第14話:歪んだ原型(トワル)
南青山の閑静な高級住宅街に建つ「アトリエ・アルカ」の本社ビル。
ガラス張りの洗練されたファサードには、ジャパン・モード・クリエイション大賞の受賞を祝う巨大なタペストリーが誇らしげに掲げられていた。
しかし、その優美な外観とは裏腹に、三階のデザインルームに充満している空気は、まるで梅雨時の湿地帯のように淀み、重苦しく張り詰めていた。
床には、海外のファッションスナップやピンタレストの画像をカラー印刷した紙屑が無残に散らばり、ホワイトボードの隅には、大手百貨店『三ツ星百貨店』との大型コラボレーションの締め切り期日が、赤マジックで二重線とともに殴り書きされている。
――一次サンプル確認会まで、あと四日。
その文字を睨みつけながら、チーフパタンナーの長谷川慎司は、痛む首筋を湿布の上から強く揉みほぐした。
目の下に張り付いた隈は濃く、充血した瞳の奥には、出口のない暗闇を彷徨うような深い疲労が沈んでいた。
神代詩織がこのアトリエから忽然と姿を消して、数週間。
表向き、社内には「一身上の都合による退職」とだけアナウンスされていたが、現場の職人たちにはすぐに察しがついた。社長の俊樹が、愛人である立花莉乃を「若き天才デザイナー」として神輿に担ぎ上げるため、長年裏方としてすべての泥を被り続けてきた本妻を切り捨てたのだと。
俊樹は得意満面に豪語していた。『これからは莉乃の類まれな感性と、俺のプロデュース力だけで会社を回す。古臭い裏方なんかいなくても、アルカの快進撃は止まらない』と。
だが、現実はあまりにも無慈悲だった。
詩織が去った直後は、彼女がアトリエの図面棚に残していった過去のアイデアスケッチや未発表のパターンストックを切り貼りし、なんとかその場を凌いでいた。
しかし、それもわずか二週間で完全に底をついた。
詩織の残した型紙は、彼女が選定した特定の生地の厚み、伸縮率、重力に対するドレープの落ち感までがミリ単位で計算された「一期一会の設計図」だったからだ。別の生地に流用しようとすれば歪みが生じ、少しでもデザインを変えようとすれば、全体のバランスがガラガラと音を立てて崩壊する。
そして何より――新クリエイティブディレクターに就任した立花莉乃自身が、服の構造について、驚くべきことに何一つ理解していなかった。
「……長谷川さぁん、まだできてないのぉ?」
デザインルームの奥、イタリア製の白い革張りソファに寝そべっていた立花莉乃が、だるそうに顔を上げた。
右手にはスマートフォンの画面。有名ブランドの展示会で撮った自撮り写真をインスタグラムに投稿し、フォロワーからの称賛コメントに夢中になっていた彼女は、爪先に塗られた鮮烈な赤のマニキュアをひらひらと揺らしながら、ハイヒールを鳴らして立ち上がった。
「三ツ星の役員に見せるんでしょ? 早くトワル(仮縫いサンプル)見せてよ。私、これから表参道でエステの予約入ってるんだからさ〜」
長谷川は胃の腑を針で突かれたような鈍痛を覚えながら、無言で作業台の前に立った。
台の上に置かれた人台には、長谷川が昨夜から一睡もせずに組み上げた、生成りの綿布――シーチングで仕立てられたトワルが着せ付けられていた。
トワルチェック。
デザイン画の二次元のイメージを、本番の生地を裁断する前に三次元の布で立体化し、シルエット、着心地、可動域、縫製上の問題点を確認する、服作りにおいて最も神聖で決定的な工程である。
「……莉乃さんからいただいたコラージュの指示を元に、シーチングで組んだファーストトワルです」
長谷川は努めて平坦な声で言った。
トルソーに着せられたそれは、ハイウエストで切り替えられた長袖のブラウスと、サーキュラースカートのセットアップだった。
莉乃がアトリエの机の上に放り出していったのは、海外コレクションの写真三枚と、ストリートスナップの切り抜きを糊で貼り付けただけの、杜撰極まりないスクラップブックだった。
