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婚約破棄された王宮香料鑑定士は、残り香で毒杯の嘘を暴く

作者: 入河 珈一
掲載日:2026/06/01

香りは薄れても、嘘の調合までは消えません。

「クラリス・ロワン。君との婚約を破棄する」


 王宮晩餐会の中央で、婚約者のオスカー伯爵令息は銀杯を掲げた。


 杯の中には、赤い果実酒が揺れている。


 その隣で、妹のミリアが青ざめた顔をしていた。けれど彼女の手袋には、さっきまで香水瓶を握っていた跡がある。


「理由を伺っても?」


「毒だ。君がこの杯に毒を入れた」


 広間がざわめいた。


 わたしは王宮香料鑑定士だ。

 香水、薫香、薬草酒、保存香。王宮で使われる香りの調合と記録を管理している。


 華やかな舞踏より、調合室の静けさが好きだ。

 それをオスカーは、ずっと地味だと笑っていた。


「証拠はありますか」


「ミリアが見た。君が杯へ小瓶を垂らしたと」


 ミリアが涙を浮かべる。


「お姉様、ごめんなさい。でも、わたし、見てしまったの」


 彼女は泣く時も、香りを選ぶ。


 今日は白百合と蜂蜜。

 弱さを演出するには、少し甘すぎる。


「では鑑定いたします」


 わたしは銀杯を受け取った。


 オスカーが勝ち誇る。


「逃げられないぞ」


「逃げません。香りは、持ち主のところへ帰りますから」


 杯の縁へ、鑑定紙を近づける。


 赤い酒の奥から、三つの香りが立った。


 熟した果実。

 眠草。

 そして、夜明け蘭。


 わたしは顔を上げた。


「これは毒ではありません。眠気と軽い発熱を起こす薬草酒です」


「つまり有害だろう!」


「問題は、誰が入れたかです」


 鑑定紙に薄紫の線が走る。


「夜明け蘭の保存香は、今月、王宮調合室から三本だけ出ています。一つは王妃陛下の寝室用。二つ目は薬草園の試験用。三つ目は」


 わたしは台帳を開いた。


「ミリア・ロワン様の舞踏会用香水に、下香として混ぜています」


 ミリアの涙が止まった。


 オスカーが叫ぶ。


「妹が姉を助けようと香水を」


「杯の内側から検出されています。香水ではなく、小瓶で直接入れた量です」


 王宮薬草園長のセドリック様が、静かに前へ出た。


「その薬草酒は、試験用として私の管理下にある。クラリス嬢は今日、調合室へ入っていない」


 彼は警備局へ合図した。


「逆に、ミリア嬢が薬草園へ入った記録はある」


 ミリアの顔が真っ白になる。


 わたしはもう一枚、鑑定紙を杯へ近づけた。


 今度は、苦い油の匂いがした。


「持参金契約書に使われる封蝋の油です。オスカー様、今日、契約書をお持ちですね」


 オスカーの胸元がわずかに動く。


 セドリック様が近衛に目配せし、内ポケットから書類が出された。


『クラリスの不祥事による婚約破棄時、持参金の返還を免除する』


 広間の空気が冷えた。


 ミリアが崩れるように膝をつく。


「だって、お姉様ばかり王宮で認められて」


「認められたくて、誰かを毒殺未遂にする必要はありません」


 声は震えなかった。


 香料鑑定士は、強い香りに流されてはいけない。

 薄く残った真実を、最後まで拾う仕事だから。


 セドリック様がわたしへ向き直る。


「クラリス嬢。薬草園と香料室の合同監査に、あなたの鑑定を借りたい」


「わたしでよろしければ」


「あなたがいい。香りを言い訳に使う者が、王宮には多すぎる」


 オスカーが連れていかれる。


「クラリス、待ってくれ。婚約者だっただろう」


 わたしは銀杯を置いた。


「婚約は破棄されました。それに」


 鑑定紙を一枚、彼の前へ置く。


「あなたの言葉には、もう信用の香りが残っていません」


 晩餐会の花は、夜更けには萎れる。

 香水も、朝には薄れる。


 けれど、自分の仕事で取り戻した名誉だけは、簡単には消えない。


 わたしは調合室へ戻り、新しい台帳の一行目にこう書いた。


『毒杯偽装事件。残り香鑑定により、濡れ衣を解除』

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