未完成肖像画
1)爪の色
その油絵は湿度を調整する機能が付いた特殊な箱に厳重に梱包されていた。男は箱をデザインカッターで丁寧に開封しながら携帯電話をかける。
「……ですが。はい、確かに受け取りました。時間ですか? えっと、二、三時間ももらえれば充分かと思いますが。調査が終わり次第こちらからお電話します」
男には特殊な能力があった。物品の残留思念を読み取る事ができるのだ。対象物の所有者やかかわった人物の思いが指先から伝わり、対象物の生い立ちや関係した人物の情景を映像として脳裏に読み取る事ができた。
男を雇ったのは大都市に拠点をもつオークションハウスで、世界中から集まってくる出展物の真偽を確かめる為に、男に調査を依頼してくるのだ。もちろん殆どの場合はオークションハウスの方で独自に科学的な調査をするのだが、極端に時間がなかったりどうしてもフェイクかどうか判断がつかない時にこうして男の元に鑑定の依頼がかかるのだ。
油絵は十二号サイズの女性の肖像画で、最近亡くなった新進気鋭の若手画家の遺作だという。描かれた女性は彼の奥さんだろうか?
その油絵は独特のタッチで描かれていた。まるで印刷のような精巧な描写で、点描画をさらに細かくしたような繊細な筆遣いで、よく見ると細かい極小さなドットを幾重にも重ね合わせて微妙な色彩を表現している。普通の油絵と違い極薄く伸ばした顔料を水彩画のように塗って何度となく塗り重ねひとつのドットを描いている。驚いた事にひとつの色を表現するのに、三色の異なるドットを組み合わせて描いている。それはまるでブラウン管のモニターが、赤・青・緑の三色の組み合わせでさまざまな色を表示するのに似ていた。その細かさに膨大な手間がかかっている事を容易に想像することができた。
少し離れてみるとそれは本当に写真かと思わせるぐらいに緻密な絵で、これがエアーブラシを使わずに筆のみで描かれた油絵だとはとても信じられない見事な出来栄えだった。同時に彼の絵が、彼が死んだ後に高値で取引されている理由を十分理解する事ができた。これが本当に彼の遺作なら間違いなく高価な値段が付くだろう。
男は右手にはめた皮手袋をとって、そっと油絵に指先でさわり静かに目を閉じる。
肖像画の女性の顔が脳裏に映像としてぼんやり浮かぶ。それは次第に輪郭がはっきりして、彼女の髪の毛の一本一本まで確認できるぐらいに鮮明な画像ととして認識できた。次第に男の視点は彼女の視点と重なり、彼女の視点で情景を確認することができるようになる。すると彼女の感情が溢れてくる。彼女は画家の大事な人、たぶん奥さんか恋人だろう。ここ一週間彼女は自分の肖像画を眺めている。画家は彼女を残して死んでしまった。彼女の中には悲しみがいっぱい詰まっていて張り裂けそうだ。彼女の目の前の油絵はまだ描きかけで、洋服ブラウスに色が入っていなかった。彼女は食事をするとき以外はこの油絵を見詰めていた。まるで画家との思い出をさがし求めるように。
ある時彼女は肖像画の爪の色が昨日と微妙に違っているのを発見した。それは今日実際にしている薄いピンク色。でも昨日は確か淡い水色だったはずだ。今朝彼女は自分の爪をピンクに塗り替えたのだ。そしてこの絵も自分に合わせたようにピンク色に変わっている。それは実際奇妙なできごとだっただが、彼女にはなぜかほっとしたような安堵感とぬくもりすら感じるできごとだった。その日以来彼女はその絵のそばを離れず、肖像画を毎日注意深く観察するようになった。
2)コバルトブルーの絵の具
彼女が画家と出合ったのは京王プラザホテルの貸し画廊だった。彼はそこで小さな個展を開いて、自分の作品を展示し、見に来てくれたお客さんひとりひとりに作品について自ら説明して回っていた。彼の作品を見詰める彼女に伏せ目がちに説明する彼の横顔から几帳面な清潔さを感じた。その時見た彼の作品は、大きなキャンバスいっぱいに小さなガラスのビー球が何百個と描かれてあってその一個一個に微妙な光が反射してキラキラ輝く様子を写実的に描写した繊細な油絵だった。見るからに細かいタッチが彼の性格を良く表している。
彼の個展に足を運ぶうちに作品の製作過程に興味を憶え、彼の側で作品を創りだす手伝いをするようになるまでさして時間はかからなかった。彼はどちらかというと寒色系の色彩を好み、徹底的な写実主義の画風だった。彼は絵を描くこと意外何も知らないような純粋さを持っていて、ビジネスに関してほとんど無頓着だった。外資系企業の秘書をしていた彼女は仕事を辞めてまで彼の世話をしたいと思うようになり、彼のマネージメントを担当して、世界中の画廊相手に彼の作品を売り込んだりした。
