あまりにも無慈悲な願い
とある都会の街に一人の男がいた。成績優秀スポーツ万能、その上背丈は百八十センチをゆうに越えており、甘いフェイスの上に生える金色の長髪にはウェーブまでかかっているという始末。世の男性はその男を見る度に歯ぎしりをし、世の女性はその男を見る度に顔をとろけさせられる程であった。
誰もが誰も。
その男のことを知れば知る程、こう思う。――ああ、この人の手にかかれば叶わない願いなんてないのだろう、と。この人は、何の不自由もない世界で生きているのだろうと。
「そんなことは、ない」
その男は空を見上げながら、何の脈絡もなく呟いた。顔は若干沈んでいる。昼の街の大通り。赤信号で止まり、車が走る音で蹂躙される中。男のそんな姿を見て頬を染める女性が隣に居ることに、男は気付いていない。気付かないまま、もう一度、呟く。「そんなこと、ない」
誰かが僕のことを何不自由なく生きている人間だと言った様な気がしたけど、そんなこと、まるでない。
信号の光りが青色に移り変わる。それを見て歩き出す男。表情はまだ沈んでおり、歩く姿もどこかおぼつかない。男の頭の中は今、黒いもやもやでうめつくされていた。それは、悩み、というものだった。
「確かに僕はそんじょそこらの人間とは訳が違う。人間が出来ているというより、僕は、出来ている人間なんだ」
女性にモテる。仕事が成功しているおかげである程度のお金も持っている。スポーツは昔から出来たから、運動神経はある方だろう。
だけど。
何不自由なく生きているという訳ではないし、何でも願いが叶っているという訳でもない。「僕には昔から夢があった。でも、その夢は、生半可な覚悟では叶わない代物なんだ」
ビルが立ち並ぶ横を歩き、行き交う人の様々な視線で見られながら歩く男は、誰にも聞こえないように小さな声で呟いた。
男には夢があった。それはあまりにもはかなげで、あまりにもどうしようもない夢。叶えている人間は世界の中に数え切れないくらい存在する。
けれども。
男には叶えるのが難しい。
そんな、夢。
「だから僕は、今まで我慢してきた」
叶えようにもかなりの恥ずかしさを伴わなければいけない。更には、例え叶えたところで、男にはどうしようもない。
何もかもを兼ね備えた男が、唯一兼ね備えることが出来なかった夢がある。「でも、もう我慢しなくてもいいかもしれない。僕はこれでも社会に貢献してきたつもりだ。だから、これくらいのわがままを言ってもいいだろう」
――というか。
もう我慢の限界だ。
太陽が輝く昼の時間帯。何の脈絡もなく空を眺めて呟き始めた男は、何の脈絡もなく、一つの覚悟を決めようとする。その時の男の表情は、人間の下劣な感情表現の最たるものと表現していい程、醜くなっていた。
そして。
周りに人が居る中、男は、誰にも聞かれないように細心の注意を払いながら、男の夢を言う。
「僕は、姉が欲しい。姉さんでもいい、姉ちゃんでもいい。姉貴でもいい。血の繋がっていない義理の姉が欲しい」
今から、その為の努力を惜しまないようにしよう。
男は静かに決意し、大通りを依然として歩き続ける。
まずは、正攻法だ。
そう思った男は翌日の仕事を、有休を使って休み、車を一晩中走らせた。新幹線で向かうという手だてもあったにはあったが、姉を手に入れるという夢を叶えようとする男はいかんせん興奮していた。新幹線の中でじっとしているなど不可能だと確信した為、男は車を使うことにした。
「姉。姉貴。姉さん。姉ちゃん。呼び方はどんな風にしようかなあ。なるべく僕と同じくらいの背丈で、尚且つちょっといじわるな人がいいなあ」
車の中でニヤニヤとしながら願いを呟く男。長年我慢してきた鬱憤を晴らすかのようだった。男は決意する。例え誰かにひかれようと、そんなのはどうだっていい。まだ顔もしらない義姉が目の前に現れるまで、僕は止まらないんだ、と。やめられないしとめられないんだ、と。
