悪役令嬢を救うため学園で保険事業を立ち上げる令嬢のお話
「お待ちください!」
貴族の学園で執り行われる学園の夜会。
わたし、子爵令嬢アンスラシアの声は、静まり返った会場に想像以上に大きく響いた。
会場の視線が集まってくる。その多くに非難の色が見える。それも当然だろう。わたしが声をかけるまで、誰もが会場の中央に立つ三人の男女の動向に注目していたのだ。
一人は、すらりとした長身の青年。シャンデリアの光を跳ねて光る銀の髪は、名工の手による銀細工のようだ。切れ長の鋭い瞳は怜悧な輝きを放っている。身に纏う青を基調にした式服は、彼を冬の冷気を連れてやって来た精霊のように見せていた。
彼は、伯爵子息ディーソルシオ。
一人は、それに寄り添う少女。かわいらしい顔。しかし桃色の瞳はどこまでもまっすぐで、何物にも曲げられない強さを感じさせる。夜会にいながら、まるで日の光の下にいるかのように、明るく元気な命の輝きを感じさせる。淡い黄色のドレスは、まるで彼女の放つ光に染まったかのようだった。滑らかなピンクブロンドの髪は、妖精の羽のように彼女に幻想的な彩を与えていた。
彼女は、平民の少女フェルオーネ。
その二人に対峙するのは、気品あふれる令嬢。腰まで届く長く鮮やかなブロンドの髪。その顔の美しさはまるで精緻な彫刻のようだ。しかしややつり目の凛とした青い瞳は、彼女がただの置物ではなく、その内に強い意志と気高さがあることを感じさせる。並の令嬢では着こなすことも難しい豪奢なドレスは、彼女の苛烈さに寄り添うには力不足に思えた。
彼女は、伯爵令嬢ハイミネディア。
まさに夜会の中央に相応しい豪華絢爛な三人。そこにわたしのような茶色い髪の地味な令嬢が、不作法に声をかけて突入したのだ。場違いにもほどがある。
しかしそれでも物怖じしてはいられない。
なぜならわたしはこれから起きることを、セリフ一つ一つに至るまで知っている。それが悲劇に至ることを知っている。それを止める方法が、この手のうちにあるのだ。
「君は確か、子爵令嬢アンスラシア・フォーケンだったな。これは伯爵家同士の話。邪魔はしないでいただきたい」
伯爵子息ディーソルシオの鋭い瞳がわたしを射抜く。
高位貴族の前に立つのは大変な重圧を感じる。全身に鉄の鎖でも巻きつけられたかのようだ。気を抜くとへたり込んでしまいそうになる。でも、今のわたしはそんなことでは止まらない
「あなたこそ、わたしの『営業活動』を邪魔することはできません!」
わたしが取り出したものを目にして、伯爵子息ディーソルシオが驚きひるむ。
精緻な細工が施されたブローチ。『王家の事業認可証』。これを持った者が事業の話をする際、高位貴族であろうとも容易に妨げることはできないという特別な証なのだ。
「ハイミネディア様! 今からでも入れる保険があるんです! 『青い鳥を育てる会』の保険プランを、どうかご紹介させてください!」
この日のために保険事業を立ち上げた。この時のために保険プランを練り上げた。
悪役令嬢として断罪される恋愛小説の登場人物、伯爵令嬢ハイミネディアを救うために備えてきたのだ。
わたし、子爵令嬢アンスラシアが転生したことに気づいたのは、10歳の頃のことだった。
うっかりお父様の大事にしていた花瓶を割ってしまい、お父様にひどく叱られた。すっかり気落ちして、自分の部屋のベッドに突っ伏した。
ベッドの柔らかさに沈み込みそうになる時、口から言葉がこぼれ出た。
「『保険』に入っていれば、あの花瓶を弁償できたのに……」
今まで聞いたこともない『保険』という言葉。それを口にした瞬間、頭の中に前世の記憶が湧いて出てきた。
普通、前世の記憶がよみがえると言えば、何か事故に遭ったりとか高熱を出して寝込んだりとかだろう。ちょっと叱られただけで蘇る前世の記憶ってなんなんだ。ドラマチックさのかけらもない。いろんな意味で混乱して、そのまま寝込んでしまった。
目が覚めると夜も更けていた。半端な時間に起きてしまって今さら眠る気にもなれない。気持ちもいくぶん落ち着いたので、とにかく頭の中で渦巻く大量の情報を整理することにした。
わたしの前世の名前は豊圏 栄子。現代の日本で暮らす30歳の、どこにでもいる保険営業だ。顔かたちはあまり秀でたところはなかったものの、営業で培った愛想のよさは自信がある。でもいい出会いに恵まれず、独り身のまま仕事に没頭していた。
ある日の事。厄介な保険契約者対応に追われ、更に期末の様々な事務処理が重なり疲労の限界に達していた。今夜こそは家できちんと睡眠をとらないとやばい。這うようにして進む帰り道、横断歩道を渡っている途中で、信号を無視して突っ込んできた自動車に跳ねられた。そこまでは憶えている。おそらくあの時、異世界転生したのだ。
記憶によれば今のわたしは子爵令嬢アンスラシア・フォーケン。年齢は10歳。
髪は茶色。瞳は薄い茶。顔の作りは悪くないが、人目を引くような際立った良さはない。ちょっと地味な貴族令嬢という感じだ。
そして今いるここは、『春風の乙女は学園で華麗に舞う』の世界だ。
『春風の乙女は学園で華麗に舞う』は、中世ヨーロッパ風の世界にある貴族の学園が舞台の恋愛小説だ。平民の少女フェルオーネはその才覚を見出されて入学する。そこで出会った様々な貴族子息のイケメンたちといくつもの恋愛を繰り広げるという大長編の小説だ。
どうして恋愛小説の世界に居ると確信できたかと言えば、まずは自分の住んでいる王国の名前だ。小説の舞台と同じルオマネス王国だったのだ。
加えて、作中の登場人物の家は実在する。作中のヒーローはみんな高位貴族だ。幼い頃から子爵家の令嬢として有力な貴族の家の名は憶えさせられていたから、すぐにわかった。
後日念のため、各家の情報を調べてみた。ちゃんとヒーローたちと同じ名前の貴族子息がいることを確認できた。一人二人ならともかく、全員存在するとなると偶然では片付けられない。まず間違いなく、恋愛小説『春風の乙女は学園で華麗に舞う』の世界に転生したのだ。
しかし困ったことに、わたしの転生先である子爵令嬢アンスラシア・フォーケンの名前は、前世の記憶のどこにもない。調べた結果から、どうやらヒロインと同時期に入学することになるらしい。つまりわたしは、恋愛小説における名もなきモブということになる。
ありふれた保険営業だったわたしが恋愛小説のモブキャラに転生。
神様はいったい何を考えているのだろうか。
冒険ものの異世界転生の場合は、転生の女神とかが事情を説明してくれたりするものだ。しかし、乙女ゲームや恋愛小説の世界で「転生したことに気づく」系はそういうチュートリアルが無いことが多い。困ったことに今回はそのパターンのようだ。
例えば破滅確定の悪役令嬢に転生したなら目的は明確だ。生き残るためにあらゆる手を尽くすことになる。だがモブらしきわたしにはそうした切羽詰まった理由がない。
なら、悪役令嬢を救うというパターンだろうか。
『春風の乙女は学園で華麗に舞う』にも悪役令嬢は存在する。
入学以来、ヒロインのフェルオーネは悪役令嬢ハイミネディアからことあるごとに厳しく叱責されていた。また、悪役令嬢の取り巻きがヒロインに対して嫌がらせをしていた。
物語終盤で悪役令嬢ハイミネディア・オノラブルは婚約破棄され破滅することになる。様々なイケメンと恋愛してきたヒロインが最後に結ばれるのが、この悪役令嬢ハイミネディアの婚約者なのである。
そんな典型的な悪役令嬢だが、主人公を叱るシーンは妙にかっこよくて人気があった。その人気のためかスピンアウト小説で発売された。そこで悪役令嬢ハイミネディアは実は善良だったことが明かされた。
