一杯なのだから。

 斜に構えて全てを自分以外のせいにする事も出来ない。

 これは自分のせいなのだと誰よりも分かっているのだから。

 詰まる所、俺は精神的に未熟だったのだ。

 そして、それを外に出して良い年齢ではなくなってしまっている。

 歯痒さに渋面が濃くなっていくのを感じてしまう。

 頭の中は霞が掛かった様に曖昧な物となってしまい、追い討ちを掛けるようにして体を動かす事が億劫になっていく。

 動かさなければいけない指が、無機質な造形物にさえ見える程だ。


「いかん……いかんぞこれは」


 負の感情のループが続いていたからだろうか。ふと、今更になってある事に気付いた。

 本当に体が言う事を聞かなくなっている。


「……あれ?」


 思考をはっきりさせる為にきつく目を瞑った瞬間だった。

 ゴトリ、と重たい音が部屋の中に響く。同時に、頭に軽い衝撃が走った。

 何事かと目を開けると、室温に冷やされた机が視界を覆っている。


(おいおい! どうなってんだこれ!?)


 急速に高まる不安。

 動揺から目を見開いているつもりだが、その感覚も薄い。


(まさか風邪でもひいたのか? それどころじゃないってのに……!)


 論文の発表は明後日。現在の時刻は、まだ6時を少し過ぎたところ。

 今こうして机に突っ伏している時間などない。しかし、この状況はどういう事なのだろうか。


(声が出ない……)


 1階に居る母親を呼ぼうと思っても、それは弱々しい息となって口から流れ出るのみだ。そして、それが時間と共に小さくなっていくのが分かる。


(なんだこれ……)


 思考の靄はより一層と濃くなっていき、まともに考える事ができない。頭では鐘を打つ様な小さな衝撃が断続的に響いており、それが頭痛なのだと気付くのでさえ、数分の時を必要とした。痛みを感じられないのだ。

 頭痛はだんだんと酷くなっている様子を見せているが、それは小さく聞こえる秒針の音の様に感じる。

 カチ、カチ、カチ……と、ちいさく鳴り響く。

 知らず閉じていた目蓋は、もう開けることさえ出来ない。

 暗くなった視界の中では、頭痛に呼応する様に小さな火花が散っている。本来ならそれがただの風邪ではありえない症状だと気付けるのだろうが、それを判断できる程、もう俺の脳は働いていなかった。

 小さく、吐息が漏れる。

 小さく、息を吸う。

 そんな些細な動作でさえ、随分な手間を要する事の様に思えた。

 身が切られ様な寒さが全身を包んでいる。

 そして、最後にヒュ、と風を切る音を残して、俺の呼吸は完全に止まった。


(あ、これ……)


 目蓋の裏に砂嵐が流れ始めたのをぼんやりと眺めながら、一つの逃れ得ぬ事実に愕然とする。ここまであからさまだと、流石に自分がどうなったのか認めざるをえない。


(嘘だろ……)


 その結論に辿り着いた瞬間、鼓動が停止したのが分かった。

 死ぬ瞬間というのは、本来どういった物なのだろうか。

 悔しいのだろうか、悲しいのだろうか。

 もっと生きていたかったと願うのだろうか。

 長く生き、満足した人生の終着点と考えたのなら、多幸感にでも包まれるのだろうか。

 俺には、それが分からなかった。

 こんな中途半端でクソみたいな結末を迎えた事に、本当に情けなさで一杯になってしまっていたから。






 もう起こる事の無いと思っていた目覚めは、唐突に訪れた。

 ギャーギャーと獣の様な鳴声が聞こえている。

 急に騒がしくなった周囲に戸惑いを覚えながら、此処は何処なのかを思い描く。


(……地獄かな?)


 内心で苦笑が漏れ、何気無く思った一言に妙な納得を覚えてしまう。

 罪状は『怠惰』といったところではないだろうか。今までの行いから鑑みるに、酷くしっくりくる。

 あの時、俺の心臓は確実に止まっていた。

 つまり、死んだのだ。そして、死んだ人間が行き着く先など、地獄か天国の二つしか無い。

 薄暗い世界の中でけたたましい獣の鳴声が響いているこの環境は、此処が地獄だと判断するには十分だ。

 海鳴りの様な音が鳴り響き、ただただ狂った獣の鳴声が木霊す世界。しかし、それは猛烈な光が視界を焼いた事で終わりを告げた。


「ウギャー! ギャー! ギャオー!」

「*******!」


 獣の声を遮るようにして、別の声が聞こえてくる。一気に世界が反転した気がして、頭の中が疑問と混乱に埋め尽くされた。


(何が起こった? 目が痛い……あれ、死んでるのに目があるのか?)

「**********!!!」


 何がなんだか分からない。いきなり目蓋を焼かれ、ただただ不快な感覚に不安が広がっていく。


「**********! ******!」

(何言ってるんだ……? 日本語とか分かりませんか? 日本語です、日本語……。此処は地獄なんですか?)