高速道路を車で走って二十時間超。ガソリンが足りなくなったらガソリンスタンドによって止める、ガソリンをまんたんにする。――この二つの動作をする以外に、男は車を運転するという行為しかしなかった。飲まず食わずで、目的地へと向かったのだ。
こうして一心不乱に向かい、目的地に着いた。
「まずは、正攻法だ。ドン引かれるかもしれないけど、僕は止まらない」
着いた目的地は男の実家であった。
大層な田舎の中心に建つ古びた家。
チャイムを鳴らしもせずに横に開ける扉を開け、「ただいま」と声をあげる。
「なんだなんだ」
「あらあらまあまあ」
「突然やってきて、なんだお前は」
「あらあらまあまあ」
父親と母親が居間の方から現れた。その姿を見やると、男は躊躇わずにこう言った。
「母さん、父さん。隠し子が居るなら今すぐ連れてきてください」
「……な、なんだ、どうしたんだお前は」厳格な雰囲気をかもしだす父親が呆れる。「いきなり家に帰って来たと思ったら、開口一番にそんなことを言い出すなど。おまけにお前、顔色悪いぞ。どうしたんだ」
「僕のことはどうでもいいです。どうでもいいんです些細なことなんです。父さん、母さん。今すぐ隠し子を連れて来てください。というか僕より年上の女性の隠し子を連れて来てください。大丈夫。今なら僕は、受け入れる準備が出来ているから」
「は?」男の父親は呆れてものが言えなくなった。
「あら、まあ」男の母親は驚いてみせた。二の句がつげなくなったようにも見える。
「遠慮しなくていいです。隠し子を。というか、姉を。義姉を。義姉ををををををを」
父親と母親は悲しい表情で男を見つめ、何も言わずに首を横に振った。父親と母親は悟った。その上で、何も言わずに男を眺めていた。思い浮かぶのは無邪気に遊んでいた息子の昔の姿。あの頃はかわいかった。何の邪心もなかった。その息子が、今、鼻息を立てて口からよだれを垂れ流しながら「義姉を。義姉を今すぐここに」と叫んでいる。
父親と母親は、「じゃあ養子縁組を」と言い出した男を玄関の外に押しやり、無表情で扉をぴしゃりと閉めた。
「隠し子はいなかったのか」
本来なら誰もが悲しむその事象を、男は欲していた。しかし、男の両親には隠し子は居なかった。
「でも、僕はあきらめない。必ず姉を手に入れてやる」
実家から離れ田舎から離れ、高速道路の休憩所。異常なことだが、一晩眠っていなかったのに、眠気は全くない。夢を叶えると決意した日の翌日の昼。男は、車の中で缶コーヒーを飲んで黄昏れながら、未来の義姉の姿を想像していた。その人を手に入れるにはどうすればいいのか。まず義姉とは何なのか。姉とはどういう存在なのか。男の思考は泥沼にはまっていく。けれども、男はこの時間を苦には思っていなかった。寧ろ至高の時間であった。
「あの、車の中で長い時間何をしているんですか」
すると、開けておいた窓から声が聞こえてきた。聞いたこともない女性の声。横を見て女性の顔を見るが、全く見覚えがない。つまりは見ず知らずの女性ということになる。風でなびく長い黒髪を片手の指先で軽く押さえながら、落ち着いた雰囲気で女性は聞く。「貴方がここに来てかれこれ五時間くらいだと思います。なのに、貴方はずっとニヤニヤしたままコーヒーをちびちびと飲んでいました。驚愕です。私の中の常識では考えられないことです」
「いや、あの」
不覚にも男はその女性にみとれてしまった。なんだか大人びているその女性。キリッとした目つきが男の心をわしづかみにする。
その女性は。
男の理想の義姉像に、ぴったり当て嵌まる逸材であった。
「ふ、深い意味はありません。ただ、黄昏れていただけです」
「こんな平日の真昼間から、ですか」
「真昼間? ……ああ本当だ。もうこんな時間になっていたんですね。全く気付かなかったです」
「信じられませんね、貴方。そんなに集中して黄昏れるなんて、なんだか矛盾しています」
でも。
そんな、貴方って。「面白い人ですね。しかもカッコイイです」
