第58話:誇りある針と糸
ガッシャン、トントン。ガッシャン、トントン――。
愛知県一宮市。濃尾平野を潤す木曽川の清らかな伏流水に恵まれ、日本最大の毛織物産地として栄えてきた尾州の片隅。
ノコギリ屋根が連なる「奥田織物」の製織工場には、朝の澄み切った光とともに、リズミカルでどこか懐かしい、規則正しい金属音が響き渡っていた。
半世紀以上前に製造された低速織機――ションヘル織機。
現代の最新鋭高速エアジェット織機が毎分数百回という猛スピードで糸を打ち込み、効率とスピードだけを追い求めるのに対し、この古い木と鉄の機械は、まるで呼吸を整えるように、毎分わずか百二十回転という緩やかな速度で動く。
木製のシャトル(杼)が左右へ軽やかに飛び交い、経糸の間を潜り抜けるたび、空気をたっぷりと抱え込んだ極上のタスマニアメリノウールが、一ミリ、また一ミリと、命を宿した布へと織り上げられていく。
「創! 三番機のテンション、緯糸の張りがほんの少しだけ緩んでるぞ! 湿度が二パーセント上がったから、糸の送りをコンマ五ミリ詰めろ!」
「分かってるよ親父! 今、バネの調整ボルトを締め直したところだ!」
織機の油と羊毛の温かい匂いが立ち込める工場の中。
三代目の奥田創が、工具箱を抱えながら声を張り上げていた。
その隣には、かつて大手アパレルの理不尽なコストカットに絶望し、工場を畳もうとしていた創の父――先代の頑固な老職人が、目を細めて織機の隙間から覗く布の目を食い入るように見つめている。
そして二人の背後には、地元の工業高校を今春卒業したばかりの二人の若手見習い職人が、真剣な眼差しでシャトルの交換作業に食らいついていた。
「すごいな……。こんなにゆっくり織るのに、布の表面が全然歪まない」
「当たり前だ」
創は若手の頭をぽんと小突き、誇らしげに胸を張った。
「糸を引っ張りすぎねえから、ウールの繊維が持つ本来の縮れ(クリンプ)がそのまま生きるんだ。……この布でなきゃ、神代詩織さんの引く型紙は完成しねえんだよ」
その時、工場の引き戸が静かに開かれた。
足を踏み入れてきたのは、仕立ての完璧なチャコールグレーのコートを羽織った神代詩織だった。
黒髪をタイトに束ね、チタンフレームの眼鏡の奥にある瞳を柔らかく細めながら、詩織は織機の前に立つ創へと歩み寄った。
「こんにちは、創さん。良い音が響いていますね」
「お、詩織さん!」
創が顔を輝かせ、軍手を外して駆け寄ってきた。
「わざわざ東京から来てくれたのか! 見てくれよ、次期コレクション用の二重織りウールシルク、第二ロットの五十反が今朝織り上がったところだぜ!」
創が誇らしげに指し示した検反台の上には、吸い込まれそうな漆黒でありながら、光の当たる角度によって妖艶な深紅とインディゴの輝きを覗かせる、あの奇跡のファブリックが山折りに重ねられていた。
詩織は素手の指先を伸ばし、布地の耳端にそっと触れた。
指先から伝わってくる、確かな糸の弾力と、シルクの滑らかな落ち感。
「……素晴らしいわ、創さん。糸の一本一本が、生き物のように呼吸している。前回のサンプルよりもさらに空気の抱き込みが均一になっているわね」
「へへっ、そりゃそうさ」
創は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「なんたって、今のうちは『時間』を気にせずに、最高の布を織ることだけに集中できるからな。……全部、詩織さんとL&Vのおかげだよ」
そう言う創の表情には、かつて大手アパレルの買い叩きに怯え、荒れ果てていた面影はどこにもなかった。
神代詩織の成功は、単なる一人のデザイナーの華麗なるサクセスストーリーでは終わらなかった。
『L'OMBRE』が世界最高峰のハイブランドとしてパリを制圧した直後、詩織とレオン・城崎・ヴァランタン、そして知財弁護士の倉田拓海が真っ先に着手したのは、日本の旧態依然としたアパレル産業の病根――「下請け買い叩き構造」の解体だった。
旧来の日本のアパレル業界において、生地の機屋や縫製工場といった製造現場は、常に巨大元請けや商社によって「コスト削減のための調整弁」として扱われてきた。
