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第24話 感謝をきみに

 ぴたりと、マイの動きが止まる。

 僕は麦を見つめているけれど、麦の視線は逸らされた。


「ねぇ麦、邪魔じゃないよ」


 ぴくりと、麦の肩が跳ねた。

 ほんのわずかだけど、たしかに。


「迷惑じゃない。ここにいていいから、こっち向いて。僕と話そう?」


 沈黙が十秒、二十秒。

 それから、ことさらゆっくり、麦がこっちをふり返る。

 伏せがちの視線。まばゆいばかりの笑みを浮かべていたそれまでとは一変、ととのった顔に、ほの暗い影が落ちていた。


 ──麦の様子がおかしい。


 なぜそう思ったのかときかれても、上手く答えられない。

 でも、直感的に、手ぬぐいなんかじゃ取り去れない違和感を覚えたんだ。

 こうして強引に引きとめている時点で、「話がしたい」なんて聞こえのいい、強要にすぎないんだけど。


「……辛そうだよ、麦」


 そうやって、ろくに考えもしないで口にしたから。

 

「ひゃっ……」


 ふいにほほをかすめた指先の感触に、過剰な反応をしてしまった。

 いつの間にか、麦の右手が伸ばされていた。だけど僕が悲鳴を上げたのを目にして、唇を噛みしめ、腕を引く。


「ま……待って! 違うの!」


 とっさに声を張り上げる。


 まさか腕を引き戻されるとは思わなかったんだろう。

 反射的に顔を上げた麦の鼈甲飴色の瞳は、丸く見開かれている。


 ……そうだ、今回だけじゃない。

 ふれあいを拒否したのは、一度だけじゃないもんね。麦だって傷つくよね。

 ……僕のばか。


「ちがう……ちがうんだよ。びっくりしただけなの。なんて言ったらいいのかな……うぅ」


 言い訳がましいことを、ゴニョゴニョと並べる。

 そんな僕に苛立つふうでもなく、麦はただ、呆気にとられたように固まっていて。


「ほら……キス……ちゅー、口づけ、で伝わるのかな? 唇と唇をくっつけるのは、好きなひとにすることなので……僕も慣れてなくて、びっくりして、思わず突き飛ばしちゃったりしたというか……」


 なんだこれ。具体的に言葉にすると恥ずかしすぎる。なんの罰ゲーム?


「と、とにかく! 顔もよければ性格もいい麦を嫌う要素とかないからね! ていうか、好感しかないからね! 僕が豆腐メンタルのヘタレなだけだから!」


 無理やり麦を引きとめた威勢はどこへやら。

 口をひらくほどに、あわあわと情けないことを口走っている気がする。


 あーもうやだ……なんか泣けてくるんですけど。


「ぅあ!?」

「ごめんねぇ……ふぇぇ」


 ピーピー泣く僕を前にして、あたふたと焦りながら、飛びつくようにして背をさすってくれる麦。ほんとごめん……


「……きらいじゃ、ないよ」


 ひっくと嗚咽をもらす合間に、もう一度言葉にする。


「あのね、僕、きみに伝えてなかったことがある」


 ひょっとすれば、これから言うことも、僕の傲慢なのかもしれないけど。


「きみに名前をつけた話の続き。……麦の穂はね、太陽に向かって成長するんだ」


 まっすぐ、まっすぐ。


 そうして大きくなって、立派に実をつけた麦穂のなかには、頭を垂れるように曲がるものがある。


「麦穂が頭を下げるのは、自然なこと。恵みを与えてくれた太陽に、こころから感謝してのこと」


 それとおなじ。


 感謝の気持ちがあれば、ひとは自然に頭が下がるものだと思うんだ。


 決して、踏みにじられた末に、強要されることじゃない。


「だからきみには、まっすぐ、じぶんらしくいてほしい。麦がこころから感謝してるひとに『ありがとう』って伝えられる、そんな未来になってほしいって……余計なお世話かも、しれないけど」


 気恥ずかしくなり、最後は笑ってごまかした。それでも、言いたかったことはぜんぶ言った。


「麦がどんな問題をかかえてて、なにを悩んでいるのか僕は知らなくて、無遠慮に問い詰める権利もない。僕は頼りないし、話したくないなら、それでもいいから……無理に笑うのだけは、やめてほしい。だって、友だちでしょ?」

「……!」

「友だちが辛そうにしてたら、僕も悲しい。がまんしないでほしいよ。独りじゃ無理でも、ふたりなら、どうにかできるかもしれないでしょ?」


 呼吸を忘れた麦の手をとり、両手で包み込む。


「力になりたいよ。だって麦が、だいじだから」


 僕にできることなんて、はげますことしかできないんだから。


「……負けるな麦。僕がいる」


 せめていまだけは、見栄っ張りでも、強気でいさせてよ。


 長い長い沈黙が流れ、窓の外の雨音だけがかすかに聞こえる夜。


「……っく……うぅ……っ」


 向き合った麦の肩が、小刻みにふるえ出す。

 深い黄金の瞳からは、ぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ち始める。


「……麦」


 そっと名前を呼んだ瞬間、視界が回る。


 感極まって泣き出した麦に押し倒されたんだって、厚手の絨毯に沈み込む感触で理解した。


「ぅ……あぁ、うああ……!」


 僕に覆いかぶさって、すがりついて。

 痛いくらいに回された腕の感触は、麦が負った痛みそのものだ。


 ふりほどけるはずがない。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」


 僕も腕を回して、麦の背をさする。淡い橙色の髪を梳くように、頭をなでる。

 巻きついた腕の力は苦しいくらいなのに、この息苦しさが、不思議と心地いい。


 僕だって、麦がそばにいるから、じぶんらしくいられるのかもしれないね。



  *  *  *



 どれくらいたったろうか。泣きじゃくった麦は、やがてストンと意識を落とすように寝入ってしまった。

 手頃な絹衣きぬごろもを着せると、頃合いを見計らったかのように、艶麗さんと松君さんがすがたを現す。


「麦を運んでもらえますか」

「いいのかネ?」

「起こしちゃうのも可哀想だし。僕はこっちの長椅子で寝ます」


 そうとだけ告げれば、松君さんもそれ以上掘り下げることはせず、脱力した麦を軽々と抱え上げ、寝台ベッドに寝かせてくれた。


 すぐ脇の長椅子に腰かけ、ふぅ……と息をもらしたところで、物言いたげな艶麗さんと目が合った。


「この坊や、フー族だろ」

「みたいですね」

「あんた、知ってるのかい。獣人がどんなあつかいを受けているのか」

「……一応」


 僕が住んでいた村に獣人はいなかったし、その日の暮らしで精一杯で、気にする余裕もなかったけど、ずいぶんむかしに聞いたことを思い出した。


 それは、麦が泣いていた理由の核心にせまることだ。


「あんたはこの子を、どうするつもりだ」

「僕なんかにできることなんて、限られてますよ」


 いつもおちゃらけた松君さんも、茶化すことをしない。

 僕と艶麗さんの会話の行方を、静かに見守るだけだ。


 突き刺すようなまなざしを受け、きものの衿もとへ右手を差し入れ、さぐる。

 取り出してみせたのは、白檀が香る巾着。


「ここに入っているもの、ぜんぶさしあげます」

「雨……あんた」

「足りなければ、僕のことはいいです」


 べつに、恩着せがましくするつもりはない。


「現在進行形で、麦が虐められてるみたいなんです。守ってあげてください」


 だからこれは、僕がしてあげられる唯一のこと。

 僕から麦へ贈る、感謝のかたちなんだよ。

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