男は残念な夢を持つ以外は全てにおいて完璧であった。たたずまいもしかり、外見もしかりである。男は気付いていない。突然現れたその女性が、男に声をかけようか声をかけまいか五時間悩んだ末、特攻したのだということを。休憩所に居るその女性以外の全ての女性が、男とその女性が喋る様子を見て歯ぎしりしていることを。
「貴女は何故、こんな平日の真昼間にここに居るんですか」
「私はここでお土産を販売しているので、貴方とは違うんです」
「そうなんですか。でも僕もちゃんと有休とってるんで、大丈夫なんですよ」
「そうですか」
「はい」
それから男と女は無言になった。車が時折通る音が聞こえる。無言の状態が続くが、男と女は全く苦ではなかった。寧ろ、幸福の時間であった。
「あの」「あの」
「貴女からどうぞ」「いえ、貴方から」
「いえいえ、どうぞ貴女から」「そうおっしゃらずに」
「で、では遠慮なく」「はい。お願いします」
ゴホン。
男は一度咳ばらいをし、車の窓の向こうで佇む女性に向けて、メールアドレスを交換しませんかという旨を伝えた。
女がどのような返事をしたのかは、言うまでもない。
男と女はそうして付き合い始めた。所謂遠距離恋愛ということになる。しかし休日になると男と女は必ず会った。時に買い物をし、時に映画を見たり。プールに行ったり紅葉を見たり。クリスマスツリーを眺めたり、花見を二人だけでしたり。一年が過ぎ、やがて二年が過ぎる。
だが、男と女は、男女の関係には決してならなかった。二年が過ぎたのにも関わらず、手を繋いだ程度にしか進展していない。女はその現状に対して何も言わなかった。男は助かっていた。
何故なら、男は。
その女を、自分の義姉にしようと企んでいたからだ。
「だったら、プラトニックな関係のままでいないとだよね」
「え? 何か言った?」
「いや、何も」
男は決して忘れていなかった。男の夢を。男の願いを。男は女を一時も自分の彼女として見てはいなかった。男は、女を、自分の義姉候補としか見ていなかった。
なので男は女の年齢を一切聞かなかった。もし自分よりも年下だった場合のことを想像すると、堪えられなかった。
「ねえ。お願いがあるんだ」
遂に、三年が過ぎた。
男は限界だった。
「これにサインをしてほしい」
男が手に持つのは、養子縁組の書類だった。両親の名前は自分で偽造して書き、はんこも偽造した。
「僕には夢がある。絶対に叶えたい夢が」
女は困惑していた。その姿を見ていたたまれなくなったが、男は覚悟を決めた。
「今まで君を女性として見たことはない。僕は、君を、義姉としてしか見ていなかった」
男の言葉を聞き、女はうろたえたように見えた。
養子縁組の書類を見て、涙を流す。
「お願いだ。僕の姉貴になってください」
女は無言で、男が手に持つ養子縁組の書類を眺める。流れる涙が留まる気配がない。女は鳴咽をもらし始めた。男は心苦しかったが、女の返事を待ち続けた。
「そういうことだったの。貴方は、私をそういう目で見てたの」静かに言葉を紡ぎ出す女。「春も、夏も、秋も、冬も、いついかなる時も、貴方は私をそういう目で見ていたのね」
「うん」
「謝らないの?」
「うん。僕は後悔していない。例え君を傷つける結果に終わっても、謝ったら駄目なんだ。そんな気がするんだ」
「……そう」
――女は。
流していた涙をポケットの中から取り出したハンカチで拭き取った。
「じゃあ、私も謝らない」
「へ?」
男は予想外の女の言葉に驚く。だが、驚きもつかの間。女はポケットの中から八つ折りにたたまれた紙を取り出し、男の前に開いて見せた。
女は軽く泣きながら、頬を真っ赤に染めながら、満面の笑みを浮かべていて。
男は、その紙に書かれた内容を見て唖然とする。
「貴方から聞かれなかったら私も言わなかった。でも、私は聞いてよかったのね」
男の紙にも、女の紙にも。
二人の年齢が、それぞれ記載されていて。
――そして、女は。
男の夢の全てを無下にする願いを。
恥ずかしがりながら換言して、言い放った。
「私のお兄ちゃんになってください」