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第1話 ミオ、現る。

*** ケンとアオイの家。


ケンとアオイはベッドに横たわり、薄暗い室内で静かに抱き合っていた。窓の外では、夏の生暖かい風が梢を揺らし、青々とした葉が壁を撫でるような音を立てていた。


唇が触れ合い、微かな吐息が交わったその時──


一階から、何かが砕ける鋭い音が、夜の静寂を突き破った。



 ガチャーン!


 

二人は、まるで同時に雷に打たれたかのように跳ね起きる。


ケンの額には一筋の汗がにじみ、アオイは毛布を胸に抱き寄せた。


「……今の音、何?」


「下だな……誰かいる」


ケンの声は低く、どこか焦りを含んでいた。


「戸建ては狙われやすいって聞いた……怖い」


アオイが、膝を抱え込みながら、今にも消えてしまいそうな小さな声で呟く。


ケンはベッド脇に立てかけていたゴルフクラブを手に取り、重さを確かめるように握り直す。室内灯のオレンジ色の光が、彼の肩とクラブの金属に鈍く反射していた。


「ここで待ってろ。すぐに戻る」


アオイは無言でうなずく。視線は不安げに、ドアの奥を見つめていた。


ケンは足音を殺すように、階段を一段一段、ゆっくりと降りていく。暗がりの中、薄いフローリングの冷たさが足裏を通じて伝わる。


リビングのドアをそっと開けると──


猫のミャーが、暗がりから突然足元をすり抜けた。淡い月明かりの中、その白い毛並みだけがぼんやりと浮かび上がった。


床には、フォトフレームが粉々に砕けて散らばっている。中の写真は、ケンとアオイが最近撮ったもので、ケンがアオイの肩に腕をまわし、頬をピタリとくっつけていた。フレームの角は裂け、ガラスの破片が、冷たい床に星屑のように散らばっている。