数ヶ月に及ぶ手形の決済サイト、直前の仕様変更、一方的な単価の引き下げ、そして売れ残りの責任を押し付ける受領拒否。
神代俊樹のアトリエ・アルカが佐伯縫製や奥田織物に対して行っていた悪行は、決して特異な例外ではなく、この国のファッション業界全体を蝕む構造的な腐敗そのものだったのだ。
その悪習を断ち切るため、詩織たちが打ち立てたのが、L&Vグループ直轄の【プレタポルテ・パートナーシップ協定】――通称「L'OMBREサプライチェーン憲章」だった。
第一に、製造工賃およびテキスタイル仕入れ価格の抜本的見直し。
『L'OMBRE』の生産を担うすべての提携工場に対し、従来の大手アパレルが支払っていた相場の「三倍から四倍」に及ぶ適正な工賃を完全保証した。
第二に、短期的な発注ではなく、最低三期(三年以上)にわたる長期独占供給契約の締結。
そして第三に、発注時における製造原価の「全額前払い」システムの導入だった。
下請け企業が資金繰りに頭を悩ませることなく、後継者の育成と設備の更新に正当な投資を行える環境。
技術者が自らの技術に絶対の誇りを持ち、妥協のない最高峰のクオリティを追求できる生態系。
資本の論理で職人を使い潰すのではなく、職人の手仕事を至高の資産として敬うこの新たなビジネスモデルは、尾州の機屋たちに、奇跡のような再生をもたらしていた。
「親父がさ、先週、息子のために新しいションヘル織機を一台、中古で買い足したんだ」
創が工場の奥を指差した。
そこには、油を差されてピカピカに磨き上げられた、もう一台の低速織機が鎮座していた。
「うちの倅、まだ小学生なんだけどな。『俺も大きくなったら、パリコレの服の布を織るんだ』って、毎日学校から帰ってきたら工場の掃除を手伝ってんだよ。……何年もの間、大手アパレルのバイヤーに『もっと安くしろ』『納期を半分にしろ』って怒鳴られて、親父の背中も小さくなる一方だった。でも今は……見てくれよ、親父のあの嬉しそうな顔」
織機の間で若手を熱心に指導する先代の姿を見つめながら、創の瞳に熱いものが滲んでいた。
「職人が、誇りを持って次の世代に仕事を継がせられる。……詩織さん、あんたがやってくれたのは、ただの服作りじゃねえ。この尾州の、何十年と続いてきた職人の命を救ってくれたんだ」
「いいえ、創さん」
詩織は首を横に振り、創の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「救われたのは、私の方です。……あの雨の夜、すべてを奪われて放り出された私が、自分の引いた型紙を信じることができたのは、あなた方が織り上げてくれた本物の布があったからです。布の命を殺さない設計。それを受け止めてくれる本物の織り手がいなければ、私の服はただの紙屑のままでした。……感謝しているのは、私の方です」
詩織の言葉に、創は深く頭を下げた。
二人の間に交わされたのは、元請けと下請けという上下関係ではない。
同じ高みを目指し、互いの技術に魂を預け合う、対等な表現者同士の固い絆だった。
その足で、詩織は新幹線で東京へと戻り、夕暮れの墨田区へと向かった。
親水公園沿いの路地裏に佇む、「L'OMBRE開発アトリエ」――旧・佐伯縫製。
夕暮れの茜色の空を背景に、格子窓から漏れ出る温かい照明が、下町の路地を柔らかく照らし出していた。
アトリエの扉を開けると、そこには、かつて倒産の危機に沈んでいた町工場とは思えないほどの、熱気と活気が渦巻いていた。
カタタタタッ、カタタタタッ……。
十数台の低速ミシンが一斉にリズミカルな音を刻んでいる。
ミシンに向かっているのは、ベテランの職人たちだけではなかった。
北海道や福岡、京都といった全国の名門服飾専門学校を優秀な成績で卒業した二十代前半の若いパタンナーや縫製工たちが、目を輝かせながら布地を操っていた。
「おい、そこのダーツの処理! 縫い代を倒す方向を間違えるなよ!」
作業台の間を歩き回りながら、鋭い指示を飛ばしていたのは、筆頭パタンナーの長谷川慎司だった。