「悪役令嬢を後付けで善良にするな」「キャラ人気で調子に乗ってスピンアウトで設定を盛るな」「ガワだけ悪役令嬢で善人設定とかもうお腹いっぱい」――そんな心無い感想を述べる読者もいた。
だがわたしに言わせれば、それは理解が浅いと言わざるを得ない。本編を読み返せばセリフの端々、行動のひとつひとつに彼女の気高さが感じられる。取り巻きがヒロインに嫌がらせはするものの、ハイミネディア自身が直接指示したり、自ら手を下すことはない。ヒロインのフェルオーネに対しては、常に自分の言葉で貴族の学園に通う者の心得を厳しく教えているのだ。それは身の程知らずの平民を蔑むのではなく、同じ学園に通う生徒として扱っているということだ。
ハイミネディアが婚約破棄を受け入れたのは、責任を取るためだ。彼女は弁明すらせず婚約破棄を受け入れた。そんな彼女の気高い姿には感動させられたものだ。
しかしその結末は悲しいものだ。悪役令嬢ハイミネディアは婚約破棄されたことから僻地に送られてしまう。そこで不幸な事故に遭い、若くしてその命を散らすことになるのだ。
悪役令嬢ハイミネディアの悲しい結末も含めて素晴らしい作品だと思う。ファンとして、その完成度については文句はない。
でも、彼女が悪人でなかったのなら、救済ルートがあってもよかったのではないか……そんなふうに考えてしまうのも事実だった。
せっかく転生したのだから、悪役令嬢を救おうとする……そういうのは転生物の小説ではよくある展開だ。だがしかし、子爵令嬢アンスラシアの立場を考えると困難と言わざるを得ない。
わたしの家、フォーケン子爵家はぱっとしない貴族だ。「春風の乙女は学園で華麗に舞う」のメインキャラの大半は伯爵子息や侯爵子息などの上位貴族のご子息たちなのだ。迂闊に手は出せない。
封建制度のこの王国において身分差は絶対だ。上位貴族には意見するのは容易なことではない。まだ10歳のアンスラシアだが、上位貴族に逆らってはいけないと物心ついたころから厳しくしつけられてきた。
平民なのに何人もの上位貴族と恋愛を繰り広げるヒロインがおかしいのだ。転生前、ただの読者だった頃は、これだけ可愛くて人当たりが良くて頭のいいヒロインなら貴族子息たちがメロメロになるのも当然だと思っていた。しかし貴族令嬢の身になって考えるとその異常性に震える。ヒロインのメンタルはどうなってるんだ。
二度目の人生なんだから思い切ったことをしよう、などとは思えない。今、生きているという実感がある。上位貴族に逆らって生活を失うなんて想像しただけで背筋が寒くなる。ただの保険の営業だった自分にそんな大それたことができると思えない。
婚約破棄を阻止するだけなら、そもそもヒロインを学園に入学させない、という手もある。
ヒロインの才能を見出したのは街の学校の教師だ。それが誰であるかは、小説を読んで知っている。子爵家の地位と財産を使って教師を抱き込むのはそう難しいことではないだろう。
だがこれも確実ではない。小説の世界では『物語の強制力』が働くと聞いたことがある。少々邪魔したところでヒロインは結局入学してしまうかもしれない。
それに仮に成功したとして、ヒロインが入学しないと物語がどう変わってしまうのか予想できない。ヒロインとの交流で丸くなった上位貴族は少なくない。彼女の不在がより大きな悲劇を招く可能性も考えられる。ついでに言えば、ファンとして物語の全てを壊すことにも抵抗があった。
やっぱり余計なことはしない方がいいのかもしれない。このまま学園に入学すれば、恋愛小説『春風の乙女は学園で可憐に舞う』をモブ役として存分に楽しむことができる。大好きな小説のキャラを実際に目にして、同じ場所で同じ空気を吸って、名場面の数々をこの目で見ることができる。それは想像するだけで心躍る楽しいことだ。
でも、不幸になるとわかっている人をなにもせずに見逃すのは、やはり後ろ髪を引かれるものがあった。
ベッドの中で考えを整理し、すっかり気分を回復した。そして子爵家の書庫にこもってこの世界を知ることに努めた。アンスラシアは貴族令嬢だけあってきちんとした教育を受けていたが、それでも所詮、10歳の子供が理解できる範囲だ。『春風の乙女は学園で可憐に舞う』のファンとしては知りたいことがまだまだたくさんあった。
調べるうちに気づいたことは、文化レベルのアンバランスさだ。社会制度や建物の様式などはおおむむね中世ヨーロッパに近い。だが料理のレベルや上下水道の充実ぶり、衛生の観念は現代の日本にかなり近い。例えば実際の中世では風呂に入る習慣があまりなかったと聞くが、この世界では貴族なら毎日入浴するのが当たり前だ。
ちょっとおかしな気もする。だがそもそも『春風の乙女は学園で可憐に舞う』は現代日本の読者向けに書かれた小説だ。現代日本とかけ離れた文化だったら感情移入が妨げられてしまう。意図的にこういう世界観になっているのだろう。
突き詰めれば矛盾点もあるかもしれない。でも魔法が技術の基盤にあるのだから、細かな差異はそれで説明がついてしまう。気にしても無駄だろう。
そうしてこの世界の在り方についてあれこれ調べていくうちに気づいた。
この世界にはどうやら、保険会社というものが存在しないようだ。
これは元保険会社の営業としては見逃せないことだった。
保険に代わるものはある。王国においては冒険者ギルドや商会ギルドなど、各種ギルドがいくつもある。ギルドに所属する者がケガや病気になったとき、あるいは死亡した時。所属者のランクに応じた補償が受けられる。王国の騎士や文官の場合は、王国が補償を担う。
前世の世界でも保険会社ができるまではこんな感じだったらしい。この世界では各ギルドの規模が大きい。ギルドが手広くやっているおかげで、独立した保険が立ち上がる状態にはならないようだ。
そのとき、ふと思った。この王国で保険営業をやれば、きっと楽だろう。だって競合他社がいないのである。いや、そもそも保険会社自体が無いのだから、営業もなにもないのだろうけど。
そこで凄いことに気づいてしまった。
保険会社が存在しない。つまり、保険会社を立ち上げることができれば、絶対的なシェアを取れる。
だって保険は必要なものだ。どんな健康な人であろうと怪我をすることはあるし、老いれば働けなくなる。そんな時に備えてみんな月々保険金を払うのだ。保険とは日々を安心して過ごすための命綱であり、未来への投資だ。時代や文明を問わず高い価値を持つ事業だ。だから転生前の世界では、およそあらゆる国に無数の保険会社があり、各社は独自の保険プランを打ち出してシェアを争っているのだ。
今のわたしには貴族という立場がある。学園でうまく人脈を築けば保険事業を立ち上げることができるかもしれない。経営の経験がないから作るのは大変だろう。だが保険の営業としての経験はなかなかのものだ。相手の年収や家族構成、ライフステージに合わせたきめ細かな提案をしてきた。その経験をうまく活用すれば、この世界の人間では容易に真似できない質の高い保険プランを提供できるはずだ。
もし保険事業をうまく始めることができれば大儲けできるに違いない。
学園にいる間は大好きな恋愛小説の世界を楽しめる。卒業したら保険事業の立ち上げというやりがいのある仕事がある。なんて素晴らしい人生だろう。神様は前世で頑張ったご褒美としてこの世界に転生させてくれたのかもしれない。
わたしはこの世界で、保険を始めてみせる!