ケンは息を吐き、ゴルフクラブを壁に立てかけ、ミャーを抱き上げる。その体は温かく、しかし落ち着きなく小刻みに震えていた。


──ただ、それだけのことのはずだった。


だが、なぜか、寒気が背筋を這い上がってくる。


アオイが待っている部屋に戻ると、ケンはミャーの顔をアオイに向けて言った。


「こいつの仕業だ。フォトフレームを落したみたいだ。明日片付けるから、今日はもう寝よう」


「……そう」


アオイは天井を見上げたまま、ぽつりと呟いた。


「でも……なんとなく、この家、誰かがずっと見てるみたいで、怖いの」


「ミャーのことだろ」


「……違うの。懐かしい“誰か”の気配なの」


アオイの言葉に、ケンは答えなかった。静かに布団をめくり、ミャーをそっとその上に置く。


「……大丈夫。俺がそばにいる。怖がることなんて、何もないよ」


アオイは小さく頷いた。


──だがその夜、ミャーは決して目を閉じなかった。


ベッドの端に座り、じっと部屋のドアを凝視していた。そこには何もない──誰かを警戒するかのように。




*** 株式会社ロボティクス・会議室。


昼下がりの柔らかな陽光が、ガラス張りの会議室に差し込んでいた。テーブルの上にはモニターと分厚い技術資料が散らばり、空調の低い唸りだけが静かに響いている。


その中央で、スーツ姿の部長が書類をぱたんと閉じ、眉間にしわを寄せた。


「山下くん、やっぱり、特注対応は効率が悪いよ」


デスク越しに向かい合う若手研究者・山下は、一瞬口を引き結び、眼鏡の奥で目を輝かせながらすぐに言い返す。


「……部長。でもこれは、“死”の概念を覆せるかもしれない。今世紀最大の発明ですよ」


その声には確信が宿っていた。開発者としての情熱が、抑えきれずに滲み出ている。


部長は椅子にもたれながら、天井を仰ぐようにして深いため息をついた。


「だがな……一般家庭で買えるヒューマノイドは、せいぜい車並の価格が限界だ。300万円ぐらいだよ。2,000万円を超えるようなもの、そう簡単に数は出ない」


山下は勢いよく身を乗り出した。手にしていたペンを無意識に回しながら、必死に言葉を重ねる。


「最近のブレイン・マシン・インターフェイスは、技術が枯れてきて価格も落ちています。量産化すれば、原価も半分以下まで圧縮できるはずです」


部長はしばらく沈黙し、資料の端を指先で叩いた後、小さく頷いた。


「……ふむ、じゃあ、トライアルで一台だけやってみるか」


その瞬間、山下の顔がぱっと明るくなった。眼鏡の奥の瞳がきらりと光る。


「ありがとうございます! ……実は、そう言っていただけると思って、すでに一体、開発を進めております」


部長は少し驚いたように片眉を上げた。


「クライアントはいるのか?」


「はい。純粋な客ではないのですが……」


「どういうことだ?」


「このプロジェクトに携わっていただいている脳科学者です」


「……なるほどな。わかった。近いうちに工場に行くから、開発中の機体のコードネームを教えておいてくれ」


山下は背筋を伸ばし、まっすぐな声で答えた。



「ミオです」



こうして、人間に限りなく近づいたヒューマノイドをこの世に誕生させる動きが静かに動き出した。


それは、生と死の境界を超えるポストヒューマンと人間が共存する世界<不死界>の幕開けだった。




*** ケンとアオイの家。


翌朝。

カーテンの隙間から、白んだ朝の光が射し込んでいた。


ピンポーン──。


玄関のチャイムが静寂を切り裂いた。


アオイはシーツを抱き寄せながら、反射的に身を起こす。ケンは寝ぼけまなこで顔をしかめ、パジャマ姿のまま階段を下りていく。


玄関のモニターには、女性の風貌のヒューマノイドが映っていた。左右対称な完璧な顔立ち。柔らかな白髪ボブカット。人体模型のように整いすぎたプロポーション。表情は貼り付けたような笑みを湛え、瞳は光を反射し、無機質な笑みが貼り付いている。


ケンがドアを開けると、そこにはモニターに映し出されたヒューマノイドが静かに立っていた。顔立ちはまるで陶器の人形のように整っていた。


そのヒューマノイドは、かすかに首を傾けて、丁寧に一礼した。


「私を使っていただきたくて、お伺いしました。ヒューマノイドのミオです」


その合成音声は、澄んだ中音域で、どこか人間味がありながらも機械的な響きを帯びていた。


「……は? なんの話?」


ケンは眉をしかめ、ヒューマノイドの姿を訝しげに見つめる。


「私を、ぜひご検討をいただきたくてお伺いいたしました」


「うちは……ヒューマノイドを買う余裕なんてないよ」


「昼間は家事を行い、夜は近くのマイクロ倉庫で労働いたします。月々のレンタル料は20万円。ですが、日5時間の労働で月20万円弱の収益が見込めます」


ケンは一瞬、言葉を失い、眉をひそめる。


「……え、つまり……実質、ほぼタダってことか?」


「はい。プラスにするのは難しいかもしれませんが」


一呼吸の間の静寂のあと、ケンは肩をすくめて、ようやく言った。


「……ちょっと中に入ってくれ。今、パートナーを呼んでくるから」


ミオはうなずき、無音で靴を脱ぐと、玄関の敷居を跨いでリビングへと進んだ。ロボットにも関わらず驚くほど、静かな足音だった。


階段を下りてきたアオイは、ゆったりとしたワンピースのまま現れた。目元には寝起きの影が残っており、髪もまだ少し乱れている。彼女の視線はミオに一瞬とどまり、穏やかな微笑を浮かべたが──すぐに視線を外して、床に散らばったガラス片のほうへ向かった。


フォトフレームの破片を拾いながら、アオイはふと眉をひそめた。


(……こんな位置に落ちる?)


置いてあった場所からして、遠すぎる距離だった。ミャーが咥えて運んだにしては不自然すぎる。何かが──誰かが──わざと動かしたような、そんな気がした。


「アオイ、掃除は、後で、いいから、とにかく、ヒューマノイドの話を一緒に聞いて欲しい」


ケンの声に、アオイは戸惑いを隠してうなずき、リビングのソファーに腰を下ろした。ミオは、すでにローテーブルのそばに静かに立っていた。


「はじめまして、私、ミオと申します」


その声は、やわらかく抑揚があり、どこかで聞き覚えがあるような奇妙な感覚を残した。アオイは、その“自然すぎる”イントネーションに引っかかりを感じた。


ミオの説明が始まる。言葉は滑らかで、まるで熟練の営業マンのように淀みがない。自己発電、36時間の連続稼働、年一回の定期メンテナンス──話すたびに、指先が静かに空中をなぞり、まるで人間のクセのような所作が自然に混ざっていた。