モチーフは主にグラスや透明感のある静止物がほとんどで、風景画や人物画はほとんど描かなかった。顔料はピカソが青の時代に使った、悪魔の青色といわれる他の色と相性が悪く扱いにくいことで有名なコバルトブルーを好んで使っていた。
彼女の宣伝活動によっていくらか名前が売れてきたが、彼は商業活動にほとんど関心がなく、絵さえ描ければ生活水準がどんなだろうと満足のようだった。また自分の描きたくない物はどんなにスポンサーが好条件を出そうとも、一切描こうとせず、描きたい題材を見つけると食事も惜しんで没頭してしまう。おおきな子供の世話をしているようだと、彼女は描くのに疲れて彼女を抱きしめるように寝込んでしまった彼を見て思った。
対象物に張り付いた残留思念はいわば物品の記憶のようなものであるが、かならずしも時間を追って順番に並んでいる訳ではなく、男の脳裏に浮かぶ彼女の映像は、時間軸がずれてバラバラのスライドを繋ぎ合わせたような断片的なビジュアルイメージである。一度、頭の中で再構築して整理する必要があった。彼女の想いが強く残る部分はより鮮明に映像化され、男は目頭を押さえながらため息を小さくつくと、さらに深く残留思念を探る為に意識を集中する。
彼の残した肖像画の側で眠り込んだときに奇妙な夢をみた。青い透き通るようなコバルトブルー色の海の向こうから何かがこちらに歩いてくる。それは蜃気楼のような透明でぼわーっとした塊で、良く見ると細かい霧のような粒子が集まって人の形を模った流動体だった。その流動体を形成する粒子のひとつひとつが波間に反射する光をあびてキラキラ輝いてみえた。
額に冷たい感触を感じて彼女が夢から醒めると、流動体が目の前にいて、まるで接吻をするかのように額を彼女のおでこにくっ付けていた。何が自分に起こっているのか判らなかったが、一瞬にしてそれが何なのか彼女は理解した。彼女は両腕を広げて流動体を迎え入れるように抱きすくめる。流動体を抱きしめると彼女は魂をぬかれるよな脱力感を憶えたが、彼女の心は暖かい安心感でいっぱいになった。
「戻ってくれたのね」そう彼女はつぶやいた。
3)砂時計
砂時計の砂が少しずつ溜まっていくように彼女の肖像画が少しずつ描き加えられてしだいに完成していくように思われた。彼女が例の流動体に出会ってから、彼女は彼女の肖像画が微妙に変化していくことに気がついた。少しずつ色の入っていない部分にドットが描き足され、塗り重ねられて本来の色が表に出てくるようだった。彼が描きかけの絵を完成させようとしている。彼女そうは確信した。
彼女はなんとかこの奇跡を解明しようと、ビデオカメラで撮影することを思いつく。コマ落としの撮影(時間を短縮して一時間に一コマずつ撮影し、変化の遅い動きを早送り画像で再生できる)で撮影すれば、植物が花を開く様子を撮影した教育番組で見た朝顔の成長記録ように、絵の変化を実際に確認できるかもしれないと思った。
三脚を肖像画の前に固定し、定点撮影で一週間かけて彼女は撮影する。それはまるでキャンバスの裏側から色が滲み出てくるように小さなドットが湧き出して広がっていった。ドットの色が広がる様子は、和紙に墨汁を落として墨が広がっていくように、滲んで広がるさまざまな色が美しい波紋を形どっているようだ。色がつけ加えられることによって、まるでコンピュータ処理を加えたアニメーションのように絵がひとりでに描き足され、肖像画に描かれた彼女の表情が微妙に変化していく。描き手に姿がまるで見えないのに……。
それ以来彼女は流動体を待ち望むようになり、自ら流動体に抱きついた。彼女が長く抱きついていればいるほど、ドットがたくさん描き加えられたから。でもなぜか流動体を抱きしめた次の日は、ひどい疲労感に襲われ、力が吸い取られるように脱力感に襲われた。長い間流動体に接触すると何日も寝込んでしまうことすらあった。
幾度となく流動体に接している内に、体力の消耗が普段の食事による栄養摂取では追いつかなくなっていた。それでも彼女は、固形の栄養食やビタミン剤の入った流動食を食べてまで、流動体が描こうとする彼女の絵が完成することを望んだ。
砂時計の砂が少しずつ流れ落ちるように、彼女の体力は消耗していった。
4)贋作
いつの間にか部屋中に散らばる絵の具の空チューブが、彼女の肖像が完成する日が近い事を示していた。ふと、彼女はあることに気がつく。
強い意志とビリビリくるような拒否反応からイメージが突然ホワイトアウトする。男はとっさに油絵から指先を離した。どうやらこの先にこの絵の真相があるらしい、男は傍らのペットボトルの天然水で指先を手早く洗うと、ハンカチで水気を拭い去り再び意識を集中した。
眠気をこらえて凝視する彼女の目に驚きの表情が浮かぶ。
――何かが違う!
