詰められた鍵穴
校舎から徒歩数分のところに建てられている、男子学生寮。まるで特徴のない、シンプルな鉄筋コンクリート製の建物だ。そして俺の目の前にあるのは、外観と同じような灰一色の長い階段。
重い足をひとつ、またひとつと引き上げながら、階段をのぼっていく。散々テニスコートを走り回って疲れ切ったこの体じゃあ、2階に上がるのさえ一苦労だ。
「ふうー、着いた……」
ため息とともに、言葉が漏れ出てくる。外廊下の塀ごしに見える景色も、もう真っ暗だ。大会も近いだけあって、テニス部の練習は太陽が沈むまで、みっちり行われている。
俺は自室にこっそり設置した、一人用冷蔵庫の中にある冷たい麦茶を頭の中で思い浮かべながら、明かりのついた廊下を足早に進んでいく。
部屋のドアにたどり着くと、俺は制服のポケットからおもむろに鍵を取り出し、鍵穴へと差し込んだ。
毎朝毎晩繰り返しているお決まりの動作、なのだが、今日はいつもと感触が違っていた。
(ん? あれ? 入らない?)
見てみると、鍵は先っちょまでしか入っておらず、押し込んでみても、それ以上奥へは入りそうもない。
(上と下を間違えたか?)
鍵の上下をひっくり返して、もう一度入れてみる。しかし、結果は変わらず。
それから何回も再挑戦してみたものの、一向に状況は良くならなかった。俺はしびれを切らして、直接、鍵穴をのぞいてみた。
「なんだ、これ!?」
思わず声に出して驚いた。鍵穴の中に、細かくて粒々とした、砂のようなものが詰められていたのだ。これじゃあ、奥まで鍵が入るわけがない。
(なんなんだよもう、誰かのイタズラか? はぁ……)
ドアに片手をあてて、ガックリとうなだれた。このままでは、俺は冷えた麦茶を堪能するどころか、布団に入って寝ることすらできない。
俺はできる限りのことをやってみた。力任せに鍵を押し込んでみたり、上下左右から鍵穴を叩いて詰まっているものを落とそうとしたり、シャーペンの先で少しずつ掻き出そうとしてみたり……。
しかし、いずれの方法も惨敗に終わってしまった。
(こりゃあダメだ! 諦めて、管理人の爺さんを呼ぶしかないか)
スマートフォンをポケットから取り出し、管理人室の番号を渋々と入力する。
プルルルル……
プルルルル……
この寮はだいぶ年寄りの爺さんが管理をしていて、言うことがいちいち説教臭いのが難点ではあるが、体は丈夫で、頭もはっきりしている。鍵穴が砂みたいなもので詰まっているなんて言ったら、どんな説教が飛んでくるだろうか。しかし、背に腹は代えられない。そもそも、俺のせいじゃねーし。
プルルルル……
プルルルル……
数分経ったものの、スマートフォンからは呼び出し音だけが空しく繰り返されていく。
(あの爺め、こんな時に限って管理人室にいないのか――)
「おーい! 達也、部屋の前で何してんの?」
「うおおっ!?」
心の中で悪態をついていたら、すぐ近くで大きな声がしたので驚いてしまった。
「由乃!? なんでお前がここにいるんだよ!」
振り向いたら、知った顔がそこにあった。クラスメイトの由乃、バドミントン部の主将だ。俺は慌てながらも、スマートフォンの発信をいったん切った。
「いやさ、部活帰りに寮の方を見てたらさ、達也がなんかモゾモゾと怪しいことしてるのを見つけちゃって、そんで気になって来てみただけ」
「そ、そうじゃなくて……ここは男子寮だぞ? 管理人の爺さんに許可はとったのか?」
「別にいいじゃない。それに、管理人室にあのおじいちゃん、居なかったし」
(やっぱりいないのか、あの爺さん……)
「それよりさ、いったいどうしたの? まさか、部屋に入れなくなったとか?」
「そのまさかだよ、あの鍵穴に砂みたいなやつが詰まってて、鍵が奥まで入らないんだ」
「うっそ、どれどれ?」
由乃のやつは好奇心に駆られたように、鍵穴の方へと顔を近づけた。
「ほら、なんか粒々したやつが見えるだろ?」
「……うーん、私からは、何もないように見えるけど」
「ええ? そんなはずないだろ」
「ちょっと鍵貸してみて」
どうせ爺さんは不在なんだし、返信が来るまでの時間つぶしにはなるかと思った俺は、由乃に鍵を手渡した。
「ま、俺が思い切り押し込んでも駄目だったからな、力ずくでやろうなんて考えは――」
ガチャッ。
「開いたよ」
「へ?」
由乃の手によって、扉はあっけなく解錠されてしまった。
「な、なんで……」
「ほらー、鍵穴が詰まってるなんてさ、気のせいだったんじゃない? それか、力の入れ方がおかしかったとかさ。古い建物だからコツがいるんだよ、コツが」
由乃は得意顔でゴタクを並べてくるが、実際に鍵は開いてしまったので、俺は何も言い返せない。しかし、絶対に見まちがいじゃ無いと思うんだが……。
「さあさあ、鍵は開いたんだからさ、もっと嬉しそうな顔しなよ。……あっそうだ、そういえばさ、友達から聞いたんだ、け、どー?」
由乃は薄ら笑いを浮かべながら、こっちを見つめてくる。何か意地悪な事を考えている顔だ。
