第7話 暴行遺伝子。
*** 川沿いの土手──30年前。
夕暮れの赤い光が、川面を鈍く染めていた。人気のない土手には、風が吹き抜けるたび、枯れ草がさわさわと音を立てて揺れていた。遠くで犬が一声だけ鳴いたきり、不自然な静寂に包まれている。
その静けさのなか、ハナは小刻みに肩を震わせていた。紺の制服の襟元が乱れ、頬には泥がついている。
目の前に立つ男は、サンダルに白いジャージ姿。目は笑っているのに、口元だけが薄く歪んでいた。
男は、ハナのチェックのミニスカートから出ている、白い足を舐めるように見つめる。
「おねえさん、最高!くびれ、ヤバイし。足もキレイ」
ハナは怯えた目で男を見つめ、両手を震わせながらバッグから財布を取り出した。
「や、やめてください……お金なら……差し上げます……」
声が上ずり、喉が乾いて言葉がかすれる。ハナは差し出した財布を両手で押し出すようにして男に渡した。手のひらが汗でじっとりと濡れていた。
「あ、くれるんだ。ありがとうね。でも、ただでは受け取れないので、お礼するよ」
男は財布を受け取り、親指で中身を広げるようにして札を覗き込む。もう一人、後ろにいた仲間の男がくくっと喉を鳴らして笑った。
「うちに……帰してください……お願いです……」
ハナは必死に下唇を噛みながら、半歩後ずさった。足元の土は湿っていて、靴が沈む音がした
。
「もちろん帰してあげるさ。でも、ただ、お金を貰うわけにはいかないので、ちゃんとお礼するよ……」
男の声がねっとりと低くなった。風が吹き抜けても、その言葉だけは耳にまとわりつくように残った。
「お、お金で……許してください……」
ハナの声は震え、両腕で自分の体を抱くように縮こまる。背後に川の音がかすかに聞こえる。逃げ場はない。
男は財布をパタンと閉じ、ため息交じりに首を傾げた。
「おねえさん、なんか勘違いしているよ。ただでは、お金もらえないって言っているんだよ」
「えっ……?」
ハナの声はか細く、今にも消えてしまいそうだった。
「だからさ、さっきから言ってるでしょ?お金もらったので、お礼させて欲しいって……俺たち結構テクニシャンなんだよ。最高に気持ちよくさせてあげるから、安心して身を任せて」
男はニヤニヤとした笑みを深く刻みながら、突如、ハナの髪を無造作に掴んだ。
「いっ……!」
髪を引かれた衝撃で、ハナの身体が前につんのめる。目の前に男の汚れた顔が迫り、吐息が生臭く鼻をついた。
彼女の背筋を、寒気が這い上がる。
空は、夕焼けから夜へと、色を変えようとしていた。だが、その闇よりも先に、ハナの心に黒い絶望が染み込んでいった──。
*** アオイとケンの家。
コンロの上ではケトルが音を立て、部屋には焼きたてのパンの香りがほのかに漂っていた。キッチンカウンターを囲んで、アオイとミオが和やかに談笑している。
「ミオ、明日の朝ごはん、私のターンでお願い!」
「かしこまりました」
「もっとフランクでいいよ。私たち、家族になったんだから」
「ありがとうございます。うれしいです」
「エッグベネディクト、気合い入れて作ります」
「うれしーい! お礼に、かわいい帽子見つけたから、今度プレゼントするね」
「幸せです」
ソファでタブレットを触っていたケンが、コーヒーを持ち上げてぼやいた。
「……超ラブラブモードじゃねぇか、二人とも。俺が主役じゃないのか、まったく」
「三人とも主役だよ」アオイが笑いながら言い返す。
「はいはい、わかりましたよ。男一人じゃ勝てないね」
「ケンさん、ハーレム、おめでとうございます」
「ミオ、オマエが言うな」
その時、アオイがふと時計を見て、声を上げた。
「そろそろ出ないと、間に合わないよ! 夕方までに着けなくなる」
「うわ、もうそんな時間!? ヤバっ」ケンが跳ね起きて、慌ててバッグを探す。
ミオが落ち着いた動作で靴を玄関に並べながら尋ねる。