ケンは腕を組みながら、興味深そうに頷いていた。


アオイは、なんとなく釈然としないまま、それでも黙って隣で話を聞いていた。


説明が終わると、リビングの空気が一変した。冷蔵庫のモーター音が妙に耳につくほどの静寂。


「なあ、これ……けっこう良くないか? この条件なら、使ってみても損はないと思うけど。俺はやっぱり、考えるより、やってから後悔するタイプなんだよ」


ケンの表情はすでに決まっているようだった。


「……そうね、悪くはないかもだけど…..」


アオイはそう答えながらも、ミオの動きをじっと観察していた。ミオは一瞬、顔に微かな笑みを浮かべ、そして──左の耳たぶにそっと指を添えた。


その仕草に、アオイは小さく息を呑んだ。


──まるで人のような仕草だったからだ。中に生身の人間が入っているのではないかと思えるほどだ。


驚きというよりむしろ恐怖を感じた。アオイは無意識に自分の膝を握りしめていた。


「……ご質問があれば、何なりと」


「ねえ、ケン……うまく言えないんだけど、もう少し考える時間をもらってもいいい? 私の勘、当たるのよ、こういうときは」


ケンは困ったように笑った。


「え? ああ……じゃあ、一旦保留にするかぁ」


「もし、よろしければ、1ヶ月無料トライアルから始めることも可能です。1ヶ月以内にキャンセルしていただければ、ご負担はゼロです」


ミオの言葉は完璧に計算されたような提案だった。断る理由が見当たらない──それがますますアオイを不安にさせた。


「そうなんだ。そりゃ、いいね。じゃあ、無料トライアルから始めるということなら、リスクないし、いいよね?」


ケンの声に、アオイはしぶしぶ、ゆっくりと頷いた。


そのとき、部屋の奥から、ミャーがぬっと現れた。


ミオの足元まで歩いていくと、ぴたりと立ち止まり、見上げた。次の瞬間、低く唸るように「シーッ」と威嚇の声を上げた。


「ミャー、おいで」


アオイが呼ぶが、ミャーは動かない。目を細めて、警戒するようにミオを睨みつけている。


「やっぱ猫って、人工物に警戒するんだな。センサーの音でも聞こえるのか?」


ケンが笑ったが、アオイの表情は曇っていた。


「では、早速ですが、明日からのタスクと作業開始時刻を指定してください。今晩中にフル充電にしておきます」


ミオの声が静かに室内に響いた。


「じゃあ、明日の朝までに、タスク整理しておくよ。作業開始は、その後でいいから。ゆるめで進めよう」


アオイは、何も言わず、自分の太ももをきゅっと掴んだ。


手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。


その夜、アオイは眠れなかった。ベッドに入っても、不自然なフォトフレームの落下場所、まるで人間のようなミオの笑みと、ミャーの唸り声が、何度も脳裏に浮かんだ。


そして──異物が、家の中に入り込んできた、そんなネガティブな感覚が、胸にまとわりつき、不安な夜を過ごした。




*** 株式会社ロボティクス・ヒューマノイド製造工場。


金属の匂いがわずかに漂う静かな工場内。高天井から下がるLEDライトが、無機質な床と並ぶヒューマノイドのパーツを照らしていた。朝の点検を終え、作業員たちがまばらに動き始めたそのとき——


「おはよう、木下くん」


不意に背後からの声に、白衣姿の若い技術者・木下は肩をビクリと跳ねさせた。振り向くと、渋いスーツを着た初老の男性が、腕を組みながら微笑を浮かべて立っている。部長だ。


「ぶ、部長……な、何か御用ですか?」


木下は声をうわずらせ、慌てて前かがみ気味にお辞儀した。額にはうっすらと汗。


「何を言っているんだい、君は。現場を見るのは私の仕事だよ」


落ち着いた声で返し、視線を工場の奥へと移した。


「あ、はい……」


木下はぎこちなく笑いながら、視線を泳がせた。


「ミオの状況が気になってね。進捗を見に来た」


「そ、そうですか……」


言葉を濁す木下の表情には、明らかな動揺の色が浮かんでいる。


「案内してくれ」


「え、えーっと……実はですね……」


部長は訝しげに片眉を上げた。


「どうした? 何かあったのか?」


木下は喉を鳴らし、視線を落としたまま口を開いた。


「開発は順調に進んでおりまして、現在は最終チェックの段階だったのですが……」


「おお、それはいいタイミングに来た」


「そ、それが……ミオが、ここには、ないんです」


部長の表情が一変した。


「ない?……どこにあるんだ?」


木下は喉元を手でさすりながら、小声で答えた。


「それが……行方が……わからなくて……」


「どういうことだ?」


部長の声が一段階低くなった。


「きちんと、わかるように説明しろ」


「はい……昨晩、忽然と姿を消してしまいました」


「消えた、だと?」


「正確には……ミオは自律稼働型のヒューマノイドなので、深夜に充電が完了した後、勝手に行動を開始してしまいまして……」


部長は顔をしかめた。


「まさか、工場から出て行ったのか?」


「おそらく、たぶん深夜3時ごろかと……監視カメラの記録にも、映像が残されていました」


「……つまり、勝手に外へ出たわけだな?」


「はい……申し訳ありません」


木下は深く頭を下げ、拳を固く握った。額から一筋、汗が頬をつたう。


「GPSで追えないのか?」


「それが……ミオが自分でGPSを切ったようで……」


部長は無言のまま、ゆっくりと息を吐いた。眼鏡の奥の視線が鋭くなる。


「自らGPSを切った……だと?」


「はい……」


「でも、充電が切れる前には、充電のために自律的に戻ってくるんだろ」


「それが……ミオは自己発電型でして、外部の充電器は必要としません」


「太陽光発電か。なら、夜は動けないはずだろ」


「いえ、ペロブスカイト素子を搭載しているので……室内の照明でも十分に発電可能です」


「……つまり、ミオは、永遠に自律的に動き続けられる、ということか?」

「はい……その通りです」


部長は額に手を当て、しばし黙った。そして静かに言った。


「とにかく、探せ。全力でだ。もし見つからなかったら……」


木下の顔がこわばった。


「——ミオの代わりに、君の辞表を持ってこい」


冷ややかに告げられたその言葉に、木下の口からかすかな吐息が漏れる。


「……は、はい」


木下は深く頭を下げ、震える足で部長の前を離れた。工場の薄明かりが、その背中を無言で照らしていた。












お手数かとは思いますが、興味を持っていいただけるようでしたら、評価ポイント、ブクマ、率直な感想など頂けると、大変ありがたいです。

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