Yellow
誕生日の夜、僕の前に現れたのは
“呼ばれて来た”という異形の存在だった。
忘れたい記憶を、黄色い沼が静かに包み込んでいく。
彼女は知らないうちに、僕の心を壊していた。
そして僕もまた、何かを壊してしまった。
「どうして僕のところに来たんだ?」
それが、闇の中でくしゃりと笑った。
姿は見えない。
ただ、その目は明らかに人間のものではなかった。
「おかしなことを言う。お前が呼んだんだろう」
そう言われると、そんな気がしてくるから不思議だ。
「だったら、こっち来いよ。誕生日なのに予定が空いてるんだ」
そいつは僕の手を握った。
包み込むような、大きくて温かい手だった。
「時を戻してやろうか?」
話を一通り聞いたあと、そいつは言った。
「もちろん実際に戻すわけじゃない。
ただ、ちょっと無かったことにしてしまうだけさ」
近づくと、大きな角が見えた。
「人によっては、悪魔と呼ばれるかもしれないな」
そいつはまた、くしゃりと笑った。
「でもまあ、やってることは可愛いもんさ。
何か壊したりはしない。ただ、ちょいと片付けてしまうだけだ」
そいつが机の上にあったスマホを握ると、履歴が次々と消えていく。
僕には、それが彼女のスマホにも同時に起こっているのがわかった。
「踊ろうぜ。誕生日なんだろう?」
「踊って忘れちまえばいい」
「待って、そんなのあり得ない」
「他はもう全部終わった。あとはお前が忘れればいいだけだ」
「僕は……何と話してるんだ?」
「俺を否定するなよ。まだ冷たくされるのには慣れちゃいないんだ」
「これは夢なんだろう」
「そうだ。俺が勝手にやったことだ」
「このっ」
「おっと、踊りのステップがバラバラだぜ」
握りしめた拳は宙を切り、けれどなんとも言えない奇妙な感触だけが残った。
視界が反転する。
「忘れるってのは、無くなるのと同義じゃない。
ただ、片付けられるだけさ。きっちりと整理整頓ってやつだ」
「ほら、この景色を見れば思い出す」
「今はそれでいい」
気が付くと僕は彼女のマンションに立っていた。
「もう、会わないって言ったでしょ」
「僕は、別れるなんて一言も言ってない」
懐から写真を取り出す。
「たとえ誰と、どこに行っていようがね」
「……あなた、つけ回してたの?
ストーカーじゃん、きもっ」
彼女の言葉を無視して、僕は部屋の中に入った。
正面のソファに腰を下ろし、ぐるりと室内を見回す。
「まだ男を連れ込んじゃいないみたいだな」
自然と、笑いがこみ上げる。くしゃり。
「絵に描いたようなあばずれだ。実に俺好みだ」
「あなた、誰……たっ君じゃない」
「誕生日プレゼントを用意するの、面倒だったかい?」
「いいから出てってよ」
あれ? なんで僕が入り口に立ってるんだろう。
ここ、彼女の部屋なのに。
僕は彼女の腕を掴み、そのままソファの隣に座らせた。
靴を脱がし忘れたが、もうどうでもよかった。
「話をしようぜ。冷たくされるのには、まだ慣れてないんだ」
「ひ、ひぃ……」
「可愛い声出すじゃないか」
「俺のプレゼントしたバッグ、どこにあるんだ?」
彼女はふるふると首を振る。
「うーん、ここかな」
僕はクローゼットの引き出しを開け、未開封の箱を見つけた。
「だめだなぁ。開けてもいないや」
バリバリと箱を破って、中の新品バッグを彼女の首にかけてやる。
「なんでわかったのぉ」
「これからこの写真の男に会いに行くんだが、君も来るかい?」
「腰が抜けて立てないの……」
「僕が背負ってあげるから、心配ない」
「私、お化粧もしてないし、家の鍵もかけてないじゃない!」
「ははっ、まだ元気だな」
「何で私のところに来たの。他にもいっぱいいるじゃない」
「おもしろいこと言うな。
答えは、お前が一番この男の心を壊したからだ」
彼女が僕の方を振り向いた瞬間、小さく悲鳴を上げた。
顔に何かついてたかな。