『袖は雲みたいにモコモコにして!』
『肩は落として華奢見え!』
『胸元は開けてセクシーに!』
殴り書きされた意味不明な殴り書きから、長谷川が二十五年の職人経験を総動員し、「人間の身体が通る形」として必死に辻褄を合わせた妥協の産物だった。
だが――トワルを一瞥した瞬間、莉乃の顔から甘ったるい表情が一瞬で消え去った。
その瞳に宿ったのは、自らの無知を棚に上げた、子供じみた凶暴な苛立ちだった。
「……は? 何これ」
莉乃は腕を組み、トルソーの周りをドカドカと乱暴な足音を立てて歩き回った。
「全然可愛くないんだけど! 何この野暮ったいシルエット! おばあちゃんの肌着みたい!」
「莉乃さん、これはトワルです。本番のシルク生地ではなく、形状を確認するためのシーチングですから、色や光沢がないのは当然です」
「そんなこと分かってるわよ! 形そのものがダサいって言ってんの!」
莉乃は甲高い声を張り上げ、トルソーの肩口を鷲掴みにした。
「私が言ったのと全然違うじゃん! もっと肩の位置をグッと下げて、オフショルダーっぽく落としてよ! それなのに、なんでこんな中途半端な位置に肩線があるわけ!? これじゃ全然華奢に見えない!」
「肩をこれ以上落とす(ドロップショルダーにする)と、この袖のボリュームが支えきれなくなるからです」
長谷川は眉根を寄せ、必死に噛み砕いて説明を試みた。
「あなたが指定したこのパフスリーブは、袖山に膨大なギャザーを寄せて風船のように膨らませる構造になっています。袖山にそれだけの分量を持たせる場合、肩先がしっかりとした支点になっていなければ、袖全体の重みで肩線が外側へズルズルと引きずり下ろされてしまうんです」
「意味わかんない! 肩を落として、袖をフワッとさせればいいだけでしょ!? なんでそんな簡単なことができないの!?」
莉乃は聞く耳を持たず、今度はトルソーのウエストを両手で無理やり絞り上げた。
ギュウッ、とシーチングの布地が悲鳴を上げ、留められていた虫ピンがパチンと音を立てて弾け飛ぶ。
「あと、ウエスト! 太すぎる! もっとキュッと絞って、コルセットみたいにしてよ! 着た時にウエストが五十センチ台に見えるくらい極限まで細くして、そこからスカートをボワッと広げるの! そうじゃないとインスタで盛れないでしょ!」
「無茶を言わないでください!」
長谷川の口から、ついに強い語気が漏れた。
職人として、どうしても譲れない一線だった。
「本番で使う予定の生地は、極薄のシルクシフォンとシルクサテンです! 伸縮性のない織物なんですよ! その生地でウエストをそこまで絞り込み、さらに肩を極端に落としたパフスリーブを付けたらどうなるか分かりますか!? 人間が腕を前に十度も動かせなくなります! 呼吸をするだけで胸元の合わせが引き裂かれ、脇の下の縫い代に体重がかかって、一歩歩くごとにビリビリと布が破れていくんです!」
「破れないように縫うのがあんたの仕事でしょ!!」
莉乃のヒステリックな絶叫が、ガラス張りの部屋に響き渡った。
彼女は顔を真っ赤にして地団駄を踏み、作業台の上に置かれていたスチール製の定規をひっつかむと、トルソーの胸元に向かって叩きつけるように投げ捨てた。
カシャン、と甲高い金属音が鳴り、定規が床を滑っていく。
「言い訳ばっかり! できない、無理、破れる……そればっかり! あんた、パタンナーのくせに私のインスピレーションを形にする技術もないわけ!? 私のフォロワーが何十万人いると思ってんの!? みんな私の『世界観』を待ってるのよ! 腕が上がらないなら、モデルに腕を上げないように指示すればいいじゃない! 動かなきゃ破れないんでしょ!?」
「動かない服など、服ではありません!!」