そう心に決めた瞬間、閃いた。
保険に入っていれば救える命がある。生命保険に入っていれば、高額な治療費を補い、それで助かる命もある。
婚約破棄された僻地に送られた悪役令嬢ハイミネディアは何の補償も受けられなかった。
でももし、婚約破棄に対応した保険に入っていれば……彼女はもう少し幸せに暮らせる道を選べたかもしれない。
そこまで思い至った瞬間、口から叫びが迸った。
「これだああああああ!」
大声に仰天した使用人たちがやって来たが、それでも興奮は収まらなかった。
ようやくこの世界にやって来た理由が分かった。
保険事業を始めて悪役令嬢ハイミネディアを救う。それがわたしの使命に違いない。神様は本当は別なことを考えていたのかもしれないけど気にしない。わたしがそうすると決めたのだ。
保険事業を立ち上げると決めた日から勉学に励んだ。
学園卒業後に保険事業を立ち上げるのでは間に合わない。それでは悪役令嬢ハイミネディアを救えない。在学中に保険事業の下地作りを行い、仮運用くらいはできないと話にならない。そのためには勉強だ。
家の資産を使って新事業を立ち上げる、ということも考えた。だがこれは難しい。まず両親を説得するのが大変だ。仮に説得に成功したとしても、経営経験のないわたしでは満足に運用できないだろう。
悪役令嬢ハイミネディアを救うためには、多くの上位貴族の通う学園内部に干渉しなくてはならない。立ち上げたばかりでろくに実績のない事業ではまず不可能だろう。
ならば学園内での生徒の活動として、保険事業を作り出す。部活のノリで保険事業のまねごとをやるのだ。生徒の活動なのだから、同じ生徒である悪役令嬢ハイミネディアに干渉することもできるはずだ。
しかし子爵令嬢であるわたしが動かせる人間など高が知れている。悪役令嬢ハイミネディアを救うなら、上位貴族の協力が不可欠だ
学園で足りない爵位を補うのは学力だ。成績優秀者の言うことなら高位貴族も少しは耳を傾けてくれるはずだ。
そして15歳になって入学試験を受け、成績100位で学園に入学することができた。努力したわりにはイマイチな順位な気もするが、これでも子爵令嬢の中ではトップの成績なのだ。
この中世ヨーロッパベースのルオマネス王国では、身分による教育格差がある。
ルオマネス王国には義務教育と言う制度はない。平民は文字の読み書きを学ぶことすら難しい。王国が運営しているのは貴族向けの学園だけだ。平民向けの学校は各街が自主的に作るもので、その質もまちまちだ。
これは王国の社会制度が封建主義だからだ。王国は平民が知識をつけることをあまり歓迎しない。なぜなら、知識をつけた圧倒的多数の平民が革命を起こせば、王制が崩壊しかねないからだ。
そんな王国だから、高度な教育を受けられるのは原則的には貴族に限られる。その貴族にしても爵位によって受けられる教育に差がある。優秀な教師は高位貴族に仕えて高給を取るものなのだ。子爵令嬢がどれだけ頑張ろうと、より高度な教育を受けている上位貴族を上回るのは難しい。
それでも子爵令嬢としては優秀な成績で入学できた。これからのことを考えるとこの成果は小さなものではない。
そうして迎えた入学式。
学園長からの祝辞のあと、新入生代表である第二王子が壇上に上がって挨拶をした。続いて成績トップで入学した生徒が紹介された。悪役令嬢ハイミネディア・オノラブルだ。
「この良き日に祝福を。みなさん、お互いを高め合っていきましょう」
長い金の髪はまるで絹のように滑らか。やや吊り目がちな凛とした青い瞳。その凛とした姿は、大勢の貴族たちを前にしてまるで物怖じすることもない。
その佇まい、まさに貴族令嬢の鑑と言ったところだ。見ているだけでこちらまで身が引き締まる思いがした。
続いて紹介されたのは、今年度唯一の平民の入学生。『春風の乙女は学園で可憐に舞う』のメインヒロイン、フェルオーネだ。ちなみにルオマネス王国では平民に家名はない。
「フェルオーネといいます! 貴族の学園に入れることになりました! 仲良くしてもらえると嬉しいです!」
きらめくピンクブロンドの髪に薄紅色の大粒の瞳。可憐でかわいらしい少女だった。ピンクブロンドの髪なんて前世の感覚としては奇抜に思える。だが彼女の場合は透明感があって、光に溶けるように美しい。まるでおとぎ話の妖精のようだ。
実際に見るその姿は、前世で見たどの表紙イラストより眩いも魅力を放っていた。
期待に輝く瞳はこれから始まる学園生活に対する不安は見えない。澄んだ瞳はあまりに無垢で、見つめられたら浄化されてしまいそうだ。
これだけの貴族たちの視線を集めながら緊張する様子すらない。快活で可憐な彼女の在り方は、美形の多い貴族の中でも色あせない。誰がいようと中心にいられる。さすがはメインヒロインと思わせる存在感だった。
貴族を前にまるで物怖じしないメンタルは驚くべきものだけど、それ以上に凄いのは学力だ。
彼女は王都内の平民向けの学校でその才覚を見いだされ、学園に入学することになった。平民は貴族ほど高度な教育を受けることができないのに、この学園への入学を果たしたのだ。
それだけでも驚きだが、まだ先がある。小説通りに話が進むなら、フェルオーネは入学後、学年首位を争うようになるのだ。優秀と言う言葉だけでは片付けられない。まさに世界に選ばれた才媛という感じだ。
改めて、物語のヒロインとは特別な存在なのだと実感させられる。
演台で挨拶するフェルオーネの後ろでは、悪役令嬢ハイミネディアが厳しい目つきで彼女の様子をじっと見ている。生徒たちからは平民が壇上にいるのを不快に思っているように見えることだろう。
だがスピンアウト小説を読んだから知っている。あれは平民であるフェルオーネがミスをしないか心配しているのだ。何か問題があればフォローするために、彼女の行動を注視しているのだ。
取り巻きたちは、悪役令嬢ハイミネディアのそんな想いなど知らないまま、勝手な思い込みでフェルオーネに嫌がらせをするようになる。
取り巻きをどうにかすれば悪役令嬢ハイミネディアの破滅を避けられそうにも思える。でも、これまで貴族令嬢をやってきた経験で言えば、そう単純なものではない。
悪役令嬢ハイミネディアがヒロインを叱責する。取り巻きが嫌がらせをする。だから他の貴族はヒロインにあまり手を出そうとしない。この状態を崩すとどう状況が動くかわからない。
実際、辺りを見回せば、壇上に立つフェルオーネの姿を不愉快そうに見つめる令嬢や子息もちらほら見られる。下手に刺激しない方がよさそうだ。
やはり保険でハイミネディアを救うという方針がいい。そう決意を新たにした。
学園に入学して落ち着いたころ、お茶会を開いた。
招いたのは同派閥の子爵令嬢や男爵令嬢を集めた。一言でまとめると、わたしの立場であっても言うことを聞いてくれる生徒たちだ。
「みなさま、ご参加いただきありがとうございます」
貴族令嬢らしく上品に参加者を迎える。前世はただの保険営業だったわたしも、学園入学に向けて礼儀作法の勉強はしっかりやってきた。こうした場でも自然に振舞える。郷に入れば郷に従え。お客様に合わせて柔軟に対応できなければ営業なんてやってられないのだ。
しばらくは普通の歓談をして場の空気を和やかなものにするよう努めた。そして頃合いを見て本題を切り出した。
「みなさんとこうしてお話する機会が得られてとてもうれしいです。お茶会はこれからも続けていきたいと思っています。それで、提案があるのです。お互いの領地の情報を共有し、助け合う方法を語り合うというのはどうでしょうか?」
「助け合う方法とはどんなことなのですか?」
「天候による農産物の不作。台風や地震。魔物の出没。予測のできない難事がわたしたちの領地に襲い掛かることがあります。そこで予め、その対策を考えておくのです」
「対策って……そんな避けようのない脅威にどうやって対策するのですか?」
「貴族同士で協力して立ち向かうのです。例えば綿花の生産に打撃を受けたら、綿花の生産に優れた領地を持つ貴族に融通してもらう。河川の氾濫が起きたら、労働力に優れた領地を持つ貴族に支援を申し出る……そうした対策を予め整えておけば、不意の災害にも対応できると思いませんか?」
「まあ、なんてすばらしいお考えでしょう!」
「その話、とても興味がありますわ!」
わたしの提案はお茶会で肯定的に受け取られた。
それは当然の結果だった。実は、質問も賛同の声も全て台本通りだったりする。わたしの子爵家と関係が深い令嬢に予めお願いしておいたのだ。
この学園で保険事業を立ち上げる方法については熟慮を重ねた。
いきなり保険を始めるからお金を預けてくれ、などと言っても誰も従わないだろう。大貴族が本気で取り組むならいけるかもしれないが、ぱっとしない子爵令嬢のわたしではまず無理だ。
