前編
その森に立ち寄ったのは、はっきりとした目的や理由があったからではない。しいて言うならば、郷愁のようなものだろうか。
小さい頃、友達から「こっちはナラ。あっちがブナの木だよ」と教わったのを、今でも覚えている。そんな懐かしい木々に囲まれた武蔵野の森に、私は久しぶりに足を踏み入れていた。
ふと立ち止まり、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込めば、森の中をかすかに流れる風の香りを楽しむことができる。
最近では、田舎でも無粋なアスファルト舗装が増えてきたけれど、武蔵野の森の中は、私が昔遊んだままだった。大地の土の感触がダイレクトに足に伝わってくるのは、やはり心地が良い。
この辺りは、まだ人が通る道なのだろう。落ち葉や小石が転がっている土の上を、さくさくと踏みしめながら、奥へ奥へと進んでいく。
しばらく歩くと、足元に土の色しか見えないエリアに入った。湿った黒っぽい土と緑の木々のコントラストは、私の目には、色鮮やかに映る。自然と笑みを浮かべて、森の散策を楽しんでいたのだが……。
そこは、私だけの遊び場ではなかった。一時間もしないうちに、武蔵野の住民に出くわしたのだ。
森の小道が少し開けて、広場みたいになっている場所だった。右手には山の斜面が広がっており、おそらくその上から降りてきたのだろう。本来は森というより、山に棲む生き物なのだから。
ゴツゴツとした岩で覆われた、いかにも硬そうな体躯。大人であれば山よりも大きいと言われているけれど、この個体は、せいぜい人間の数倍程度のサイズだ。まだ幼い子供に違いない。
ダイダラボッチと呼ばれる生き物だった。