第9話 何年ぶりの入浴タイム?
「人魚さま! お目覚めに……ん? どなたでしょう…………なんと、さようでございましたか……失礼いたしました。わたくしは、この商団を率いております、氾と申します」
朗らかで優しそうなおじさん。それが、僕を助けてくれたというひとの第一印象だ。
僕のほうは海岸で倒れていたときとは容姿がまるっきり違うから、はじめこそ戸惑っていたようだけど、要点をかいつまんで説明すれば、氾さんも納得してくれた。
「こうしてお会いできましたのも、天帝の思し召しでしょう。しがない商人ではありますが、どうぞこの不肖氾めに、なんなりとお申しつけくださいませ」
「そんな、助けていただいただけで、充分で……」
「いえいえいえ! 遠慮はご無用。さぁお召し物をご用意しましょう。そのあとは朝餉をお召し上がりください。甘味もございますよ」
「えっと……その」
さすが商人、押しが強い。おそるべき滑舌だ。
圧倒されている間にあれよあれよと事は進み、気づいたら。
「……十五年ぶりのお風呂だぁ」
丸裸にされていた。文字通り。
「なんだ、風呂に入ったことがあるのか」
「ないですね。寝言をいうくらい、お風呂に入るのを夢見てたってことです」
「ふぅん?」
しまった、と気づいてから、即座にそれっぽい理由をくっつけて取りつくろう。
(危ない危ない……こっちの世界では、入浴するっていう習慣はないんだった)
三日に一度髪を、五日に一度からだを洗い流せばいいほうだ。もちろん井戸水で。
そういうわけで、僕が最後に入浴した記憶は、転生前の話になる。
おかげさまで、真冬の池に突き落とされて全身ずぶ濡れになるまでの十三年間は、この体質に気づかなかった。
(幸か不幸か……いや、やめよ)
ぱしゃり、ぱしゃり。
浴槽のへりにもたれ、尾びれで水面を叩く。
檜で組んだ浴槽に水をため込んだだけの簡易風呂だけど、それでもかまわない。
泳げるほど大きな浴槽や、排水設備、一度に大量のお湯を沸かす技術がととのっているところなんて、王宮くらいだろうし。
そこまで高望みはしない。
「ご機嫌だね。水を得た魚ってか」
「そんな顔してます?」
「表情筋はピクリともしてないけどね」
首だけでふり返れば、浴室の入り口を守るように艶麗さんが立っている。
当たり前だけど、まじまじと物珍しげな視線をいただく。
「おどろいた。ほんとうに黒髪の人魚さまだ」
「まぁ、うそをつく利益もないですし」
というか、こんな貧相なからだを見て、楽しいもの?
人魚の僕よりはるかに長身で発育もいい勝組艶麗さんに観察されるのは、複雑な心境だ。
なんて悶々としていると、ふいに髪にふれられる感触。
「洗ってやるよ」
「っ……」
パーソナルスペースに、入り込まれた。
全裸のまま逃げ出すわけにもいかず、なす術はない。
思わず強ばった肩を、何事もなかったように脱力させることが、僕にできる精一杯だった。
浴槽のそばでひざをついた艶麗さんが、桶の横に置かれていた椀を手に取る様子を、視界の端でとらえる。
「なんですか、それ」
「澡豆。小豆とかいろんな豆類を炒ってすりつぶした粉を、水に溶かしたものさ」
「とろとろしてますね」
「じっとしてな」
「ん……!」
艶麗さんは椀をかたむけて粘性のある液体を手のひらに取ると、僕の頭皮になすりつけてくる。
どんなベタベタ大惨事になるかと思いきや、わしゃわしゃと髪をかき回されるほどに、泡立っていく。
なにこれ、シャンプー?
(あぁ、困ったなぁ……)
いつもお団子みたいに束ねている髪は、おろすと腰まで長さがある。そうそう洗えたもんじゃない。
つまり、艶麗さんに一任してしまっているいま、手持ち無沙汰というわけで。
「……艶麗さんって、床屋さんなんですか?」
「なんでそうなる」
「ひとの髪洗うの、手慣れてるから……」
サバサバとした口調だけど、ガサツなわけじゃない。
髪を洗う手つきは強すぎず、弱すぎず、ムラがなく、丹念だ。
「器用って話なら、お褒めの言葉として受け取っとくよ。あたしは鏢局の総鏢頭だ」
「ひょうきょく? そうひょうとう?」
「運送警備業。それを生業としてるのが鏢局だ。依頼を受けて、たっかい品物の護送や、おえらいさんの護衛なんかをやる」
「雇われ用心棒的な?」
「そういうこと。鏢局にいるのは、武功の修行を積んだつわものだ。それを束ねるのが鏢頭。鏢頭を束ねるのが総鏢頭。総鏢頭は一般的な武功の門派でいう掌門にあたる」
つまり艶麗さんは、なんか強い武人のあつまりの首領ってことか。
「それじゃあ、今回も依頼で?」
「あぁ、氾のダンナに雇われてね。港街は昼間っから飲んだくれもいるし、治安が悪いとこが多いんだ。隣街までサクッと送り届ける予定だったんだが」
「……お邪魔してしまいましたか」
「気にすんな、あんたの分の護衛代金も前払いでもらってる。給料分の仕事はするさ」
何気ない艶麗さんの言葉は、僕の胸をツキンときしませる。
(そうだ……これは仕事だから。お金をもらったから。べつに、善意で僕によくしてくれてるわけじゃない……)
無償の慈悲なんて、ありはしないんだ。
僕は、いったいなにを期待してたんだろう。
(彼女たちも……おなじなのかな)
あの意地汚い夫婦のように、積み上げられた金銀宝玉を前にしたら、目の色を変えるのかな。
……そんなことを考えるじぶんに、嫌気がさす。
「泡を流すよ。ちょいと頭を下げとくれ」
鉄の塊みたいな自己嫌悪に押しつぶされる僕だけど、頃合いよくそんな声がかかって、うつむく仕草は、うやむやにできた。