あるいはその有用性を理解できる優秀な者もいるかもしれない。でもそこまで見識のある人間なら、事業のアイディアを拝借して自分の領地で勝手に始めてしまうことも有り得る。
そこでまず下地作りをすることにした。まずは相互補助を提案し、有意義なお茶会にする。それで少しずつ耳目を集めるのだ。
こうしたお茶会を週2回くらいの頻度で繰り返した。お茶会は学食やテラスなど、人目のあるところで開いた。そうすると興味が引かれ、参加を申し出る者が出てきた。
現時点で、この貴族同士の助け合いに実効性はない。ただ自分の領地の得意なところを申し出て、災害に対してこんな支援ができる、と言い合うだけだ。でもこれが楽しいものなのだ。同級生相手に領地自慢する機会なんてなかなか無い。自分の領地の優れているところを大勢の前で話すというのは、貴族の自尊心をくすぐる楽しいことなのだ。
お茶会で挙げられた各家の得意分野を資料にまとめ、毎回配った。こういうのは得意だ。興味を引いて分かりやすい提案資料を作るのは、営業にとって必須技能なのだ。
そうやって情報をまとめていくと、今まで見えてこなかったこの王国の状況が見えてくる。貴族は自分の領地の経営を第一とする。他の有力貴族の動向の把握や近隣の貴族の経済状況には目を光らせるのがせいぜいだ。だが国全体がどうなっているか本当の意味でつかめている貴族は少ない。国家の運営にかかわる王族や大貴族ならそうした視点を持っているだろうが、そうした貴族は限られる。
情報の集積によって見えないものが見えるようになる。それは学習意欲が盛んな学園の生徒たちにとって大変意義のあるものであり、どんどん人が集まるようになった。
お茶会はだいぶ規模が大きくなった。食堂やテラスでは迷惑になるので、今では教師に申請して空き教室を借りてやるようになった。お茶会と言うよりちょっとした講義みたいな様相となってきた。
もはやお茶会とは呼べない規模になったので、この会合を『青い鳥を育てる会』と名付けた。この王国にも、探し求めたしあわせの青い鳥は実はすぐ近くにいた、という寓話がある。大切に育てた青い鳥が、不幸に見舞われた時に助けてくれる……そんなイメージでつけた名前だ。
規模を拡大した『青い鳥を育てる会』では活発に意見が飛び交うようになった。
そして、遂に待ち望んでいた意見が出るようになってきた。
「私の領地の小麦の生産量では、王国南部が不作に見舞われたときに負担が大きすぎる」
「王国の東部に台風が直撃した場合、おそらく我が領地でも支援する余裕がなくなる」
「銀鉱山はそもそも希少だ。もし大規模な落盤があった場合、他の領地からの支援だけではどうにもならない」
それは当然起こり得る問題だった。どんないい領地を持った貴族だろうと、対応できることには限界がある。相互補助と言えば聞こえがいいが、こんな物々交換みたいなやり方では公平な分配なんてなかなかできるわけがない。
物々交換では細かな調整ができないから、人は貨幣制度という仕組みを生み出した。助け合いをより効率よく行うためには、新たな仕組みが必要なのだ。
みんながその必要性を意識し始めたところで、満を持して提案した。
「みなさんもお気づきのように、家同士の助け合いだけでは限界があるようです。そこでわたしに提案があります。この取り組みに参加する家からは、毎月一定額の資金を納めてもらうようにするのです。そうしてたまった資金で災害や事故に遭った家に援助をするのです。険しいことに備え、資金を用意して家を保つ……この仕組みを、『保険』と名付けたいと思います!」
そう宣言すると、教室内の生徒たちはどよめいた。
当然だろう。この世界にはまだ存在しない概念だ。しかし、前世において多くの国で無数の会社が運用する、実績のある優れた仕組みなのだ。高度な教育を受け、これまでの会合を経た貴族たちが、その価値をわからないわけがない。
気分が高揚する。自分が特別な人間になったような気がする。これがいわゆる現代知識無双と言うやつなのか。異世界転生者がマヨネーズを作りたがる気持ちを少しわかった気がした。
同時に気恥ずかしさを覚える。偉大な先人たちが築き上げた仕組みを自分の思いつきみたいに言うのはなんだかちょっと後ろめたいものがあった。
まず家同士の助け合いで窮地をしのぐ方法を提案する。それで周囲の関心を集める。そしてその議論が行き詰ったところで保険という優れた仕組みを提案する。
それがこの学園で保険事業を成立させるプランだった。
うまく事が運んでホッとした。
だが気を抜いている暇はない。提案に対して、生徒たちから次々と疑問の声が上がってきたのだ。
「集めた資金で足りない場合もあるのではないか?」
「資金の融資には予め限度額を儲けます。保険料が多ければ多いほど融資の額は大きく、少なければ小さくなるようにしておくのです」
「事故や災害を偽装して、保険金を騙し取る者がいるのではないでしょうか?」
「そのために専門の調査機関を設ければいいでしょう。虚偽の申告で支援を受けようとした家には重いペナルティを課すことにします」
「複数の家が災害に巻き込まれたら、資金が足りなくなることもあるのではないか?」
「その時に備えて資金を活用して商売を行います。ただ貯めるだけではなく、増やしておくのです」
「それでは資金を管理する者が自分の懐に入れてしまうのではないか?」
「そうならないよう、保険に加盟した者には資産の運用情報を定期的に報告するようにすればいいでしょう」
次々と挙がる質問に対し、よどみなく答えていく。前世が保険営業のわたしにとって、この程度の質問に答えるのは造作もない。
返答する度に、感嘆の息が聞こえる。だんだん気分が良くなってきた。顔がにやけないように、おしりをつねって平静を装う。ここで調子に乗って尊大な態度となっては反感を買ってしまうことだろう。そうなったらこれまでの苦労が台無しだ。
それに、時折冷汗をかかされた。この世界において保険と言う概念はこの場で初めて示されたはずのものだ。それなのに、質問のいくつかはかなり本質を突いている。
ここは貴族の通う学園。次代を担う俊英が集う場所だ。知識のアドバンテージがあるからと言って油断すれば足元を掬われかねない。
こうして『青い鳥を育てる会』は貴族の助け合いを語り合う場から、保険の在り方について討論する場になった。これはわたしにとっても有用なものだった。現代日本における保険の知識はあるが、そのままこの王国に適用して上手くいくとは限らない。王国の様々な事情を熟知する貴族たちの意見はとても参考になった。
そうして議論が熟した段階で、提案した。
「保険は王国を支えるために極めて価値のある将来性のある事業だと思います。わたしは学園を卒業したら、この事業に取り組みたいと考えています。そのために、学園にいる間に実証実験を行いたいのです」
「実証実験?」
「保険が実際にうまく運用できるか試したいのです。でも、学生の身で学園の生徒からお金を集めるわけにもいきません。そこで少し話を戻すことになりますが、まず手始めに学生間の助け合いをしたいのです。保険の取り組みに賛同する生徒がケガや病気になってしまったりした時、他の学生が便宜を図るのです」
「便宜を図ると言うのは、具体的にどういうことをするんですか?」
「例えば病気で休んだ生徒にノートを貸したり、大きなケガなら優秀な医師を抱える家が紹介したりするのです。個人間でできるようなささいなことを、組織的に行う。それで保険がどれほど有用なものなのか確かめるのです。将来、保険事業を始めるために、ぜひ試してみたいのです。どうかみなさん、ご協力いただけないでしょうか?」
質問に応えつつ、説明を進めていく。これまでの会合で、既に参加者からはかなりの信頼を得ていた。わたしの提案は満場の拍手をもって賛同された。
よし、これで下地はできた。これからみんなと相談して、困っている生徒を協力して救済する方法を決めていく。もちろん保険の対象には婚約破棄を含めるつもりだ。そうすれば、悪役令嬢ハイミネディアを救うことができるのだ。
貴族の助け合いだけでは婚約破棄された令嬢を救うには力が足らなかった。それに、将来保険事業を立ち上げる土台をつくる必要もあった。そのためにここまで段階を踏んで計画を進めてきたのだ。
みんなの賛成の声を聴いていると、すごく幸せに気持ちになった。
悪役令嬢ハイミネディアを救う手立てができたということだけじゃない。学園の生徒たちが保険というものを受け入れてくれたことが嬉しかった。
不幸な人を救いたいという気持ちは誰にでもある。でも行うのは難しい。だが保険という仕組みなら、加入者を救うことができる。
前世では仕事に疲れ切っていた。もう辞めたいと思ったこともあった。でもこうして保険と言うものを見つめ直して分かった。わたしは保険という仕組みが、どうやら好きなようなのだ。