「本日、ケンさんとアオイさんはアオイさんのご実家にご訪問とのこと、ですね?」
「あ、ごめん、ミオ。そうだった。今晩はケンと一緒に実家に泊まるから、明日の朝ごはんは無しで大丈夫。お留守番お願いね」
「かしこまりました」
「ミオ、もしかして……一緒に行きたい?」
ミオは一瞬黙り込んだあと、静かに答える。
「必要なら、付き添います」
アオイがコートを羽織りながら、少し考えた顔をする。
「一緒の方が、楽しい気がするな」
ケンも苦笑しながら頷いた。
「じゃあ、ミオも一緒に行こうか。せっかくだし」
ケンは笑い、ミオに親指を立てた。
「かしこまりました。荷物、お持ちします」
ミオは頷き、玄関脇に用意したケンのキャリーケースを片手で持ち上げた。
「僕よりも、確実に力あるよね……」
「はい。間違いないです」
ケンの肩越しに、ミオの小さな微笑みが見えた。
そして三人は、朝日が射し込む玄関を出て、アオイの実家へ向けて歩き出した―
*** 公園──30年前。
夕暮れの柔らかな光が、木々の隙間から差し込んでいた。セミの鳴き声はもう遠のき、代わりに秋風が落ち葉をゆるやかに転がしていく。
古びた木製ベンチに並んで座るふたり。足元にはパンくずをついばみに来た鳩が数羽、のどかに歩いていた。
ハナは伏し目がちに手を組み、うつむいたまま、何度も深呼吸していた。横に座るタケシは、彼女の緊張を察しながらも、黙って空を仰いでいる。日が落ちるにつれ、空の色は橙から群青へとゆっくり移り変わっていった。
やがて、ハナがぽつりと口を開いた。
「……引かないって、約束してほしい」
その声は震えていて、風にかき消されそうなほど小さかった。
タケシは驚いたように横顔を見たが、すぐに穏やかな声で返した。
「たとえ、どんな話でも……驚かないと約束するよ」
その言葉に、ハナはわずかに唇を噛み、そして決意したように右手をそっとお腹へ添えた。
「実は……私、妊娠しているの」
短く吐き出されたその言葉に、タケシの指がピクリと動いた。けれど、彼は驚きを内に押し込め、あえて平然とした口調で尋ねた。
「……相手は?」
ハナはしばし沈黙し、夕陽を反射するブランコの鎖を見つめていた。
「えっと………..妊娠を伝えたら……彼とは連絡がとれなくなったの」
「……ああ、よくあるパターンだね」
そう言ったタケシの声には、わずかな怒りと、哀しみがにじんでいた。
風が吹き、二人の間の落ち葉がふわりと舞い上がる。
「……ハナは、彼のこと……今でも愛してるの?」
タケシの問いかけに、ハナは首を横に振った。はっきりとした仕草だった。
「全く……愛してない。どうかしていたの私」
その目には悲しみの色が宿っていた。
タケシはわずかに微笑み、空を見上げたあと、真っ直ぐハナを見つめる。
「じゃあ、話は簡単だよ。僕と結婚すればいい」
「え……!」ハナの目が大きく見開かれた。思わず手が口元に上がる。
「……いいの? タケシの子じゃないんだよ?」
「関係ないよ。今から、俺の子になった。それでいい」
タケシの声はまっすぐで、少しも揺らいでいなかった。その瞬間、ハナの中の何かが崩れ落ちて、あふれ出す。
「……タケシ……ありがとう……」
涙がひとすじ、頬を伝って落ちた。彼女は両手で顔を覆いながら、肩を震わせた。
タケシはその肩にそっと腕を回し、静かに言った。
「出産の準備品、いつ買いに行くか決めよう」
傾きかけた太陽が、ふたりの影を長く伸ばしていた。風がまた、優しく落ち葉を揺らす──小さな決意とともに、未来がほんの少し、動き出していた。
*** アオイの実家──午後のほのかな木漏れ日。
坂道を抜けた先の住宅街は、落ち着いたレンガの塀と低い垣根が整い、紫陽花が色づき始めていた。小さな庭付きの家の前で、ミオがインターホンに指を伸ばす。
「ピンポーン」
という電子音が静かな通りに響く。
