真っ赤なアンブレラ
マンション前のバス停にはベンチや屋根つきの家屋はない。
歩道脇に設置された、いうなればおまけ程度の停留所といった位置づけの、マンション住人向けのバス停なのである。
だから、雨の日なんかは時間を確認して、バスが来る時間に合わせて余裕をもって家を出るのが常識というもの。
……だったのだが。
「うわー降ってんなー。まだ強くなりそうだなー」
などと窓の外を覗いてバス停を確認した所で、俺は傘を持って外へ出る事にした。
四階の窓から見下ろしたバス停に、小さい四角形の屋根で雨宿りをする少女を見つけたからである。
天気予報くらいみろよバカ、と思わなくもなかった。
真っ赤なアンブレラ
「おい、花崎!」
「……あ、御堂君」
部屋を飛び出してバス停につくなり、俺はそいつの頭に傘を被せた。
背丈だけ見ると一瞬小学校の低学年かよと思うような小柄な少女は、昔からの馴染みの顔だ。
彼女……花崎に声をかけて、反応が返って来るまでにやや間があったが、それだけの時間があれば花崎を傘の勢力下に置くことなど朝飯前であった。
「お前、カバン頭の上に乗っけてたけど、中身大丈夫なの」
「うん、口とは反対を上にしてたから……でも」
「水はいっちまったか?」
「頭に乗せてたから、留め具が痛かった」
「ああ、そう……」
――こいつとの会話はいつもこんな感じだ。
俺は後ろにそびえ立つ十三階建てのマンション、花崎はここから徒歩五分ほど歩いた住宅街の一軒家に住んでいる。
そんな俺らは幼稚園から一緒になり、なんやかんやで小中とバス停で突っ立ってる内に、なんとなく会話をするような仲になった。
高校になってからはバス停で必ず一緒というわけではなくなったが(俺がアバウトで、バスの時間を特別決めてないせいだが)、バス停で一緒になったら何となく話はする。
ちょっと……というか、かなりとぼけた所があるが、会話していて面白い奴だ。
左下に目線を下ろせば、物の見事にずぶ濡れの花崎。
いくらなんでも寒かろうに、制服もあんなにぬれ、濡れて……。
「…………。花崎、お前寒くないの」
「寒くないよ」
「マジかよ、だってびしょ濡れじゃん」
めっちゃ透けてるしな。俺は視線を正面へと正す。
「うん。でも、どっちかっていうと」
「どっちかっていうと……?」
「冷たい」
「寒いの上いってるのな……」
十一月も半ば、秋とはなんだったのかと言わんばかりの寒空だ。
そこにここぞといわんばかりにシャワーを浴びせられれば、確かに寒いというよりも冷たいといった方が正しいのかもしれない。
そこまできて、俺はハァ、とこれみよがしにため息をついて見せた。
視界が一瞬、真っ白になる。
「なんで雨降ってきた時点で雨宿りとかしなかったの」
「する場所がなかったから」
「うちのマンションの入り口でもよかったろ」
「わたし、あそこに住んでないし」
「…………あー、まあ、そうね」
相変わらずお堅い奴。もっと気軽に考えればいいのに、例えば、
「別におれんちでもいいだろ?」
もぞもぞと花崎が動いたのか、彼女の肩が俺にぶつかる。
それがなんだか抗議のように思えて、俺は少し気恥ずかしくなった。
というか、今さっきの発言もよく考えてみたら恥ずかしい提案だった気がする。
そして、今さら気がついたのだが、俺と花崎がしてるこれって相合傘じゃねーか。恥ずかしすぎる。
そんな胸中にも関わらず花崎が肩をぶつけてくるので、まるで俺の考えを読んで肩で小突いてきてるのかと思った。
なので、疑問をそのまま口にする。
「……なにもぞもぞしてんの」
「タオル」
……取り出す為にもぞもぞしてたのか?