「ギョうぅ……うギャう……ギャ、ギャー!」


 最悪な気分のまま、その声に返答してみようと試みる。

 だが、相手に伝わった気配はない。一応は獣さんが返事らしき物をしてくれているものの、その内容は意味不明の一言だ。


「**********!」


 また変な言語が聞こえてくる。

 とにかく、この滅茶苦茶眩しい世界の中には、俺以外に複数の存在が居るのだろう。聞いた感じ、俺以外では会話が成立しているらしい。

 もしかしたら俺は魂だけになっていて、肉体を手放した今となっては声を出せなくなっているのではなかろうか。


(へえ、死んだらこうなるのか)


 情けない結末を迎えた俺ではあるが、工学部に進んだだけあって、知らない事を知るのは嬉しい物がある。


(そしてお迎えは地獄語、と)


 研究のおかげでそれなりに他国語には触れてきたつもりだ。その殆どが英語ではあったものの、一応他の国の言葉でもニュアンスでそれなりには分かる。意味はさっぱりだが、どの国で使われているかは分かる……といった程度でしかないが。

 今聞いた言語は、未知の物だ。


(ジャングルの奥地の民族語だったりして)

「ギャー! ンギャー!」

(ちょっと静かにしてくれませんかね、考える事さえ出来ないんですけど……)


 姿無き声の主に文句を垂れて、今更気付いた。

 思考ができるのだ。

 死ぬ間際は靄がかかって判然としなかった頭の中は、妙に冴え渡っている。少し……いや、かなり重たく感じるものの、それが物理的な重さでしかない事にも気付いた。

 ならば、更に考えを纏める為にする事は一つだ。経験上、思考をはっきりさせるには自然体であるのが一番である。

 つまり、脱力。俺が考え事をしているというアピールをする事で、地獄の皆さんに時間を与えてもらおうと言う訳だ。早速行動に移すと、早くもギャーギャーという獣の声が聞こえなくなった。


(よし、軽い意思疎通はできるみたいだな)


 内心でガッツポーズなんぞをとってみる。


(えっと……ここは何処ですか? 地獄ですよね……? 天国だったら嬉し……)

「********!?」

「******!!!」

「************!!!」

「******!!!」

「****!!!!!!!!!」

(あの……他の方も静かにして頂けませんかね?)


 懇願に近い形で意思を送ろうとしてみた。しかし、俺の脱力作戦は全く功を奏している気配が無い。

 哀れ、俺の意思が通じるのは獣さんただ一匹のみであった。本当にどうすれば良いのか。何もかもが突然過ぎて、全く考えが浮かんでこない。


(なんて状況だよ……あの、失礼かと思いますが獣さんとお呼びしても宜しいですか?)


 現状、俺が頼れるのは獣さんだけだ。無理だとは思うのだが、日本語で意思疎通を図ってみる。


「ギャー……ギャー?」

(すみませんが、日本語でお願いします)

「うぃいう、ギャーギャー?」

(すみません……もう良いです……)

「ぅうう……ギャー……」


 どうしようもない事この上ない。泣きたいのはこっちの方だというのに……。獣さんも一応は俺の問い掛けに答えようとしてくれているらしいが、それはただの鳴声だ。

 獣さんも無駄を察したらしく、一人と一匹は沈黙の海へと沈んでいく。

 そうして気落ちしていると、また他の連中が騒ぎ出した。こちらはもう、本当に何を言ってるのかさっぱり分からない。


(なんてこった……ここは地獄だ。間違い無い、言葉が通じない地獄ってどんなだよ。本気で泣きそうだ)

「ンギャー! ギャー! ギャギャー!」

(獣さんも静かにして下さいよ)

「ギャウ! …………」

「*****!!!!」

「******!?」

「*****!!!?!?!」

(他の方々も黙って下さいよ……)


 やはり俺の意思が伝わるのは獣語の獣さん一匹のみ。

 最悪の気分だった。畜生のみとしかコミュニケーションを取れない地獄とは、流石に予想外としか言えない。


(知らん! もう寝る!)

「ギャウ! ギャー!」


 完全に脱力し、寝る体勢に入る。

 現状は如何ともし難く、確実な意思疎通の手段が思い浮かばない。こういう時は時間が解決してくれるのを待つのみである。

 今の俺には地獄の方々に抵抗する意思が無い事を伝える術が無い訳で、とにかくボディーランゲージならぬソウルランゲージで挑むしかない。

 正に未知の領域であるそれが分かるはずもなく、なればこそここは居直らせてもらおう。

 獣さん以外の方々がまた騒ぎ出したが、こっちは一度死んでいる身だ。彼等が俺に何かしようとしたところで、もうどうでも良い気分だった。

誤字脱字等ありましたら、教えて下さると助かります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