学園内の保険事業を作る最中、『春風の乙女は学園で可憐に舞う』のメインストーリーは問題なく進行しているようだった。可能な限り、物語の節目となる重要なイベントは見に行った。
小説で想像した場面を実際に見られるのは感動した。小説の場面は何度も読み返し、頭の中にイメージは出来上がっている。でもやっぱり、生で見るのは臨場感がまるで違った。胸に迫る迫力は想像を超えていた。
すごく楽しい。でも同時に、すごく恐ろしいものでもあった。
ヒロインであるフェルオーネは、連載が長期化したことによって何人もの貴族子息と恋愛を繰り広げることになった。そんなに男をとっかえひっかえしていたら周囲の人間の反感を買いそうなものだが、恋愛事情に関して彼女を非難する声は少なかった。平民を蔑視する生徒は相変わらずいたが、多くの生徒は彼女に好感を持っているようで、その評判は悪くない。
フェルオーネは可憐でかわいらしい。いつもひたむきで一生懸命で、誰にでも親身になる優しさを持っていた。ついでに学業優秀で高い魔力を持ち魔法の扱いもうまい。身分も性別も関係なく、人を惹きつけてやまないカリスマを持っていた。まったくもって、ヒロインにもほどがある。
そしてフェルオーネはタフだった。小説を読みながら、一日に起きるイベントが多すぎるとよく思っていた。だが彼女はそれをこなした。全部見ることはできなかったが、それでも各イベントをきちんとこなしていることは噂で確認できた。
そんな忙しい恋愛をこなしながら、フェルオーネは学業において優秀な成績を保ち友達付き合いもおろそかにしない。
なんか凄すぎて怖い。小説を読んでいた時は感情移入していたが、いざ同じ学園に通ってみると畏れ多いとすら思ってしまう。
わたしのような凡人は、遠く離れて眺める方がよさそうだ。そんな思いを新たにしてしまった。
『青い鳥を育てる会』の実証実験の具体的な方法も定まった頃。王国第二王子イラスティート殿下から招待状が届いた。放課後、学園内の会議室に来るようにとのことだった。
王子が子爵令嬢を個人的にわざわざ呼びつけるなどただごとではない。普通なら顔を青くしていたことだろう。だがわたしは落ち着いていた。この事態をずっと前から予想していたのだ。
放課後になり指示された会議室に行くと、イラスティート王子とお付きの騎士が待っていた。
親睦を深めようと令嬢を呼び出した、といった雰囲気ではない。空気が張りつめている。
促されるままに席に着くと、改めて気を引き締めた。
挨拶を交わし合うと、イラスティート王子は話題を切り出した。
「君が『青い鳥を育てる会』と称する勉強会を開催していることは知っている。そこでは『保険』という事業について語り合っているそうだな。なかなか優れた事業だと思う。君は優秀な令嬢だな」
「恐縮です」
微笑みと共に賛辞を告げられた。恭しく頭を上げる。
頭を上げると、イラスティート王子はこちらに険しい目を向けていた。
「しかし、王家の者としてはあまり歓迎ばかりもしていられない。君のしていることは派閥を越えて貴族の家を束ねることだ。それがどれほど危険なことかわかっているのか?」
それは予想されたことだった。
保険事業の立ち上げにはできるだけ多くの家に加入してもらう必要がある。有力な貴族を集めるということは、勢力を作ることにもつながる。規模によっては国家を転覆する契機にもなりかねない。その兆候を王族が見逃すはずもなかった。
王族の干渉は予想できていた。だからそのための回答は用意してある。
「はい。ですので、ある程度形になった時点で、保険事業の運営権を王家にお渡しようと思っています」
イラスティート王子の眉が跳ね上がる。
「王家に事業を明け渡す……その意味がわかっているのか? 保険事業はおそらく大きな利益を生み出すだろう。そのほとんどを、王家が得ることになるのだぞ」
保険事業を明け渡せば、わたしの手に残るのはいくつかの権利のみ。その利益の大半は王族のものとなる。封建主義の国家で、王家に事業を渡すというのはそういうことだ。
この世界で保険事業を始めることを思いついたときは、大金持ちになることを夢見た。しかし大規模にやるのなら王家の介入は避けられない。
「もちろん承知しています」
「無欲なことだな。だが、それなら君はなんのために保険という仕組みを提案したのだ? 家の利益のために力を尽くすのが貴族の責務というものだろう?」
「もとより勉強会と言う形式で意見を募ったのです。情報の拡散は防げません。わたしの身分では上位貴族がこの案を拝借して先行して事業を始めることを止められないでしょう。初めから利益の独占など考えてはいないのです」
イラスティート王子がううむと唸る。彼もそのことは疑問に感じていたのだろう。
確かに保険事業で自分だけが利益を得るつもりなら、『青い鳥を育てる会』を作る必要はなかった。思いついた時点で両親に相談し、子爵家の新事業として始めればいい。小規模な開始になるだろうが、それでも利益は得られるだろう。将来的な成長も見込める。
だが、それではダメなのだ。学生の間に保険を成立させなければ悪役令嬢ハイミネディアを救うことはできない。
さすがにその事情までは話せないが、王子の許可を得る言葉は用意してあった。
「保険事業は今は貴族のみを対象としています。ですがこの仕組みは、平民にこそ意味があるのです。不幸に見舞われても、保険によって生活を立て直すことができるかもしれません。平民は日々を安らかに過ごせるようになるでしょう。荷物の喪失を保険で補うことができれば、商人たちはより活発に商売するようになるでしょう。全ての民の安全を保障し、発展を促せば、王国は大きな富を得ることになります。なにより、税収とは別に保険金と言う収入が増えることになります。王国がより栄える契機となるでしょう。それはひとつの事業の成功より大きな利益を我が子爵家にもたらすことになります。わたしはそのために保険事業を学内で啓蒙したのです」
こう言えば王子は落ちるはずだった。彼のことは小説で良く知っているのだ。
第二王子イラスティート・ルオネマス。恋愛小説『春風の乙女は学園で可憐に舞う』で、ヒロインであるフェルオーネが最初に恋する相手である。
イラスティート王子は王族としての地位を重荷に感じていた。王族の決断一つで何万という平民の未来を左右するという自らの立場を恐れていた。
そんな時、フェルオーネと出会った。平民でありながら有能で、可憐に見えて芯の強い彼女のことを知ることで、民は庇護されるだけの存在ではなく、自分の足で進める同じ人間なのだと知る。フェルオーネは、民を深く愛するイラスティート王子に好意を抱く。そうしてお互いに惹かれあうようになるのだ。
連載当初はイラスティート王子がヒロインと結ばれる予定だったらしい。だが人気が出て連載が長期化して他のヒーローが次々と現れた結果、イラスティート王子は恋の相手からは脱落してしまう。そんな彼を好むファンは多い。
とにかく、彼は平民のことを大切に考える王子なのだ。平民を引き合いに出せば受け入れてくれるはずだった。
「実に立派な考えだ。だが、それは建前なのだろう?」
その指摘にどきりとした。
そうだ。イラスティート王子は洞察力に優れている。その優れた眼力で平民たちに目が届くからこそ、王族の負うべき重圧に苦しんでいた。そして平民であるヒロイン、フェルオーネの本質を、偏見に囚われず正しく見出したのだ。
そんな彼に、わたしの言い訳は見透かされてしまった。
「君が本当に望んでいることは何なんだ? それを話してもらわなくては君のことを信頼できない。この学園で信頼に値しない者が多くの貴族の注目を集めることは、決して看過できない」
イラスティート王子の鋭い視線が刺さる。小手先の言い訳は通用しないだろう。だからと言って悪役令嬢ハイミネディアを救うためと明かして信じてもらえるとも思えない。
彼は、わたしが本当に望んでいることを聞きたいと言っているのだ。
保険でお金を稼ぎたいと思った。でもそれは、王家に事業を渡すことで、意義が薄くなってしまった。
悪役令嬢ハイミネディアを救いたいと思っている。でもそれを話すわけにはいかない。
そもそも彼女を救うだけなら、保険事業を立ち上げなくてもいい。
現時点で生徒間の相互補助の体制はできている。それをうまく活用すれば、おそらく目的は果たせるだろう。実際に保険事業の立ち上げまでする必要はない。
この場をやり過ごすだけなら、「学生研究としてやっているだけで本当は事業を立ち上げることまで考えていません」と答えればいい。それでイラスティート王子は矛を収めてくれるだろう。勉強会の参加者には嘘を言ったことになるが、学生の計画した事業が設立に至らないのはむしろ普通のことだ。
だがそれは、保険事業を諦めるということだ。そんなことはしたくない。保険事業を立ち上げたいと思っている。この世界で保険の営業として働くことを夢見ている。その未来を失いたくないと強く思う。