「そんな大したことしたわけじゃないの!」
握る手に、つい力が入る。
「あたし馬鹿だから……こんなことになるなんて思ってなかったし」
「ちょっと痛いから離してよぉ……」
「もう、いいよ」
家に戻ろう。
「これからがおもしろいんじゃないか。
この女の前で男を引きずり回してやろうぜ」
「やり過ぎなんだよ。もう泣いてるじゃないか」
「じゃあどうすんだよ。家に帰って一人で誕生会の続きをやるのか?」
「……それでもいい」
「おいおーい、今さらそんなこと言うなよ。げろ吐きそうだぜ」
そいつは本当に口に手を突っ込み、黒い吐瀉物を彼女にぶちまけた。
そのまま彼女が、ずぶずぶと黒い沼に沈んでいく。
僕は、とんでもないものを連れてきてしまったのかもしれない。
「もう少しだけ、遊ぼうぜぇ」
沼から無数の黒い手が生えてくる。
その瞬間、僕は悟った。
この手からは逃げられない。
ならーー僕は、自ら黒い手に包み込まれるように沼へと飛び込んだ。
気づけばマンションに戻っていた。彼女も一緒だった。
外はもう夜になっていたが、不思議とお腹は空いていない。
僕は彼女の靴を脱がせた。抵抗はない。
「君のせいって言うつもりはないけど、僕は少し壊れてしまったんだ」
壊れたのか、喰われたのか、それはわからないけど。
「わたし馬鹿だから、
まだ今も何が起こったかわかってないんだけど……」
彼女は僕の袖で鼻をかんだ。チーン。
「いっぱい迷惑かけちゃって、ごめんねぇ」
現在進行形で迷惑かかってるけどな。
僕は鼻水で汚れた袖を拭きたい衝動をこらえた。
「ほんと、助けてくれないかと思ったの、ごめんねぇ」
なんだ急に。謝られても……
それに、たぶんもう以前ほど彼女のことが好きじゃない。
――視点転換――
ブランドのバッグを買ってもらったとき、私は思った。
ああ、この人、私の言った通りにする人だと。
お金がないなんて言わない。
「奢って」と言えば、食事代も全部払ってくれるし、
「他の男と出かけるから会いたくない」と言えば、
連絡すらしてこない。
そういう人なんだって思ってた。
それなのに――
あの夜、私の前に現れた彼は、いつもの彼じゃなかった。
ぼさぼさの髪。薄汚れたTシャツ。
何より、じっと私を見つめてくる目の色が違ってた。
胸の奥がざわざわして、頭に血が昇る。
なんで会わないって言ったのにここに来てんの?
「もう、会わないって言ったでしょ」
「僕は別れるなんて一言も言っていない」
え?
今まで、私に言い返してきたことなんて一度もなかった。
懐から、彼は写真を取り出した。
そこには、アプリで知り合った男と私が写っていた。
いつの間に……?
頭がぐらぐらする。
大丈夫、大丈夫。ここは強気で返せばいい。
写真を取り上げて、データも削除させれば――
「あなた、付け回してたの?ストーカーじゃん、きもっ」
だが、彼は私の言葉なんて聞こえてないみたいだった。
すれ違いざま、私の脇を抜け、土足のまま部屋に上がり込んで、
ソファに腰を下ろした。
だめだ、これ……全然大丈夫じゃないやつだ。
どうしよう。私、もしかして、とんでもない勘違いしてた?
「まだ男を連れ込んじゃいないみたいだな」
部屋を見回し、私の目を覗き込んでくる。
なにそれ、当たり前じゃん。
あんな加工ばっかの男、ご飯一緒に食べただけでも感謝してほしいくらい。
「絵に描いたようなあばずれだ。実に俺好みだ」
え……もしかして声に出てた?
そのとき、彼の姿が、黒い獣のように見えた。
声の調子まで、どこかおかしい。
「あなた、誰……たっ君じゃない」
まずいまずいまずいまずい。逃げなきゃ。
さっきちらっと見えた。
あれ、牙だったよね。
でも、ここは私の家だし――
「誕生日プレゼントを用意するのが面倒だったかい?」
なんで私が悪いみたいになってんの?知らなかったよそんなの!