彼女は彼女の肖像の小さなドットを上から下まで眺め回す。ドットを見詰めるうちに彼女の瞳から一筋の涙が溢れ出る。彼女は何度も確認するかのように顔が触れるぐらいの距離で彼女の肖像を必要に睨みつけていた。彼女の両手がブルブル震えだすと、もはや彼女は怒りで我を忘れ、その感情を押さえ込むすべを知らなかった。
まもなく完成するであろうその肖像画は、あきらかに彼女の想像していた出来栄えとは違っていた。タッチや筆使いが微妙に彼のモノとは違っていた。良く出来てはいるが明らかにニセモノだ。その肖像画は、長年彼女が見続けてきた彼の絵とは程遠い稚拙な物マネでしかなかった。
彼女は己の怒りで気が狂いそうになる。今でも忘れずに彼の為に整えている後ろ髪を振り乱して、何度も大声で泣き叫ぼうとするのだが、声が喉からでて来ない。彼女は繰返し冷静に考えようと努力するのだが、霞んだ破裂音が喉の奥で小さく鳴るばかりで、耳障りな心臓の音がこだまする中、泣き声の代わりに大粒の涙がただ溢れ出るばかりだった。
5)殺意
それから彼女は一睡もせずに、流動体が再びやってくるのを彼女の肖像がの前で微動だにせずに待っていた。いくたびかこのニセモノの絵を破いてしまおうと思ったが、ある決心を胸に秘めていた。
――納得いかないモノは処分しなければならない。
彼女は必死に肖像画を破きたい怒りを抑えていた。彼女はまるで、心に湧き上がる怒りと悲しみでできた、今にも破裂しそうな風船のようだ。溢れ出て止まらない涙が、アイシャドウを溶かして頬に黒い筋を作り、充血した瞳は一心不乱にニセモノの肖像画とその奥からやってくるであろう、流動体が湧き出てくる壁に向けられていた。
しばらくすると、コバルトブルーの光をまとった流動体が壁からすり抜けてこちらに歩いてくる。咄嗟に彼女は、左手の甲で涙の跡を拭いさり、いつものようにつくり笑顔で流動体を迎え入れるように両手を広げてみせる。人型の流動体は彼女にすがりつくように彼女の胸にうずくまる。
すると彼女は左手で強く流動体の背中を抱きしめ、どこから用意したのか、いつのまにか右手に掴んでいた果物ナイフを、相手を抱きしめたまま背中でゆっくり握り直した。
そうして、逃げられないように体に密着させてから、彼女は全身の力を込めて流動体の背中に果物ナイフを突き刺した。
その果物ナイフは彼が油絵のパレットナイフの代わりに使っていたもので、満足のいかない作品を処分する為、気に入らない油絵を引き裂くのにも使用していたものだ。もったいないと彼女が聞くと『納得のいかない作品をこの世に残したくないんだ』とすこし寂しそうに笑っていた。
6)レクイエム
男の元に依頼者からの電話が掛かる。
「はい、あぁ、判りましたよ。あの絵はニセモノですね。死んだ奥さんが旦那さんの作風をマネて描いたモノのようです。えぇ、そうです。美術品としての価値は低いでしょう」
男はそう依頼者に話すと真相をどこまでつたえるべきか考えあぐねていた。
彼女は最後に理解していた。あの流動体が、書きかけの肖像画を見たがっていた自分自身だったことを。彼女は彼女の思いを抱きしめて自分の肖像画を完成すること望んだのだ。実際にあの絵がどのように書き加えていたのかは想像するしかないが、たしかにあの流動体は彼女自身の思いが具現化したものだ。彼女は自分で旦那さんの画風をマネて、自分の肖像画を完成させようとしていた。
彼女は最後に真実を理解して、血まみれの両手で肖像画を抱きしめながら謝って旦那さんに許しを得ようとしていた。
「あなた、ごめんなさい。あなたが描いてくれた絵を汚してしまったわ」
彼女は亡き画家である旦那さんに、そう言い残して、息絶えた……。
「血まみれで発見されたいわくつきの油絵なんてどんなに綺麗にしても気味悪がられるだけですよ。素人が描いた絵で二束三文の価値もないから、オークションに出してもムダでしょう。奥さんの描いた絵だから奥さんと画家が眠っている墓に一緒に埋葬したらどうですか? えぇなんで血まみれで発見されたって知ってるんだって? それは調査上の秘密ですよ」
男は電話を切ってもう一度コバルトブルーの流動体を見てみたいと思った。
・この作品は投稿者ではなく、友人のアツシさんに書いていただいたものです。
・原案は投稿者ですが、キャラクター設定や文章はほぼすべてアツシさんの手によるものです。
・作品発表・投稿にかんして、執筆時に『自由にしていい』といっていただいております。
・投稿にあたって、校正(誤字脱字修正、書式の統一、改行をふやすなど)といちぶの表現の修正をしています。