前世で保険営業をしていた。比較的安定していて、女性でも長く続けられて、働き方の自由度が高いと聞いて選んだだけの仕事だった。
楽な仕事ではなかった。お客様の年収や家族構成をチェックしながら提案資料を作るのは大変だった。そうして苦労して作った提案資料がろくに目を通してもらえないこともよくあった。こちらの話を聞いてくれず無茶な要求ばかりしてくるお客様を相手するのも珍しいことじゃなかった。
車の事故に遭ったのは運の悪さだけじゃない。仕事に疲れ切っていたからだ。
でも、苦しいだけじゃなかった。
苦労して契約を結んだときは達成感があった。気の合うお客様と話すのは楽しかった。お客様の将来を考えてプランを練るのはやりがいがあった。
そして、この世界に来て保険事業を立ち上げようとした。学園の生徒たちと意見を交わして、改めて保険について見つめ直した。この世界に必要だと思った。意義のある事業だと改めて理解した。
わたしは、保険営業をやりたいのだ。
そのこと自覚した時、自然と言葉がこぼれだした。
「……保険事業は、わたしにとって必要な事業なんです」
「さきほどまで、王国のためだと言っていなかったか?」
「ええ、もちろん王国の発展に寄与する有用な事業だと思っています。でも、わたしが保険事業をやりたい本当の理由は違うんです。自分の人生を愛するためには、人に誇れる何かが必要です。わたしにとってそれが保険事業なんです。だからどうしてもやりたいのです。そのために、どうか力を貸してください」
精一杯の想いを込めて、王子に想いを伝えた。
彼の目をじっと見る。ここで目をそらすようでは信頼なんて得られない。
相手は王族だ。ここが学園でなければ、こんな風に見つめ合うことも許されない貴い身分の人だ。
でもそんなのは関係ない。保険営業において、自分より格上の相手がお客様になることなんて珍しいことではない。
大事なのは、どんな思いを込めて、何を売るか。ただそれだけだ。
どれだけ時間が経っただろう。何時間にも思えるし、数分のことにも思えた。
だがそれも終わった。王子はふっと笑顔を見せたのだ。
「よろしい。君は信頼に値する人間のようだ。保険事業に取り組むことを認めよう」
よかった。受け入れてもらえた。心臓がドキドキしている。濡れた服が体に張り付く感触がする。どうやら気づかないうちに相当の量の汗をかいていたらしい。
安堵のあまり身体が崩れ落ちそうになる。だが、ダメだ。お客様の前で醜態をさらしては営業失格だ。
気合を入れて姿勢を正すと、王子は懐から何かを取り出した。
「君を認めた証として、これを貸し与えておく」
そう言って差し出されたのは王家の紋章が刻まれたブローチだった。その精緻な作りは一目で値打ち物とわかった。
「これは……?」
「王家の事業認可証だ。これを掲示して認可した事業の話をする限り、どんな大貴族も邪魔をしてはならず、その言葉に耳を傾けなければならないというものだ」
息を呑んだ。その恐るべき価値はわずかな説明だけで分かった。
王家が事業を認可したという証。これがあればどんな貴族とも対等に商売ができる。そのことで得られる利益は計り知れない。もしこの場に商人がいたら、家族を売ってでも手に入れようとしたに違いない。
「そ、そんなものを学生に渡してよいのですか!?」
ブローチに伸ばしかけていた手を思わず引っ込める。
イラスティート王子は微笑んだ。
「保険について耳にしたとき、将来有望な事業だと思った。それを主導する者の人となりを見て、問題が無ければこれを渡そうと思っていた。そして君は見事、合格したというわけだ。気にせず受け取るといい」
王族にそう言われて突き返すわけにもいかない。
わたしはおっかなびっくりブローチを手に取った。思ったよりずっしりと重さを感じた。いや、この重みはきっと、責任の重さというものなのだろう。
「だが心しておくがいい。君がそれをどんな使い方をしたかは、全て私に伝わってくる。もし権力をかさに無法な行いをすれば、認可証は返却してもらう。その時は事業も取り潰しだ」
「承知しました」
そう答え、ブローチをぎゅっと抱きしめた。すると思わず笑みがこぼれた。王族の前ではしたない。イラスティート王子も驚いたようにこちらを見つめている。
でも、笑顔になるのを我慢できない。嬉しくて涙が出そうだ。自分の大好きな仕事が認められることがこんなに嬉しいだなんて、今まで知らなかったのだ。
王家からの認可も受け、保険の勉強会は順調に進むかと思えた。
だが実証実験のための調整は、そう簡単に行くものではなかった。
王家の事業認可証は大事にしまっていた。むやみに使うわけにはいかない。これを使う時は、悪役令嬢ハイミネディアを救う時だけだと決めていた。それでも事業認可証を受け取ったことは噂として伝わったらしく、『青い鳥を育てる会』の参加者はより一層熱心に意見を交わすようになった。学生のうちに王家の認可した事業に携わるなど、滅多に経験できるものではないのだ。
学園の授業も手を抜けない。将来のために一番大切なのは保険の勉強会だが、それで学業を疎かにしては誰も話を聞いてくれなくなる。
それにヒロイン、フェルオーネの恋模様も逐一チェックしなくてはならなかった。これは原作ファンだからというだけではない。ちゃんとストーリーが原作通りに進んでいるか知らなくてはならなかったからである。ストーリーが変わったならば、こちらの対応も変える必要がある。
もしフェルオーネが伯爵子息ディーソルシオを恋人にしないことになったら、悪役令嬢ハイミネディアが婚約破棄される自体が無くなる。
だが残念ながら物語は原作小説通りに進んでいるようだった。『青い鳥を育てる会』の活動に影響を受けた様子もない。もしかしたら、『物語の強制力』みたいなものが働いているのかもしれない。
そして時間はあっという間に過ぎていた。
学園入学からおよそ一年半。秋に執り行われる夜会。悪役令嬢ハイミネディアは婚約破棄される日が近づいてきた
悪役令嬢ハイミネディアは保険に入っていない。
婚約破棄を盛り込んだ保険の仕組みを確立させるのに時間がかかったということもある。
だがそもそも、彼女を加入させる理由がなかった。悪役令嬢ハイミネディアは成績優秀にして礼儀作法も完璧な一級の令嬢なのだ。そんな令嬢相手に「婚約破棄されたときに備えて保険に入りませんか?」と誘ったところで断られるに決まっている。強引に勧めたりしたら誇りを傷つけられたと糾弾されることになるだろう。
それにどれだけ説得したところで、彼女は事前に保険に入ったりしない。スピンアウト小説を何度も読み返し、実際に同じ学園に通い彼女の姿と言動を見てきて、改めて確信した。
悪役令嬢ハイミネディアは全てを理解し、受け入れているのだ。
悪役令嬢ハイミネディアが、取り巻きに対し意地悪がエスカレートしないようそれとなくたしなめているのを何度か見かけた。彼女は取り巻きがフェルオーネに意地悪していることを把握し、制御しているのだ。
平民であるフェルオーネは貴族のやっかみの対象になる。放っておけば誰に何をされるかわからない。だが、ハイミネディアの取り巻きが動いているなら、それを無視して手を出す貴族はまずいない。
歪んだ方法ではあるが、フェルオーネを守っているのだ。
悪役令嬢ハイミネディアの婚約者、伯爵子息ディーソルシオは、貴族としての誇りを重視していた。そのため、平民でありながら貴族の学園に通うフェルオーネのことをよく思っていなかった。しかし、フェルオーネが嫌がらせをされる現場を見た時、彼は見過ごさなかった。彼にとって、平民とは貴族に守られるものだと知ったのだ。
そうしてフェルオーネと触れ合ううちに、その能力の高さと、素直で優しい心、ひたむきでまっすぐな姿勢に惹かれて恋に落ちるのだ。
フェルオーネへの意地悪は取り巻きが勝手にやったこと。彼女を守るためにあえて見過ごした……そう弁明すれば、あるいは婚約者の心を取り返せたかもしれない。
だが悪役令嬢ハイミネディアは婚約破棄を告げられても、取り巻きに罪を押しつけることすらせずに受け入れる。悪役令嬢ハイミネディアの家はそんな彼女を扱いかねて、僻地に追いやる。そして彼女は遠い地で不幸な事故に遭い、若くして命を落とすことになるのだ。
悪役令嬢ハイミネディアは常に正しく在ろうとしている。自分の幸せより正しさを優先している。
その正しさが婚約者を遠ざけたのを自覚しながら、それでもその姿勢を崩さない。
それは美しい在り方だ。美しいからこそ、悲しい生き方だ。
わたしはこれからその美しさをぶち壊しにする。酷い話だ。でも彼女を不幸なまま終わらせるよりは、ずっとマシだ。
そしてついに、運命を決する夜会の夜はやって来た。
夜会の会場の中央。一人孤高に立つのは悪役令嬢ハイミネディア。その前に立つのは二人。伯爵子息ディーソルシオと、彼に寄り添うフェルオーネ。