「いいから出てってよ!」
そのとき、いつもどうでもよさそうだった彼の瞳に、
はっきりと感情が宿った。
ただ、それが何の感情かは、私にはわからなかった。
思い返せば、あの日。
居酒屋での気まぐれだった。
「ねえ、この飲み代払ってくれたら付き合ってあげよっか」
「私、束縛されるの嫌いだから、LINEとか返さないけど」
「わかった。付き合うよ」
ちょっと可愛い子犬、手に入れた感じだった。
デートの場所も、行きたいところも、全部私が決めて、
彼は自分から何も話さない。
私の話に、ただ相槌を打つだけで、笑いもしない。
子犬だったら、もっと私にしっぽ振りなさいよ。
あの日のこと、思い出してもしょうがないのに、
頭の中がぐるぐる回る。
私、あのとき何してたっけ。
なんであんなこと言ったんだっけ。
「……もう、会わないって言ったでしょ」
あんなふうに強く言うべきじゃなかったのかもしれない。
だって、あのときの彼、なんか本当に変だった。
ソファに座った彼は、部屋を見回して、にやりと笑った。
「まだ男を連れ込んじゃいないみたいだな」
やめて、やめてよ。
なんでそんなこと言うの。
「絵に描いたようなあばずれだ。実に俺好みだ」
ぞくりと背筋が冷たくなる。
やだ、怖い。なんかもうこの人じゃない。声も、姿も。
「あなた、誰…たっ君じゃない」
声が震える。
言いながら、自分でもわかる。逃げなきゃ。
でも、足が動かない。
頭の中で警報が鳴ってるのに、身体が言うことをきかない。
「誕生日プレゼントを用意するのが面倒だったかい?」
違う!違う!知らなかったよそんなこと!
「いいから出てってよ!」
怒鳴りつけたつもりだったのに、声が掠れて震えていた。
そのとき、彼の目に浮かんだのは――感情。
でもそれが何か、私にはわからなかった。
怒りでも、悲しみでも、喜びでもない。
もっと別の、得体の知れないもの。
そして彼は、私の腕を掴んでソファの隣に座らせた。
「話をしようぜぇ。冷たくされるのは、まだ慣れてないんだ」
「ひぃっ」
声が勝手に漏れた。
ダメだ、本当にまずい。これ、夢なら早く醒めて。
「可愛い声出すじゃないか」
その笑みを見た瞬間、あ、もうだめだって思った。
バッグのことを聞かれて、必死に首を振る。
見つけないで、お願い、見ないで。
でも彼はまっすぐクローゼットへ向かい、開けた。
新品の箱がバリバリと破られ、バッグが首にかけられる。
「なんでわかったのぉ……」
情けない声が出る。
「これから、この写真の男に会いに行くんだが、君も来るかい?」
そんなの行くわけないでしょ。
でも、足がすくんで動かない。
「腰が抜けて立てないの」
必死で笑ってごまかそうとした。
「僕が背負ってあげるから、心配ない」
やだ。絶対やだ。
「私、お化粧もしてないし、家の鍵もかけてないじゃない!」
それでも彼は笑った。
そのとき、ふと思った。
どうして私がこんな目にあうのだろう。
「おもしろいこと言うな。
答えは、お前が一番こいつの心を壊したからだ」
は?
何それ、そんな大したことしてないし。
小さな悲鳴が漏れる。
彼の顔に牙のようなものが覗いてるのが見えた。
「そんな大したことしたわけじゃないの!」
言いながらも、手を握られる力がどんどん強くなっていく。
「あたし馬鹿だから、こんなことになるなんて思ってなかったし!」
ほんとに、ほんとにこんなはずじゃなかったのに。
「ちょっと痛いから離してよぉ」
けど、離してくれる気配なんかない。
「もう、いいよ」
え……?
どこからか、もうひとつの声が聞こえた。
「これからおもしろいんじゃないか。
この女の前で男を引きずりまわしてやろうぜ」
「やりすぎなんだよ。もう泣いてるじゃないか」
だれ?もう一人いるの?
「じゃあどうすんだよ。家に帰って一人でお誕生会の続きをやるのか?」
「……それでもいい」
その瞬間、彼が口に手を突っ込み、
黒いどろどろとしたものを、私に向かって吐きかけた。
やめて、やめて、やめて!
逃げようとしたのに、足が動かなかった。
黒い液体が私の体を飲み込み、
ずぶずぶと沼のように床が沈んでいく。
「いやだ、いやだ、いやだ!!」
無数の黒い手が生えてきて、私の身体を掴む。
一目見てわかった。
あ、これ、逃げられないやつだ。
ならせめて――
目を閉じようとした。
だけど最後の最後で、なぜか涙が溢れた。
馬鹿だな、私。
沈む直前、そんな自分の心の声が聞こえた。
そして、音もなく――部屋の空気が沈んでいった。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
壊れた記憶、整理されてしまう感情
――そんなものを、静かに物語に落とし込めたらと思って綴りました。