長谷川は拳を固く握りしめ、震える声で叫び返した。
目の前にいるこの小娘は、根本的なところで人間を、そして生命を冒涜している。
服とは、人間が纏い、体温を通わせ、街を歩き、生活するためのものだ。写真のフレームの中に閉じ込められた一瞬の見栄えのために、呼吸すら奪うような拘束具を作ることが「デザイン」であるはずがない。
「莉乃さん、思い出してください」
長谷川は呼吸を整え、必死に訴えかけた。
「あなたが大賞を受賞したあのドレス――『宵闇のプリマ』を、一体誰が仕立てたのかを! あのドレスだって、胸元は大胆に開き、裾は息を呑むようなドレープを描いていましたが、着ていたあなたはランウェイを軽やかに歩けたはずです! なぜだか分かりますか!? 詩織さんがいたからです!」
その名を口にした瞬間、長谷川の胸に熱い痛みが込み上げた。
「詩織さんは、デザイン画を描く段階で、すでに布の重力と人体の骨格を完璧に計算していました! 薄手のシルクを使うなら、どこに運動量を逃がし、どの角度でバイアスを取り、どの位置に芯地を据えれば破れずに美しいシルエットを保てるのか……彼女はすべてを頭の中で立体化してから、私に指示を出していたんです! 詩織さんは、人体の可動域を一ミリたりとも犠牲にしなかった! だからこそ、あなたの稚拙なコラージュでも、奇跡のような服として完成させることができたんだ!」
「な……っ!」
莉乃の唇が、屈辱と激怒で小刻みに震え出した。
自分が「天才」として世間から持て囃されている栄光の玉座。その真下が、泥まみれの元妻の技術によって支えられていたという動かしがたい事実を突きつけられ、彼女の肥大化した自己愛が激しく軋みを上げたのだ。
「誰が……誰のコラージュが稚拙だって言ったのよ……! あの地味女が私の才能に嫉妬して、勝手に細かい理屈をつけて弄くり回してたただけでしょ! 私をコケにする気!? 俊樹さぁぁぁん!!」
莉乃が泣き叫ぶような声を上げた、まさにその時だった。
――バァンッ!!
デザインルームの重厚なドアが、乱暴に蹴破られるようにして開け放たれた。
「何の騒ぎだッ!!」
現れたのは、神代俊樹だった。
仕立ての良いネイビーのスーツに身を包み、高級時計を光らせた俊樹は、怒気を孕んだ足取りで部屋の中央へとズカズカと踏み込んできた。
その顔には、先日の受賞パーティー以来、抜けきらない傲慢さと、資金繰りのプレッシャーによる苛立ちが露骨に浮かんでいた。
「俊樹さんっ! 聞いてよ!」
莉乃は俊樹の胸元へ飛び込み、わざとらしく涙をボロボロとこぼしながら縋り付いた。
「長谷川さんが……長谷川さんが私のデザインをゴミ扱いして、全然言うこと聞いてくれないの! おまけに、あの追い出された元奥さんの名前を出して、私には才能がないって……私のこと、みんなの前で散々侮辱したのよ!」
俊樹の視線が、長谷川へと突き刺さった。
その瞳の奥に宿っていたのは、冷徹な経営者の判断などではなく、図星を指された男特有の、醜悪で卑屈な逆上だった。
「……おい、長谷川」
俊樹は莉乃の肩を抱き寄せながら、地を這うような低い声で言った。
「お前、今、何て言った?」
「事実を申し上げたまでです、社長」
長谷川は視線を逸らさず、真っ直ぐに俊樹を見返した。
「莉乃さんの指示通りにトワルを修正すれば、確実に欠陥商品になります。三ツ星百貨店のバイヤーや役員は、業界でも百戦錬磨のプロです。ハンガーにかかっている時は誤魔化せても、フィッティングモデルが袖を通した瞬間に、パターンの致命的な破綻は見抜かれます。そうなれば、アルカの信用は地に堕ちる。……詩織さんがいなくなった今、アルカには服の構造を一から設計できる人間がいません。このまま三ツ星のラインを進めるのは自殺行為です」
「黙れと言っているのが聞こえんのかッ!!」
俊樹の怒声が、部屋の空気をビリビリと震わせた。