恋愛小説『春風の乙女は学園で可憐に舞う』で最高に盛り上がるシーンだ。
大ファンであるわたしが、それを壊してしまうことに忌避感を覚えなくもない。だが今さら退く気はなかった。
対峙する三人の間に無理矢理割り込んだ。
とがめようとするディーソルシオに対し、王家の事業認可証を見せて黙らせた。
そしてついに、悪役令嬢ハイミネディアに告げた。
「ハイミネディア様! 今からでも入れる保険があるんです! 『青い鳥を育てる会』の保険プランを、どうかご紹介させてください!」
ハイミネディアは訝し気な顔をしたが、王家の事業許可証を掲示されては無視することはできない。それは王家への叛意を示すことになるからだ。
「あなたが『青い鳥を育てる会』とかいう勉強会を開き、保険という事業の設立に向けて動いていることは知っています。でも聞いたところ、保険というものは、事前に加入し資金を積み立て危機に備えるというものでしょう。今から入れるとはどういうことかしら?」
悪役令嬢ハイミネディアは鋭い目を向けてきた。
彼女は勉強会に参加したことはない。それなのにわたしの保険への取り組みについてよく把握している。さすが有能な令嬢だ。油断できない。
保険営業として、実にやりがいのある相手だ。だがどれほど強大な相手だろうと、こちらには保険プランと言う武器がある。
「ええ、本来はそういうものです。でも今回はハイミネディア様にだけ、特例で加入をしていただきたいのです。まずは保険プランを紹介させてください」
訝し気な悪役令嬢ハイミネディアに構わず、用意していたパンフレットを拡げて見せる。
それを目にすると、彼女は驚きに目を開いた。
「『婚約破棄保険』ですって……!?」
悪役令嬢ハイミネディアはその美しい顔に不快の色を現した。
状況的に見てこれから婚約破棄が行われるのは明白だ。その直前に割り込んで保険を勧めてくるのだから、それに関する保険だと言うのも予測がつくだろう。
だがさすがの悪役令嬢ハイミネディアも、こうもあからさまな保険を提案してくるとは思わなかったことだろう。
彼女のひるんだ隙をついて畳みかける。
「はいそうです。婚約破棄とは、いつ起こるか予測の難しい危機! まさに保険で補償すべき危機です! そんな難事に備えて『青い鳥を育てる会』は様々な保険プランをご用意しているのです!」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! あなたは何を言って……」
止めようとする悪役令嬢ハイミネディアをよそに、わたしは強引に説明を続けた。
「まずは平民プラン! 契約者様には一旦、平民落ちしていただきます。平民となってからの働き口は宿屋、酒場など各種ご用意してあります。およそ1~3年間の平民生活の後、『青い鳥を育てる会』登録の貴族子息が婚約を申し込むためにお迎えに上がります」
「な、なにをバカなことを……! 平民に落ちた貴族令嬢を娶ろうとする殿方がいると思えません!」
「貴族の気品と礼節を身に着けながら、平民と言う身分ゆえに肩ひじ張らずに付き合える……そういう令嬢は意外と需要があるのです。平民の暮らしを実体験した貴族は、領地経営においても有用ですからね。ほら、登録者はこんなにいます」
そう言って、このプランに賛同した登録者の名簿を見せる。ずらりと並ぶ貴族子息の名前には大貴族の名前もある。
これにはさすがにハイミネディアも驚き言葉を失った。
わたしだって驚いた。婚約破棄された令嬢を保険で救うとなると、資金援助したり有力貴族に便宜を図ってもらうという手段を考えていた。
だが、『青い鳥を育てる会』でみんなの意見を集めていったら、こんな方向にプランが定まってしまった。みんな大まじめだった。転生して貴族令嬢として生きてきたが、貴族の感覚は未だ計り知れない。
「続いてご紹介するのは修道女プラン! その名の通り修道院に入っていただきます。神の御心に触れ信仰に全てを捧げる清く正しい生活を1年から3年送ってもらった後に、『青い鳥を育てる会』登録の貴族子息が婚約を申し込むためにお迎えに上がります」
「まさか修道女にも需要があると言うつもりですか?」
「わたしも意外に思ったのですが、かなりの需要があるのです。貴族令嬢は高慢で自分本位な方が多い傾向があります。ですが、神に全てを捧げた修道女の生活は、そんな令嬢の性格を丸くするのです。また、修道女の装束は地味ですが、それがかえって女性の素の美しさを際立てると言って、魅力を感じる殿方も少なくなりません」
登録者の名簿を渡す。ハイミネディアはそれにざっと目を通す。途中、一度だけ目を止めた。おそらく予想外の名前でも目に入ったのだろう。
「他にも農民プラン、漁村プラン、鉱山プランなど様々な保険プランを各種取り揃えてありますが……細かい契約はあとにしましょう。まずは仮契約の契約書にサインをいただけないでしょうか?」
「『青い鳥を育てる会』がおかしなプランを用意していることはわかりました。それで、なぜ私にこのタイミングで加入を持ち掛けるのですか?」
その問いに対いて、わたしは笑顔で答えた。
保険商品の提案には、いつだって笑顔が大事なのだ。
「正直に言いますと、実績が欲しいのです。婚約破棄された方が実際に救われたという実績があれば、保険事業の立ち上がりにおいて確かな足掛かりになることでしょう」
「この私を宣伝に使うつもりですか?」
「保険事業は王国の未来を輝かせる事業になると確信しています。王国の未来のため、どうかご協力ください!」
王家の事業認可証をかざしながらそう言い切った。
悪役令嬢ハイミネディアは大きくため息を吐いた
「このわたしを商売の糧にしようとは、子爵令嬢ごときが大きく出ましたわね」
「我が保険事業は、お客様の身分を問いません! どなたでも加入できる生活に身近な事業となることを目指しています!」
「まったくふてぶてしい……ですがこの私を相手にその度胸、気に入りましたわ。それに王国のためと言われては、貴族として無下にはできません。いいでしょう。その保険プランとやらにのってあげましょう」
「ではこちらにサインをお願いします」
筆記用のボードに乗せた仮契約書を渡す。契約書の文面にざっと目を通すと、ハイミネディアはサインした。
「さあ、これでいいでしょう。これからディーソルシオ様と大切な話があります。あなたはこの場を立ち去りなさい」
「ありがとうございます。それではわたしはこれで退散いたします!」
ぺこりと頭を下げてその場を後にした。続きを見たいところだが、立ち去れと言われて留まるわけにもいかない。
それに、言われなくてもこの場を去っていたことだろう。
悪役令嬢ハイミネディアはさすがの貫禄だった。今になって冷汗が出てきた。身体の震えが止まらない。こんな無様な姿を見せては後の営業に悪影響が出る。さっさと立ち去るのが身のためだ。
「伯爵令嬢ハイミネディア・オノラブル。君が人を使ってフェルオーネに嫌がらせをしていたのは知っている。君はわたしの婚約者にふさわしくない。残念だが、君との婚約は破棄させてもらう」
「承知しました。謹んでお受けします」
会場を出ようとしたとき、婚約破棄の宣言が耳に届いた。大きな声ではなかったが、静まり返った会場にはよく響いた。
恋愛小説『春風の乙女は学園で可憐に舞う』の婚約破棄は激しくドラマチックなシーンだった。
だが、今聞こえたそれは、まるで神聖な儀式のように、厳かで静かなものだった。
後日、悪役令嬢ハイミネディアを招いて正式な契約を結んだ。
婚約破棄されてから正式な契約を結ぶと言うのは許されないことだ。だが今回は保険事業を確立するための特例で、事前に仮契約を結んでいたということで押し通した。
彼女が選んだのは修道女プランだった。
「しばらく世俗を離れて自分を見つめ直したいのです」
悪役令嬢ハイミネディアはそう言っていた。それは本当のことなのだろう。だが彼女が修道女プランを選んだのがその理由だけでないことを、知っている。婚約破棄の直前に、ああもたやすく保険に加入するなどと言うことを受け入れた理由もそこにあるのだ。
実は悪役令嬢ハイミネディアには、婚約者とは別に想い人がいた。しかし相手は男爵子息。伯爵子息と婚約が決まっていた彼女が、いかに恋焦がれようと結ばれない間柄だった。
フェルオーネと婚約者ディーソルシオが引かれあっていくのを止めなかったのは、悪役令嬢ハイミネディア自身が他に想い人がいたということもあったのだ。
婚約破棄された後なら想いを告げることもできるかもしれない。しかし悪役令嬢ハイミネディアは僻地に送られることになってしまった。自分と結ばれては想い人が不幸になると悟り、恋心を封じ込めた。
そして僻地で事故に遭い、若くして命を散らした。スピンアウト小説のラストは、ハイミネディアの墓に想い人が花を捧げに来て終わりとなる。