アオイが先に顔を近づけ、母へ明るく声を掛けた。
「お母さん、来たよ!」
玄関が開くや否や、エプロン姿の母、ハナが現れた。薄い花柄の布地が風で揺れる。しかしその顔色は、夕立前の空のように青ざめ、一瞬で凍りついた。
白髪混じりの髪が震え、ハナは半歩下がる。
「……っ!」
震えだした指が胸元のペンダントをぎゅっと握り込む。その視線はミオを素通りして、ケンだけを貫いていた。
「お母さん、大丈夫だよ。この子ヒューマノイドだから、怖がらないで」
アオイは、母がミオを見て恐怖を感じたと思い、慌てて間に入るが、ハナは返事もせず唇をわななかせる。
「あ、初めまして……ケンと申します。アオイさんと、その……将来のことでご挨拶に……」
ケンは蝶ネクタイを直すように喉元を触り、ぎこちなく微笑んだ。だがハナの瞳は、過去の幻を映しているように焦点を結ばない。
奥から現れた父、タケシが空気を変えた。ラフなシャツで迎えた彼は明るく両手を広げる。
「おお、来た来た! 我が家のお姫さまのご帰還だね。まあまあ、上がってくれ」
タケシはハナの背にそっと触れ、「ほらほら」と促す。
ハナは辛うじて笑みらしきものを浮かべたが、唇が震えたままだった。
「……ごめんなさいね。少し体調が悪くて……」
それでも玄関を開け放つと、外の陽射しが廊下の奥まで流れ込んだ。ケンたちは靴を脱ぎ、柔らかな畳の香りに包まれてリビングへ通される。
***
低いテーブルの上で湯気を立てるコーヒーが、焙煎の甘い匂いを部屋いっぱいに広げる。木目の床には真新しい座布団が並べられ、タケシが楽しそうに話を振る。
「いやぁ君がケンくんか。噂どおり――いや、噂以上だな。映画俳優みたいだ」
「い、いえそんな……」
ケンは首をすくめつつ苦笑いを浮かべる。だが視線の端で、ハナがソファの陰に身を潜めるように震えているのを捉えてしまう。
「お母さん、大丈夫? ほんとに顔色悪いよ」
アオイが心配そうに身を寄せる。
「……ごめんなさい。ちょっと横になってくるわね……」
ハナの声は針の穴ほどに細い。座布団を押しのけるように立ち上がろうとしたとき、ミオが膝を揃えて立ち上がる。
「大変申し訳ありません。お母様をご不快にさせてしまい。私は帰ります」ミオは頭を下げる。
「あんたのせいじゃないよ。気にしないでおくれ」ハナが視線を落としたまま呟く。
ミオは静かに瞳を閉じ、了承の意を込めて一礼する。
「かしこまりました。では、私がお母さまの介護いたします」
「じゃ、ミオ、悪いけど、お母さんお願い。布団ひいてあげて」
「かしこまりました」
ミオは頷きハナの腕をそっと抱えて寝室へ消えていった。
久しぶりに父娘で囲む卓は、日本酒の淡い香りに満たされていた。
タケシは陽気に杯を回すが、ケンの表情には影が落ちる。ハナが姿を見せない理由を思案し、胸の奥にざらつく感情が渦巻いていた。ミオが原因ではないとすると、やはり自分が原因ということだ。視線を避けられたのは気のせいじゃないんだ。ケンは、初対面で、拒否されたことは人生初めてだった。
釈然としない夜のまま、翌朝――ケンはハナの姿を見ることなく玄関に立った。
アオイもまた、母の異変を感じ取りながらも、楽しい空気を壊したくなかったので、あえて母の話題に触れなかった。
帰り際、タケシは何度も頭を下げた。
「昨日はハナの体調が悪くてね。本当に申し訳ない」
言葉とは裏腹に、タケシ自身も原因を掴めず困惑しているのが窺えた。
後日、アオイの母、ハナから、アオイ宛てに手紙が届いた。
『アオイへ
ケンさんとの結婚の件です。
本当に、ごめんなさい。だけど、ケンさんだけは、やめてちょうだい。
お母さんの一生のお願いです。
------母より』
荒削りの小説ですが、興味を持っていいただけるようでしたら、評価ポイント、ブクマ、率直な感想など頂けると、大変ありがたいです。