首から真鍮のスケールを下げ、寸分の乱れもないスーツを着こなした長谷川は、若い縫製工の手元を覗き込み、手ずからアイロンの当て方を指導している。
「いいか。ウールは生き物だ。アイロンを上から力任せに押し付けるな。蒸気の熱で繊維を緩め、人体の丸みを記憶させるように、包み込むように滑らせるんだ。……神代詩織のパターンは、コンマ数ミリのゆとり(キセ)に命が宿っている。その線の一ミリの狂いが、着る人間の呼吸を奪うと思え」
「はい、長谷川先生!」
若者が頬を紅潮させて返事をする。
かつてアトリエ・アルカで「老害」と罵倒され、居場所を奪われかけていた長谷川は、今やこのアトリエにおいて、世界最高峰のテーラリング技術を次の世代へと伝承する「至宝のマエストロ」として、若い弟子たちから絶大な尊敬を集めていた。
「長谷川さん、お疲れ様です」
詩織が声をかけると、長谷川は厳しい表情を一瞬で緩め、深々と一礼した。
「詩織さん、尾州からお戻りですか。……見てください。全国から『L'OMBREの現場で技術を学びたい』と志願してきた若い連中です。どの子も目が澄んでいる。中身のないデザイン画をスマホで眺めるだけの連中とは違って、本気で布と針に向き合おうとしている。……日本の縫製技術は、まだ死んじゃいませんよ」
「ええ。本当に頼もしいわね」
詩織が微笑んだ、その時だった。
「詩織ィィィッ!!」
アトリエの奥のオフィスから、小柄な人影が弾丸のような勢いで飛び出してきた。
佐伯朋香だった。
手には、何重にも折り畳まれた国際便のファックス用紙と、タブレット端末が握りしめられている。
朋香の顔は真っ赤に上気し、その大きな瞳には大粒の涙がぼろぼろと溢れ出していた。
「朋香? どうしたの、一体……」
詩織が驚いて駆け寄ると、朋香は詩織の肩に飛びつくようにして抱きついてきた。
「詩織……! 信じられない……! 信じられないことが起きたのよッ!」
朋香はしゃくり上げながら、震える手でタブレットの画面を詩織の目の前へと突きつけた。
「見て! これ、フランス語のメールよ! L&Vのパリ本部経由で、今さっき届いた公式のオファーレターなの!!」
画面に表示されていたのは、格式高いフランスの名門百貨店や、パリ・サンジェルマン・デ・プレ、そしてカルーゼル・デュ・ルーヴル周辺に旗艦店を構える複数のトップバイヤーからの、連名の正式要請書だった。
『親愛なるL'OMBRE開発アトリエ、ならびに代表・佐伯朋香様。
先日のパリ・コレクションにおいて発表された貴メゾンのプレタポルテラインの驚異的な構築美、ならびに雑誌『VOGUEIL』における神代詩織氏のインタビューを拝読いたしました。
我々は、あの人体の骨格を昇華させる奇跡のテーラリングが、いかなる哲学と手仕事によって生み出されているのか、その現場を直接拝見したく存じます。
つきましては、次期コレクションの買い付けに先立ち、パリ・カルティエ・ラタンの老舗セレクトショップ連合、ならびに欧州プレタポルテ調達評議会の重鎮バイヤー計十二名による、貴アトリエへの公式視察ツアーを受け入れていただきたく、正式に要請申し上げます』
「……パリのトップバイヤーたちが、うちの工場を視察……?」
詩織の隣で、長谷川が目を見張った。
「そうよッ!」
朋香は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、声を詰まらせながら叫んだ。
「パリの……あの世界中のファッションの中心地にいるバイヤーたちが、わざわざ飛行機に乗って、この墨田区の下町の路地裏まで、うちのミシンを見に来るって言うのよ……! 詩織、うちの工場よ!? 数ヶ月前まで、大手アパレルに買い叩かれて、手形が落ちなくて、お父さんが倒れて、シャッターを下ろす寸前だった……ただの下町の町工場なのよ!?」
朋香の全身が、激しい感情の昂ぶりで震えていた。
かつて南青山のサロンで、神代俊樹が「下請け工場などいつでも替えがきくゴミだ」と嘲笑っていた、あの小さな工場。
理不尽な発注キャンセルに泣き寝入りし、油にまみれて徹夜でミシンを踏みながらも、安価な海外ファストファッションの波に呑まれ、消え去る運命にあったはずの場所。