「気持ちはわかるけど、ここでふいてもまた濡れるぞ?」
「うん、だから御堂君の家で拭く」
「……は?」
生返事をして、俺は自然と花崎の方を向いてしまう。
花崎がいつからそうしていたのかは知らないが、彼女も俺の方を向いていたようで、それで今日初めて目が合った。
「? 御堂君の家、借りていいんでしょ?」
「あ? あ、ああ……え、今?」
「今じゃないなら、いつ行くの?」
「……ああ、そりゃそうだ」
そうして相合傘のまま花崎をマンションまで誘導してから、傘二本もってくりゃ良かった、と今さらながらに気がついた。
マンションの玄関先でも良いだろうに、結局花崎は俺の家まで乗り込んだ。
玄関先で雨水を拭いた花崎は、俺の母親との会話もそこそこに、挨拶を済ませてエレベーターへと歩き出す。
濡れた制服をどうにかするといっても、限度があった。
母親からドライヤーの提供もあったが、なにぶん登校時間に余裕がない。
マンション前のバス停は二十分に一度の頻度でバスが来るような代物なので、次のバスを逃したらあえなく遅刻だ。
となれば、玄関先での処置もほどほどに家を出る羽目になる。
代わりといっては何だが、今度は花崎も傘をもってだ。
なぜか、花崎が選んだのは俺のビニール傘なのだが。
「なあ、やっぱビニール傘じゃなくてこっちにしないか」
「ううん、悪いから」
「いや、俺としてはビニール傘を使われる方が悪いんだけどな……」
まあ、確かに、母親が貸し出したのはビニール傘とは一線を画す(俺からすれば)おしゃれな傘だ。
変に真面目な所のある花崎だから、人様から借りるのには抵抗があるのかもしれない。
布だかなんだかのすべすべした赤い生地に、つやのある木製の取手がついたワンタッチの傘。
ここに第三者がいたのなら、俺はそいつに同意を求めていただろう。
……男が持つには恥ずかしいと思わないか、この真っ赤な傘は。
エレベーターに乗って降りて玄関を出るまでに、三回ほど花崎に交換要求をした。
が、結局はトレード不成立。花崎からビニール傘を受け取る事かなわず、結局はこうしてバス停に向かっている。
ビニール傘をさして前を歩く花崎を見ながら、俺は真っ赤な傘で後ろを歩いているわけだ。
まあ、大きさとしてはビニール傘より大きいわけだから、そういった意味ではこれはこれで、有り難いのだが。
そんな物思いにふけって我慢して歩いてしまえば、バス停につくのは一瞬だ。
一つ前のバスなら直前に人がちらほら居たのだろうが、八時前の雨が降るバス停には誰もいない。
なので、一度目と同じようにして、花崎、俺、とバス停に並ぶ。
雨足はひとまず落ち着いてきたようで、しとしとと水が落ちてくる。
傘の上でぽつぽつと鳴り続ける音が、やけにあたりを静かにしていた。
「…………」
「…………」
なんとなく、会話が止まる。
こいつとの時間は、いつもこんな感じだ。
最初からそうだったが、喋りはするものの中々話しかけてこない花崎。
喋りはするものの、喋り好きというわけでもない俺。
そんな二人が二人っきりなら、会話が途切れて沈黙が訪れるもんだ。
五分ほど、沈黙が続く。
雨の音だけを耳にし続ける、ひどく寒い雨の中で、俺たちはそうやって雨をやり過ごしていた。
「……御堂君」
だから、花崎から声をかけてきたのが何となく意外だった。
「あん、なんだよ?」
そう思いながらだったからか、やや返事がぶっきらぼうになる俺。
「ありがとう」
「へ?」
なんだそりゃ、と一瞬首をかしげたが、すぐに傘のことだと思い立つ。
「ああ、気にすんなよ、そんな事」
「でも、わたしの事みて来てくれたんでしょ」
ドキリと、悪戯を見つけられた気分になった。
「……え、何、気付いてたの?」
「やっぱり」
花崎が、少し笑ったような声でそう言ったので、墓穴を掘ったと知った。
傘を傾けると、視界が真っ赤に染まる。
「つーかな、傘もなしで鞄で雨しのごうとしてるバカがいるのにほっとけるかよ」
「バカじゃないよ。来るまで待てるかなって思っただけ」
「そういうところがバカなんだっての!」
そんな状態でバスに乗ってどうするってんだ。
「でも、思った通り、来てくれたよ」
「……は?」
「あ、バス来た」
俺が呆けて花崎を見るのと、花崎が俺の視界とは反対側の方を指差したのはほぼ同時だった。
背後から、雨音にまぎれてバスの走って来る音が聞こえてくる。
「御堂君って、わたしの事あんまり見ないよね」
「え? あ、ああ……えーと……」
「わたしがその傘もってたら、見えないでしょ」
「え?」
「ビニール傘なら、御堂君……わたしの顔、見れるでしょ?」
バスが止まった。花崎が赤いビニール傘を折り畳んで、バスに乗り込んで行く。
俺は心が一瞬どっかに行ってしまっていたが、バスの運ちゃんに呼びかけられて、赤い傘を折り畳んでバスに飛び乗った。
黙って花崎の横に並んだバスの中は、やけに暖房が効いていた。