本編では正しく在ろうとしたがゆえに悪役令嬢にならざるを得なかったハイミネディア。それがその行動がスピンアウト小説により、恋心も行動理由のひとつとなってしまった。そのことに否定的なファンも少なくない。
わたしは肯定派だ。恋愛小説のメインキャラは、やっぱり恋心に基づいて動いてこそ輝くものなのだ。
そういう意味ではわたしは恋愛小説のキャラに全く向いていない。だって実利のために恋心を利用したのだから。
婚約破棄の場面を邪魔されたハイミネディアが、保険契約を結ぶことにした理由。それは、修道女プランの登録者名簿の中に、彼女の想い人の名前を仕込んでいたからである。あの時、彼女が目を止めたのもそれが理由だ。
ハイミネディアと想い人がようやく結ばれる。二人の動向は、保険プランを見届けるという名目で追うことができる。
原作にはない展開を見ることができる。そのことに胸をときめかせてしまうわたしは、あらためてどうしようもない人間なのだと思う。でも、いいじゃないか。それで彼女は破滅から免れたのだから。
婚約破棄の夜会から半年ほどが過ぎた。
「……そういうわけで、今週の『青い鳥を育てる会』の活動は、伯爵令嬢ハイミネディアへの保険適用を好例として、学園の令嬢向けの各種保険プランの検討が主となりました」
「なるほど。相変わらず面白い活動をしているな」
わたしは今、街中の高級レストランに設えられた個室で、イラスティート王子相手に『青い鳥を育てる会』の現状について報告していた。
あれ以来、週に一回ぐらい王子に夕食に誘われる。そして高級な食事を楽しんだのち、こうして報告する。保険事業はいずれ国家事業となる。イラスティート王子はその行く末が気になるのだろう。
悪役令嬢ハイミネディアは修道女プランに加入した。修道院への事前の口利きは済ませてあり、無事修道院入りした。今から1年半ほどしたら、彼女の想い人が迎えに行くことになっている。
『青い鳥を育てる会』は精力的にその準備を果たした。修道院への交渉に結婚相手との誓約書の作成、その他もろもろの手続きは既に終わっている。
悪役令嬢ハイミネディアはフェルオーネから貴族たちの悪意をそらし、そして今は想い人と結婚することになった。その真相に気づいている者はごくわずかだ。それでも『青い鳥を育てる会』のみんなが積極的に動いてくれたのは、「保険の実績を作る」という実利のためだ。
恋愛小説には似つかわしくない世知辛い理由だ。でも、それでいいと思う。小説の登場人物が、恋心や善意だけで命がけになる姿は美しい。でも、もし世の中全てがそんな人ばかりだったら、それはそれで肩が凝る。普通の人はお金や日々の生活のために頑張るくらいでちょうどいいと思うのだ。
保険事業が本格的に始まってからも、婚約破棄に関する保険プランは実際に商品になりそうだ。恋愛小説の世界のせいか、この王国においては婚約破棄が意外と多いようなのだ。いずれ保険金目当てで婚約破棄で詐欺をする輩も出てくるかもしれない。婚約破棄詐欺。すごい字面だ。
メインヒロインのフェルオーネとそのお相手の伯爵子息ディーソルシオは既に学園にいない。二人は婚約破棄のことでディーソルシオの実家に呼び出された。そのことをきっかけにお家騒動に巻き込まれることになる。やはり婚約破棄をやらかした貴族子息と言うものは簡単に幸せにはなれないものなのだ。
恋愛小説らしからぬその展開は、否定的な感想を持つファンも少なくない。でも、わたしは好きだ。困難の中、想いを深め合う二人の描写が実にいいのだ。
さすがに見に行くことはできない。無関係の子爵令嬢が他の家のお家騒動に首を突っ込むなど自殺行為だ。
伝え聞く噂で、いまはどの場面か想像をめぐらすくらいである。でもそのくらいの距離感でちょうどいいのかもしれない。フェルオーネは同じ学園に通う生徒としては、存在が強烈すぎる。
それにしても、これからどうなるのだろうか。
『春風の乙女は学園で可憐に舞う』の舞台は学園から伯爵家に移った。今の学園は、言わば原作範囲外である。もうわたしにもこれから何が起こるかわからない。
例えば、目の前にいるイラスティート王子はどうなるのか。
改めてかっこいい人である。さらりとした金色の髪。澄んだ碧眼は宝石のようだ。スッキリした鼻梁に薄く形のいい唇。『春風の乙女は学園で可憐に舞う』の第一巻の表紙を飾り、多くの読者の心をわしづかみにした美形。気を抜くとずっと見つめてしまいそうだ。
小説では彼のその後はあまり描かれていなかった。これだけのかっこよくて、学園の成績も優秀でしかも王族。引く手数多なことだろう。
いくら『青い鳥を育てる会』の状況報告のためとは言え、こんな人を独り占めにして許されるのだろうか。一応、ここにはバラバラに時間をずらして来るようにしている。いつも個室を使っているから、誰かに見られる可能性は低い。それでもイラスティート王子が誰かと付き合っているのではないかという噂が出始めている。知られたらどんなトラブルに巻き込まれるか。
「どうした、私の顔をじっと見たりして」
「いえ、その……王子とこうして食事を摂るのは改めて畏れ多いことだと思っていました。王子にも気になる令嬢とかいらっしゃるのでしょう?」
そう問いかけると、王子はフッと笑った。
「気になる令嬢か。確かに一人いるな」
「えっ!?」
思わず令嬢らしからぬ大きな声を出してしまった。でもしょうがない。原作で描写されたことのないイラスティート王子の新たな想い人。原作小説ファンとして気にならないわけがない。
「どんな令嬢か知りたいか?」
「差し支えなければ、ぜひ」
「聡明だが努力を惜しまず、将来に向けて励んでいる。かといって頭でっかちの冷たい人間ではなく、胸の内には熱いものを秘めている。その熱が人を惹きつけるのか、周りに自然と人が集まり、大きな流れを作るんだ」
「なかなかの人物のようですね。きっと綺麗な方なんでしょうね」
イラスティート王子がぶっと吹き出した。
「いや見た目はぱっとしない。どちらかと言えば地味な令嬢だ」
「そうなんですか。王子は能力重視で、見た目など気になさらないのですね」
「そうでもないな。その人は、笑顔がとても魅力的なんだ……」
その言葉にも瞳にも、とろけるような熱が感じられた。どうやら王子はその令嬢に本気で恋しているらしい。
しかし一体、誰のことを言っているのだろうか。『春風の乙女は学園で可憐に舞う』のメインキャラは美形ぞろいだ。地味という条件に合わない。やはり原作範囲外だから新キャラということになるのだろうか。ファンとしてはぜひ知りたい。でもまさか王族を問い詰めるわけにもいかない。
どの道わたしには無関係な恋物語だろう。ならば程よい距離から眺められるよう、いい感じの関係を維持したいものだ。
だから営業をかけることにした。
「その方と結ばれたら、ぜひご紹介してくださいね。お二人が末永くお幸せでいられるよう、とびっきりの保険プランをご用意いたします!」
笑顔で売り込みをかけると、イラスティート王子はすごく残念そうな顔になった。おかしい。彼は保険事業に興味があるし、わたしの能力を買ってくれている。今こそ売り込みのタイミングと思ったのに。
なんだか気まずくなってしまった。いつもより早く食後の歓談を切り上げて学園寮に帰った。
今思い返すと、なんでこの時に気づかなかったのかと思う。でも仕方ない。フェルオーネの存在が強烈すぎた。あんな凄い女の子を好きだったイラスティート王子が、自分ごときを異性として意識することがあるなんて、夢にも思わなかったのだ。
だからイラスティート王子の想い人がわたしことアンスラシアであり、彼がずっとわたしにアピールしてくれていたことに気づくのは、ずっと後のことになるのである。
終わり
※作中の保険に対するあれこれは作者が物語上都合のいいように解釈したもので
現実の保険と違うところもあります。
ご容赦ください。
婚約破棄の場で「今から入れる保険があるんです!」とか言い出したら面白そうだ、なんてことを思いつきました。
でもさっぱり物語が思いつかなかったのでとりあえずネタ帳に書いておきました。
そのことを忘れたころ、ふとネタ帳を見たらこのネタが目に入り、なんかいけそうな気がしました。
そしてこういうお話になりました。
異世界転生主人公はこの作品が初めてです。
メタネタを入れやすくて楽しかったですが、何て言うか扱いが難しいですね。
最近、どうも重めのお話になりがちだったのですが、比較的明るいお話を書けて、なんだかホッとしました。
2024/9/14 18:10頃
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところも修正しました。
それからタイトルを変更しました。
2024/9/15、9/16、9/28
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!