「達也ってさぁ、管理人のおじいちゃんに内緒で、小さい冷蔵庫を買ってるらしいじゃん。だめだよー、節電の時期にそんなゼイタク品を使っちゃ。ここは黙っといてあげるからさ、鍵を開けてくれた恩人に、冷たーいジュースでも御馳走してくれない?」
(こ、こいつ、どこでそんな情報を……)
「じゃ、わたし先に部屋に入ってるから。鍵は挿したまんまにしとくね」
「あ、おい! ……まったく」
俺が止める間もなく、由乃は俺の部屋に入ってしまった。男子寮の、男子の部屋だというのに、まるで気にする様子がない。女子高生の振る舞いとしてはどうかと思うが、由乃が女子ながらクラスのまとめ役になっているのは、こういう分け隔てない性格も理由の一つなんだろう、たぶん。
ブーッ……
ブーッ……
俺も部屋に入ろうした時、ポケットからスマートフォンの振動を感じた。取り出して画面を見ると、管理人室からの着信だった。
もう事態は解決してしまったのだが、さすがに無視するわけにはいかない。俺は応答をタップして、スマートフォンを耳に近づける。
「もしもし、山代です」
「おう、電話もらってた、管理人の落合じゃ」
「あ、落合さん、お疲れ様です。234号室の山代です」
「山代……達也君か、いったいどうした?」
「いや、部屋の鍵のことで相談しようと思ってたんですが、ついさっき解決しちゃいまして、なんか、鍵穴が砂みたいなもので詰まっていて、開けられなかったんですよ」
「ふむ、開いたのならよいが……もしかしたらお前さん、寮に嫌われとるのかもしれんな」
「えっ?」
「この寮はな、生きておるんじゃよ」
「は……はあ?」
まさかの返事に、思わず素の反応が出てしまった。
「この寮もかなり古くからある建物でな、何度も改築や工事をして、今の学生寮になったんじゃ。その昔は、貧乏で身寄りのない人々を受け入れる、集落のような場所で、住民はみな腹を空かせて苦しんでおったと聞く」
「そ、そうなんですか」
今まで聞いたことも無い話だ。喉元が塞がっていくような、嫌な感じがする。
「それでな、ここが学生寮に改築された後で、次々と奇妙な現象が起きるようになったんじゃ。部屋の中の食べ物がいつの間にか無くなったり、変な声が聞こえてきたり、お前さんのように部屋のドアが開かなくなったり、という具合にな」
「……」
片頬に、生ぬるい汗が流れ落ちていく。
「……数人ほど、部屋の中で亡くなった学生もいたそうじゃ。殺人も疑われたが、完全な密室で、事件は全て迷宮入り。さらにその遺体は、獣に食い散らかされたような、惨たらしい有様だったんじゃと、おおぅ、恐ろしい!」
「ほ、本当の話ですか、それ!?」
俺は必死に声を絞り出した。
「はっはっは、そう怖がらんでもいい、昔の話じゃ、昔の。どうじゃ、少しは涼しくなったかの?」
急にトーンの軽くなった爺さんの声を聞いて、俺は今までの緊張をため息にして吐き出した。
「第一、死んだ学生はみんな女子だったからのう」
「え?」
その一言で、俺の喉元はまた、冷たい手で掴まれたようになった。
「ここはもともと男女共用だったんじゃが、男子寮になってから、そういう話はほとんど聞かなくなった。訳はわからんが、女子を中心に狙っていたようじゃの。じゃからお前さん、この寮の部屋には、くれぐれもガールフレンドを招いてはならん。さもないと……食われちまうぞ!」
爺さんはふざけた感じで言っていたが、聞いている俺の手は震えていた。流れる汗が頬とスマートフォンとの間で潰され、嫌な感触を脳に伝えている。
「落合さん……」
「うん? どうしたんじゃ、もう鍵は大丈夫なんじゃろ」
「そうじゃないんだ! 由乃が、由乃がこの寮に来ていて……先に部屋の中に入っているんだ」
スマートフォンの向こうから、パイプ椅子が倒れるような音が聞こえた。
「ゆのって、バトミントン部の由乃くんか!?」
「は、はい。由乃が鍵をさしたら、簡単にドアが開いちゃって――」
「いかん……! 達也君、わしはすぐにそこへ行く! その間、由乃くんに、すぐに部屋から出るよう言っておいてくれ!」
「え、え、ちょっ――」
言い切る前に、通話は途切れてしまった。まだ状況が飲み込めない俺は、少しの間、その場で呆然としていた。心臓の鼓動だけが、急かすように体の中で鳴り響いている。
はっと我に返ると、俺はすぐさまドアへと向かった。
ドアノブを掴んで、思いっきり引く――開かない!? そんな、さっき由乃が開けていたのに!
(ヤバい! ヤバい! 何とかしないと!)
差し込んだままの鍵を回そうとしても――回らない!
鍵穴から鍵を引き抜こうとしても――抜けない!
力任せにドアを押したり引いたりしても――開かない!
(開かない! 開かない! くそおっ!)
俺は汗を握りしめた拳で、憎きドアを何度も殴りつけながら、叫んだ。
「由乃、聞こえるか! 今すぐ、今すぐその部屋から出るんだ! このままだとお前、ヤバいことになっちまうぞ! 由乃、返事をしてくれ!」
すると、ドアの向こうから声が聞こえた。
「ゴチソウサマ」
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