それが今や――世界最高峰のモードの中心地であるパリの審美眼たちが、最も敬意を払い、最もその秘密を知りたがっている「服飾の聖地」として認められたのだ。
「私……ずっと悔しかった……!」
朋香は詩織の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
「日本の職人は世界一だって言われながら、いつも買い叩かれて、都合のいいように使い捨てられて……どれだけ丁寧にいせ込みをして、どれだけ真っ直ぐにステッチを引いても、表に出るのは口の上手いデザイナーやインフルエンサーの顔ばかりで……現場の人間なんて誰一人見向きもされなかった! お父さんの代から何十年も守ってきたこのミシンが、誰にも認められないまま終わるんだと思ってた……! でも……でも詩織が……あんたが、私たちの針と糸を、世界のてっぺんへ連れて行ってくれたのよ……!!」
朋香の涙。
それは、過去の絶望や悲しみの涙ではなかった。
長年踏みにじられてきた職人のプライドが、正当な尊厳を取り戻し、世界へ向けて誇らしく解き放たれた瞬間の、熱い魂の咆哮だった。
アトリエにいた若い縫製工たちも、ベテランの職人たちも、作業の手を止め、目元を拭いながら二人を見つめていた。
「…………」
詩織は、何も言わずに、朋香の背中を優しく抱きしめた。
そして――ゆっくりと身体を離すと、朋香の固く握りしめられた両手を、自らの両手で力強く包み込んだ。
詩織の手も、朋香の手も、決して白く滑らかなセレブリティの手ではない。
針で何千回と突いた針タコ。
重いハサミを握り続けて硬くなったタコ。
ミシン油と布地の摩擦によって擦り切れた、職人の手。
だが、その手こそが、世界中のどんな宝石よりも美しく、どんな甘美な言葉よりも雄弁に、本物の服を生み出してきたのだ。
「朋香」
詩織の声は、静かに、だがアトリエの隅々まで染み渡るような凛とした力強さに満ちていた。
「泣かないで。……これは奇跡でも、偶然でもないわ。あなたのお父さんが、あなたが、そしてここにいる職人たち全員が、どんなに苦しい時でも布への誠意を捨てず、一針一針に魂を込め続けてきたからこその、当然の報いよ」
詩織は朋香の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥には、墨田区の町工場から始まった二人の闘いの軌跡が、鮮明な光となって宿っていた。
「私の引いた型紙がどれほど完璧であっても、それを一ミリの狂いもなく縫い上げてくれる朋香のミシンがなければ、私の服は世界に届かなかった。奥田さんが命を削って織った布がなければ、私の引いた線は形を成さなかった。……私たちは、元請けと下請けではないわ。誰が上でも下でもない。互いの技術を信じ、命を預け合う、対等な表現者よ」
詩織は朋香の手を、もう一度強く握り直した。
「胸を張りなさい、佐伯朋香。……墨田区の誇りある縫製技術者として、世界一の腕を持つプロフェッショナルとして、堂々とパリのバイヤーたちを迎え撃ちましょう」
「……っ、うん……! うんッ!!」
朋香は涙を袖で力強く拭い去ると、満面の、これ以上ないほど輝かしい笑顔を咲かせた。
アトリエの中に、自然と拍手が沸き起こった。
長谷川が目を細めて手を叩き、若い弟子たちが歓声を上げ、ベテランのミシン工たちが誇らしげに頷き合う。
搾取の連鎖は、完全に断ち切られたのだ。
中身のない虚飾と詐欺で人を欺く者たちが自滅の泥水へと消え去り、真面目に、誠実に、布と針に向き合ってきた職人たちが、正当な対価と称賛を浴びて輝く新たな王国が、日本の下町と地方の産地に、揺るぎない土台を持って完成していた。
窓の外を見上げれば、冬の夜空にそびえ立つ東京スカイツリーが、まるでこのアトリエの未来を祝福するかのように、青く澄み切った光を放っていた。
足元は、固まった。
仲間たちは、揃った。
そして――次なる戦場は、再び、世界の美の頂点であるパリ。
誰の影でもない、自分自身の光を纏った神代詩織の針と糸は、いよいよ、世界中が息を呑んで待ち構える最終幕のランウェイへと向かおうとしていた。