俊樹は長谷川の鼻先まで詰め寄ると、唾を飛ばしながら喚き散らした。
「詩織、詩織、詩織……! どいつもこいつも、あの地味女の名前を出しやがって! あいつはただ、俺が外で頭を下げて取ってきた仕事を、部屋の隅で言われた通りに縫っていただけの作業員だろうが! あいつに才能があったんじゃない、俺のプロデュース力と莉乃の華があったから、あいつの引いた退屈な線が金になったんだよ!」
「社長、本気でそう思っているんですか……!?」
長谷川は信じられない思いで俊樹を見つめた。
この男は、本当に何も分かっていない。
服飾というものが、どれほど過酷な物理法則と職人の血の滲むような修練の上に成り立っているかを、ただの一度も理解しようとしたことがないのだ。
「当たり前だ!」
俊樹は胸を張り、嘲笑うように言い放った。
「客が買っているのはな、服の縮率だの可動域だのというオタク臭い理屈じゃないんだよ! 立花莉乃というアイコンが放つ輝き、インスタグラムの洗練された世界観、そしてアルカというブランドが提供するステータスなんだ! 多少腕が上がりにくかろうが、着て写真さえ撮れれば客は大喜びで何十万も払うんだよ! 現場のしがない職人風情が、ビジネスの崇高な美学に口を挟むな!」
――ビジネスの、崇高な美学。
その言葉を聞いた瞬間、長谷川の胸の中で張り詰めていた最後の糸が、音を立てて千切れ飛んだ。
目の前にいるのは、服を愛する人間ではない。
美を愛する人間でもない。
ただ、他人の才能を貪り食い、虚栄という名の麻薬に溺れた、哀れなペテン師に過ぎなかった。
「……そうですか」
長谷川の声から、熱が完全に消え去った。
乾燥しきった砂のように、静かで、冷たい響き。
「長谷川、分かったらさっさとそのトワルを莉乃の言う通りに直せ」
俊樹は長谷川が折れたのだと勘違いし、横柄に顎をしゃくった。
「ウエストを限界まで絞り、肩を落として袖を膨らませろ。明日の夕方までに完璧なサンプルに仕上げておけ。いいな、二度と詩織の名前を出すなよ。次に口にしたら、ただじゃおかんぞ」
俊樹は莉乃の腰に手を回し、「行こう、莉乃。こんな埃っぽい部屋に長居することはない。美味いシャンパンでも飲みに行こう」と甘い声をかけた。
「うん、俊樹さん大好き! あんな老害、早くクビにしちゃいなよ〜」
莉乃が勝ち誇った笑みを長谷川に向け、二人は肩を並べてデザインルームを出て行った。
バタン、とドアが閉ざされる。
残されたデザインルームには、床に転がるスチール定規と、不気味に歪んだままのシーチングのトワルだけが取り残されていた。
部屋の隅にいた若手のアシスタントパタンナーたちが、怯えたように息を潜め、長谷川の様子を伺っている。
長谷川は、ゆっくりと床の定規を拾い上げた。
そして、人台に着せ付けられたトワルを、ただじっと見つめた。
肩のラインが無理に引っ張られ、胸元には不自然な斜めジワが走り、ウエストの縫い目は今にも引き裂かれそうに引きつれている。
骨格のない服。
着る人間への敬意を一切欠いた、グロテスクな布の塊。
(……ああ、詩織さん)
長谷川の脳裏に、かつてこの同じ作業台で、何百枚もの方眼紙に美しい曲線を引いていた詩織の横顔が鮮明に蘇る。
彼女の引く線には、迷いがなかった。
どんなに理不尽な納期でも、彼女は決して布を泣かせず、着る人間の尊厳を守るために、自らの指を針で刺しながら戦い続けていた。
背骨を抜かれた会社が、どうなるか。
美学を失い、虚飾の暴走を始めた泥舟が、どこへ向かっていくのか。
長谷川の目には、その無残な結末が、痛いほどはっきりと見えていた。
長谷川は作業台の引き出しに手を伸ばし、奥深くにしまってあった一本の万年筆を、静かに握りしめた。
その顔には、もう迷いも、恐れもなかった。
破滅へのカウントダウンが、静かに、だが確実に刻まれ始めていた。




